9月の第2週は、パスコ史上、もっとも忙しい週となった。
月曜、午後から単身申請の方の健診などのビザ申請準備。一方、DBP(PRAの口座がある銀行)への送金が1週間前なので、PRAの受付には入金証書が届いていない。それで、アドミ部門のマネージャーに依頼して、翌日の申請に間に合うように銀行をプッシュしてもらった。そして翌日午後、無事に申請を終えた。
そして、その夜、マニラ入りしたのが今回の主役の4家族、10人様の一行だ。4人のお母さんと2歳から8歳まで、6人のお子さん、総勢10人だ。到着は夜の11時、出会いは12時近くとなり、ホテルに送って、家に着いたときは午前1時を回っていた。今回、10人ともなると、迷子が出る恐れがあるので、相棒の義理娘のキムを同行し、常に一行の後ろから見守るようにアレンジした。
初日は、銀行口座開設とクリニック、それに送金手続き、不足書類の準備などで、通常、半日で終わるところだが、たっぷり丸一日を見込んだ。クリニックにしても10人が受診するとなると、1~2人が受診するのとでは、桁違いの時間がかかる。
クリニックで思わぬ伏兵が出現し、今回の準備を難しくしたのが、子供達のウンチだ。数ヶ月前に、申請用紙が変更され、従来の健康診断書兼申請用紙は使えなくなり、新しい健康診断書には便、小水、血液検査などが明記されており、避けようがない。ところが、子供達には、そうは簡単にウンチをだしてもらえない。仕方なく、後日提出ということで、クリニックを後にした。しかし、このウンチは排出後1時間以内に届けなければならない一方、出るとき、出るところをわきまえないウンチに振り回されることになる。
子供達が机の上に座って遊んでもいても、笑顔で対応する銀行員にお母さん達は感激していた
クリニックで入念に準備した書類のおかげで口座開設はスムーズに進んだ。その間、子供達は、銀行員の机の上で遊びだす始末。支店長は、アイパッドを持ち出して親子全員で記念撮影。もちろん支店長も加わって、皆、ポーズをとった。
事務所に戻って送金の手続きを始めたが、事務所に設置されたWifiのおかげで、皆さん、日本に残っているご主人に連絡して銀行口座などを連絡して、送金を依頼した。しかし、そのとき午後2時を回っており、銀行手続きは翌日となってしまった。
お一人は、香港のHSBCからネットバンキングで送金しようとしたが、なかなかうまく行かない。結局、用紙を送ってもらい、翌々日、ファックスをクリニックから送ってもらい、さらに電話で確認するという、従来の方法で送金する羽目になった。しかし、手続きの終わった翌日には入金するという、早さだった。どうも海外から送金した場合は、翌日にも着金するようだ。 事務所では6人の子供達にキアンも加わって、まるで幼稚園ないし保育園となり、喧騒のうずの中の作業だった。
翌日水曜は、早朝からマニラツアーにでかけた。カーティマール・マーケット、イントラムロス、キアポ、ラスピニャスのサウスビラ・インターナショナル・スクール、退職者のお宅、2箇所、そして最後にグリーンベルトで食事で締めくくった。元々はボニファッシオ・グローバルシティに行く予定だったが、この日はポークバレル(議員の汚職の温床となっている制度)の抗議集会EDSA通りが閉鎖され、大渋滞のてめたどり着くことができなかった。
まずは朝一番、めでたくお出ましのウンチをクリニックに届ける。ただ二人の子がまだで、ツアーの途中で出たウンチをアイスボックスで保管して、翌朝クリニックに届けた。
キアポ教会の内部、休日だったら中に入れないくらいに熱心にお祈りする人であふれる
カーティマール・マーケットではお一人のお母さんを除いて、食肉売り場で、生肉の匂いがたまらず、中へ進むことができなかった。これからフィリピンに暮らすとなるとこのウエットマーケットで買い物できないようでは困るが、2~3年もすればなれるだろう。
イントラムロスのサン・アガスティン教会(世界遺産)、カーサ・マニラなどを見学して庶民の街、キアポに向かった。平日なのに人であふれる活気に圧倒されたようだ。
学校の職員(左)も一緒になって子供達の面倒を見てくれる、フィリピンは子育ての天国だ
ラスピニャスのサウスビラ・インターナショナル・スクールは先輩のお母さんに案内を依頼したが、その間、子供達の面倒はキムの出番だ。学校が用意してくれた紙とクレヨンで1時間ほど遊んでいた。ラスピニャス、パラニャケはマカティに比べて住居費も安い住宅街で、お子さんを通わせる学校も色々あって、今回のツアーの目玉だ。そのため、ここに住んでいるお二方の住居も案内した。
そしてボニファッシオに向かったのだが、大渋滞で、スカイウエイの最も高いところを通過、ボニファシオやマカティを眺望することができた。
この日の締めはマカティのグリーンベルト。このブログでも何度か紹介しているが、皆さんは、今まで見てきたあるいは思っていたフィリピンとの違いにびっくりしていた。そして、フィリピンにもこんなところがあるんだと、ほっとしていた。有名イタリアンレストランチェーンの「イタリアネス」で食事、一家族1000ペソずつの値段、料理の質と量にも大満足。マニラツアーを締めくくりとして最適だった。
スカイウエイからのマカティの眺望、アラバン方面から第3ターミナルに向かうのははじめての経験で、カーブがスカイウエイのさらに上を通る
そして、翌日木曜は、車椅子でビザの申請に見えた方を半日ツアーに案内した。行き先は、エルミタ・マラテ(車で通過)、イントラムロス、トンド(東洋一のスラムと言われる)、キアポなど下町中心だ。この方は前の日に健診をしたのだが、やはりウンチが出なくて、翌々日、金曜の昼、ぎりぎりで採取することができた。
サンアガスティン教会では運良く結婚式の最中で、花嫁がバージンロードを歩いているところを見ることができた
イントラムロスの大学通り、この辺一体はほとんどが大学の建物で、学生達が闊歩している
イントラムロスを囲む城壁の内部で営業する食堂、学生達はここで腹を満たす
トンドの高級コンドミニアム街、エストトラーダ元大統領の命で建設されたが、あっという間にスラム化して、窓からは部屋がこぼれ落ちそうだ
キアポの門前町の屋台通りを車椅子で行く退職者、車椅子を押しているのは息子さんだ
木曜の遅く、空港で出迎え、金曜の午前中、健診を行った夫婦は、今週、7組目のお客さんだ。
一方、10人様一行は木曜と金曜はクリニックの結果と送金を待つことになるが、HSBCから送金を試みた方は、送金手続きが終わるまで丸二日を要してしまった。しかも、クリニックでレントゲンの再撮影、それでもだめで、痰の検査を3回、と心休まる暇がなかった。しかし、金曜の午後に着金、そして土曜の朝には痰の検査もOKで、一番早く申請書類を整えることができ、ホットしていた。
土曜は、セブ行きだが、午前中、時間があるので、水曜のマニラツアーで取り残したボニファシオ・グローバル・シティに案内した。
墓地に眠る米兵の名前が刻んである壁の前でいぶかしげに壁を見つめる子供たち
グローバルシティはボニファシオ陸軍基地が1990年代に民間に払い下げられ、2000年代になってから高層ビルが建ち始めた。そして、現在はマカティ・オルティガスを上回る勢いでビルの建設が進んでおり、まさに近代フィリピンを象徴する都市だ。一方、この街が、どこの市に帰属するかでもめている。現状ではタギッグ市が治めているが、マカティ市もだまってはいない。第1審の判決はタギッグ市に軍配が上がったが、第2審ではマカティ市に軍配があがり、最高裁の判決を待つことになっている。
タギッグ市は元々モスリム(回教徒)が多く居住する地域で、フィリピン人でも近づくのがはばかれる地域だ。そこに降って沸いたような宝の山の新都市の出現だ。しかし、スラム街しか治めてこなかった市役所が、大都市を治めることは容易ではなくて、色々問題も多く、インフラ整備も後手に回っているようだ。
歴史的には、双方言い分があるようだが、もともと国有地だからどちらの市にも属していない。払い下げ前に国がはっきりと方針を示しておけばよいと思う。あるいは、新規の市としても良いのではないか。そのほうが小回りが効いて良いと思うのだが。
話がそれたが、この10人の親子は、日本を未曾有の危機に陥れた3.11東日本大震災・フクシマ原発事故による放射能汚染から避難した、いわば原発難民だ。昨年の12月にビザ取得をお手伝いした方々のグループで、多くのお母さんが同じことを考えていると話す。
第2次世界大戦で命を落とした37000名の米兵が眠るこの墓地で、大戦後以来の危機に直面する日本を逃れフィリピンの地を踏むお母さん達、そこには70年近い年月の隔たりがあり、何の関連性もないだろうが、お子さん連れで海外へ避難を決行したお母さん達の思いはいかなるものか、想像を超えるものがある。
マニラ一の美しい景色と子供達のはしゃぎようをカメラに収めるお母さんの思いは