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 7月4日(金)、フィリピン退職庁(PRA)の第23回創立記念パーティが催された。PRAは退職者ビザを発行する機関で、日本を始めとする中国、韓国、アメリカ、イギリスなど世界各国の退職者に退職後の人生をフィリピンですごしてもらい、フィリピン経済に寄与してもらうことを推進する政府機関だ。PRA のトップはゼネラル・アグリパイという元フィリピン国家警察(PNP)の長官を務めた著名人だ。  この日はPRAの職員のほか、銀行などの協力機関、フィリピン在住の各国の退職者を招待し、年に一回の顔合わせのパーティだ。場所はマンダルヨンのランカスタースイートというコンドミニアムのメザニン(中2階)で、聞いたことも無く、まずその場所を探すのに一苦労した。駐車場も少なく、大きなパーティを開くにはどう見ても適しているとは思えない。会場も狭く、入り組んでいてなぜこんなところで開催したのだろうかと疑問に思い、PRAの職員に聞いてみると、MRT(電車)の駅に近く職員が帰るのに都合がいいからだという。そもそもPRAは毎年会場を代えるのでいつも場所を探すのに苦労する。どうも地理に疎い退職者のことは二の次のようだ。  翌日、とある退職者から私に抗議の電話が入った。パーティの通知が来ず、知らなかったというのである。しきりに文句を言っていたが、私に言われても仕方がない。私はもはやPRAの職員ではないのだ(私はかつてPRAに2年間コンサルタントとして勤めていた)。考えてみると退職ビザを持っている私にも招待状は来なかった。ただ仕事がら多くの退職者の住所に事務所の住所を使っているため、招待状の存在を知っていたのだ。PRAとしては退職者の便宜を図ることに傾注はしているものの、どうもやることがちぐはぐで、所詮フィリピンの役所の域を出ることは困難なのだろう。とかく文句の多い各国の退職者の目から見ると PRAは一体何をやっているのだという批判が絶えない。

フィリピン退職庁の創立記念パーティ2008年7月8日


 原油の異常な高騰のあおりを受け、世界的に穀物等をはじめとするあらゆる食材が高騰し、食糧危機の到来が取りざたされている。フィリピンでもガソリンがリッター当たり60ペソ(150円)にのせるなど、人々の生活を直撃している。しかしフィリピンではもう一つの食糧危機が到来しているのだ。ラプラプやマグロなどの海水魚(写真上)が半値以下に値下がりし、一方ではテラピア(写真下右)やバゴス(写真下左)などの養殖魚が倍以上に値上がりしている。それでもラプラプなどを買って食する人はまれで、ただ放棄されているという。  その原因は、先日の台風6号(フランク)により、シブヤン海、シブヤン島沖(ルソン島、ミンドロ島、パナイ島に囲まれた内海)で大型フェリーが沈没し800 人近い死者を出したが、その遺体が回収されず、海に漂い、魚のえさになっているとうわさである。キリスト教信者が大半を占めるフィリピンでは、極端にこのようなことを忌み嫌う。そのため、マニラの市場では誰も海水魚を食べようとしないのだ。  またさらに、この界隈の漁民は漁を行なうことを禁止され、その日の糧にも窮しているという。パラワン島など遠く離れた漁場で取れた魚は関係ないと思うのだが、海はつながっているから、人々は気持ち悪がって手を出そうとしない。そのため、全国の漁業関係者、おろしや小売などまでも大打撃を食らっている。ただほくそ笑んでいるのは、魚の養殖業者だ。普段はラプラプなどの海水魚の半値以下で売られているテラピアやバゴスが一気に倍以上の値をつけ、ラプラプよりはるかに高値で取引されているというのだ。

もう一つの食糧危機2008年7月3日



 タバコとは煙草のことではなく、刃物などを示すビコール語のタバックから来ている。タバコ市は国際港があり、サンミゲル島やカグラライ島により、波も静かな天然の良港で、日本の船員さんもたまに見かける。そのためカトンドゥアネス島へのアクセスもタバコ港であり、さらにレガスピ市と並んで周辺市町村の物資の集積地でもある。新装なったタバコ市営マーケット  街そのものはZiga (シガと読む)通りの両側500m2ほどだが、夕方から人であふれかえっている。周辺は一帯に水田が広がる穀倉地帯だが、その西側にそびえるマヨン火山の絶景が有名だ。産物はお米以外にはアバカ製品(マニラ麻)が有名で、ハンドバッグなどの民芸品は、安い上にデザイン的にもすぐれ、おみやげ物屋にあふれかえっている。  2003 年8月、旧タバコ市営マーケットは火事で消失してしまった。火事の後、アロヨ大統領が見舞いにやってきたほどの大火事だったそうだが、うわさでは、マーケットのビルを立て替えるのに入居している店が邪魔なので、市の関係者が火をつけたということだ。その直後、市の経済を牛耳る中華系フィリピン人のグループとインド人のグループが秘密の会議を開いた。中華系は、今こそ、市の小売業を独占するチャンスであると気勢をあげた一方、これら小売商に資本を提供して、日銭を稼いでいるボンバイことインド人グループは、マーケットの小売商が閉店してしまっては日々の集金ができないので、死活問題と嘆くばかりだったそうだ。  消失したマーケットビルを取り壊し、新たに完成したのが、2007年5月。この間、小売商は、マーケットの近くの空き地にバラックをつくり、たくましく商売を続けてきた。一方、新装なった新しいマーケットビルには、ぼちぼち入居が始まっているものの、使用権を買うのに最低20万ペソ程度必要で、そんなお金を支払える人はそうはいない。そのためマーケット周辺では露天商が並び、返ってかの喧騒と混沌のフィリピンらしい雰囲気を醸し出している。  日本では新宿、渋谷などの一部の都心をのぞいてほとんど雑踏といえるものを見ることがなくなった。どこへ行っても人影はまばらで、活気がある、あるいは生きているという実感がなくなって来ている。道路や建物はとてもきれいになったが、人がいないのだ。特に子供がいない。ところが、マニラから500kmも離れたフィリピンの田舎街で、まさに人々は生きているのだ。ここにはあふれかえる生がある。国としてあるいは個人として、日本と比べたら微々たるお金しかないかもしれない。しかし、彼らは、ここで幸せを満喫しているような気がするのだ。

ビコール地方タバコ市の紹介2008年7月2日


先日の夜、家でくつろいでいると、突然、チャンネル16であんたがテレビに出ているよと、携帯にメールが入った。あわててチャンネルを回したが、ケーブルテレビのプロバイダーが違うので見ることができなかった。しかし、その後、知り合いから私をテレビで見たというメールがしきりなしに入った。これは韓国 KBSがフィリピンで日本人並びに韓国人退職者の取材を行い放映したものを、フィリピンでも放映していただ。ある韓国人の友人の依頼で2007年12月から2008年1月にかけてその取材に協力するとともに、自らも取材を受けたものなのだ。   KBSは、まず私の事務所を皮切りに、フィリピン退職庁、パラニャケのイリジウム、アラバンビレッジ、さらに1泊でビコール地方、アルバイ県の私の農場を取材に訪問した。翌日は知り合いの娘のビアンカの誕生日だというので、それにかこつけて知人やご近所を招待して盛大にパーティを催した。翌日は近所を歩いて周り、ハイスクールの催し物やバランガイ・キャップテンを取材していった。また帰りの飛行機ではめずらしくマヨン火山の間近を通過し、迫力のある火口を間近に見ることができた。 このあと、セブで小島の村長さんになっている崎山さん、スービックでトロピカル・パラダイスという日本人向けの住宅を経営している高橋さん、などを取材していった。

韓国KBSの取材 2008年6月28日



キリスト教徒が大半を占めるフィリピンでは、人生の最初のビッグイベントはバプティスマル(洗礼式)だ。世間への紹介を兼ねたバプティスマルでは両親の親戚、友人、等が集まり、両親の資金力に応じて盛大なパーティが行われる。バプティスマルの儀式により、クリスチャンとして認められる一方、不病息災と幸せな生涯を送ることができると信じられている。バプティスマルは原則として生後1年未満に行われるのだが、両親のパーティ資金の都合により、1歳を過ぎてから行われることもある。通常は節約のため、1歳の誕生日を兼ねて行われることが多いようだ。 洗礼というくらいだから本当に水をかける  フィリピン人は見栄っ張りで外国人が好きだから、知り合いに子供が生まれたとしたら、まずニノン/ニナン(God Farther/Mother)になってほしいと頼まれる。これを決して断ってはいけない。友人であるフィリピーノと家族としての絆を築くチャンスなのだ。ニノン・ニナンになると生涯、後見人として誕生日やクリスマスにはギフトをやり、そして就職の世話など、何かと面倒を見てやらなければならない。一方、その子供はあなたをファミリーの一員として一生忠誠を誓うのだ。したがって、両親は、出来るだけ力のある人、地元の有力者やお金のある外国人を依頼しようとする。ちなみに、かのマルコスは10万人の子供のニノンになったそうだ。  ニノン・ニナンを頼まれたら、必ずしもバプティスマルに出席しなくてもいいのだが、最低500ペソ程度のお金を渡す必要がある。親しさの度合いにもよるが、日本人なら、最低1000ペソを渡す必要があるだろう。両親にとっては、これがパーティの費用をまかなう貴重な収入源にもなっているそうだ。このパーティ費用が賄えない貧困層の両親はマス・バプティスマルといって、教会で子供たちを集めてまとめてやってしまうこともあるそうだ。こうして、フィリピーノはたくさんのニノン・ニナンに見守られて人生の第一歩を踏み出すのだ。 先日友人の子供のバプティスマルに招待された。教会で行なわれたバプティスマルの参加者は20人程度と意外と少数だったが、パーティではなぜか式よりもはるかに沢山の人がいた。一緒に出席したフィリピン人に聞いたら、当然とのことだった。フィリピーノもなかなかちゃっかりした人が多いようだ。

バプティスマル(洗礼式) 2008年6月24日


 フィリピンにやってきて、まず目に付くのがジープニーと呼ばれる公共交通手段だ。全国津々浦々、毎日たくさんの人々をのせて走り回っているのが、このジープニーだ。ジープニーとはもともと戦後アメリカ製のジープを払い下げ、公共の輸送手段に使ったのが始まり。唯一の純粋国産車で、全国で10万台といわれる数のジープニーが日夜、乗客を乗せて走り回っている。エンジンはほとんどが中古のいすゞ製のジーゼルエンジンで、大気汚染の元凶ともなっている。  ジープニーは路線が決まっていて、一日中、同じ路線を走っている。料金は4kmまで一律で、4kmを越えると1kmにつき1ペソ加算される。特に特定の駅はなく、どこでも止まって客が乗り降りできる。これがまた渋滞の元凶であり、どこにでも突然止まるジープニーにドライバーはいらだつ。たとえぶつかったとしても、あのステンレスあるいはブリキ製の頑強なジープニーはびくともしない。壊れるのはこちらだから、ただひたすら、The King of Roadといわれるジープニーに道を譲るのみだ。 まさに美女と野獣だ  ジープニーは路線マップもなにもないわけだから、このジープニーが一体どこへ行くのか、車のフロントガラスに書かれた行き先の地名から判断するしかない。街の地名を熟知していないと、たとえ乗り込んだとしても意図したところに行くかどうか神頼みだ。マニラでジープニーを乗りこなせたら、もはや一人前のフィリピン人なのだ。  私も10年以上フィリピンにいて、やっと二つの路線、パソンタモ通りの自宅とマカティスクエア(日本食レストランやカラオケがたくさんある)の間の路線、および事務所の近くのカラヤアン通りを、やはりレストランや遊び場がたくさんあるマカティアベニューまでを結ぶ路線を乗りこなせるようになった。たった 7.5ペソでしかもほとんど待たずに乗れるジープニーは大変重宝な乗り物なのだ。  さて、料金の渡し方だが、これが感心するのだ。ジープニーは運転手だけのワンマンカーだが、後ろのほうに乗った乗客は、バヤッド・ポといって、料金を乗客から乗客へと手渡する。そして、お釣りがある場合はやはり手渡しで戻ってくる。これでお金を払った客と払わない客をどうやって見分けるのかと、不思議に思うのだが、無賃乗車などは皆無だそうだ。 降りるときは目的地が近づいたら、パラと言って止めてもらうか、その言葉を忘れたら天井をこつこつとたたけばとめてくれる。ただ、速やかに降りないとまだ足が地面に着く前に動き始めてしまうので、転ばないように、気をつけなければならない。一度、パラという言葉を忘れてしまい、天井をたたこうとしたら、天井が柔らかくなっていて、音が出ない。それであせって、Stopと叫んだら、誰かがパラといってジープニーを止めてくれた。フィリピン人はそんな時とても親切なのだ。  フィリピーノに通勤距離を聞くと、ジープニーの乗り換え数(1 ride あるいは2 rides等)で答えることがよくある。通勤時間が結局乗り換え数で決まるということだろう。もしかしたら通勤費のことを言っているのかもしれない。簡単に行けることを、ジープニーに一回乗るだけ(One […]

フィリピン名物ジープニーを乗りこなそう 2008年6月21日



マニラではやたらと一方通行が多い。左折禁止についても左折できる交差点を探すのが大変なくらいだ(フィリピンでは車は右側通行なので右折禁止ではなくて左折禁止が多い)。これがマニラの道路を複雑にしており、ドライバー泣かせとなっている。そのような交通規制が無い場合と比べて道を覚えるのに10倍くらいの労力が必要になっているのではないか。マニラ在住10年以上というベテラン3人が、どこか新しいレストランに行くことになって、一体どこを通ったらそこへ車で行きつけるのか喧々諤々の議論になってしまうほどだ。もちろん交通規制まで網羅したような気の利いた道路地図があるはずもない。行きと帰りでは道順が違うし、時間帯で規制が変わってしまう場合もあり、せいぜい自宅と事務所、行きつけの食堂など数点を結ぶ道路を覚えるのがやっとだ。だから、通いなれた通勤路をタクシーでいく場合は、タクシーに道順を教えてやらなければならないほど。たとえプロでもなれていないところはわからないのだ。  そんなドライバーの弱みに付け込んで、間違いやすい場所には必ず交通警官が隠れていて、車を止めて得意げに交通違反であると告げ、免許証を要求する。大概の場合は免許証にうまく500ペソ札を忍び込ませて無罪放免となる(フィリピーノなら100ペソ程度が相場らしい)。逆に酒気帯び運転やスピード違反についてはほとんど取り締まっていない。これらの違反を捕まえることと、その証明に手間がかかるので小遣い稼ぎとしては割に合わないのだろう。  これらの交通規制を実施しているのはMMDA(Metoropolitan Manila Development Authrity)という機関だ。マニラの交通を複雑にしているため、道順が限定されてしまい、いたるところにボトルネックが生じ、交通渋滞になっている。また、ほんの近場でも大回りしなければならず、ガソリン代や大気汚染もバカにならない。挙句の果てに交通混雑を解消するために、カラーコーディングと称する車のナンバープレートの末尾番号により、週に一度運転できない日をもうけるなど、市民をいじめることを楽しみにしているとしか思えない横暴非道ぶりだ。  結論としては、マニラでは車を持つなどという贅沢はあきらめて、ジープニーやトラシクル(サイドカー付きバイク)あるいはパジャック(サイドカー付き自転車)に乗ってつつましい市民として生きて行けということなのか。あるいはいっそ究極のエコカーである馬車にでも乗ったほうがいいかも知れない。マニラの下町であるチャイナタウンでは馬車が現役で活躍しているのだ。  

MMDAの横暴非道 2008年6月20日


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 約1年がかりで執筆を手がけていた「金なし、コネなし、フィリピン暮らし!・・・ゼロからはじめる異国生活マニュアル・・・」が2008年6月出版された(定価:1600円+税)。本書はイカロス出版の「金なし、コネなし、...暮らし」シリーズの一巻として企画されたもので、すでにタイ、ベトナム、沖縄、ハワイなどが出版されている。本シリーズは単なる観光ガイドや紀行文あるいは私的なフィリピンの感想文ではなく、これからフィリピンに住むことを計画あるいはすでに住んでおられる方に、フィリピンの正しい情報を伝え、より快適で安心なフィリピン生活を実現する一助となるよう、フィリピン在住13年間の経験のすべてを駆使し、全力を尽くして執筆したものだ。 特に、フィリピンで金銭的なトラブルに巻き込まれないようにどんな注意が必要か、フィリピン人と仲良くやっていくにはどういう心構えが必要か、などなど、フィリピン人の心の奥底にも触れている。   2008年6月某日、出版社から見本を郵送したと連絡を受けた折、距離の関係で日本のカミさんの元には数日早く出版社から届くので、電話で以下の通り、根回しをした。「たくさんの人に読んでもらう都合上、ナイトライフ等も詳しく紹介しているが、私が夜な夜なそんなところを徘徊しているなどという余計な憶測は決してしないように。」 それに対してカミさん曰く。「エイズだけには気をつけてね。」 思わず、絶句。カミ(神)さんはなんでもお見通しなのだと悟った。  ところで、本書はフィリピンで生活するうえで必要な知識やフィリピンあるいはフィリピン人に関して理解していなければならないことを細大もらさず取りまとめており、日本人がフィリピンで生活していく上でのバイブルともいえる462ページの大作であると自負している。私の13年にわたるフィリピンでの生活、会社運営経験、個人のビジネス経験、退職庁での退職者のサポート、農場経営の経験、などなどの集大成といえる。フィリピンに興味のお持ちの方、あるいはフィリピンにロングステイあるいは永住することを計画している方には是非目を通して欲しい。ちなみに目次は下記の通りとなっている。 Chapter 0  金なし、コネなし、フィリピン暮らし!のススメ 1  フィリピン暮らしの基礎知識 –フィリピンという国を知る 2  フィリピンで暮らすための準備 –日本でやっておくべきこと 3  […]

カミ(神)さんは何でもお見通し 2008年6月18日



原油市場の気が狂ったような高騰のあおりで、フィリピンでも毎日のようにガソリンが値上がりしている。1990年ごろガソリンがリッター15ペソになったということでタクシーやジープニーの運転手が抗議のストライキを打った。それが、今や55ペソだというのだ。日本円に換算すると135円程度になる。日本のガソリン価格からガソリン税を除いた程度の価格だ。もっとも、ほとんどのガソリンはもシンガポールやタイの大型石油精製基地で生産しフィリピンに輸入されているから、日本と同じ値段だとしても不思議はないが。  ところが、そのあおりをまともに食らっているのがタクシー運転手だ。初乗り料金はたったの30ペソ(73円)、100ペソ(240円)も払えば市内のほとんどのところに行けるから、超割安だ。車の値段はフィリピンのほうが日本より高い。安いのは人件費だけであり、これでどうやってやって行けるのか不思議だ。タクシーやジープニーはほとんどがバウンダリーと呼ばれる賃料を支払ってオーナーから車を借りて営業をしている。車の状態や、時間等で違うが、バウンダリーは600~800ペソ/日程度。ガソリン代は運転手負担で、売り上げからガソリン代をひいて、バウンダリーを支払って、残りが自分の収入になるという仕組みになっている。それが、ガソリンの高騰ににより、バウンダリーさえも払えないタクシーが急増しているのだ。運転手にとっては一日働いて、一銭にもならないという状況が出てきている。  もちろんタクシー運転手もバカではない。なんとか収入をあげようと、客との交渉が始まる。今やほとんどのタクシーが追加料金を要求してくる。今までも夜間、雨天など追加料金を要求してくるタクシーはあったが、最近はそれが定常化してきているのだ。タクシーを管轄している陸運局は一体何をしているのかと思うが、タクシーやジープニーの料金があがると物価が上がったという実感が庶民にいきわたるので、不人気のアロヨ政権としてはタクシー料金の公式な値上げが大いに躊躇されるところなのだろう。  

タクシー運転手の悲鳴 2008年6月15日


 マニラ、マカティにあるカラオケ「アカシア」が250万ペソで売りに出た。ちなみにカラオケ「アカシア」といえば1980年代後半から20年以上営業を続けてきたカラオケの老舗中の老舗だ。現在ではマカティアベニュー沿いの「大好き」、「ナポレオン」、パソンタモ通りの「夢の中へ」、「カルチェ」などと共に数少ない家族的なカラオケの一つだ。現在はマニラの下町のエルミタ地区あるいはマカティのパサイロード沿いも大型のショークラブ的カラオケが隆盛で、カラオケよりもショーを見に行くという雰囲気が強い。  長年、フィリピンの駐在日本人企業戦士を慰め続けてきたカラオケも栄枯盛衰が激しく、生まれては消え、消えては生まれる歴史を繰り返してきた。最近はジャパユキさんが日本にいけなくなったせいで、日本が話せるGRO(Guest Relation Officer、要はホステス)が激増し、大半を占めるようになっている。1990年代はマカティのカラオケは駐在員用、マニラエルミタ地区のカラオケは観光客用と住み分けられていたのだが、最近は企業の接待費の使用が絞られたせいか、マカティのカラオケも観光客を相手にしないと生きていけなくなったようだ。 かつてマカティにはほとんどいなかった日本語を話せるGRO が、今や日本語は必須となっている。すなわちほとんど全員が日本のどこかで働いた経験があるのだ。また、これら観光客相手のカラオケはイリュージョン、アップステージ、ブルーエンジェル、シアワセ、ニュー・サチなどパサイ通りあるいはパソンタモ通り沿いの大型店が主体で、昔ながらの駐在員相手のアカシヤ、夢の中へなどのカラオケは隅のほうでひっそりと営業を続けている。  日本人駐在員のおじさん達がフィリピーナと仲良くなるというのは、現実的にカラオケくらいしかない。普通のオフィスレディは鼻も引っ掛けてくれない。しかし、カラオケはビジネスだから、GROは得意のホスピタリティを発揮して、なんともやさしく対応してくれる。これがお互いに大きな勘違いを呼んで、本当の恋人同士になってしまうのだ。したがってカラオケは駐在日本人男性の恋人予備軍の基地という役割を果たしていたのだ。そして幾多の恋物語を生み出してきた。(ところで日本人用カラオケは決して女性を連れ出してホテルへ連れて帰るなどと言う場所ではないので、誤解のないように。その点、ゴーゴー・クラブ、ショー・クラブ、置屋、等とは一線を画している。)  同伴という制度が日本から導入され、店は積極的にGROに客との同伴を奨励している。最低週一回の同伴を義務付けているところもあり、それが達成できなければ首とか、厳しいノルマを課している。この同伴がどうにも勘違いを呼び起こすきっかけのような気がするが、50過ぎのおじさんと20前後の小娘が二人で恋人同士のように食事をしているはいかにも奇妙な光景だ。しかしはじめから、1対1の同伴は気が引けるので、必ず、同伴の同伴がいて二人でやってくる。だから二人分の食事をご馳走しなければならない羽目になってしまう。  GROは上記のノルマを達成するために、今様は携帯電話を駆使している。なじみの客には朝昼晩と一日3回、10名近い客にメールを打つそうだ。一回1ペソだから、彼女達にとってはかなりの出費だ。文面は How are you? Did you finish […]

カラオケ・クラブの栄枯盛衰 2008年6月13日