Daily Archives: January 5, 2009


 退職者の一人が農場を訪問した主な理由は、マニラのおおみそかの喧騒を逃れるためだった。マカティのコンドミニアムから眺めると、花火と白煙で街はまるで火の海になるとのことで、室内に流れ込んだ硝煙と喧騒に朝まで悩まされるそうだ。そのため今回は農場で静かな夜を過ごそうという算段だったが、夜も更けてくると、花火の音が激しくなってきた。しかし、周囲100mには家が一軒もない農場では、これらの音も遠くで汽笛を聞くようで、かえっておおみそかの雰囲気が増して心地の良いものだった。タバコの市街地付近ではかなりの花火が上がっており、街の硝煙と喧騒はマニラと同じではなかったかと推察される。  12時になると本来はなべや釜をたたいたり、ラッパを鳴らして、少しでも喧騒を助長し、新年を迎えるのがフィリピン流だ。しかし、今回は件のお客さんがあることから、なべや釜はやめて家から少々離れてラッパを鳴らすだけにした。ラッパが一段落したら年越しそばならぬ、年越しのスパゲッティやそのほかのご馳走を食べる。日本のおせち料理というところだが、ここでは夜中から食事が始まるのだ。何人かの子は眠気なまこで食事に向かっていた。  そして食事のあとはお正月のギフトだ。マニラのデビソリアでしこたま買い集めた安物のおもちゃや衣類、靴などをギフト用の紙にくるんで配る。このときばかりは子供たちの目はらんらんと光っていた。  正月の飾りは13個以上の丸い果物や卵とナッツ、米、それに現金で、ともに収穫と富を象徴するものだ。これにより今年の豊作と収入を祈るのだが、たぶんに中国的影響が強い気がする。そのためか師走のマーケットは果物を売る店がやたらと多かった。1月1日は教会へ行ってミサを行う。そして2日は日本と同様、親戚や知り合いの家を訪問する。この日は二組、20人ほどの客があった。私の相棒は同窓生との食事のあとはダンスに興じていた。  近所を散歩するとバランガイの子供たちが道端でダンスを練習していた。この子供たちから将来有名なダンサーが生まれるかもしれない。ボクシングの英雄、マニー・パクヤオやビリヤードの世界チャンピオン、エフレン・レイエスもこういう巷のチャンピオンから生まれたのだ。

フィリピンのおおみそかと正月 2009年1月5日


 退職者の二人を案内して闘鶏見物にでかけた。年末ということで普段にも増して人が集まり、闘鶏場はほぼ満員、駐車場には入りきれないくらいのオートバイが並んでいた。ここタバコでも庶民の足としてのバイクが定着している証拠だ。  闘鶏場の控え所には多くの人々が自慢の闘鶏を胸に抱いて出番を待っている。悲しいながら、このうちの半分は1時間もしないうちに生涯を終えることになるのだ。        戦う2羽の闘鶏が出てくるとまず、闘志を掻き立てるために別の闘鶏とにらみ合ったりかみ合ったりさせる。さらに戦う2羽を対面させるあたりから賭けが始まる。まるでせりのような掛け声で場内は騒然となるが、手振り身振りで賭け金と賭ける闘鶏のコーナーを示す。賭けの相手を見つけて金額が折り合うと賭けが成立する。青コーナーはメロン(有る)、赤コーナーはワラ(無い)と呼び、かけ方はいたって単純だ。胴元はいなくてあくまでも客同士1対1の勝負だ。戦いが始まると賭けは終了。あとは勝敗を見守る。勝負がつくと、負けたほうが賭けの相手にお金を渡しておしまいだ。賭け金は1階席が500ペソ以上、2階席が 100ペソ以上だ。なお、掛け金の10%はコミッションとして闘鶏場に支払わなければならない。 1回の勝負で数千ペソのお金のやり取りが行われるからフィリピンでは大変な金額だ。この間、われわれには誰と誰がいくらで賭けが成立したのか皆目見当がつかない。しかし、彼らは試合が終わるとちゃんとお金を渡しあい、何のトラブルも発生していない。コンピューターも使わないで短時間のうちに闘鶏の死を賭したゲームが進行していく様は驚異に値する。もし自分も賭けに参加したいと思ったら隣で大声をあげている人に頼めばよい。メロンに500ペソ、などとだけ告げて、結果を見守る。負けたら500ペソを支払い、勝ったらコミッションを除いた450ペソを回収して渡してくれる。ただしその場合、チップを10%程度渡すことをお忘れなく。    闘鶏はそもそも闘争本能が旺盛でオス同士が出会うとあっという間に喧嘩が始まる。だから2匹のオスは決して一緒にできない。喧嘩の方法は親指にあたる突起で相手を攻撃するものだが、闘鶏ではそこに鋭い刃物を取り付けて戦わせる。だから、出会い頭の一発のけりで勝負が決まってしまうことが多い。負けたほうはもちろんオーナーあるいは負けた相手のオーナーの胃袋に納まってしまう運命だ。   勝ったほうでも傷だらけになることが多いが、その場合は場外の獣医に傷口を縫って治してもらえる。たまには相打ちで引き分けということも有る。また、決定打が出ないままずるずると戦いが続いて双方が疲れてしまい、どうしようもなくなることも有る。その場合は10分の制限時間があり、タイムオーバーの引き分けとなる。 ちなみに場内にはほとんど女性はいない。いてもスナックの売り子ぐらいのものだ。大金を儲けたり、すったりする博打は女性の敵なのだ。一方、バードウオッチングが趣味の退職者は闘鶏を初体験して大変満足した様子だったが、これもバードウオッチングの内なのかと首をかしげていた。

闘鶏入門 2009年1月5日



  タバコの中心はZiga Avenue(シガ通り)というが、その周辺とマーケットには人があふれていた。この街のこんなに人がいたのかと思うほどだが、正月は帰郷ラッシュで人口は倍ぐらいに増えているのに違いない。市営マーケットビルの前の広場はテント作りの屋台がひしめきあっていた。これは入居金が高すぎてマーケットビルに入れない人たちが自衛手段として建てたものか、あるいは、従来屋台のあった場所に新たにマーケットビルを建設中なので、そこから移動したかだろう。いずれにせよ普段の倍近い店が出て年末商戦を繰り広げていた。  タバコ唯一のデパートのLCCにも人があふれていた。教会前にも花火売りの屋台が並び、1年間でたった数日の商戦にかけていた。これらの花火はおおみそかの1時間くらいの間にすべて消費されるのだ。   市庁前や街の主要な場所にはメイヤーの家族を写した大きなポスターが掲げられていた。年末年始の挨拶ということであろうが、下院議員ラグマンの娘のクリセル市長の自己顕示欲は留まるところを知らないようだ。しかもこれは2010年の統一選挙を見据え公費による選挙活動を行うというしたたかな作戦でもある。   教会のクリスマスの飾りはそのまま残されていた。星型の飾りには名前や写真が張られ、日本のお祭りの寄付の名札に似ている。いくばくかの寄付を教会にした人たちが名前を掲げているのだ。また、市庁舎や広場に飾られたクリスマスツリーもそのままだ。一方、セブパシフィックが発着するターミナル3も大きなクリスマスの飾り付けがなされたままだった。  この日は土砂降りの雨降りで、しばし雨宿りを強いられたが、雨の水を使ってシャワーを浴びている子供を目撃した。スコーター(スラム)の子供は水道もないから、このスコールでシャワーを浴びるのだ。   師走となれば人出が多い。人出が多いとそれを運ぶ手段が必要だ。そういうわけでトライシクルやパジャック(サイドアカーをつけた自転車)が列を成していた。心なしか普段より数が多い気がするが、気のせいだろうか。彼らも年越しの金を稼ごうと必死なのだ。 マニラに戻るとターミナル3にはまだ巨大なクリスマスランタンが飾られてた。また、農場ではこのランタンのような花を見つけた。

師走の街には人があふれていた 2009年1月5日


 ビコール地方の12月、1月は雨季の真っ只中だ。おまけに今年は気温が日中でも25度以下となり、まさに寒波の襲来だった。我が家のメイドはこれを Super Coldと称していたが、まだ半袖に半ズボンで居られるくらいだからいささか大げさだ。でも彼らは本気でそう思っているのだ。  昨年は年末年始に10日ほど滞在して一度もマヨン火山の勇姿を拝むことはできなかった。今年もどうせ無理だろうと思っていたが、退職者二人を迎えた12月29日の午後、雲間に浮かぶマヨン火山を垣間見ることができた。実にこの日だけがチャンスで、あとは間欠的に雨が降り続け、マヨンはまったく姿を隠し、退職者にとってはまことにラッキーな瞬間だった。  退職者の一人は最近バードウオッチングに凝っており、農場に飛来する野鳥を解説してくれた。カラバオ(水牛)にまとわりついてえさを探すサギや日本から飛来してくるというもずなど、いながらにして色々な野鳥を観察することができた。農場に植えた木々が成長して林になればさぞ色々な野鳥が飛来するものと今から期待される。この5年間、数百本の各種苗木をせっせと植え続けた効果が出るのもさほど遠くないはずだ。  雨季のため花は比較的少ないが、それでも25度前後の気温はあるから、そこそこ花を咲かせていた。日本にはちょっと見られないめずらしいサボテン系のユーロ・ホビア、可憐なカディナ・デ・アモール、それに定番のブーゲンビリアなどだ。一方、田植えを終えたばかりの水田は豊富な雨のために青々と茂っていた。  近所を散歩している時、20cm前後の大きさに育った柑橘系のロクバンというホメロに似た実をつけた木を見つけた。ミンダナオ名物のホメロはおいしい大きな実をつける上、大変香りが良いそうなので、農場にも5~6本植えてある。ビコールでもうまく育つか心配だったが、近所で類似した木が立派に育っているので、何とかなりそうだ。このほか、農場ではランブータン、ランツォーネス、マンゴ、ランカ、カラマンシー、グアバ、アボカドなど熱帯特産の果物を植えてある。また、ビコール特産のピリやカカオなどのナッツの木もある。もちろんおなじみのバナナ、パパイヤ、パイナップル、ココナッツもいっぱい植えてあり、いつか農場が果物やナッツであふれる日を夢見ている。  話は変わるが、フィリピンでは住所を示す丁目のことをプロックという。農場の住所は689、Purok6、Barangay San Antonio、すなわちアルバイ県タバコ市サンアントニオ町6丁目689番地となる。サンアントニオは籐家具をはじめとする伝統家具の産地で、いたるところに小さな家具の工場がある。マニラの半値程度で家具が買えるが、運搬が大変だ。また、タバコではアバカ(マニラ麻)で作ったハンドバッグなどの手工芸品もしゃれたものが安く買える。これは持ち運びも簡単だからお土産に重宝だ。その他の名産は刃物(タバック)でタバコ市の名前もここから来ている。手軽なお土産はビコール特産のピリ・ナッツだが、どういうわけかマニラではほとんど見かけない。  雨降りのため子供たちはベランダの手すりに座って遊んでいた。この手すりは座れるように幅が20cm程度あり子供たちの格好の遊び場となっている。まだまだ子供だと思っていた相棒の甥姪だが、一番上の子は13歳(右から2番目)、ハイスクール1年生となり、もう少女といえる年頃になっている。

農場は毎日が雨だった 2009年1月5日