Daily Archives: February 3, 2010


Max’sレストラン・チェーンはフィリピン料理専門店としてフィリピン最大のチェーンで、マニラのみならず全国展開をしている。料理は伝統的なフィリピン料理で、フィリピン料理を試してみたかったら、ここで食べれば間違いない。このほかにも有名なフィリピン料理の店としては、カマヤン(手食)、アリストクラット(高級)、バリオ・フィエスタ(村祭)などがあるが、外人向けで少々高い。1945年創業のMax’sは今年で65年目を迎える老舗でもある。 フィリピンの味噌汁、シネガン・スープはすっぱい味がなんとも健康によさそうだ。この酸味はサンパロック(タマリン)の若い実をゆでてすったもので、サンパロックのほかにもグアバやミソの実を使ったシネガンもある。具は豚肉、エビ、ラプラプなどの魚など色々だが、今日はちょっと変わった鮭のシネガンを注文した。右はカレカレ、フィリピンのカレーといったところだが、ピーナッツベースの味は少しも辛くなく、バゴオン(塩辛)をあえて食べる。 フィリピン人は案外豆腐を好んで食べる。熱い鉄板に載せて持ってくるのをシズリングといい、肉や魚のシズリング・ステーキがポピュラーだが、豆腐シズリングというのもある。これが案外美味だった。ちなみに朝早く、タホー、タホーといいながら、ステンレスの大きな容器を担いで歩いている人は、豆腐にシロップを混ぜて、5~10ペソで忙しいサラリーマンの朝食代わりに売っているのだ。右は最もポピュラーなフィリピン料理、パンシット・カントン(やきそば)だ。これにチョップソイ(野菜炒め)を頼んでおけば間違いないし、不足がちな野菜も取れる。  フィリピン料理といえば、このほかに、クリスピー・パタ(豚足のから揚げ)やカルデレータ(牛肉などの柔らか煮、ソースかけ)、レチョン(子豚の丸焼き)などが有名だが、糖尿病の私にはちょっと手が出ない。しかし、取って置きはデザートのハロハロだ。かき氷の一種だが、アイスクリーム、プリン、三つ豆、寒天(ナタデココ)などできる限りの具材を入れてごちゃ混ぜにして食べるのがフィリピン式だ。これも糖尿病の私は分け前に預かることは出来なかった。 Max’sの看板料理はチキンのから揚げで、一匹丸まるのから揚げがサイズにより300~400ペソだ。その他の料理の値段は150~300ペソ程度。3人で多めに頼んで飲み物、デザート込み1100ペソだった。(メニューは拡大して見てください) SMマカティの中にあるMax’sに行ったが、なかなか混雑している。一人や二人で食べている人もいて、気軽にフィリピン料理を楽しめる場所だ。

フィリピン料理Max’sレストラン 2010年2月3日


最近NHKで「無縁社会」という造語の番組をシリーズでやっている。日本では、家族を持たず社会とも絶縁し、孤独にくらす人々が急増しているのだそうだ。一方、昨年無縁死した人は全国で3万に上るという。一人住まいの家で死後数ヶ月たって発見された老人のケースも放映されていた。刑務所で暮らす60歳以上のお年よりは受刑者全体の10%をこえ、刑期を満了して出所しても行き場のないお年よりは無銭飲食などの罪を繰り返し、また刑務所に戻ってくるそうだ。その割合は出所したお年寄りの70%以上に上るそうで、身寄りのないお年寄りを拒否しないで受け入れる場所は刑務所だけだという。また2030年には生涯独身で過ごす人が男で3人に一人、女で4人に一人になると言われているそうだが、そうなると全国で3000万人以上の人が孤独で暮らしていることになる。そんな社会を人間の社会と呼べるのだろうか。  孤独で暮らす人々はそれぞれ事情はあるのだろうが、根本的な原因は何なのだろう。核家族、少子化、老人介護、そして無縁社会。そこにはなにか一連の流れがあるような気がする。大家族制度が崩壊し、核家族化し、その核家族を形成できなかった人々は行き場がなく、一人で暮らすしか術がなくなってしまったのだ。家族というものが老人や子供を守ってきたのが、核家族化により、老人の行き場がなくなり、子供も育てることが出来なくなってしまった。そして、その核家族を形成できない人々は家族からはじき出されて孤独に暮らす。なんともはや弱いものにとっては暮らしにくい社会だ。 そんな無縁社会と全く無縁なのがフィリピンだ。フィリピンには家族と無縁な人などいない。お互いに頼りあい、助け合って、時には傷つけあって生きている。だから弱い人ほど家族に守られて幸せに暮らしている。その大家族を背負って立つブレッド・ウイナー(大黒柱)には大変な負担で、そのために若いみそらで花街で働く女性も多い。しかし彼女達はその責任を背負って逞しく生きている。経済的に苦しいので家族から無縁になろうなどという不届きな考えは決しておこさない。家族と共にあるのが生きている証なのだ。そして家族が一同に集まる食事時は家族が家族であることを噛みしめる至福の一時だ。これを、無縁社会に対して家族社会と名づけられるのではないだろうか。  出口のない日本の惨状をもたらした核家族に対して、フィリピンの大家族が真っ向から対立するのが、熟年日本人男性と若いフィリピーナの結婚だ。熟年諸氏は若いフィリピーナと結婚して二人だけの甘いスイートホームを夢想する。一方フィリピーナはブレッド・ウイナーとなるお金持ちの日本人と結婚して、家族に富をもたらし、女王様として家族一同から敬われる生活を夢想する。  お見合いの席では張本人のフィリピーナよりもその家族の方が結婚に熱心で、熟年諸氏にはなんとも解せないところがある。実際フィリピーナと結婚した熟年諸氏の多くは家族一同が暮らせる大きな家を建てさせられ、それもすぐに妻の家族に占領されて、おまけに親兄弟さら嫁や甥姪の食料まで面倒見なければならないというはめに陥っている。そんなことをしていては、なけなしの退職金もすぐに底をついてしまうので、離婚してしまったという話もよく聞く。  そもそも家族が結婚に熱心なのはきっと、日本人亭主を食い物にする気に違いないと、見合いに臨んだ熟年諸氏は警戒する。そして、住まいは二人だけで、家族は入れない、家族の支援は月々1万ペソまで、などという条件交渉が始まる。熟年諸氏は日本を破滅の道に導こうとしている核家族なるものをフィリピーナに押し付けようとしているのだ。   フィリピン人と結婚してフィリピンに住むとしたら、この大家族という概念を理解し受け入れるのでなければ決して結婚生活は成功しないだろう。日本の社会を破滅させつつある核家族などという概念を持ち込んで、百万年の歴史のある人類の宝であり、そしてフィリピン人の生きる術である家族というものをないがしろにしてフィリピンで生きて行けるはずがない。もちろん期待に胸を含ませる家族に対しては自分が出来る範囲のことをすればよいのであって、分不相応な待遇を提供する必要はない。要は妻と同等に誠意と愛を持って対応すればいいのだ。そうすることにより家族の一員として迎え入れられ、家族の長老として、この先数十年の老後の生活はばら色となるだろう。フィリピンで結婚する場合、それは、すなわち家族と結婚することなのだ。  

無縁社会と家族社会 2010年2月3日