Monthly Archives: March 2010


マカティ、リトル東京(パソンタモ通り、マカティスクエアの近く、新宿、きくふじの並び)の日本食材店「ちょっとストップ」が頑張っている。先日、店を覗いてみたら、ほとんどの商品に正札がついていない。店員に値段を聞いてみると75ペソと即座に答える。どれを聞いても75ペソだと言う。要は正札のついていない商品はすべて75ペソなのだ。酒や調味料、冷凍の魚などを除いてすべて75ペソ均一だ。他の店では100~200ペソはする商品なのでかなり安い。品揃えも豊富だ。100円ショップのように一々値段を気にしないで買えるのが今風でうれしい。 フィリピンでも「日本城」という100円ショップがあちこちにあるが、そこは80ペソ均一だ。ただし日本食はほとんど置いていない。また、オルティガス、ロビンソン・ガレリアのダイソーの経営する100円ショップ、「サイゼン」もあるが、遠くて不便だ。 「ちょっとストップ」は軽食レストランを併設している。弁当やどんぶり物、ラーメンやそば・うどんなどメニューは平凡だが、弁当が220ペソ均一、ラーメンが150ペソと安い。となりの新宿に比べてもかなり割安で、新宿も値段を下げないと客をとられてしまうかもしれない。 「ちょっとストップ」の入り口はパソンタモ通りに面しているが、中に入るとそのままリトル東京の中庭へ抜けられる。そちらに面しているのが軽食レストランだ。入り口ののぼりの文字が裏を向いているのがちょっと気にかかるが、客席には漫画本や週刊誌がたくさんあって、一人で食事を取るには向いている。コロッケ定食とソースやきそばを注文したが、味もまあまあだ。ビールも飲んで2人前、500ペソであがった。(注:その後、レストランは閉店したが食材店は営業している)

リトル東京の「ちょっとストップ」が安い 2010年3月30日


マカティ・アベニューのアンソン・電化デパートの向い、あるいはランドマーク・デパートのはす向かい、グリーンベルト4の一角にあるのがアヤラ・ミュージアムだ。フィリピン在住15年にして始めて中をのぞいてみたが、建物は数年前に新築したばかりでミュージアム(博物館)にはふさわしくない近代的なつくりだ。入場料は225ペソだが、シニア(60歳以上)は年齢を言うだけで125ペソの学生/子供料金となる。  ミュージアムの見せ場は4階の金の装飾品の数々だ。10~14世紀のネックレスやイヤリングが並ぶ。エジプトのツタンカーメンの面を期待する向きには少々物足りないが、フィリピンにはスペイン時代の前には歴史がないと思っていたが、フィリピンにもこれらの装飾品を身につける高貴な人々がいたのだろう。 3階に下りるとフィリピンがルソンと呼ばれていたころの陶磁器が並ぶ。このころは日本との貿易も盛んで、これらの陶磁器が貴重品として扱われていた。多分に中国の影響で、これら陶磁器を生産していたと思われる。 2階は、フィリピンの歴史をジオラマでわかりやすく見せている。数十万年前からフィリピンにも人類が栄えていたようだが、この島国に回教徒、中国、キリスト教徒(スペイン)、そして近代文化をもたらしたアメリカがやってきて、今の混血国家フィリピンが出来上がってきた経緯がよくわかる。それ以前のフィリピン人は、現在でもピナツボのふもとのパンパンガでもよく見かける縮れ髪で色黒のブンドック(山の民)が主流だったのだろう。  歴代の大統領の等身大の絵が身長と共に描かれているのも面白い。現大統領アロヨの身長が幾ばくのものか興味があるところだが、残念ながらアキノ大統領までしかなかった。 アヤラ・ミュージアムを出て、最近完成したグリーンベルト5を歩いてみた。樹齢数百年と思われるアカシヤの大木が茂り、都会のオアシスともいえる庭園が広がっている。近代的な建物と緑が調和して、マニラそしてマカティで一番美しい街並みを形成している。丸い天井の教会は、1989年、この辺がまだ、ただのスーパー・マーケットや駐車場だったころからのものだが、今では周りの景観に溶け込んで、グリーンベルトのシンボルとなっている。 グリーンベルトに隣接して建設中のコンドミニアムが名門アヤラ不動産が開発した「ザ・レジデンス・グリーンベルト」だ。まるで、グリーンベルトを庭のようにあしらい、現状では最高級コンドミニアムと言えるだろう。このあとグリーンベルト2まで歩いてイタリアネスで食事を取ったが、ピザとスパゲッティの二皿で1500ペソはやはり高級だ。 グリーンベルトの向い、ランドマークの隣ではラッフルズ・レジデンスが建設中だ。ホテルとコンドミニアムを併設した建物で、アヤラのザ・レジデンスとこれが完成したら、この付近はフィリピン随一の居住空間としてその地位はますます上昇するだろう。  

アヤラ・ミュージアム訪問 2010年3月28日



 5月10日の統一選挙に向けて、3月26日、下院議員、知事、市長、市議会議員などを選ぶ地方選の幕が切って落とされた。2月9日に解禁された全国選に引き続き、44日間の戦いが繰り広げられる。   全国選がテレビなどのメディアを中心に行なわれるのとは違って、地方選は、地域に密着した選挙戦が繰り広げられるので、よほど面白い。選挙応援パレード(ラリー)あるいは演説集会(パーティ)が中心となるが、それらはまるでフィエスタ(お祭り)のようで、日当をもらってパレードに参加するものや食事や芸能人によるアトラクションを目当てに集まる人々で街は溢れかえる。  3年毎の統一選は貧しいものにとって大変ありがたいイベントだ。パレードに参加すると500~1000ペソの日当をもらえるし、集会では只でT-シャツや食事にありつける。さらに有名芸能人のショーが入場料無しに見たい放題だ。評論家は富が貧民に還元されるいい機会だと評する。人々は仕事をするよりもパレードや集会に参加したほうがよほど金になるから、この期間は仕事をしないでも済む。  投票日の前日になると、アルコール禁止になるが、人々は寝ないで夜の訪問者を待つ。地方で500ペソ、都会では1000ペソの現金を持って、特定の立候補者へ投票するよう運動員が各家庭を回るのだ。彼らにとって青いお札(1000ペソ札)を手にするのは3年に一度のこの時だけだ。大統領、上院議員、下院議員、知事そして市長から1000ペソずつもらうとすると一人 5000ペソ程度の収入になる。夫婦で1万ペソは貧困層の2か月分の収入だ。しかも投票日は、投票所に食べきれないほどの食事が用意される。だから選挙には、皆ことの他興味をもって、その日を待ちわびる。ちなみに現マカティ市長のビニャイは3年前の選挙で2000ペソずつ配って市長の座を獲得したそうだ。  解禁日の26日、私の住むコンドミニアムのすぐ近く、マカティのパソンタモ通りとビトクルス・エクステンション通りの交差点、ショップ・ワイズ(大型スーパー・マーケット)の前で、マカティ市長候補、メルカドの選挙応援演説集会が行なわれた。この付近はマカティ市の中心からはずれ、スコーターなどもあり、多くの庶民が居住する人口密集地帯なので、選挙戦の目玉の地域なのだ。選挙ばかりは金持ちも貧乏人も一人一票の重みは変らない。だから立候補者はちょっとしたことで落ちやすい貧乏人を狙ったほうが対費用効果はずっと大きいのだ。 夜の7時、集会場はすでに数千人の人々で埋め尽くされ、立候補者の顔や名前が印刷されたT-シャツを着、チキンやスパゲッティの軽食を手にして応援演説に耳を傾けていた。   パソンタモ通りを遮断して作られたステージには候補者やその応援者が並んで座っている。後ろには特大のポスターが貼られ遠くからでもよくわかる。さらにステージの横には特大のスクリーンが設置されステージの演説や催し物が中継されている。演説が終わるたびに、ステージの後ろでは花火が打ち上げられいやが上でもお祭り気分を盛り上げる。ちなみにこれらの特大ポスターは耐候性の布地で作られているので、選挙後はスコーターの家の屋根や壁になるそうだ。 演説は聴衆をあきさせないよう早めに切り上げショータイムに突入だ。演説の内容はわからないが、主義主張というよりも、ほとんどが掛け声だけのようだ。まずはダンサーによる踊り。中々見ごたえのあるダンスだが、選挙とは何の関係も無く、聴衆を喜ばせるだけが目的だ。 この日のショーの目玉はテレビでおなじみのコメディアンの「バイス・ガンダ」だ。かなり有名なコメディアンだそうで、歌や踊り、そしてトークにやんやの喝采だった。中々面白い話をしているようだが、当方には皆目理解できない。ちなみに彼はバクラ(オカマ)で、名前のバイスは副大統領(バイス・プレジデント)の「副」、あるいは「不道徳」と言う意味。「ガンダ」はタガログ語で「美」という意味で、女性の美しさを表現する。また、「美しい」が「マ・ガンダ」、「すごく美しい」が、「アン・ガンダ」、などと変化する。「バイス・ガンダ」は「準美人」あるいは「不惑の美人」となり、オカマの彼にはふさわしい名前かもしれない。 一方、大統領選の方は、トップを走るビリヤールやアキノ候補はすでにテレビ放映枠(1局あたり120分)の規定を超えてしまったそうで、今後は地方選の自分の陣営の候補者の応援演説などで地方を回り大衆にアピールする選挙戦になるものと予想される。下の写真はアンヘレスで見かけたアキノ候補とエストラーダ候補のポスター。エストラーダは若き日の映画スターの時の写真を掲げ、あくまでもヒーローのイメージを訴えている。アキノは元大統領の母親のシンボルカラーの黄色いポスターだ。

統一地方選の幕が切って落とされた 2010年3月27日


本年はPRAが1985年に創立されて以来、25周年の節目の年だ。またさらにPRAを管轄している官庁がBOI(投資庁)からDOT(観光省)に移行され、PRAの新しい時代が始まる。先日、観光省のドラノ大臣がPRAを訪問し、関係者との会合が持たれたが、大変気さくな人だとの評判だった。また、彼は先日瀬里奈で我々と遭遇したことを憶えており、相棒のジェーンはどこかとPRAスタッフに質問をしたとのこと。PRAが観光省の配下に入ったことを契機にアグリパイ会長は退いて、ドラノ大臣がPRA会長を兼務することになったそうだ。ドラノ大臣が実質的にPRAを運営すると言うことはありえないが、幸先の良い出会いをしたものだと思う。  今年は、例年の創立記念パーティを開くだけはなく、色々な催しものが企画されている。退職者の方も参加できるので、是非連れ立って出かけてほしい。なお、、電話かE-メールで事前に予約が必要とのこと。 3月の行事    20日(土) 海水浴、 場所:キャノンコーブ    退職者とPRA職員の手工芸品の展示会、 場所:PRA受付、Citybank Tower 29階 ゲートボール 4月の行事 18日(土)家族ゲーム、開催場所:アヤラ・トライ・アングル、集合時間:午前6時 5月の行事 15日(土)歴史探訪(イントラムロスなど)、 集合場所:PRA、集合時間:午前7時 6月の行事 […]

PRA創立25周年記念行事 2010年3月24日



2名の退職者を案内してタバコの農場を訪問した。2泊3日の短期だったが、真夏の農場はブーゲンビリアが咲き乱れ、赤ちゃんラッシュだった。しかし、マニラ周辺のような容赦ない陽射しはなくて、毎日、何度か雨のお湿りがあるすごしやすい天気だった。またそのせいでマヨン火山が顔を見せたのは2日目の早朝のほんの一瞬だった。  2日目の朝、例の双子が訪問して、農場で面倒を見ている3歳のヤナと一緒に歓迎の歌を披露してくれた。親に指示された様子もなく、3人でタガログ語や英語の歌を5~6曲披露してくれた。私にはどれも同じに聞こえたが、最近大流行している韓国ソング「Nobody nobody but you」だけは私にもわかった。右は、臨月を迎えた相棒のジェーン。 赤ちゃんラッシュの目玉は牛だ。小さめの牛なのでまだ子供だと思っていたが、その牛が赤ちゃんを産んだのだ。まだ2ヶ月しかたっていないが、もうしっかりしている。しかし、この赤ちゃん牛の誕生でわりを食ったのがボス犬のアイスだ。こんな子牛は犬の絶好のターゲットになる。だからアイスは鎖でつながれ、かわいそうに一日中吼え通していた。鎖ではあまりにも可哀想なので、緊急に2坪ほどの小屋を作って、しばらくはそこで暮らすように計らった。 ちなみに牛のことをタガログ語で「バカ」という。日本語のバカは馬鹿と書いて、馬と鹿だから、まんざら遠い意味でもないようだ。さらに水牛はカラバオというが、これは働き者を指す。フィリピンではカラバオは水田や畑の耕作の労を一手に引き受けているので頼りになる存在なのだ。 ブタ小屋にも数頭の赤ちゃんがいた。前回生まれた赤ちゃんと一緒だが、小さいほうが今回のものだ。母豚は3~4歳だが、年をとっているので生まれる子豚の数が少ないのだそうだ。したがって近々処分の対象になるそうだ。テラピアは今夜の夕食の目玉。とりたての食材で、ゲストはしごくご満悦だった。 農場では闘鶏も飼育している。その闘鶏も赤ちゃんラッシュだった。闘鶏はもちろんオスだが、生まれたばかりではオスかどうかわからない。今はみんな可愛いが、オスの雛は数ヶ月たつとあの闘志満々の闘鶏に育つのだ。鳩の赤ちゃんも生まれていたが、残念ながら巣箱の奥に隠れていて写真を取ることはできなかった。ちなみにこの暑いのに生まれたての雛にとって、電球は母のぬくもり代わりだ。 七面鳥やガチョウは今回は赤ちゃんがいなかった。1月に来たときに見た七面鳥の赤ちゃんはアイスの犠牲になったそうだ。こうなるとアイスは可哀想だが、農場のために一生犬小屋で生活することになるのだろうか。 水田は収穫の時期を迎えていた。あと1~2週間もすれば収穫だ。前回正月に来たとき田植えだったから、丁度3ヶ月だ。野菜や穀物は種まきから丁度3ヶ月で収穫できる。これは日本でもフィリピンでも共通だ。農家の人にとってこんなことは常識だろうが、私が家庭菜園をやっていて、このことに気がついたときは実に不思議だった。だから、農場では準備と後始末に1ヶ月、種まきから収穫まで3ヶ月、合計4ヶ月、年3回の収穫が可能となる、はずなのだが、どういうわけか、フィリピンで米作は2毛作だ。有機肥料をほとんど使わないので、田んぼを休ませる時間が必要なのか、灌漑用水あるいは雨の具合なのか、まだよくわからない。 農場に家を建ててから7年近くが経過した。その時植えた果物の木が実をつけ始めている。世界で一番大きい果物といわれるランカ(ジャックフルーツ)もたくさんなっていた。バナナも豊作だ。 最近雇ったメイドがカラバオ(働き者)で農場の空いている場所にたくさんの野菜を植えていてくれた。左がピーナッツ、右がキャッサバ、左下がカモテだ。右下は農場の写真ではないが、近所に生えていたアバカだ。ピーナッツは落花生と呼ばれるが、これは花が咲いた後、それが地下にもぐって実をつけるという変リだねだからだ。キャッサバは南方ではどこにでも生える芋の一種だ。。カモテは日本のサツマイモ。日本のサツマイモのように甘さはないが、どこでも育つので米の代替としていざという時には役に立ちそうだ。アバカとバナナはほとんど同じに見えるが、一方はマニラ麻として、戦前日本への輸出の目玉だった。一方のバナナは現在の輸出の目玉。日本のバナナ・ブームを支えているのがまさにフィリピンなのだ。 農場の一角にはなんとも珍しい「綿の木(コットン・ツリー)」が生えている。高さは10m以上の大きな木だ。20cmくらいの実がつくが、それが熟れるとはじけて、中から綿が吹き出す。 落ちている綿の実を拾ってみると、それはまさに綿だ、純白に輝いている綿の繊維は細く絹のようだ。しかし絹のように繊維は長くないので紡ぐのは難しいのかもしれない。だから、ここの人は中にある種を取り除いて、枕の綿にする。ちなみに果樹はそのおいしい果実を動物に食べさせて、種を遠くに運ばせる。一方、綿やタンポポはそのふわふわした繊維により、中の種を風で遠くへ運ばせるというなんとも知恵に満ちた自然の世界だ。

真夏の農場は子沢山 2010年3月23日


  ハロハロといえば、フィリピンの代表的デザートだ。日本のかき氷のようなものだが、トッピングがハロハロなのだ。ハロハロとはごちゃ混ぜという意味で、ちなみの写真のハロハロのトッピングはチーズ、ウベ芋、プリン、ゼリー、ミルク、などなど数え切れないくらいのお菓子の食材が乗っている。  このハロハロは第2次世界大戦後、元日本兵が食うためにかき氷を売り始めたのが起源といわれ、最近ではファストフードの雄、チョーキンも大々的に売り出している。夏には街角にハロハロショップがひしめくが、特にエルニーニョの影響で猛暑が続くマニラでは飛ぶように売れている。  タバコの北にある地熱発電で有名なTIWI(ティーウィ)という街に、DjCというハロハロ専門店がある。ここでハロハロを食べるのが、私のタバコ案内のお決まりコースだ。20年ほどに開店したそうだが、マニラ、レガスピ、ナガなどの都市に支店を出すほどの繁昌ぶりだ。かつて大手のレストランからレシピを買いたいと申し入れがあったが、オーナーはそれを拒否して、秘伝の味を守ったそうだ。 店は極当たり前のサイズだが、テーブルは満員だ。そして、15~30分程度で食べ終わって、どんどん回転していく。一杯50ペソ(100円)と決して安くはない値段なので、相当儲けていると推定される。ちなみに売り上げは10テーブルx4人x2回/時間x12時間x50ペソ=48,000ペソ。粗利率を 50%と仮定すると、一日24,000ペソの粗利になる。1ヶ月で72万ペソの粗利。その半分が利益だとしても月々36万ペソの利益という、まさにリッチなビジネスだ。  

デザートの王様、ハロハロ 2010年3月23日



洗車やマッサージパーラーも、もう古い。インターネットカフェ、ロンドリー、飲料水、タクシーオペレーター、5-6(金貸し業)などなど、かつては小資本で開業できて、儲けが大きいと、雨後の竹の子のようにオープンしたが、これらのビジネスは、もはや過去の遺物だ。そして、フィリピンで今一番はやっている新商売が古着屋だ。フィリピン全土、街のあちらこちらに新しい店がオープンしている。古着とはいえ、新品同様の服がショートパンツやT-シャツが50ペソ、ジーンズなどが100~200ペソ程度で買える。こういう店を「UKAY-UKAY」というが、「UKAY-UKAY」とは「かき回して探す」というような意味で、バーゲンセールの特設売り場で主婦が服をかき回して気に入ったものを探す様子を指したものだ。はじめてみたときは日本語の「愉快愉快」からとったものなのかと思ったが、違うようだ。 すべてが日本、香港、アメリカ、ヨーロッパなどで使われた古着だから、ものは良い。デザインもよいし、中にはブランド物もある。一度や2度手を通しただけで、品質の良いものが新品の半値以下で買えるのだから、実利的な人は皆ここで買う。だからデパートの服売り場は閑古鳥が鳴いている。まさにフィリピン庶民の味方ともいえる商売だ。  これらの服は、海外からの援助物資の横流しだそうで、税関が、これらの援助物資を金を取って業者に流しているらしい。バリクバヤン・ボックスという日本からフィリピンへ引越し荷物やお土産などを送る運送形態がある。箱の大きさは74x54x64cm角の大き目のダンボールで、重さは60kgまでで、1万円程度で送れる。このバリクバヤン・ボックス一杯に古着が詰まったのを12,000ペソで仕入れられるそうだ。中身は見てのお楽しみ、中には高く売れる服もあるが、くず服ばかりで損をすることもあるそうだ。古着の詰まったバリクバヤン・ボックスを20~30個も仕入れれば、そこそこの品揃えになるから小資本で商売を始めるにはうってつけかもしれない。しかし、今のうちが勝負だ。そもそも商品に限りがあるから、あとから参入しても仕入れが出来ないだろう。

古着屋が愉快愉快 2010年3月23日


マヨン火山の雄姿を期待してリニョン・ヒル(LIGNON HILL)にのぼったが、厚い雲の覆われたマヨンは姿を見せてくれなかった。一方、マヨンの反対側に広がるレガスピ市はきれいに見えた。今回は飛行機の発着のタイミングには会わなかったのが残念はだった。  リニョン・ヒル展望台のアトラクションとして作られたのが、ジップラインだ。ジップとはジッパーのジップで日本語なら「ビリー」と布が破れる音の擬音だ。この遊びはロープに取り付けられた椅子に乗ってロープをすべるだけの単純な遊びだが、マヨン火山を眺めながらすべる十数秒はスリル満点に違いない。高所恐怖症の私には試して見ようもないが。 下の写真は今回の訪問で唯一撮影することが出来たマヨン火山の写真だ。レガスピ空港から離陸直後の一枚だ。

人間ロープウエイ(Zip Line) 2010年3月23日



Yさんの死により、ビザのキャンセル手続きが暗礁に乗りあげてしまった。 Yさんの失効パスポートと死亡証明書を持ってPRAにキャンセル手続きの継続を依頼したら、担当者の第一声はこうだ。 「入管の手続きはすでに完了しているものの、2万ドルの定期預金の引き出し許可証は、発行する相手が死んでいるので、家族の誰かが、家族であるという証明を持って受取に来て欲しい。」 このまま黙って引き下がるわけには行かない。状況を再度説明して、再検討を依頼したら、出張中の上司に相談して決定すると云うので、とりあえずPRAを後にした。もはやあせっても仕方がないので、とりあえず引き下がることにしたのだ。数日後、その上司に面会し、事情を説明した。上司は、これまでのいきさつを充分承知しており、かつ今回の事態がPRA担当者のお役所的対応の末に起きてしまったことを充分認識している。担当者を呼んで、1時間程度、喧々諤々の議論した。その結果、下記の結論を得た。 「この退職者は家族と縁が切れており、引き出し許可証を家族が受け取ることはありえない。一方、日本では弁護士が法定代理人として退職者の財産を管理している。したがって、、引き出し許可証のコピーに代理人である弁護士の署名をもらって、退職者本人の署名とみなす。許可証の原紙は、退職者からの委任者であり、かつ代理人の依頼を受けている私が受取る。それ以降、銀行からの引き出し手続きは委任状を持った私と銀行との交渉次第とする。」 まずPRAの攻略に成功した。翌日、引き出し許可証のコピーを受取り日本の弁護士へ送付、翌々日は許可証の原紙の受取と銀行への提出と、駒はとんとん拍子に進んだ。銀行は、「委任状については本店の法務部門の承認が必要」と事務的に言うだけだった。ここで重要なことは、ややこしい議論を避けるために退職者の死亡という事実を伏せておくことだ。そして、1週間後、銀行から「委任状が承認された」という連絡があり、胸を高鳴らせて銀行へ向った。2~3枚の書類に署名をして、待つこと約30分、ついに2万ドルの引き出しに成功したのだ。 銀行での引き出しに成功した後、そのまま大使館に向ってYさんの死亡届を提出した。大使館もすでに状況を知っているので、快く私の申請を受け付けてくれた。これで一件落着だ。私のなすべきことはすべて終わった。後は介護婦が2万ドルの現金を下ろすだけだ。 以前、報告したように、2万ドルは退職者と介護婦の共同名義の口座に振り込まれるので、退職者の死亡の事実が銀行に知れると、その口座そのものも凍結されてしまう恐れがある。したがって、この2万ドルを引き出して他の口座に移動してしまうまで安心できない。休み明けに引き出すこととして、銀行には現金の予約をしておいた。そして、月曜日、農場からの帰りの空港タクシーの中で、介護婦から「2万ドルの引き出しに成功した」との報告を受けて、やっと肩の荷がおりた。病院への支払いを完了して事務所に現れた介護婦の顔には安堵の笑顔が溢れていた。

ある退職者の死の教訓(2)その3 2010年3月23日


各種栄養素が豊富なばかりではなく、多くの抗酸化、抗炎症物質を含み、糖尿や高血圧、メタボや性欲減退等々、熟年世代のあらゆる悩みに効き、免疫機能の改善や体力増強、老化防止に効果があるという、奇跡の野菜と注目されているのがマロンガイだ。お茶やカプセルとして大々的に売り出されており、日本にも輸出されている。先週、マニラ新聞でも1週間くらい連続して紙面半分を使って広告されていた。  そもそもマロンガイは珍しくもなんともない庶民の野菜で、田舎に行けば各家庭の庭に植えられ、その小さな葉が食用とされている。モンゴという緑色の小豆のような豆と一緒に煮てスープにして食べるのが一般的だ(ギネサン・モンゴ)。残念ながらレストランでは食べられないが、お世辞にもおいしいとはいえない料理だ。しかし、健康的であろうことは実感できる。良薬は口に苦しと云う例えの通りだ。  バギオのマーケットでは健康野菜を豊富に売っている 2~3年前から話題になっているので、農場で散歩するたびに庭に生えているマロンガイの葉をそのまま食してみるが、独特な苦味があり、決しておいしいものではない。野菜なんて生で食べておいしいはずもないが、フィリピンでは古い時代からの知恵で、家庭の常備薬として庭に植えて食してきたのだろう。 糖尿の気のある私もアンパラヤ(ニガウリ)のカプセルと共に常用しているが、その効果を実感するには至っていない。しかし、薬無しで血糖値はコントロールできているし(空腹時で100~120、食後で160~200程度)、ほとんど疲れも感じないし、風や下痢、腹痛などにも滅多にかからない。もしかしたらアンパラヤとマロンガイの相乗効果なのかもしれない。今度農場に帰ったら、マロンガイを菜園の周りに大量に植えようと思う。フィリピンの植物は挿し木で簡単にいくらでも増えるから楽勝だ。そしてお客さんにはマロンガイとモンゴのスープを薬用食として提供しようと思う。ほっておけば勝手に育ってくれて、奇跡の良薬が只同様に手に入るのだから、利用しない手はない。 マロンガイは枝ごと収穫して、枝から葉っぱを取り除く。小さな葉なので中々手間がかかるが、子供でも出来るので、小さい女の子の役割だ。 フィリピンで一般的に食用に供される野菜の中で健康に良いとされているのが、アンパラヤ(ニガウリあるいはゴーヤ)、アルバティ(つる紫)、サルヨット (モロヘイヤ)、オクラなどだ。アンパラヤを除いて、いずれも粘り気のある野菜だが、強い日差しを浴びてフィリピンではいくらでも育つ。特にオクラはシネガンスープなど日常的に食され、日本にも大量に輸出されている。    

奇跡の健康野菜「マロンガイ(モリンガ)」の紹介 2010年3月16日