Yearly Archives: 2010


自分が子供のころ、「何か具合の悪いことが起きたら、他人を責めたり恨んだりしないで、自分の行動や言動を反省して同じ過ちを繰り返さないよう、心がけなさいと」教えられたものだ。そうでなければ未来への成長は無いと。しかし、世の中へ出ると、何かまずいことが起きるとすぐに他人を責め、犯人探しをする人が実に多いことに困惑し、自責ばかりでは世の中をうまく渡っていけないことを知った。私をそういう人を他責の人と呼んだ。  最近の国会でも法相が失言問題で辞任した。野党・自民党がが鬼の首を取ったように大騒ぎをして国会を混乱させようとしていたが、自民党もこんなことくらいしか出来ないのは実に情けない。政治家はまさに他責の人の代表選手で、あんなことを得意になってやっていて恥ずかしくないのだろうか。国民に選ばれた国会議員として日本の将来のために、国民のために何が出来るか考えて、与党の足を引っ張るばかりではなくて、前向きな行動をとって欲しいものだ。こんな政治家達に日本の未来はとても任せられない。 (無邪気な子供は皆、善悪の判断もつかず、他責の人だが、親に叱られて自責の念を憶えていく。だが、甘い親に育てられた子供や、親に面倒を見てもらえなかった子供は他責の人に育つ)  尖閣諸島の問題でも、中国政府は一般大衆によるデモまで画策し、日系の会社を焼き討ちし、日本を責め立てた。それに業を煮やした勇気ある人があえて映像を流出させたものと思うが、自分の非が明らかであるのに逆に相手を責め立てる、自責の念のかけらも無いのが中国政府だ。一方、北朝鮮が延坪島を砲撃した際も、朝鮮放送は韓国を断固として糾弾し、自らの正当性を高らかに主張していた。これらの発想はまさにやくざの発想だ。自分が都合が悪くなると、逆に大声で相手を脅して切り抜けるのがやくざなのだ。こういう輩を相手にビジネスの話はできない。ビジネスは契約に基づく取引だが、自分に都合が悪いあるいは損になるとしても契約をルールとして話し合い合意にいたるものだ。中国ではビジネスが実に難しいというが、そんな契約やルールは糞くらえの人たちとは何も話しても無駄で、関わりを持たないのが一番賢い。  (政治家は概して他責の人、一方神は無責の人だ)  先日、日本に行った折、生まれて初めて法廷なるものを傍聴する機会があった。他人と係争になったとき、判定を下すのが裁判所だが、ここでも恥も外聞も無い議論が展開される。誰が見ても白黒は明らかであるにもかかわらず、弁護士はああでもない、こうでもないと無意味で破廉恥な議論を展開する。ここで他責のみがまかり通って自責などという言葉は存在しない。そして時にはそんな訳のわからない理屈が通ってしまうそうだから呆れてしまう。法と正義を守るべき先生がたがこんなでは世の中真っ暗だ。特に弁護士は正義の味方ではなくて、お金を払う人の味方だから、彼らにとって黒を白というのもたやすいことなのだ。   (キアンと同じポーズで居眠りをするヤヤ(子守)。キアンが寝ているときだけがヤヤの休める時間だ)  さて、フィリピン人は自責の人なのか、あるいは他責の人なのだろうか。一般にフィリピン人は失敗や悪さをしても謝らない。ものを壊しても、「壊れてしまった」と表現して、「自分が壊した」とは決して言わない。だからあまり自責の念はなさそうだ。だからといって他人も責めることもない。自分は悪くない、かといって他人も悪くない、具合の悪いことが起きたのは、自然あるいは神の意思によってそうなる運命だったのだ。すなわち誰も悪くない無責の人達なのだ(無責人(任)というわけではないが、時にはそう映る時もある)。だからフィリピン人の社会は表向きとても平穏だ。表向きというのは、悪い人間はどこにもいるし、嫉妬や愛憎は人一倍激しいから、いつも平穏とばかりは言っていられないのが現実だ。一方、他人を責めることが出来ないから、自分に不都合なことが起きたら自分で責任を取らなければならない、自己責任の国だ。そういう意味では自責の国かもしれない。  これはフィリピン人がほとんど皆クリスチャンであるためなのだろう。日本人は仏教徒というより、ほとんどが無神論者だが、道徳・倫理の背景は儒教の教えだ。この自責の念も儒教から来ているものと思う。元来、人は他責の人で、子供は自分勝手で泣きわめいて我を通そうとする。だから儒教が人の道として自責を説いたのだろう。一方、キリスト教は無責を説く。この宗教的ギャップは、日本人にとってフィリピン人の行動を理解しにくいものにしている要因だ。しかし、赤ちゃんは万国共通で、自責も他責も無責もない、純粋無垢でまさに神の子というべき存在だ。   (おもちゃにしていた柿の種の袋を取り上げられて、悲しそうな顔をするキアン。こんな顔をされたら、周囲の大人は抵抗する術を失い、何でも言うことを聞いてやるしかない。泣いたり笑ったり、感情を目一杯表現することが周囲の大人をとりこにする赤ちゃんの最大の武器だ。)

自責の人、他責の人、無責の人 2010年12月4日


最近は30代~40代の若い方や単身女性の退職ビザ取得者が目立つが、退職後、若い連れ添いを求めてフィリピンにやってくる熟年退職者も相変わらず少なくない。これらの方は何らかの事情でフィリピンとは縁が深く、フィリピーナの魅力にはまっている人たちだ。すでに連れ添いを見つけて退職ビザを申請する方や、これから見つけようと張り切っている方など様々だ。  この春、退職ビザを取得したWさんも、現役時代に築き上げた財でフィリピンで充実した楽しい老後を過そうと期待に胸を膨らませてフィリピンにやってきた。ビザ申請中に色々リサーチを終え、半年後、本格的にフィリピンに住み始めたときはすでに連れ添いの候補者がいた。ご本人は独身なので結婚も視野に入れて彼女との将来を設計し、家族とも親しくなって、早くも1ヵ月後にはめでたく射落とすことが出来た。  ビザの申請段階から、これからのフィリピン暮らしについて色々アドバイスしていた関係で、Wさんからは何かにつけてアドバイスを求められた。 (アンヘレスのクラブ・アトランティスは相変わらずの盛況だ。そろそろクリスマスの飾り付けが始まっている)  彼女の仕事と家族の関係でアラバンに小さなコンドミニアムを買って、そこに一緒に暮らすことにしたいう話を聞いた。その時点では彼女とは深い関係にいたっておらず、会ったののもまだ数えるほどとのことだった。 1.アドバイス その1  男と女の関係ほど危うくて当てにならないものは無い。仮にアラバンに住んだとして、彼女との仲が思惑通りに進まなかったら、あるいはまた、例えいい仲になったとしても、いつ壊れるかもしれない。そうしたら、アラバンに一人で暮らすつもりですか、夜遊びが好きなあなたに、そこの暮らしが耐えられますか。それが出来ないとすると、そのコンドミニアムを彼女にくれてやるか売りとばすしかないでしょう。そうなるとすべてを失うか、あるいは半値くらいで売れればオンの字ですよ。  この話を聞いて、われに帰ったのか、Wさんは、即座に気が変って、マカティスクエア近辺のコンドミニアムを物色して住むことにした。彼女も納得し、めでたくLive In(同棲)生活が始まった。   (アトランティスのショーはなかなか見ごたえがある。ショータイムは9時なので、それにあわせて行くことにしているが、その直前は風船飛ばしで盛り上がる)  しばらくして、Wさんから会いたいとの話があって事務所で面会した。曰く、彼女と喧嘩をしてしまい、部屋に帰ってこない。喧嘩の原因は新居のHouse Warming Party(引っ越し祝い)をやることになり、彼女は妹を呼びたいと言い出した。そこでWさんは、以前、妹に会った時の印象が悪かったので、妹は呼びたくない、I am disgusted […]

フィリピン流恋の手ほどき 2010年12月2日



退職者の方お二人を伴って、アンヘレス、スービックを旅した。バス、ジープニーそしてトライシクルを乗り継いで、安宿に泊まる金なし旅行だ。もちろん何の予約もアポもない行き当たりばったりの2泊3日の旅だが、無事に目的を果たして戻ってきた。アンヘレスはいつものパターンだったので割愛し、スービックで出会った新しい側面を紹介する。  スービックは海岸沿いに港、工業、商業などのインフラが整備され、山側に住宅が配置されている。そして30分ほど奥まったところに各種レジャー施設がある。ここだけで生活に必要なすべての施設があり、フリピンにいながらにして外国へ旅した気分を味わえる。この日は3連休の中日とあってどこも人で溢れていた、といってもマニラの混雑とは比較にもならないが。  スービックのちょっと奥まったところにKalayaan Heightsという地区があるが、かつて米軍の将校が住んでいた高級住宅街だ。下の写真のBinictican Heights(左)やForest Hills(右)とは格が違う住宅街で豪邸が立ち並ぶ。Binicticanには日本人の経営するTropical Paradiseがあって、日本人の要介護のお年寄りを受け入れることになってはいるが、実際は短期宿泊の方が中心だ。Forest Hillsは最近開発されたもと中間クラスの軍人が暮らした住宅街だが、現在ではほとんど韓国人の家族が暮らしているそうだ。両方ともゆうに数百軒の家が建ち並んでいる。  スービックの海沿いはまさに横浜や神戸の港だ。現在でも航空母艦がはいる桟橋もあるが、商業用の設備が新たに建設されている。病院も大きなものが2件開業ないし開業準備をしている。左の写真は最新鋭のコンテナヤード、右の写真は港の反対側に建設された韓国ハンジンの造船所だ。   おなじみのズービックはトラの放し飼いが売り物だが、入り口に当地の原住民であるアエタ族の人々を外に配置して特長を出している。こんな感じの人たちはマニラでもいることにはいるが、全員髪が縮れているのがアフリカやオーストラリアの原住民との共通性を感じさせる。きっと彼らにはフィリピーノ・タイムや報連相などとは無縁な生活をしていたのだろう。しかし、現代はきっとテレビや携帯を買ったり、電気代を払うために現金収入が必要なのだ。だからこんな客寄せの仕事をしている。 スービックのもう一つの目玉はオーシャン・アドベンチャーで、水族館やイルカショーをやっている。その隣にあるのが、スービックで一番にぎやかな海水浴場だ。最近そこにはホテルが建設され、外国人でにぎわっていた。一室100ドル近くして、必ずしも安くはなくて、我々金なし族には手が出ない。   今回初めて覗いてみたのがTree Top […]

金なしコネなしフィリピン旅行(その4スービック編) 2010年11月30日


フィリピーノは野菜をあまり食べないことはご存知だと思う。業界最大手のファースト・フード・チェーンのジョルビーではご飯とチキンのから揚げだけのメ ニューが一番人気だ。ハンバーガー専門のマクドナルドもそれにあやかってご飯とチキンのメニューを追加した。しかしここで話題にしようとしているのは野菜 のホウレン草ではなくて、報連相、すなわち報告、連絡、相談のことだ。1980年代の日本で「報連相で会社が強くなる」という本が話題になった。早速買っ て読んだがいたく共鳴したものだった。それ以来、報連相の重要性を常に痛感しているのだが、フィリピーノはその報連相に滅法弱いのだ。 フィリピーノを部下に持つと、「実に報告が無くて、こっちが聞くまで何も言ってこない」、「横の連絡が取れておらず、何もかも上のものが指示をしなければ ならない」、「わからないことがあっても聞き返さない、相談しない、ほったらかしておく」など、どうにもストレスが溜まる。そしてそれを責めると彼らは萎 縮してしまって、返って気まずくなり、最悪辞めてしまう。この辺のところを当地の心理学者にセミナーをやってもらい、教えを乞うた。答えは「長年、縦の指 示系統で動いてきたフィリピーノは横の連携が苦手。自ら上司に報告や提案することを求められず、上司が問いかけて初めて答える。できない、わからないと言 うことは自らの無能を申告することになるので、とても恥ずかしい。」のだそうだ。それでは自らが向上していくことはできないではないかと自問してもやまな い。  報連相を是とする日本のビジネス習慣とは隔たりが大きい。しかしフィリピーノを使う限り、こちらがそれにアジャストするしか方法は無い。しかし例外もある。1989年、マカティでクーデター騒ぎがあった時に採用したアカウンタントがそれだ。ただのおばさんに見えたが採用後、そのレスポンスの速さにくだをまいた。そのころはE-メールも普及していなかったので、色々な指示はメモを書いて渡していた。彼女にメモを書くと、5分以内に返事が戻ってきた。しかも 社内の色々なことについて実に良く報告、連絡あるいは相談があり、社内で起きていることが手に取るようにわかるようになった。専門外のミーティングに出席しても、ミーティングメモを作成させると、わかりやすい英語で完璧なメモをあっという間に出してきた。会計担当だった彼女は見る見るうちに出世して、4年 後にはアドミ部門(総務・人事・財務)のトップ、取締役本部長にまで上り詰め、給与は10倍以上に上昇した。  1994年ごろRCCという大型のジョブが舞い込んだ。日本の親会社がシンガポールで受注した大型石油設備のエンジニアリングを実施することになったのだ。社員に報連相を徹底するためにこんなスローガンを掲げた。「RCCプロジェクトをReporting、Communication and Consultationで成功させよう」。そして報連相の勉強会や講習会など各種イベントを開催した。効果のほどは定かでないが、会社の競争力を増すため報連相の徹底にエンドレスの努力が必要だったのだ。 […]

フィリピーノはほうれん草が大きらい 2010年11月27日



フィリピーノ・タイムとは時間通りに来ない、いつ来るのか、はたまた来ないのか、当てにならないことを言う。フィリピーノは一般に時間に遅れることを恥じない、遅れても詫びない、また人が遅れても責めたりしない、平気でいつまでも待つ。役所でもたくさんの人が文句も言わず自分の順番をひたすら待つ。遅いとか、割り込んだとか、文句を言っているのは外国人だけだ。エアコンの取り付けや家具の配送など、約束した日に来ただけでもラッキーで、配送を待つために一日中家に待機しなければならない。  女の子をデートに誘ってもまともに来ることはありえない。夕方5時ごろ携帯で、6時に食事をすることを約束したとしても、やってくるのは6時半から7時だ。何とか彼女を射とおそうとする当方は、待つのも甲斐性とひたすら待つしかない。歩いても10分くらいのところを「On the way」とメールを送りながら、それから30分くらいかかる。一体何なんだと、怒ってはいけない。それは、有利に恋愛ゲームを進めるための彼女なりの作戦なのだ。 (先日、日本から帰ってきた折に飛行機から撮影した夜のマニラ。この日は快晴で夜景が美しかった)  以前、約束の時間に遅れそうなのでマニラ市内を車で飛ばしたことがあった。約束の相手はフィリピーノだが、一旦約束した時間は万全を尽くして守るのが日本男児だ。そこで隣に座っていた相棒のジェーンが切れた。いわく「少しくらい遅れてもフィリピーノは気分を害しない。こんなに飛ばしたら事故を起すかも知れない。命と約束をどっちが大事なの。少々遅れたからと言って死ぬわけじゃないでしょ!」。たしかにその通り、約束の時間に遅れたとしても命をとられるわけではない。交通事故の方がよほど怖い。しかし、約束の時間に遅れると思っただけでパニックになってしまうのだ。  もう大分前の話になるが、福知山線の脱線事故で100人近い死者を出した。この話を相棒のジェーンにしたら、「日本人は、本当に馬鹿だ。たった数分の遅れが出ないようにとスピードを出し過ぎて、おまけに脱線して百人もの人を死なすなんて。数分の遅れが何なんだ。人の命を一体何だと思っているんだ」まさに仰るとおりで返す言葉がなかった。それ以来ジェーンは「日本人は、親切で、頭が良くて、お金持ち」というフィリピンにはびこる信仰の「頭が良くて」という部分に疑問を持ったようだ。 (プレートナンバーの末尾の番号により、特定の曜日に走ることを禁じた法律を路線バスにも適用するということになり、バス会社は採算性を著しく阻害すると猛反対をした。そして新規則実施の当日、渋滞の緩和には何の役にも立ってないと批判の声が上がっている)  それにしてもフィリピーノの時間のルーズさは許せない。そもそもタイム・マネージメントが出来ていない。スケジュール・コントロールなんて言葉は死語のようだ。マイペースで仕事をして、終わった時が完了予定で、いついつまでに終わらせるためにはどうすればよいのか、などとは考えていないようだ。フィリピンにやってきた日本人は、このことをフィリピン人が劣っているのだと感じる。しかし、日ごろ優秀なフィリピン人に舌を巻くことが多い当方は、何故そうなのかと考え込む。  フィリピンを含む東南アジアには四季がない。1年中暖かく、バナナやココナッツは季節に関係なく、いつでも取れ、田植えも水さえあればいつでもできる。その時のお天気次第で、いついつまでにやらなければいけないということはない。そして寒い冬が無いから、特に冬支度というのがいらない。寝るところがなければ外で寝ても凍え死ぬことはない。一方、温帯に住む人間は冬の食料を蓄え、薪を積んで長い冬に備える。田植えの時期も稲刈りもタイミングよくやらないと冬の備えが出来ない。それが出来ないとそこには死が待っているだけだ。だから我々温帯人は「時間に遅れる」と思っただけでパニックに陥ってしまうのだ。   フィリピーノには、いついつまでにこれをやらなければ明日は無いというような悲壮感とは無縁だ。そんな生活を数十万年やってきて、急に現代になって「タイム・イズ・マネー「ビジネスはスピード」「ジャスト・オンタイム」などとせかしてみても、さほど真剣に受け取れないのはやむを得ないことかも知れない。約束した時間に行かなければならないなんて彼らにとって無視しうる些細なことなのだろう。 (11月14日に行なわれたボクシング世界タイトルマッチでフィリピンの英雄パクヤオ選手は勝利し、前人未到の快挙、8階級制覇を成し遂げた)  そもそも人類はアフリカの熱帯で発生し、赤道に沿って世界に広がった。北の寒い地域に向うのは随分と後のことだ。だから人間の体は元来熱帯向けに出来ていて、寒いところではリウマチなどいろいろな持病が出てくる。特にお年寄りにとって寒暖の差は辛い。熱帯の気候はとても体に優しく、人々はストレスなく伸び伸びと生きていられる。それは肉体だけではなく、精神的にも言えることで、果物や作物が1年中取れ、寒暖差の少ない熱帯こそが人類の故郷なのだ。  退職してゆったりと生きていくならば、ここフィリピンで彼らの生きかたを学ぶべきだ。そうすれば、きっと幸せな老後をすごすことが出来るだろう。先日ジェーンが日本に行った折、横浜駅で朝のラッシュに遭遇し、サラリーマンが皆走っているのをいたく興味を持って眺めていたのが思い起こされる。「日本人、そんなに急いでどこへ行く」と。 (マカティメディカルセンターのクリスマスの飾り。イエスキリストが天使となって宙を舞っている。我が家のクリスマスの飾りはキアンが喜ぶようにサンタが宙を舞っている) 

フィリピーノは何故時間を守らない 2010年11月25日


英語を話す家庭で生まれた赤ちゃんは3歳位になると流暢に英語を話す。ゼロからスタートしたのに、ほとんどの日本人は中高6年間英語を勉強していても、 とてもかなわない。一方、タガログ語にいたっては2~3才の子供が数ヶ月で覚えるところを、当方は15年以上にフィリピンにいても足元にも及ばない。 (なんとも可愛らしい仕草でミルクを飲むキアンだが、その好奇心は厭きることを知らない) 年を取ればとるほど新しいこと、特に言葉は頭に入りにくいものなのだが、とにかく赤ちゃんそして子供は言語の天才で、すぐに言葉を覚えてしまう。だか ら、彼らに英会話の学び方を教わるのが一番手っ取り早いのではないだろうか。それでは赤ちゃんはどうやって言葉を覚えるのだろう。 生ま れたての赤ちゃんはもちろんどの言葉も知らない。だから最初に話す言葉はバブ・バブやママ・パパで世界共通だ。しかし、この1歳未満の時に赤ちゃんの頭脳 では喋るための準備が目覚しく行なわれているそうだ。赤ちゃんは周囲の言語を聞いて、その言葉を発音するための能力を培い、不必要な能力を削いでいく。例 えば、RとLの発音を日本人は区別できないが、赤ちゃんはそれが出来るのだが、日本語にはその区別が無いので、この時点でRとLを区別する能力を削除して いるのだそうだ。もし、両親が国際結婚のため家庭内で複数の言語が飛び交っているとしたら、両方の言語をネイティブで話す基礎がその時出来るそうだ。だか ら、子供が混乱しないように家庭内では一つの言語に統一しようなどという両親の努力は、子供の能力を削ぐ結果になるだけだ。 そして、1 歳から徐々に単語を発し始め、2~3歳では爆発的に語彙数を増やし、いくつかの単語を連ねた言葉を話し始める。我々が外国で生活するのに必要な会話能力と しては充分なレベルだ。喋ることは食べたり動いたりする人間の基本能力の一つ、だから、脳や器官に異常が無い限り、誰でも能力に関係なく喋ることが出来る ようになる。昔中学や高校で英語が出来た・出来ないなんて関係のないことだ。そもそもアメリカに生まれた赤ちゃんは誰でも英語を話すのだ。 […]

英会話の賢い学び方 2010年11月24日



ロングステイ・フェアとOさんの一周忌も無事に終えて、15日の月曜は3名の方と渋谷で11時、3時そして5時に面会し、さらに17日の水曜日は朝の8 時半に待ち合わせた。渋谷の待ち合わせといえばハチ公前が定番だ。月曜は夕方からは雨模様だったが、ハチ公の前はいつも待ち人で一杯だった。 このハチ公とは今から45年さかのぼった、昭和37年から40年まで毎日のようにお目にかかっていた。それは私が通った高校が青山にあったせいで、神宮 外苑、原宿、新宿そしてこの渋谷あたりが罠張りだったのだ。あれから半世紀近くが経過して、周りのビルや駅は様変わりをしたが、このハチ公だけは昔のまま だ。 ハチ公前に飾られた東横線の電車は当時、渋谷と横浜(桜木町)を結んでおり、朝夕のラッシュはギュウギュウ詰めで有名だった。翌々日、8時半に到着するために横浜からこの東横線に乗ったのだが、その混雑は今でも健在だった。 世田谷の自宅から渋谷へは、大井町線に等々力駅で乗り、自由が丘で東横線に乗り換える方法、後にオリンピック競技上で有名になった駒沢までバスで行き、路 面電車の玉電に載る方法、渋谷まで都バスないし東急バスに乗る方法があったが、好奇心の強い私は毎年通学方法を変えていた。ちなみに渋谷からは地下鉄銀座 線で外苑駅まで行ったが、できることなら、黄色の地下鉄銀座線の車両や緑の玉電の車両もかざってほしいと思う。 忠犬ハチ公の逸話は誰でも知っていると思うが、毎日渋谷で、死んだご主人を待ち続けたという話は、忠誠心の権化のようなものだ。しかし、忠誠心という言葉 でさえ今では死語となってしまった現在、ハチ公の話を思い出しながら、ここで人を待つ若者はいないだろう。

忠犬ハチ公は健在だった 2010年11月21日


横浜駅に寄った折、ペッパー・ランチで食事をとった。日本では有名なファースト・フードらしいが、私には始めての経験だ。ステーキやハンバーグが 1000円以下で食べられる。味もなかなか本格的であるが、食券を買って席につくと数分で料理が出てくるのに驚いた。熱せられた鉄板に乗せられた牛肉をか き混ぜて程よく焼いて食する。なかなかユニークだ。 店は満員でなかなか盛況だ。店のアレンジは牛丼の吉野家と同じで、店員はほとんど移動することなく、料理を運んできてくれる。必ずしもセルフ・サービスではなくて、レストランのカウンターで食事をする雰囲気だ。       フィリピンにも吉野家はあるが、形式はマクロナルド式のカウンターに並んで料理を受け取り、テーブルに運んで食べるセルフサービス方式だ。味も今一で、日本の吉野家とはちょっと違う。  ちなみに、フィリピンではマクロナルド、ジョルビー、KFCがファースト・フードの御三家といえるが、最近は東京東京、テリヤキ・ボーイ、キタロー、来来 軒などの和食のファースト・フードが目立ち始めた。これらはフィリピーノ対象の和食ファースト・フードで少々安めの和食レストランに過ぎず、我々日本人に はちょっといただけない。  値段的には100ペソ~200ペソ(200円~400円)程度、日本との物価差を考えると必ずしも安くない。ペッパーランチは600円~1000円 (300ペソ~500ペソ)程度だから2~3倍だ。一般の物価が5倍、人件費が10倍だから、客さえ来ればかなり儲かる勘定になる。ちなみにマカティ・ス クエア近辺の本格的和食レストランでも200ペソ~400ペソで食べられるが、それと大差のない値でこれだけの料理を出すペッパー・ランチの頑張りは評価できる。 マックなどハンバーガー系のファースト・フードを除くと中華料理のチョーキンが目立つ。しかし、ここの食事はどうしようもなく、絶対に避けたいファースト・フードだ。なにしろまずい。フィリピンの中華料理、おなじみのルートン・マカオやタン・シティは安くておいしいし、価格的にもチョーキンと大差ない が、それでも、チョーキンはいたるところに出店しているファース・トフードの雄だ。中華料理をフィリピーノ風にアレンジしているところが受けているのかも しれない。すなわち野菜がほとんどついていないのだ。 […]

ペッパーランチに感激 2010年11月21日



3番目の不肖息子、介哉(カイヤ)から、「出来ちゃった婚」と聞いて、「今時の若い者が、でかした」と褒めたのが、3年前。そして今、孫娘の結月(ユズキ)は、もう2歳になって、家の中を走り回っていた。      まだ、数度しか会っていないので、私の顔を見ると逃げ出して母親にしがみつく有様だが、なかなか活発な女の子に育っている。その結月が母親のおなかを指して「赤ちゃんがいる」と言ったというのである。それで尿の検査をしてみたら、確かに妊娠していたそうだ。子供にはそれがわかるのだろうか。これまた「今時の若い夫婦が、でかした」と褒めてやりたい。収入が不安定で、結婚ができない、子供も作れない、という若者が多い中で、立て続けに二人目を作るとは、なかなかの気概だ。  さらに、今回、新築の家を訪問した。前回の日本訪問で購入するという話は聞いていたのだが、一戸建て、建坪140m2、4LDKの豪邸だ。それが3500 万円で、35年払い、月々10万円、ボーナス払い無し、という好条件だ。家が随分安くなったものだ。しかも低金利で支払い条件が大変良い。なかなかできる決断ではないが、これまた、チャンスを活かして「でかした」と褒めてやりたい。   中を見せてもらうと、全自動の洗面所や風呂場、玄関の施錠など、我々の世代には想像できない設備だ。居間の吹き抜けや台所の調理台兼カウンターもしゃれている。格安で手に入れた一畳ほどもある大型テレビも映える。この日は介哉の妻(智美さん)の両親も尋ねてこられて、久しぶりの再開を楽しんだ。 ここまでは介哉としては家族孝行だが、それだけではどうにも自分の男としての欲求がおさまらない。そこで妻と喧嘩までして買ったのが、ジャガーだ。これはやりすぎでは無いかと思ったが、「12年落ちの150万円を月賦で買った」と聞いて、その程度の遊び心を持たないと、仕事に精も出まいと納得。しかし、さすがにビンテージ・カーだ。12年たっているのに、内装も外装も古さを感じさせない。これから10年、20年と乗れば乗るほど価値が出てくるのではないか。しかし、日本は車が実に安い。フィリピンだったら4~5倍はするだろう。  

不肖息子・介哉の甲斐性 2010年11月21日


昨年11月に亡くなったOさんの一周忌が、丁度、私が「ロングスティ&移住フェア2010」のために日本に出張している時に執り行われた。あれから1年、早いもので、しかしながらその間、相続手続きは遅々として進まず、今だ、相続が実行されていない。現在までに種々の書類はほぼ準備が出来て、いよいよ相続の支払いが可能となる日が近いのだが、その間、経験した問題点をまとめてみた。  結論的に言うと、銀行としても、フィリピン在住の外国人が遺産を残し、相続者が外国に在住する兄弟あるいはその子供という状況を経験したことがなく、相続手続きに必要な要件をタイミングよく示すことができなかったこと、外国で作成される書類ということで、すべてがフィリピン大使館の認証が必要であることなどのため、このような長期に渡ってしまっているといえる。  フィリピンの銀行に残された遺産を相続する手続きは大まかに言って下記となる。基本的には日本と大差がないが、遺産を残した個人が外国人で、相続人が外国に居住する外国人であるということが、書類の準備を大変難しいものにしている。 1. 遺産分割協議書(Extrajudicial Settlement)と銀行免責保証書(Quit Claim)を法定相続人全員で署名し、公証する 2. 上記に署名したものが法定相続人であるとともに他に相続人がいないことの証明書(出生証明、婚姻証明、死亡証明等)の準備 3.上記協議書を新聞に掲載・公告する(毎週3回) 4. 銀行残高証明に基づき税務署へ相続税を支払う 5. 2年間の相続凍結を免除するための保証会社にボンドを積む 6. 上記書類を銀行等に提出して遺産を引き出す 1.遺産分割協議書と銀行免責保証書の作成  遺産分割協議書(Extrjudicial Settlement)とは相続者全員による遺産分割の合意書で、英文で作成し、公証役場で公証し、法務局、外務省認証班の認証を経て、フィリピン大使館で認証する。ちなみに東京、神奈川の場合は公証役場が法務局と外務省認証班の役割を兼ねていて、公証役場で公証したものを直接フィリピン大使館に持っていくことが出来る。これらは新聞社、税務署、保証会社、銀行に、認証された原紙を提出する必要があるので、それだけの部数を用意しなければならない。さらにフィリピン大使館で認証(Authetication)するためには、公証された協議書の写しと相続人の身分証明書(運転免許証など、写真付のもの)を翻訳して添付する必要がある。  銀行からの引き出しについては基本的に相続人全員(今回は6名)が銀行に出向かなければならず、現実的に不可能に近いので、遺産分割協議書の中で便宜的に相続人の代表者一名が全遺産を受け取るものとした。したがって、実際の分割については別途、相続合意書を日本語で用意して、同時に相続人全員で署名捺印(実印)したものを用意した。 […]

退職者が死んでしまったら(その2)2010年11月20日