Monthly Archives: June 2011


6月24日、台風5号(ファルコン)が通過したにも関わらず、マニラは一日中雨模様だった。メイドに聞いてみると、軽く、「雨季だから」といういなされた。先日までの暑さとは打って変わって、涼しい毎日が続いている。  この日、夕食後、9時からNHK BSで面白い番組をやっているから、見に来ないかと誘いがあった。場所はパサイ・ロードのカラオケ、ラジューラ。かなりの雨なので、車で行くことにした。    案の上、経路のパソンタモは道路冠水していて、タクシーでは難儀するところだった。マニラはなんと言ってもSUVなど背の高い車が必須だ。10~20cm程度の冠水などもろともしないで進むことができる。 NHKの番組は雨でアンテナの調子が悪いのか一向に写らないが、店はいつになく、盛り上がって、ステージでほとんどの客が踊り始める始末だ。昨年は閑古鳥が鳴いて、カラオケのサバイバルの季節だったが、ここのところ客足が戻ってきていたが、この日は大盛況ともいえた。10時過ぎまで頑張ったが、遅くなると帰れない恐れもあるので、早々に引き上げることにした。これから半年間、この道路冠水に悩まされることになるが、この三菱モンテーロさえあれば怖くない。かえって涼しくてすごしやすいくらいだ。

フィリピンに本格的な雨季到来 2011年6月27日


6月22日、1週間ぶりにぶらっとミス・ユニバーサル(MU)を覗きに行った。先週、たまには別の店ということで、退職者の案内でエイシア・エンターテ イメントとかいうロハス・ボリバード沿い、バクララン・チャーチの近くの店に行った。我々二人、女の子を一人ずつ指名して、1時間ほどいただけで4600 ペソも取られてびっくりした。その後、口直しにMUを覗いたが、同じ条件で1350ペソと3分の一にも満たない料金で、再びMUを見直したばっかりだっ た。 ところでこの日、間違いなくハリソン・ロードを走っているはずなのに、いつまでたっても、あの赤いMUの看板が見えてこず、一瞬パニックに陥った。多少 酔っていたせいもあるが、良く知っているところを走っているはずなのに、あるべきものがなくて、自分がどこにいるのか分からなくなってしまったのだ。   目をこらして探し、それがあるべき場所についてみると、1月1日の新年以外は一年中消えることがなかったおなじみのネオンが寂しげに消えていたのだ。さら に近くに寄ってみると、「未成年者(18歳未満)雇用の違反により、永久に閉鎖を命じる」という看板が正面玄関に掲げられていた。退職してフィリピンに 渡って以来、10年近く私を慰め続けてくれたこの店のなきがらに、期せずして対面することになってしまったのだ。 これは一大事と、先日知り合ったばっかりのこの店の女の子に電話をして聞いてみた。彼女によると、昨日、すなわち6月21日がMUの命日だそうだ。彼女 いわく「明日から別の店で働くから遊びに来てね」とMUの閉鎖など全く意に介さない様子で、相変わらずたくましかった。    2ヶ月ほど前に、私のなじみのマネージャーがMUからいなくなっていた。その後、この子をテーブルにリクエストして色々聞いてみると、「未成年者の雇用 ということで手入れがあり、何人かの子が姿を消し、ほとんどのフロアーマネージャーが逮捕されてしまった」のだそうだ。そのうちの何人かの子の名前を聞い […]

また一つマニラ名物の灯が消えた(その5)2011年6月23日



5月5日より退職ビザのルールが変更されたことはすでに報告したが、それに伴い、退職ビザ取得に必要なドル定期預金の預け入れ銀行が DBP(Development Bnak of the Philippines)に一本化された。6月8日にPRAとDBPの合意書が締結され、今後、新規申請者はDBPに必要なドルを預け入れなければならない(ただし既存のビザ保有者は従来の認定銀行にそのまま預け続けることができる)。しかしながら、今までのように各人がDBPに口座を開設する必要はなくて、DBPに開かれたPRAの口座に預け入れることになる。いわば、PRAに預けるという形になる。 送金方法としては左の用紙に必要事項を記入して、最寄の銀行に持っていって送金すればよい(左の写真をクリックして拡大して見てください、様式はPRAホームページよりダウンロード可能)。 1. 日本からの送金 送金は下記の二つの方法があり、どちらか便利な方法によればよい。 ①日本の銀行から直接、DBPに振り込む。  この場合、ビザ申請の際、PRAには日本からの振り込み用紙を提出するだけで、従来のように定期預金証書の写しを提出する必要はない。DBPがチャージする受け取り手数料(最大で20ドル)を余分に送金する必要がある。この手数料で必要な金額に満たない場合は申請時にPRAに支払えばよいとのこと。余分には送金した分の引き出しには、PRA にその旨、文書で申し入れて、引き出し許可証を発行してもらわなければならないので、かなり面倒だ(2週間程度かかる)。入金確認は渡比してから海外送金依頼書などの送金の証拠書類をPRAに提出して確認してもらう。なお、日本から入金を確認するには、誰かマーケッター等に送金書類を送付して確認してもらわなければならない。 ②日本の銀行からフィリピンの銀行へ送金して、そこからDBPに振り込む  この場合はPRAにフィリピンの銀行が発行する振込用紙と日本から送金する時に使った海外送金依頼書の両方を提出する必要がある。とりあえず従来のPRA 認定銀行に振り込んで、渡比後、DBPに必要なドルを移動することにより、従来どおり、生活費や申請料を余分に送金して、そのまま普通ドル預金口座として使用することができる。 […]

退職ビザ取得のための外貨送金とジョイント・アカウントについて 2011年6月18日


今回、2件ほど重要な用事があって、日本に出張した。1週間滞在したが、用事があって出かけたのが3日間だけだった。初日は渋谷、相変わらずハチ公前での待ち合わせだが、若い外国人の団体観光客などでとてもにぎわっていた。東京でも被爆するかもしれない、なんて風評は彼らにとってはどこ吹く風のようだ。震災から3ヶ月、そこにはいつもの日常があった。 インターネット・カフェを探して渋谷の街を歩いてみたが、そこには震災の影響など全く感じさせず、私にとっては、相変わらずの異国の街並みが広がっていた。東急デパートの地下にはこれでもか、これでもかと、美味しそうな食材を豊富に並べているが、被災地への食料の供給はもはや十分なのだろうか。    もうすぐ3歳になる孫娘の結月には赤いバッグをお土産に買ってきてやった。それが大変気に入ったようで、「ジッジは怖くない」と自分に言い聞かせていたそうだ。ちなみに結月とはまだ4~5回しかあったことがなくて、物心ついてからは近づくと逃げてしまう有様だ。KIANと同様、異性が苦手だそうで、はじめは写真を撮ろうとすると顔をそむけてしまった。しかし、赤いカバンが功を奏したのか、2回目会ったときは写真を撮らせてくれた。彼女の体重は今13kgで標準より重いそうだが、KIANは1歳と2ヶ月で同じ13kgと、超健康優良児のようだ(いま時、重いだけで健康とはいいがたいが)。ちなみにもうすぐ結月の妹が誕生して、この子もお姉さんとなるのだが、今のように母親べったりで大丈夫だろうか。  次の外出は品川駅で待ち合わせて、高田馬場の早稲田大学で打ち合わせを持った。駅中といえば、最近注目を集めているショッピングの穴場だ。品川駅の駅中はまるでデパートの食品売り場とレストラン街のように充実している。フィリピンのLRTの駅とは大きな相違だ。また、エスカレーターに左側一列に並んで乗っている様子も田舎者の私にはものめずらしい。  早稲田大学は私の父や兄も通った大学で、私自身も付属高校を受験したりて(結局通学が大変で入学しなかったが)縁のある学校だ。それにも関わらずここは初めて踏み入れる場所だ。高田馬場周辺は学生であふれかえっていた。ここだけは若者がたくさん歩いていて、日本にもまだまだ若者はいるのだと心強く感じた。 日本滞在1週間を経過して、いよいよフィリピンへ帰国する日となった。成田第1ターミナルのトイレで見かけた赤ちゃんの椅子に感激。男子トイレだから子連れのお父さんが利用するのだろうが、なかなかしゃれていて、つい写真に収めてしまった。  夕方、成田空港を飛び立ったANA機の眼下には雲海が広がっていたが、この空も放射能で汚染されているのだろうか。次回は、11月12日のロングステイ財団が主催するロングステイフェアに参加する予定だが、放射能汚染で成田空港が閉鎖なんて事態になっていなければ良いのだが。このブログとは関係ないが、フィリピンへのペソの持ち込みは従来の5千ペソから1万ペソとなっていた。ちなみにドルは1万ドルと従来と変わりない。  

半年振り日本訪問 2011年6月15日



 本名Kimbery May Yang、ジェーンの旦那の娘が今回の主役だ。私の著書「金無し、コネ無し、フィリピン暮らし」の最終ページを飾ったことで、一躍有名になった(?)彼女 に私が始めて出会ったのが2006年6月、まだ10歳(小学5年生)になったばっかりの子供だった。父親のカーネル・ヤンは長いことシングル・ファーザー で、KIMは母方の実家に預けられている。実家はバギオの東方ヌエバ・ビスカヤにあるが、年末休みと夏休み(3月~5月)には片道7時間かけてとんぼ返り で迎えに行くのが父親の役目だ。  2007年11月、All Saint Days(万聖節)の休みでタバコへ行った時、11歳(小学6年生)になっていたKIMはとても可愛くなって女っぽさが出ていた。  右端の背の高い若い男は私の息子のKCで、このころ年に3~4回、フィリピンに遊びに来ていた。  2007年のクリスマスはカーネルのお母さんもタバコの農場に招待して、盛大にパーティを催した。ちなみにカーネルの実家はレガスピでタバコから車で30分くらいの近場にある。  2008年5月の夏休み、12歳のKIMは、休みが明けるといよいよハイスクール1年生になる。ハイスクールからはマニラで父親と一緒にクラスはずだったが、願書の提出が遅れ、さらに4年間田舎に住むことになってしまった。 12歳になったKIMは身長も母親代わりのジェーンとほとんど同じになっている。父親は背の高い家系なので、どこまで背が伸びるのか楽しみだ。 そしてこれが問題の写真だ。パソンタモ沿いのオリエンタル・ガーデンというコンドミニアムのプールサイドで取ったものだ。フィリピンの人はこんな子供でも、カメラを構えるとポーズをとることを忘れない。  このときはたっぷりマニラに滞在したので、マニラホテル、シーサイド・マーケット・レストラン、知り合いのバプティスマル(洗礼式)など出かける機会が多かった。 […]

KIMの成長記録 2011年6月13日


2011年2月28日からANAがマニラー成田間に就航したと聞いて、一度乗って見たいと思っていた。この便(NH950)は朝、9時45分にマニラをたって、午後3時に成田に到着する。ANAは外国航空会社としてはじめてターミナル3を使うのだが、ここはマカティから15分程度ときわめて近いから、9 時45分発という時間は全く苦にならない。マカティを7時半に出ても十分間に合うだろう。ちなみに日本航空のJAL746は9時10分発だが、ターミナル 1を使っており、かなり交通が混雑するので朝の6時ごろには出ないとまずい。一方、デルタ航空のDL172は7時40分発で、5時前に出なければならない。  さらに成田に午後3時に到着するのはありがたい。この時間ならよほど遠くない限り、その日のうちに家にたどり着ける(ちなみに私の家は横浜だが、以前、横須賀に住んでいるころは午後の便に乗ると家にたどり着けないことがままあった)。マニラを午後に出発する便(JL742、 PR432)は、夜の8時ごろに成田に着くのだが、遅れて9時ごろになったりすると、成田に一泊なんてはめになりかねない。  (この日はKIANが空港まで送ってくれたが、私だけを空港に残して家路についたので、再度空港に戻るのだと空港の方角を指差して泣きわめいたそうだ)  一方、成田からマニラに向かうNH949は午後の5時25分に出発する。昼飯を早めに食べて出かければ間に合う時間だ。ちなみに朝の便(JL742と PR431 )は9時半に出るので、最寄の電車の始発に乗っても間に合わない。さらにNH949はマニラに夜の9時5分に到着するので、深夜便というほどでもなくて、 10時前にはマカティに着ける。以上長々と述べたが、要は、私にとってターミナル3を使うことと、理想的な時刻設定をしているのがANAなのだ。 現在、ターミナル3はセブパシフィックが主に国内線用に使っており、国際線用の左半分はほとんど使われていない。完成して5年以上経過しているというのに、この有様だ。構造上欠陥があるとか報道されているが、現にセブパシフィックやANAが使っているのに、なぜほとんどの国際線が老朽化したターミナル1 を使っているのか解せない。何しろターミナル1は、私にいわせれば世界で一番、出迎えが難しい空港だから、早く何とかしてほしいのだ。しかもターミナル3 からはマカティやボニファシオなどの国際都市まで、スカイウエイを経由して10分~20分でいけるから、フィリピンの第一印象も格段に向上するだろう。ターミナル3の前に広がるリゾート・ワールドなどの超近代的施設も国際便が飛ばなければ宝の持ち腐れだ  つい最近まで、建物は立派でも国際空港と言うにはレストランやお店が、いかにも貧弱で地方の国内線空港並だった。しかし、この日はコンビニやレストランも充実して、十分に機能を果たしていた。私にとってはブランドのバッグや宝飾品、高価な酒やタバコは縁がないから、これで十分だ。ちなみにセブン・イレブンでお土産用にフィリピン産のタバコ(マーボロー・ライト・メントールの10本入り)を買ったが街で買うのとほとんど同じ値段だった(10本入りで40円、 20本入りで80円程度だが、私が吸ってみても日本産もアメリカ産もフィリピン産も区別がつかない)。空港では通常ローカルのタバコは倍、輸入タバコは無税でもそのまた倍はするから、大変ありがたい。空港で買い物をするのなら、コンビニに限るといえそうだ。 […]

ANAに初搭乗 2011年6月12日