Yearly Archives: 2011


5月5日より退職ビザのルールが変更されたことはすでに報告したが、それに伴い、退職ビザ取得に必要なドル定期預金の預け入れ銀行が DBP(Development Bnak of the Philippines)に一本化された。6月8日にPRAとDBPの合意書が締結され、今後、新規申請者はDBPに必要なドルを預け入れなければならない(ただし既存のビザ保有者は従来の認定銀行にそのまま預け続けることができる)。しかしながら、今までのように各人がDBPに口座を開設する必要はなくて、DBPに開かれたPRAの口座に預け入れることになる。いわば、PRAに預けるという形になる。 送金方法としては左の用紙に必要事項を記入して、最寄の銀行に持っていって送金すればよい(左の写真をクリックして拡大して見てください、様式はPRAホームページよりダウンロード可能)。 1. 日本からの送金 送金は下記の二つの方法があり、どちらか便利な方法によればよい。 ①日本の銀行から直接、DBPに振り込む。  この場合、ビザ申請の際、PRAには日本からの振り込み用紙を提出するだけで、従来のように定期預金証書の写しを提出する必要はない。DBPがチャージする受け取り手数料(最大で20ドル)を余分に送金する必要がある。この手数料で必要な金額に満たない場合は申請時にPRAに支払えばよいとのこと。余分には送金した分の引き出しには、PRA にその旨、文書で申し入れて、引き出し許可証を発行してもらわなければならないので、かなり面倒だ(2週間程度かかる)。入金確認は渡比してから海外送金依頼書などの送金の証拠書類をPRAに提出して確認してもらう。なお、日本から入金を確認するには、誰かマーケッター等に送金書類を送付して確認してもらわなければならない。 ②日本の銀行からフィリピンの銀行へ送金して、そこからDBPに振り込む  この場合はPRAにフィリピンの銀行が発行する振込用紙と日本から送金する時に使った海外送金依頼書の両方を提出する必要がある。とりあえず従来のPRA 認定銀行に振り込んで、渡比後、DBPに必要なドルを移動することにより、従来どおり、生活費や申請料を余分に送金して、そのまま普通ドル預金口座として使用することができる。 […]

退職ビザ取得のための外貨送金とジョイント・アカウントについて 2011年6月18日


今回、2件ほど重要な用事があって、日本に出張した。1週間滞在したが、用事があって出かけたのが3日間だけだった。初日は渋谷、相変わらずハチ公前での待ち合わせだが、若い外国人の団体観光客などでとてもにぎわっていた。東京でも被爆するかもしれない、なんて風評は彼らにとってはどこ吹く風のようだ。震災から3ヶ月、そこにはいつもの日常があった。 インターネット・カフェを探して渋谷の街を歩いてみたが、そこには震災の影響など全く感じさせず、私にとっては、相変わらずの異国の街並みが広がっていた。東急デパートの地下にはこれでもか、これでもかと、美味しそうな食材を豊富に並べているが、被災地への食料の供給はもはや十分なのだろうか。    もうすぐ3歳になる孫娘の結月には赤いバッグをお土産に買ってきてやった。それが大変気に入ったようで、「ジッジは怖くない」と自分に言い聞かせていたそうだ。ちなみに結月とはまだ4~5回しかあったことがなくて、物心ついてからは近づくと逃げてしまう有様だ。KIANと同様、異性が苦手だそうで、はじめは写真を撮ろうとすると顔をそむけてしまった。しかし、赤いカバンが功を奏したのか、2回目会ったときは写真を撮らせてくれた。彼女の体重は今13kgで標準より重いそうだが、KIANは1歳と2ヶ月で同じ13kgと、超健康優良児のようだ(いま時、重いだけで健康とはいいがたいが)。ちなみにもうすぐ結月の妹が誕生して、この子もお姉さんとなるのだが、今のように母親べったりで大丈夫だろうか。  次の外出は品川駅で待ち合わせて、高田馬場の早稲田大学で打ち合わせを持った。駅中といえば、最近注目を集めているショッピングの穴場だ。品川駅の駅中はまるでデパートの食品売り場とレストラン街のように充実している。フィリピンのLRTの駅とは大きな相違だ。また、エスカレーターに左側一列に並んで乗っている様子も田舎者の私にはものめずらしい。  早稲田大学は私の父や兄も通った大学で、私自身も付属高校を受験したりて(結局通学が大変で入学しなかったが)縁のある学校だ。それにも関わらずここは初めて踏み入れる場所だ。高田馬場周辺は学生であふれかえっていた。ここだけは若者がたくさん歩いていて、日本にもまだまだ若者はいるのだと心強く感じた。 日本滞在1週間を経過して、いよいよフィリピンへ帰国する日となった。成田第1ターミナルのトイレで見かけた赤ちゃんの椅子に感激。男子トイレだから子連れのお父さんが利用するのだろうが、なかなかしゃれていて、つい写真に収めてしまった。  夕方、成田空港を飛び立ったANA機の眼下には雲海が広がっていたが、この空も放射能で汚染されているのだろうか。次回は、11月12日のロングステイ財団が主催するロングステイフェアに参加する予定だが、放射能汚染で成田空港が閉鎖なんて事態になっていなければ良いのだが。このブログとは関係ないが、フィリピンへのペソの持ち込みは従来の5千ペソから1万ペソとなっていた。ちなみにドルは1万ドルと従来と変わりない。  

半年振り日本訪問 2011年6月15日



 本名Kimbery May Yang、ジェーンの旦那の娘が今回の主役だ。私の著書「金無し、コネ無し、フィリピン暮らし」の最終ページを飾ったことで、一躍有名になった(?)彼女 に私が始めて出会ったのが2006年6月、まだ10歳(小学5年生)になったばっかりの子供だった。父親のカーネル・ヤンは長いことシングル・ファーザー で、KIMは母方の実家に預けられている。実家はバギオの東方ヌエバ・ビスカヤにあるが、年末休みと夏休み(3月~5月)には片道7時間かけてとんぼ返り で迎えに行くのが父親の役目だ。  2007年11月、All Saint Days(万聖節)の休みでタバコへ行った時、11歳(小学6年生)になっていたKIMはとても可愛くなって女っぽさが出ていた。  右端の背の高い若い男は私の息子のKCで、このころ年に3~4回、フィリピンに遊びに来ていた。  2007年のクリスマスはカーネルのお母さんもタバコの農場に招待して、盛大にパーティを催した。ちなみにカーネルの実家はレガスピでタバコから車で30分くらいの近場にある。  2008年5月の夏休み、12歳のKIMは、休みが明けるといよいよハイスクール1年生になる。ハイスクールからはマニラで父親と一緒にクラスはずだったが、願書の提出が遅れ、さらに4年間田舎に住むことになってしまった。 12歳になったKIMは身長も母親代わりのジェーンとほとんど同じになっている。父親は背の高い家系なので、どこまで背が伸びるのか楽しみだ。 そしてこれが問題の写真だ。パソンタモ沿いのオリエンタル・ガーデンというコンドミニアムのプールサイドで取ったものだ。フィリピンの人はこんな子供でも、カメラを構えるとポーズをとることを忘れない。  このときはたっぷりマニラに滞在したので、マニラホテル、シーサイド・マーケット・レストラン、知り合いのバプティスマル(洗礼式)など出かける機会が多かった。 […]

KIMの成長記録 2011年6月13日


2011年2月28日からANAがマニラー成田間に就航したと聞いて、一度乗って見たいと思っていた。この便(NH950)は朝、9時45分にマニラをたって、午後3時に成田に到着する。ANAは外国航空会社としてはじめてターミナル3を使うのだが、ここはマカティから15分程度ときわめて近いから、9 時45分発という時間は全く苦にならない。マカティを7時半に出ても十分間に合うだろう。ちなみに日本航空のJAL746は9時10分発だが、ターミナル 1を使っており、かなり交通が混雑するので朝の6時ごろには出ないとまずい。一方、デルタ航空のDL172は7時40分発で、5時前に出なければならない。  さらに成田に午後3時に到着するのはありがたい。この時間ならよほど遠くない限り、その日のうちに家にたどり着ける(ちなみに私の家は横浜だが、以前、横須賀に住んでいるころは午後の便に乗ると家にたどり着けないことがままあった)。マニラを午後に出発する便(JL742、 PR432)は、夜の8時ごろに成田に着くのだが、遅れて9時ごろになったりすると、成田に一泊なんてはめになりかねない。  (この日はKIANが空港まで送ってくれたが、私だけを空港に残して家路についたので、再度空港に戻るのだと空港の方角を指差して泣きわめいたそうだ)  一方、成田からマニラに向かうNH949は午後の5時25分に出発する。昼飯を早めに食べて出かければ間に合う時間だ。ちなみに朝の便(JL742と PR431 )は9時半に出るので、最寄の電車の始発に乗っても間に合わない。さらにNH949はマニラに夜の9時5分に到着するので、深夜便というほどでもなくて、 10時前にはマカティに着ける。以上長々と述べたが、要は、私にとってターミナル3を使うことと、理想的な時刻設定をしているのがANAなのだ。 現在、ターミナル3はセブパシフィックが主に国内線用に使っており、国際線用の左半分はほとんど使われていない。完成して5年以上経過しているというのに、この有様だ。構造上欠陥があるとか報道されているが、現にセブパシフィックやANAが使っているのに、なぜほとんどの国際線が老朽化したターミナル1 を使っているのか解せない。何しろターミナル1は、私にいわせれば世界で一番、出迎えが難しい空港だから、早く何とかしてほしいのだ。しかもターミナル3 からはマカティやボニファシオなどの国際都市まで、スカイウエイを経由して10分~20分でいけるから、フィリピンの第一印象も格段に向上するだろう。ターミナル3の前に広がるリゾート・ワールドなどの超近代的施設も国際便が飛ばなければ宝の持ち腐れだ  つい最近まで、建物は立派でも国際空港と言うにはレストランやお店が、いかにも貧弱で地方の国内線空港並だった。しかし、この日はコンビニやレストランも充実して、十分に機能を果たしていた。私にとってはブランドのバッグや宝飾品、高価な酒やタバコは縁がないから、これで十分だ。ちなみにセブン・イレブンでお土産用にフィリピン産のタバコ(マーボロー・ライト・メントールの10本入り)を買ったが街で買うのとほとんど同じ値段だった(10本入りで40円、 20本入りで80円程度だが、私が吸ってみても日本産もアメリカ産もフィリピン産も区別がつかない)。空港では通常ローカルのタバコは倍、輸入タバコは無税でもそのまた倍はするから、大変ありがたい。空港で買い物をするのなら、コンビニに限るといえそうだ。 […]

ANAに初搭乗 2011年6月12日



先日、訪問中の子供達を招待して天々火鍋で食事を取った。その後、私は客とカラオケに出かけたのだが、皆が帰るとき事件は起こった。コンドミニアムの近くまでやってきて、運転をしていたボボイが、強引に角を曲がって、向こうから来た車とすれ違えなくなってしまった。姉のジェーンは狭い道を向こうから車がやってくるのに、なぜ突っ込んでいったのかと、ボボイを責めた。そこで謝ってしまえばいいのに、ボボイはいつものように、なんかかやと言い訳を言った。そこでジェーンが切れてしまい、ボボイにぼこぼこにパンチをくれてやったのだ。 (KIANは何かほしいものがあると、それを指差して手に入るまでねだる。私を見ると指差すが、これは抱っこのおねだりだ)  後から、ジェーンはそのときの様子をパクヤオ選手のようにパンチを浴びせたと、笑って話して聞かせてくれた。メイドのレンは、それを見ていて恐ろしがって泣いていたそうだ。今まで現場は見たことはないが、ジェーンがボボイに張りピンタを30分くらい浴びせ続けたとか、そんな話を何度か聞いたことがある。相手はボボイに限らず、他の甥や姪にたいしても、たまにあるそうだ。普段はあんなに兄弟、甥や姪を思いやっているのに、なぜ時たま鬼のように怒るのか理解に苦しむ。悪さをしても言い訳をして謝らないと頭に血が上って、怒りをコントロールできなくなるらしい。 (KIANは私の部屋で遊ぶのが大好きだ。普段は親の部屋にいるから、ここには色々と目新しいものがあって、KIANには宝物のように思えるのだろう。私の孫の手を振り回して部屋中を歩き回っている。)    先日NHKで「虐待の連鎖」という番組をやっていた。芥川賞を受賞した有名なシングル・マザーの作家が、息子を虐待してしまうためにカウンセリングを受けていた。彼女は息子が意にかなわないことをすると、怒りをコントロールできなくなり、8時間も殴り続けるという。しかも、それが子供への虐待ということを認識できないでいるそうだ。カウンセラーは彼女から、小さいころ両親に虐待を受けていたことを聞き出した。本人は虐待と思うわず、自分が悪いことをしたからと殴られるのあって、良い子でいようと気をつけたという。そしてまた、その両親も親から虐待を受けていたことが明らかにされていく。親から子へ、そして子からそのまた子へと虐待が引き継がれていくのだという。 (家の中を自由に歩き回ることができるようになったKIANは台所のキャビネットからお気に入りの容器を探し出して、意気揚々と部屋に引き上げていく)   一方、ジェーンはどうなのか。以前良く話していたのは、母親に箒や棒で尻を散々殴られたことだ。もちろん何か悪さをしたためだが、彼女は泣かないで必死に歯を食いしばって耐えたと、笑いながら話していた。現在。彼女の母親思いには頭が下がるようで、決して母親を恨むようなことはない(ちなみにジェーンの母親は旦那と死に別れてからは、女手一つで4人の子供を育てた苦労人だ)。しかしながら、ジェーンは、この虐待ともいえる行為をしっかり受け継いでいるようだ。しかし件の子供達はジェーンの怒りを虐待と受け止めず、少しもうらむこともなく、心から慕っている。どこから虐待で、どこからがしつけなのかの判断は難しいところだろうが、親はえてして自分の感情をコントロールできずに、子供に暴力を振るうのを、しつけと称して言い逃れをしているような気がする。 (家中を歩き回って疲れたのかおもちゃの車に乗ってヤヤに汗を拭いてもらっているKIAN。興味は乗ることだけにはとどまらず、車をひっくり返して構造を研究している。)    人は多かれ少なかれ、虐待の連鎖のような親の負の遺産を背負って生きているのではないだろうか。その遺産が人格一部をを形成しているのだろう。切れ安い人の親はきっと切れやすかったのだろう。仲の良いやさしい夫婦の子供はやはり優しい。子供の人格を形成する上でいかに家庭環境が重要であるかだ。たとえ夫婦の一方に虐待の連鎖の気(ケ)があったとしても、一方の親が子供を暴力から守るだろう。NHKの番組の場合は両親とも虐待の連鎖を背負っていたのが悲劇だったようだ。そして彼女自身はシングル・マザーなので歯止めをかける身内がいない。NHKはこの虐待を止めるには彼女自身が虐待を受けていたこと、そして自分が子供に対して虐待をしていることを認識することが重要だと説く。   (気に入ったものを手にすると得意げに差し出すKIAN。これを受け取るとすぐに返してよこせとせがむ。それを無視して取り上げると、大騒ぎになってしまう)   しかし、親から受け継いだ遺伝子をそう易々と変えることができるのだろうか。もちろん、否である。だから子育ては夫婦の役目なのであって、劣性の遺伝子(虐待)は優性遺伝子により封じ込められなければならないのだ。しかし、究極の核家族であるシングル・マザーという状況そのものが虐待という遺伝子を封じ込めることができず、それが猛威を奮って、子供が犠牲となっているのだ。きっと、この子も将来、親の負の遺伝子を受け継いで、いじめや虐待を行うことになってしまうのだろう。 (DVDのスイッチを自分で入れて曲にあわせて踊りだすKIAN) […]

虐待の連鎖 2011年5月26日


 先日、ラスベガスで世界戦を制し、フィリピンに凱旋したばかりのパクヤオ選手だが、今、フィリピンで最大の関心事である人口抑制法案に対して、宗教界と ともに下院議員として反対の立場を表明している。これに対し、かつて大統領選にも出馬し(ラモス大統領の対抗馬)、毒舌家で有名なミリアム・サンチャゴ上 院議員が、妻のジンキーがピルを使っていたのを槍玉に挙げて、パクヤオを「偽善者」と決めつけ、口を出すなと決めつけた。   これに対して怒ったのが英雄パクヤオの名実ともに生みの親であるマミー・ジョニシアだ。サンチャゴ女史に対して「マラスワ!」と叫んで、「バストス=下 劣」に似たおかしなタガログ語で応酬したのだ。毒舌家とはいえ、UP出身のエリート弁護士のサンチャゴ女史は「他の対戦相手を探す」と言って攻撃をかわし た。毒舌家が毒舌に負けたと、ジョニシア・ママには巷の拍手が沸き起こった。今、この一方は毒舌家のエリート、一方は巷の英雄の母親とタイプの違う二人が お茶の間の人気者となっている。  しかし、おさまらないのがバクラ(おかま)たちだ。マミー・ジョニシアはついでに、バクラが女性ホルモンを摂取するためにピルを使っているのを「ピルを 使っておっぱいを大きくするのをやめろ」といって馬鹿にしたのだ。今度は「人口抑制法案=ピルの解禁」の批准を目指してバクラがデモ行進をして、巷の喝采 を浴びた。 一方、パクヤオは世界チャンピオンとしての活動に忙しい。この日のオークションでは、今回、パクヤオが使用した黄色いグラブが50万ペソという高値で競い落とされた。ちなみに黄色はアキノ大統領の母親時代からのシンボル・カラーだ。  

世界チャンピオン・パクヤオの場外戦 2011年5月25日



 KIANのパパであるカーネル(大佐)ヤンさんの娘キンバリー(キム、15歳)がバギオに近いヌエベ・ビスカヤから夏休みを利用してやってきた。彼女のことは、いずれ詳しく紹介するが、今朝、大変貴重な情報を彼女がもたらしてくれた。     正月以来のことなので、私が掲載したブログを彼女に見せてやった。内容は分からなくても写真を見るだけでも楽しいだろうというわけだ。彼女が席を開けたの で、ちょっとパソコンをのぞいてみると、私が書いたはずのブログが英語になっているのだ。これは異なこと奇怪な、というわけで、聞いてみると、右上の Translateというボタンを押すだけで英語にでもタガログ語でもなんにでも翻訳されて現れるというのだ。    翻訳ソフトがあるというのは知ってはいた。しかし、それを使って作成したであろうPRAのパンフレットを見ても、なんとも使い物になるレベルには程遠かっ た。とてもとても恥ずかしくて人前に出せるものではない。だから、翻訳ソフトが実用に供するには後10年はかかると思っていた。     確かに、私のHPやブログの英訳を見ると、「人気者」や「苦節」などの漢字はそのままで、翻訳の精度については50点はあげられない。しかし、今まで写真 を見るしかないフィリピン人が、50%、場合によっては80%程度の 内容を理解できるとしたら、これは革命的なことだ。私のホームページやブログで退職者に多くの情報を発信しているが、私の同僚のフィリピーノは私がどんな 情報を発信しているか知るすべがないのだ。 […]

日本語判ホームページが英語版に大変身 2011年5月23日


 1週間のホリーウイークの休暇を終えて4月26日マニラに戻った。また、仕事だと思うと憂鬱になるが、マニラに降り立つころはすっかり仕事モードになっていた。  この日は朝の便を使ったが、朝の光を横から浴びるマヨンは表面の凹凸がくっきり見えて、荒々しい溶岩の流れる南斜面がはっきりと見て取れた。  レガスピには、従来タクシーは全く営業されていなかったのだが、空港で真新しいタクシーを見つけた。たとえゆっくりでも地方都市も確実に近代化が進んでいるようだ。かつでは空港からバス乗り場までトライシクルで行くしかなかったが、当たり前ながらタクシーという手が使えるようになったのだ。  空港の控え室に入ると、そこでなんと、元PRA副長官、私のボスだったマルセロさんに遭遇した。金属資源の会議に出席したそうで、ちなみにマルセロさんはビコール地方、カマリネス・ノース県で、金鉱山を経営している。 飛行機の中でKIANは椅子をかじったりして、やんちゃ振りを発揮している。写真右下はフィリピンの映画俳優KC、ではなくて、私の息子、恵之(KC)だ。  飛行機が到着するころはすっかり寝込んでパパに抱かれるKIAN。子供は寝たいときにすべてを忘れて寝れるのがうらやましい。

ビコールからの帰還 2011年5月21日



最近、ママ・ジェーンのKIANに対する小言が絶えない。近所の子供達には恐怖の存在で、いとこ達をたたいたり、物を投げたり、やんちゃ振りが度が過ぎているというのだ。私にとっては明るくて笑顔を絶やさず、とてもいい子に見えるのだが、私の前だけではいつもいい子だとジェーンは言い張るのだ。  私に言わせれば、ただ黙ってボーっとしている赤ちゃんなんで将来が危ぶまれるだけだ。子供はやんちゃな方がいい。その証拠に、私がKIANを抱いて外に出るとご近所のヤヤ(子守)からKIAN、KIANの合唱がわきあがるほどの人気者なのだ。危険なこと以外は、やりたいようにやらせておけばいいと思う。そうすればら、KIANはのびのび奔放に育って、将来を嘱望される若者に育つだろう。少々乱暴なのは母親の血だからしかたがない。   なまじやりたいことをやらせないと、せっかく伸びようとする芽を摘み取ってしまうことになり、ろくな結果にはならない。おいおいとしつけというものも必要だろうが、大人の感覚で子供のやりたいことを規制するのは、大人のエゴというものだ。 この日はおなじみの退職者の招待で、リトル東京のお好み焼き屋、神楽で食事を取った。夜の日本風の風景にご機嫌のKIANだ。近くの日本食材店の「ちょっとストップ」では商品をつかんで離さないので、退職者がお金を払ってくれたが、それを車の中で袋にかじりついているKIANの顔が愉快だ。KIANがこんなにおでこだとは気がつかなかった。 さらに今度は、やはり親しい退職者の方の招待で、グロリエッタの中華料理店で食事を取った。一丁前に席について、うれしそうなKIAN。この方はKIAN が生まれる前に、2万ペソもするベビー・カーをプレゼントしてくれたのだが、この日、初めてKIANと対面し、高価なカメラで盛んに写真を撮っていた。 4月、5月はフィリピンでは夏休みだが、この休みを利用して、ジェーンのいとこ達が遊びに来た。総勢11名の団体で、私の息子も含めて12名の客が家に滞在することになった。    いとこのアラインに抱きつかれて、嫌がるKIAN。KIANは女の子が嫌いなのだ。   ハイスクール(13歳~16歳)の子が4人いるが、彼らはもっぱらパソコンでFace Bookにいそしむ。これがよほど面白いと見えて、明け方までパソコンにかじりついていたそうだ。息子も影響されテ、日本へ帰ってからFace Bookをはじめて、この子達とコミュニケーションを図っているそうだ。  KIANの歩行もだいぶ年季が入って来て、5m位はよちよちと酔っ払いのように歩くことができるようになっている。この日は表の道路をたくさんのお連れを伴って王子様のように歩いていた。 この日は、全員でモール・オブ・エイシアに花火見物だ。毎週、金曜と土曜はここで花火大会がある。子供達に一目見せてやろうと、ジェーンの計らいで出かけていった。KIANを含めて12人の子供と、大人4人、しめて16人が、モンテーロにのったのだが、3列シートで7人乗りに倍以上の16人のまさにすし詰めだ。この日、初めて見る花火にKIANの感動は想像以上のものだったそうだ。  […]

KIANの日常生活 2011年5月21日


5月19日、パスコのホームページへのアクセスがついに50万回に達した。開設したのが2005年の初頭だから、苦節6年目にしての節目達成だ。当然のこ とながら、100万アクセスの大台を目指すことになるが、今の調子ならあと2年位で達成できるかもしれない。以前から100万アクセスに到達したら引退し ようと思っていたが、ちょっと早すぎるかもしれない。  ち なみに10万アクセスに到達したのが2008年4月でHPの開設から3年かかった。20万が2009年5月で約1年、そして30万が2010年3月で 10ヶ月、40万が2010年11月で8ヶ月、そして50万が2011年5月で6ヶ月と、着実にアクセス回数が伸びている。   2008年からアクセスが急に伸びたのは、ブログの開始によるところが大だと思う。ブログは特にHPの内容に関わりなく、日ごろ経験したことを自由に掲載 できる。しかも写真のアップロードもHPに比べればはるかに簡単だ。ブログに直接アクセスすることもできるが、更新情報をHPのトップに載せているので、 そこから入る方が多く、HPのアクセス数にカウントされるという算段だ。    そもそもこのブログは、オンライン英会 話の事業を開始した折、日本のパートナーにリクエストされたのが始まりだった。そしてその気軽さにはまって、この3年間に400件以上のブログをアップ ロードするにいたった。「金なし...」発刊以降の話題なので、その続編ともいえる。HPは頻繁にアップデートしないと飽きられてしまう。だから月10件 のブログをアップロードすることを私自身のノルマと課している。ブログにアクセスしてもらいながら、肝心の本文も見てもらう、ということで読者とのコミュ […]

パスコホームページが50万回アクセスを達成 2011年5月20日