Monthly Archives: February 2012


  昨年、認知症のお母さんの退職ビザを取得された方がいた。そのとき、「認知症患者の世話が日本では大きな社会問題となっているが、フィリピンではどうなのか」という話になった。そうしたら、マム・ジェーンは「フィリピンには認知症はいないのよ、なぜならその前に皆死んでしまうから」と、こともなげに語った。なるほど確かに認知症のことが話題になったこともないし、見かけたこともない、そもそも年寄りをあまり見かけない。その一方で、うじゃうじゃというほどガキがたくさんおり、街は若者であふれ、うろついている年寄りは我々外国人が大半だ。  いかにもかわいらしいKIANの寝姿。赤ん坊は無邪気なだけだが、周囲をとりこにする力を持っている  フィリピン人の平均寿命は50歳代だというから、確かに長生きをする人は少ないのだろう。したがって認知症患者もいないのだ、となんとなく納得したが、その話を医者にしたら、「そんなはずはない」という。「フィリピンにも年寄りはたくさんいるし、平均寿命が短いのは幼児死亡率が高いからだ。そして日本と同等の割合で認知症患者はいるはずだ」という。しかし、フィリピン人から、「親が認知症で苦労した」、あるいは「苦労している」という話を聞いたことがない。そこで思い出したのが、ジェーンのお父さんの晩年の話だ。彼は下の世話を娘にさせながらタバコが欲しいとねだる。そこで娘は枯葉をまいて火をつけて与えたら、おいしそうに吸っていた、などと笑いながら話していたことがある。話からすると、彼は明らかに認知症だったはずだ。  何が悔しくて泣いているのか、床に伏して思いっきり泣き叫ぶKIAN、こうなったら手がつけられない  しかし、フィリピン人は子育ても同様、肉親の老人の世話できることが幸せであり、役目だと思っている。自分を育ててもらった親の面倒を見ることは自分の子供の面倒を見るのと同様、当然のことで、家族の一員として当たり前の役割なのだ。人間誰しも老いて赤子に帰っていく。これから育って大きくなっていく赤子と、これから小さくなってなくなっていく赤子がいるだけのことだ。だからフィリピン人は認知症の親の面倒を苦労とはとらえない。 思い通りに行かないと泣き叫んで思いっきり不満を主張するKIAN。周囲が何を欲しているか分からなかったり、状況がそれを許さなくてもお構い無しだ。鼻ちょうちんがかわいい。  ならば、日本では何故社会問題となってきているのか。昨今の核家族化で認知症の親を面倒見るだけのゆとりが日本の家族にはない。だから、介護施設や病院に入れることになる。住み慣れた家や家族から引き離された認知症の老人は凶暴化したり、症状が悪化する。介護施設でも厄介者扱いで、挙句の果てにベッドに縛り付けるなどということがまかり通る。一方、家族に囲まれて住み慣れた家に住むフィリピンの認知症のお年よりは、穏やかで家族のお荷物にもならない。単に、最近物忘れがひどくてぼけてきた、程度なのだ。だからまるで赤子のように無邪気で敬愛されるべき存在なのだ。 この誕生ケーキは私のものなのだが、そんなことはお構い無しにろうそくの火を吹き消そうとするKIAN。赤ん坊は何をしても許される。老人も同じことのはずだ。   KIANの成長を見ていると、赤ん坊は、実にわがままで野蛮とさえ感じる。自分の思い通りにならないとすぐに泣き叫ぶ、むやみやたらにものをいじくりまわして壊す、小便も糞も垂れ流しだ。朝も昼も夜もなく、泣きわめいて親を困らす。それでも周囲の大人はKIANの一挙一同に歓声をあげて喜び、いつくしむ。何の知識もなく本能の赴くままに、分けの分からない行動をとる赤ん坊を、人は決して認知症とは呼ばない。赤ん坊なのだから、当たり前なのだ。一方、同じような行動をする認知症のお年寄りに対しても、「年寄りなのだから、当たり前のこと」と、フィリピン人は理解を示す。 階段の途中から下で執務する私に微笑んで手を振ったり、傘をさしてみたり、少々人間的な行動を取り始めたKIAN。その一挙一動が注目と賞賛の的だ。  フィリピンでは認知症を病気ととらえず、自然の老いととらえる。一方認知症になったとしても家族に囲まれているので、あえて患者呼ばわりされるような状況には陥らない。要は、認知症を病気ととらえて、治療するとか入院させるとか、そんな発想はフィリピンにはなくて、一人の人間の誕生から死に至るプロセスの一環として捉えている。すなわち、「フィリピンに認知症はいない」、ではなくて、「フィリピンに認知症患者はいない」、なのだ。 手にするものは何でも携帯と捉えて耳に当てて意味の分からないことをしゃべっているKIAN。年寄りが同じ事をしたら、認知症だとして大騒ぎになってしまうだろう。

フィリピンに認知症はいない? 2012年2月14日


    ゴメス家はクリスマスパーティと大晦日のパーティを一族郎党が集まって一気に執り行うのが恒例だ。深夜12時過ぎに執り行われる2012年最初の食事の準備に娘達は余念がない。 現金と穀物や果物、そして穀物を飾るのが中国式、2012年も豊富に食物とお金が入りますようにとの願いを込める。  食事の準備が一段落ついたところで、ゴメス家の重鎮ジェーンとカーネルが子供達に囲まれて記念撮影だ。  知らぬ間に食べきれないほどの食事が用意される。参加者は30人足らずなので半分以上が残ってしまいそうだが、ご心配は無用だ。使用人などが、家で待つそれぞれの家族にお土産に持って帰って、結局何も残らない。パーティの始まるころに目覚めたKIANは自分を忘れるなと手を上げて存在を主張する。 つい最近まで子供と思っていた年長組みの女の子達(中央の3人)もすでにハイスクールの高学年でそろそろカレッジに入るという。さすがに色気が出はじめている。  パーティの喧騒をよそにそ知らぬ顔を決め込む忠犬アイス、KIANはマイクを独り占めしてなにやらわめいている。        パーティの目玉はなんといってもクリスマスのプレゼント。ジェーンが9月ごろよりデビソリアで買い集めた大量のギフトが、それぞれの子供に持ちきれないくらいに配られる。今年は経費節減の折から、ギフトを包む紙はなんとマニラ新聞、そして今年から、ギフトをそれぞれに渡すのはKIANの役割だ。 12時、2012年を迎えて、家中にばら撒かれる縁起物のコインを拾う段になると、嬌声が行きかう。 そして次は音の出る金物なら何でもいいから、しゃもじやスプーンでたたいて家中をのし歩く。これも中国の習慣だそうだ。ちなみにジェーンのお父さんは福建省出身の純粋な中国人だ。 そして、待望の食事、年越しそばならぬあの甘いスパゲッティはかかせない正月の食べ物だ。  2002年から2004年まで、この農場で私の面倒を見てくれたレガスピのINSALで働いているデビナが駆けつけた(左写真の右から2番目)。当初はまだ小学生だったが、すでにカレッジも卒業して妹を養いながらひとり立ちしている。あのころからボリュームのある子だったが、ちょと度が過ぎているのが気になるところだ。右端のビアンカはデビナの跡継ぎだが、16歳になって大人になりかけている。  最後は家族全員集合の記念撮影で幕を閉める。

クリスマスと大晦日のパーティ 2011 2012年2月12日



    ゲストの帰国予定の関係で、1月2日、早めのマニラ帰還だった。連日の雨の割にはこの日は好天に恵まれ、マヨンの絶景の期待が高かった。席は右側の窓側。連れのゲストは「私はいつも通路側」とちょっとつれない返事だった。  空港には前日レガスピ市の父方の実家に泊まったKIANが見送りに来てくれた。 飛行機はいつも沖へ向かって発進し、Uターンをして、マヨン火山の脇を抜けて北方のマニラへ向かう。この日は期待通りマヨンがその雄姿を惜しげなくさらしていた。  パイロットはこんな時、マヨンの至近距離を飛ぶというサービスをしてくれる。当方は夢中でシャッターを切った。このように機内からマヨンが見れるのはめったにあることではなく、前回は2007年12月、KBSの取材陣の取材旅行以来だと思う。実に4年ぶり3度目のことだ。クリックして拡大して見てほしいが、マヨンの山肌の荒々しさがよく見える。

久しぶりのマヨン火山の絶景 2012年2月12日


ビザのお世話をした退職者の接待で、シャングリラ・ホテルの和食レストラン稲菊で食事をする機会があった。マニラ随一の高級ホテル、シャングリラとあって、さすがに高級感あふれるレストランだ。写真の弁当は1700ペソと、私がよく食事をとるSAIKAあたりと比べると3~4倍の値段だ。さらに蒲焼定食は1400ペソと庶民にはちょっと手が出ない値段だ。 日本食はヘルシーということで世界的にブームになっている。しかも高級食と位置づけられていて、シャングリラに泊まるような外国人にとっては、この程度の値段は当たり前のようだ。だから客の入りもまあまあだ。一方、稲菊は世界的に展開しているそうで、ニューヨークなどにもあるようだ。  聞いた話によるとフィリピンは、日本よりも安い値段で日本食が食べられる世界で唯一の国と言われる。半値とまではいかないものの、昼ならSAIKAで定食が280ぺそから350ペソ(500円から650円)というのだからありがたい。特にパソンタモ、マカティスクエア周辺には20件程度の日本食レストランがしのぎを削っているので、味も値段も大満足だ。  大分前になるが、私のフィリピン駐在員時代に部下だっと女性に、子供がカレッジのホテル・レストラン・コースを卒業したので、どこか有名なレストランでの研修生として実習させたい、だから紹介してほしいと頼まれた。知り合いのフィリピン観光省に勤めていた日本人に頼んだら、この稲菊のチーフ・シェフを紹介してくれた。そこで紹介状を書いて受験させたところ、見事研修生として採用されることになった。大分感謝されたが、稲菊で実習を受けたとなると、確かに勲章ものだ。

シャングリラホテル 稲菊で食事 2012年2月12日



  2008年のNAIAターミナル3の開業辺りから、そのまん前に位置するエアポートシティのホテルやコンドミニアム建設の槌音が聞こえはじめた。遠くから見ているとよくまあこんなにというほどのコンドミニアムが建設中だ。  そして最新鋭カジノーリゾート・ワールドやマリオット・ホテルのオープンで一躍フィリピンの近代的街並みの一つの顔になりつつある。最近、ある退職者のサポートで、初めてコンドミニアムの内部に足を踏み入れる機会があった。コンドミニアム群の外観はほぼできており、年内にも一通り完成する見込みだ。  ここの売りは、すぐ後ろがビラモール海軍基地のゴルフ場でパブリックなので誰でもプレイできる。こここの住民は歩いてゴルフにいけることになる。また、ゴルフ場を臨む景色もおつなものだ。 コンドミニアムの開発はアヤラに継ぐ業界NO2のメガワールドが手がけており、価格は相場どおりの平米10万ペソ程度、30平米程度のスツジオ・タイプから70~80平米程度の2ベッドルームが主体だ。モデルルームの内装はすばらしいが、これは価格に含まれていない。

エアポートシティ訪問 2012年2月12日


  1月23日(月)はチャイニーズ・ニューイヤーで休み。この3連休を利用して、プエルトガレラに滞在している友人から誘われていたホワイトビーチに出かけた。サバンは何度も行ったことがあるのだが、ホワイト・ビーチは今回が初めてだ。プエルトガレラまでの道のりは前回詳しく報告したので割愛するが、マニラの南の高速道路SLEXとバタンガスまでのSTAR高速道路がつながっており、1時間45分でバタンガスピアに到着した。バタンガスポートからはホワイトビーチ行きの直行の船と、プエルトガレラまで行って、ジープニーでホワイトビーチまで行く方法があるそうだ。船は頻繁に出ているので、到着したらすぐに出航する船会社を選んで乗るのがよい。足代としてはマニラから一人往復1000ペソを見込んでおけば十分だ。  朝7時のバスに乗ったので、10時過ぎにはホワイトビーチについてしまった。そこはサバンに比べて大きなビーチが一つだけで、ゆったりとしている。一見、何もなさそうだが、船はビーチリゾートが立ち並ぶ繁華なエリアの端に到着するのだ。ここから先は今後の開発のために確保してあるらしい。 ボート乗り場から西に進むと海岸線に沿ってレストランやおみやげ店が立ち並び、サバンよりも繁華なくらいだ。特に刺青やさんがやたら目に付く(これらは休暇中に楽しむだけのにせの刺青とのこと)。今日は3連休の初日とあって、普段に比べてかなり混雑しているとのこと。友人の話によると、こんなことは、数ヶ月前に住み始めてから初めてのことだが、3月~4月の夏休みシーズンになるとやはり混みあうらしい。  ホワイトビーチの中心あたりからプエルトガレラ港行きのジープが出ているが、その辺には大型のホテルがひしめく。ホテル代は一泊1500~3000ペソ程度、私が泊まったホワイト・ビーチ・ロッジというホテル1500ペソだったが、ダブルベッドが二つおいてあって、二人で泊まるのなら十分な広さだ。これがピークシーズンになると2000~2500ペソくらいにはねあがるらしい。 この日は、韓国からの50人くらいの学生の団体が泊まっていたが、日本人などはほとんど見かけない。韓国人経営の大型ホテルもある。ホワイトビーチからちょっと入ると地元の街があるが、サバンに比べて平地が多く、人口も多いようだ。夜のお楽しみはサバンに比べて大分地味のようで、夜遊びがしたいならジープニーでサバンまで出かけていくことだ。  さらに西に行くと海外沿いに街がある雰囲気で広々とした海岸には物売りやマッサージの商売が繁盛している。 ホワイトビーチの西のはずれに行くと、ビーチが一望できて、ボラカイほどではないにしても1kmは優にありそうだ。砂は白いというよりも少々薄い茶色に近いが、これもボラカイとは比較にならない。しかし、マニラから遊びに来るには手ごろだ。  このビーチの特徴として、バナナ・ボートやジェット・スキーが盛んで、砂浜近くで走り回っているので、ちょっと危険なのではないかと心配にさえなる。バナナボートは一人200ペソ、パラセーリングが二人一緒に飛んで2000ペソ、ボートをチャーターしてアイランドホッピングが2000ペソ程度だ。しかし、ダイビング・ショップのお店に聞いたら1.5倍くらいの値段だったので、個人的に客を探しているボート・マンなどに直接交渉するのが安く済ませるこつだ。 ここの名物料理は魚、イカ、チキンなどのバーベキューで安いところはなんでも一つ100ペソで、4人でたっぷり食べて、飲み物も入れて、1000ペソで十分お釣りが来た。前回高いと思ったサバンに比べて、ここは物価が安いようだ。夕陽を眺めながら海岸に並べられたテーブルで焼き立てのバーベキューをビールを飲みながら食べるのは格別なものがある。

プエルトガレラ ホワイトビーチ訪問 2012年2月12日



     KIANにとってはホリー・ウイーク以来8ヶ月ぶりの農場の訪問だ。10人を越えるいとこ達の大歓迎を受けるが、KIANはいつも中心で、今から一族を率いて行く器の片鱗を見せる、Small But Terrible Boyだ。 200平米を越えるファーム・ハウスはどこもKIANの遊び場だ。平屋で階段がないから安心して動き回らせることができる。浴槽で水遊びをするKIAN と右の写真はウンチをしているところだ。フィリピンではおしものしつけは遅いからKIANにとってはどこでもトイレだ。  農場は広々としているから、遊ぶところがたくさんある。もう少し大きくなったら、一日中外で遊び回っていることだろう。  女の子の服を着せられてその気になっているKIAN。ちょっとオカマの気があるかもしれない。  水となると目がないKIAN。KIANにとっては洗車も遊びの一部だ。    ファームハウスの前の道を悠々と歩くKIAN。  大きな豚にちょっとたじろぐKIANだ。トライシクルもKIANにとっては格好の遊び場だ。  水浴びはKIANにとって最高の遊びで、冷たい水をものともせず優に1時間は水浴びをしている。最後は唇が紫になっている。  湯気が立つような暑い食べ物はフーフーして食べることもみようみまねでやっている。 […]

KIANの久しぶりの農場訪問2012年2月11日


今年の正月は日本から特別な客が訪れた。将来マニラに移住することを計画中の方で、マニラ観光や農場の体験ステイをしてもらったが、その方が非常に多彩才能をお持ちの方で、農場に到着するなり、とても素敵なスケッチを描いてくれた。  ビコール地方はマニラと違って、特別な乾季というものはない。だから、マニラの乾季に当たる正月でもよく雨が降る。しかし、今年はマニラでさえもこの乾季に雨がよく降るくらいだから、ビコール地方はほとんど毎日雨だった。だから、木々が瑞々しくて、かんがい用の用水路も水が豊富だった。         マヨン火山といえば、ほとんど毎日雨に隠れてほとんど姿を見せなかったが、12月31日はお客さんの出迎えとあって、その雄姿を見せてくれた。雨にかすむ姿も中々乙なものだ。  2枚目の絵は雲に隠れるマヨン火山だ。マヨンの中腹に多くはえているしだも大きく育って瑞々しさに色を添えていた。 動物はいつもと同じだが、雨が多いせいかブーゲンビリアは今一だった。  花の少ない中、大輪のハイビスカスが頑張っていた。

農場スナップ 2012年2月11日



   今年の正月は来客を案内してマヨン火山の周りを一周した。幸い天候にも恵まれ、周辺の見所を満喫してもらった。はじめに向かったのがマヨン展望台、少々かすんでいたが、我が農場やタバコの街がよく見えた。  次に向かったのが、農場とは反対側に位置するギノバタンのカーサ・バシリアというプール・リゾートだ。国道からちょっと入ったところにあるリゾートは看板もなくすこぶる分かりにくいが、なんとか見つけて昼食を取った。そこのメニューの売りは自然養鶏の鶏肉と、ヤギの乳だ。これはまさに我が農場が目指すところで、早速注文した。しかし、クリスマスで全部使い果たしてしまい、在庫がなくて賞味することはできなかった。           レガスピ市に近づくとダラガの手前に有名なカグサワ・ルーインがある。アクセスの道は、先の台風で再び流されてしまい、木造の橋が架かっていた。しかしながら、みやげ物屋はしぶとく商売を続けている。  礼拝堂の中から望むマヨンの頂上は雲に隠れていたが、手前の木とのコントラストがよかった。教会の塔の裏手の礼拝堂の壁の跡が歴史を感じさせる。  レガスピ市の空港の脇にあるのがレニョン・ヒルだ。このころ丁度マヨンが顔を出して、斜面に流れ出た溶岩を見ることができた。一方反対側はレガスピ市で手前の直線状の舗装が滑走路だ。今日は残念ながら飛行機の飛び立つところは見れなかった。

タバコ周辺の案内 2012年2月11日


 マニラ唯一の観光のメッカともいえる歴史地区イントラムロスに鎮座するのが出入国管理局、いわゆる入管あるいはBI(Bureau of Immigration)だ。観光、投資、就労、就学あるいは退職後の人生をフィリピンで過ごそうとする外国人にとって短期あるいは長期のビザを取得することは必須なことだ。観光省や投資庁などの政府機関も外国人誘致に躍起になっている。しかし、そこで立ちはだかるのがこの入管だ。国の発展のために外国人を受け入れる一方、国に害をなす不良外国人を締め出すのが入管の役割だが、我々善良な外国人にはむやみに意地悪をしているとしか受け取れない事象が頻繁に起こっている。退職ビザの売りが「退職庁が窓口で、入管と直接コンタクトをする必要がない」というのも皮肉な話だ。 イントラムロスにある入管の本部、内部は混沌としている その1 ACRの更新期限 最近、下記のような趣旨のメールがインターネットをにぎわせた。 {私がビザの代行をお願いした旅行社からのメールに、ACR-Iカードの更新に関する情報がありましたのでアップします。   2006年にACR-I カードが導入され、カード保有者はすべて、空港で税金を支払い出国できるようになったのです。非常に便利になりました。発行された当初、発行年月日の記載はあったのですが、有効期限には何の記載もありませんでした。永住ビザだけに永久的なカードだと喜んでいたら、入管がその後、有効期間は5年に限ると発表したのです。その5年が2011年なので、そのことを知らない永住ビザ保有者が出国のために空港に行き、出国審査を受ける段になって、「期限が切れているので出国できません、ACR-Iカードを更新してきてください。」といわれるのだそうです。「私は、そんなことは聞いていない、緊急事態で帰国するので、そんな時間もない。」と答えると、「それでは、出国を認めますが、再入国する際に、あなたのビザは失効し、観光ビザでしか入国できませんよ。」ということになるらしい。}    なんともはや融通の利かないやり取りで、入管の外国人永住者いじめとしかとれない。1年間くらいの猶予期間を設けるとか、帰国してから更新するとか、なんとでもなるではないかと誰しも思うところだ。ちなみに退職庁(PRA)が発行する退職ビザ(SRRV)保有者はこの ACRが免除されている。その代わりにPRAがIDカードを発行するのだが、これは有効期間が1年ないし3年で、更新が義務付けられている。したがって、退職ビザ保有者はPRA IDをきちんと更新している限りは何の憂いもない。しかも、このIDの更新についても融通が利くし、ACR保持者のように出国時に再入国許可を取得するためにお金を払うなどのわずらわしさもない。 イントラムロスにある世界遺産サン・アガスティン教会でミリタリー関係の人の結婚式が行われていた […]

入管にとって外国人は、頭痛の種かそれとも飯の種か?2012年2月11日