Monthly Archives: April 2012


  毎週、金曜と土曜日にはSMモール・オブ・エイシアのマニラ湾沿いで7時から花火が打ち上げられる。この日は、来比中の息子の歓迎で花火見物ととシーフードマーケットでの食事を皆で出かけた。 SMモール・オブ・エイシアのマニラ湾沿いにできたバイ・ザ・ベイにはレストランをはじめ、様々なアトラクションが設けられ、花火見物の人でにぎわっていた。 噴水の周りには涼を求める人でにぎわっている。水を見るといてもたってもいられないのがKIANだ。ヤヤ(子守)の制止を聞かず噴水に飛び込んでしまいそうな勢いだ。 たったの5分程度の花火だが、中々見ごたえがある。あまりの至近距離に子供達は怖がってしまっている。花火はモール・オブ・エイシアのベランダから眺めるのが丁度よさそうだ。 花火の後は、マカパガル通り沿いのシーフードマーケットレストランに移動。ここはマーケットで新鮮な魚介類を買い求め、周辺のレストランで料理をしてもらう。 生きたカニをさわって歓声をあげるKIAN。巨大なシャコにびっくり。生きたロブスターもあるが高くて手が出ない。エビは小さいほうがおいしい、しかも安い。 この日は料理が出るのに手間取ったが、その間、コーラで乾杯したり、氷を挟んでコップに移したり、KIANのパーフォーマンスが続く。KIANにとっては何もかもが目新しい経験だ。 子供も入れて10人、〆て2500ペソ程度の予算で有り余るほどの料理だ。もちろん余った料理は持ち帰って家に残ったボボイらの食事になる。 この店ではライブの演奏がある。ダンスが得意のKIANは早速シンガーと一緒に踊りを披露する。シンガーのコメントは「そんなに迫って、私を妊娠させるつもり、私はあなたには年を取りすぎているわよ」だったそうだ。 カーネルの娘のキムも唄を披露。プロのシンガーと全く遜色のない歌いっぷりだった。 レストランの前には海賊版のDVDが並んでいる。最近、マカティスクエアの地下のDVD売り場が一掃され、パーク・スクエアのオデッセイで750ペソの大枚を払ってCARSというDVDを求めたばかりだ。しかしここでは最新版のDVDが4枚で100ペソという信じがたい価格で売られていた。KIANの大好きなTOY STORY4を見つけて都合12枚を300ペソで購入した。

SMモール・オブ・エイシアの花火と格安DVD 2012年4月30日


 5月の連休の農場訪問を控え、各種果樹の苗とパイナップルの苗を購入するためにタガイタイにでかけた。この風光明媚な別荘地は比較的涼しい気候のため、果物や花の名産地で、道路沿いに無数の店がある。果樹の苗はマホガニーマーケットで、パイナップルの苗は道端のパイナップル畑で購入するつもりだ。 来比中の息子はもちろん、夏休みで田舎から遊びに来ているKIANのいとこ達、それにKIANの腹違いのお姉さんキム、総勢10人(大人6人、子供4人)がモンテーロ一台に乗り込んで出かけていった。  途中で名物のジャパニーズコーン(ゆでとうもろこし)8本を100ペソで買って食べた。これは、すなわち一本25円、日本なら一本500円は固いと息子が感激。 しかし、タガイタイにつくころにはすでにお腹が空いて、早速、マホガニー・マーケットのトロトロ・レストランに飛び込んだ。タガイタイ名物ブラ・ルー(牛のすね肉を煮込んだスープ)など10人がたらふく食べて、1200ペソ足らずだった。 苗木10本を買ってモンテーロに積み込むと3列目のシートを使えない。そのため、2列目のシートには大人4人と子供3人のすし詰め状態で、次の目的地のレジデンスインに向かった。レジデンス・インはタガイタイ・シティを過ぎてしばらく行った左側にある。  ここはスービックにある動物園、ズービックを経営するユーパンコ(マカティ・ブエンジア通りには大型の楽器店を運営している)の持ち物で、1990年初頭から運営されている。  小規模な動物園と展望の良いレストランがあるだけだが、レジャー嗜好が強くなった最近は人気が出てきて、訪問者が多い。そのため、色々とアトラクションを企画しているようだ。しかし今回は予算の関係で子供達とヤヤだけを入場させた。 1990年代は入場料が10ペソ程度で、ほんの気持ちだけの入場料だった。ところが大人と4フィート(1.2m)以上の子供は299ペソ、3~4(0.9m~1.2m)フィートの子供が199ペソ。幸いKIANだけが3フィートに及ばないので無料。だから10人となるとかなりの金額になってしまうのだ。だから、子供の付き添いはヤヤ一人で、そのほかの大人4人は外で待つことにした。      帰り道、道端の果物屋にパイナップルの苗に購入について聞いた。苗といっても要はパイナップルの頭についている葉っぱのこと、1個5ペソということで、200個、1000ペソを買った。それが大きな米袋が3個、ようやく車に載せることができた。これで農場に待望のパイナップル畑がつくれる。 珍しいものにおおはしゃぎのKIANは昼寝の時間も過ぎて、ようやく眠りにつく。しかし、このときパイナップルの葉を指に刺して大泣きして、泣き寝入りの形となった。

タガイタイのレジデンス・イン 2012年4月30日



 マニラ湾の埋めたて地、Sofitel(Philippine Plaza) Hotel の近く、Film Centerで毎日(月曜を除く)オカマのショーが開かれる。オカマといっても遠めには区別がつかない、本格的ダンスショーだ。8時、開演で、約1時間、たっぷり楽しませてくれるが、飲み物や食事は出ない。 当日チケット売り場でチケットを買えば十分で、予約の必要はない。無料雑誌Primerをもっていけば入場料は1200ペソだというので、窓口で2人分 2400を用意した。しかし、入場料は一人2500ペソというのでびっくり、二人で5000ペソは痛い。どうしてそんなに高いのだと、受け付けにごたごた言っている間に、日本人かと質問された。そうだと答えると、入場料は1300ペソだという。それならいいかと3000ペソを渡すと、1800ペソのお釣りがきた。ええっと、聞き返すと、フィリピン人は500ペソだという。そして、まだ来ない同伴者は「フィリピン人に間違いないわね」と念を押された。 いずれにせよ、1800ペソで済んだのは幸いとほくそえんだのだが、どうもいつもと違う。フィリピン人か価格の倍をいつも払わされて、何とかフィリピン人で通せないものかと思うのだが、今日は日本人だから、韓国人の半値とは、生まれて初めての経験だ。喜んでいいものなのか、屈辱なのか、複雑な気分だ。要は支払い能力によって同じ買い物をしても料金が違うわけだが、日本人は、支払い能力において、韓国人劣るとみなされているいとうことなのだ。  確かに韓国のサムソンが大きな利益を享受する一方、ソニー、パナソニック、シャープなどは軒並み大幅な赤字だ。かつての世界のブランド、ソニーが得意のテレビ部門でサムソンに水をあけられて、50過ぎの新社長が再生を誓ったばかりだ。 ところで、オカマショーの方は、映画館のような感じに座席が並んでおり、通路で三つに分かれた客席の真ん中の部分は韓国人で満員だ。両脇の客席はまばらで、我々のチケットでは真ん中に座らせてもらえなかった。金満韓国、貧乏日本てなところか。  ショーの内容はヨーロッパ、フィリピン、中国、韓国、日本の伝統的な踊りを披露し、中々見ごたえがある。これにマジックショーなど加えるともっと楽しめるような気もするが、フィリピンにはこの手のショーがほとんどないので、よしとしたい。同行したフィリピン人は瞬きもせずに見つめていたので、そこそこのもなのだろう。最近少々感受性の鈍くなった私にはショーよりも同行したフィリピン人の方が気になった。  

Amazing Showの紹介 2012年4月29日


  4月19日、パスコホームページへのアクセスが70万回に到達した。昨年の5月19日に50万回に到達したので、丁度11ヶ月で20万回のアクセスとなった。一月あたり18200回、毎日600人強の方のアクセスがあったことになる。大台の100万回達成も、後1年半足らずだ。  最近、連絡のあった退職者の方が、このHPとブログの存在を知り、三日三晩、夜を徹して読み続けたとメールをくれた。読み始めると停められず、過去にさかのぼり、4年前の最初のブログ、「イメルダマルコスとの遭遇」まで、一気に読みきってしまったそうだ。ブログを書くものにとって冥利に尽きるといえる。最近改訂版を出した拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」を読み合わせると、フィリピンのことが手に取るようにわかり、フィリピンについてのバイブルと牧師の説教の様だとも評してくれた。  現在まで、約500件のブログを書いてきたが、できれば1000件まで書いてみたいと思う。そうなるとあと、4年は頑張らないといけないことになる。  2010年、3月に相棒のフィリピーナにベイビーKIANが誕生して以来、話題の中心がKIANに傾いてしまっている傾向が強いが、KIANの成長ぶりを報告する中でフィリピンの文化を読み取ってもらえるとありがたい。その他、退職者にとって有用な情報も仕事柄入手することが多いので、報告していきたい。  そんなわけで、ブログの話題集めに日々心がけるのだが、本業が忙しいとなかなかブログの執筆に手をつけられない。4月はまだ一件のブログをアップロードしただけだが、毎日、ブログの更新を楽しみにアクセスしてくれる600人の方には申し訳ない思いが強い。日々の業務に追われていると平日はどうしても落ち着いてブログを書く時間がとれない。土日がチャンスなのだが、逆に土日だからこそ出かけたり、たまった仕事を片付けたりで、あっという間に半月ぐらいご無沙汰してしまう。  しかし、「金無し...」とこのブログがビジネスの顧客と私を結ぶ唯一のパイプだと思うと、日々の業務もブログあってのものなので、今後も話題集めと執筆に努力していくつもりなので、読者の方々には楽しみにしていただきたい。

パスコホームページが70万回アクセスを達成 2012年4月22日



ホリーウイークの休暇でタバコ市の農場を訪れた折、最終日は空港のあるレガスピ市のカーネル(マム・ジェーンの亭主、KIANのお父さん)の実家に泊まった。翌日の便が早朝6時半出発で、暗いうちに空港に行く必要があるからだ。その際、夕食をとりにレガスピ港の脇にできた新しいモール(イン・バルカデロ・デ・レガスピ)にでかけた。そこには本ブログの主人公のデバインが働いているのだ。 5年前、まだ17歳のデバインと私(ではなくて私の息子)。ちょっとお似合いのツーショットだ。  デバインとのなれ染めは、私が2002年にレガスピ近郊のタバコ市に農地を購入し、そこの農場と住居を建設した際、もっぱら私の食事の世話をしてくれたのが、彼女だ。彼女は当時12歳だったが、すでに顔も体も大人で、すでに男心をくすぐるものをもっていた。インド人との混血で(当時はアメリカ人との混血と聞いていたが、その後インド人であることが判明)大きな目と整った顔つきで、すでにかなりの美形だった。しかし、今回久しぶりに会ったら、まだ若干21歳なのにかなりの重量級で、しきりにダイエットを勧めておいた。  彼女が働いているINASALは現在もっとも出店が盛んなファーストフードチェーンだ。  マム・ジェーンのいとこである彼女の母親が若いときからパロパロ(浮気もの、もともと蝶という意味)で結婚前から異なる国籍のボーイフレンドの子供を作り続けた。そして、フィリピン人と結婚したら、それまで作った子供の面倒を見れなくなり、しかも、そのころおばあさんが亡くなって、デバインは親戚をたらいまわしされる羽目になってしまった。  しかし、行く先々で、その美形に、預かってもらった家の亭主どもがちやほやするので、その女房達がやきもちを焼いて追い出される羽目になった(注)。そこで行きついた先が我が農場だ。そこでマム・ジェーンの母親(マミー)に面倒を見てもらいながら、ハイスクールと専門学校を終えた。私は2003年から 2004年の1年半を農場で彼女と過ごしたが、そのころ彼女はハイスクールの前半で(13~14歳)、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」の191ページのメイドさん役で登場している。 注:フィリピンでは再婚した妻の連れ後の女の子が成長すると亭主が無理やり手篭めにしてしまうということがまかり通っているそうで、義理の父親とて油断できない存在なのだ。ましてや妻の親戚の子供となったら、亭主はもっとも危ない存在だ。だから妻達のやきもちはもっともなことなのである。  港を眺めながら食事ができるレストランは中々風情があって、パスコの法律顧問であるマリソール(写真左の左から2番目、端が亭主)が亭主とともにかけつけてくれた。ちなみに彼女は4人目の子供を宿していて、最近体調不良で仕事が遅くなっている。上の3人は全部男で金太郎飴のように同じ顔をしているが、亭主は、今度こそ女の子ができて欲しいと意気込んでいた。  農場で生活していたころ、デバインは何かと頼りにされ、何かマミーに頼んだり聞いたいるすると次の言葉は「デバイ~ン」と大きな声で彼女を呼びつける。ちょっと小言を言うと「デバイン・カセ」と彼女のせいにされ、それでも何一つ文句をいわず大きな家と農場を走り回っていた。  現在、農場でその役割を担っているのがビアンカだ。彼女はすでに16歳と推定されるが(注)、立派な少女に育っている。今は年に数回農場を訪れる程度だが、そのとき一番の頼りになるのがビアンカで、家の中のことなら何でも知っており、農場の欠かせない人材になっている。現在ハイスクールの3年を終えたところで、後1年で大学進学となる。しかし、13人の甥や姪を抱えるマム・ジェーンに私立に行かせる余裕もないから、ビコール国立大学に入学できたらOKだが、それがだめだったら専門学校で何か手に職をつけさせることなっているそうだ。 注:ビアンカの生い立ちについてはいずれ別途ブログに掲載する予定 ホテルレストラン学科を卒業したデバインは、一時マム・ジェーンと折り合いが悪くなり、農場を出てレガスピでパン屋に勤めていたが、今はINASALのレジをやっていた。農場にはたまに来る程度で、去年のKIANの誕生日と今年の正月に面会した。彼女達はもはや全く屈託がないようで、久しぶりの再会を喜んでいた。食事の後、デバインの話を聞きたいので、生バンドのあるパブに席を移した。KIANは睡眠の時間で両親とともに帰宅した。 PNP(フィリピン国家警察)の幹部であるヤン大佐に悲鳴を上げさせるKIANは怖いもの無しだ。右はいかにも福福しいデバイン。  デバインは16歳の妹のクレヨを引き取ってハイスクールに復帰させ、自分自身も大学に通っているという。朝8時から午後3時まで大学に通って、夕方から深夜までINASALで働いて、寝る時間はあるのかと心配になる。給与は一日256ペソ(多分この地域の最低賃金だろう)。手取り205ペソ、毎日はたいても月々たったの6000ペソ程度だ(1万2千円)。この金で、二人分の宿、食事、交通費、学費を賄おうというのだが、とても可能とは思えない。それでも、いかにも明るく元気に生きているのだ。しかもこんなに太っている、これはINASALのライスのお代わりは無料というポリシーによるものらしい。「ボーイフレンドはいるのか」と聞いたら、「一人」と恥ずかしそうに答えていた。デートの金も時間もないと思うのだが。 […]

デバインの奮闘記 2012年4月22日


  4月2日(月)、ホリーウイークの連休(4月5日(木)~9日(月)の5連休)を利用して、久しぶりにタバコ市の農場を訪問した。早朝にも関わらず、ターミナル3は帰郷する人の群れであふれていた。 KIANは3月31日生まれなので、丁度2歳と2日目の帰郷となる。  ターミナル3はセブパシフィックとANAが利用しているだけで、部分開業だが、空港内の店も大分充実してきている。  空港内では相変わらずKIANが抱っこをねだる。こんな顔をされるといやとは言えず、重量級のKIANのおかげで、ひじと肩の関節の痛みが直る暇がない。いつも活発なKIANを飛行機の中で大人しくさせるためにカッパエビセンを握らせている。 マカティとボニファシオ・グローバル・シティが遠方に朝もやに浮かんで見える。  この日、下界は雲の下、雲海が美しい。レガスピ空港までの空のたびはほんの30分強で、雲に包まれるマヨン火山がそびえている。   レガスピ空港に降り立ったKIAN、正月以来、4ヶ月ぶりだが、今回はしっかりと記憶しているようだ。飛行機に向かって手を振っている。マヨン火山もKIANを歓迎して雲の上から顔を出している。 迎えの車の中でもおおはしゃぎで、いとこやおじさんとの再会を喜んでいる。ナイナイバーはKIANの得意だ。これを英語でPICK A BOO、ビコール語でブラガというそうだが、赤ちゃんの万国共通の遊びのようだ。 農場までの道のりを覚えているのか、盛んに何かを指差している。 1週間の農場滞在を終えて、4月9日(月)、連休の最終日はは父親の実家に移動した。バスターミナルはマニラに戻る人で一杯、一体いつバスに乗れるのか、あてもないままにひたすら待ち続けているように見える。  

KIANの2歳の帰郷 2012年4月22日



2月に引き続き再びプエルトガレラを訪問した。今回は平日で、しかも雨なので人は少なかったが、乾季の真夏にほとんど一日中雨だなんて、異常気象もはなはだしい。今回は私の不肖息子の嫁の両親とその兄弟と友達の4人を案内した。もともとパラセーリングをやりたいということで、前回のホワイトビーチ訪問でで発見して、ここに案内したのだが、パラセーリングはボラカイに移動したそうで残念ながらNG。そこでボートで島巡りをして、翌日は朝一のボートに乗り、途中タガイタイによって例のマホガニー・マーケットのトロトロ・レストランでで名物の骨付き牛肉のスープ、ブラルーを食べるという段取りに変更した。  マカティを7時に出発し、途中ドライブインで朝食、そして9時半にはボートに乗っていた、乗船時間は約1時間だ。この日は雨模様で波もちょっと荒れていた プエルトガレラの中心はPoblacionの港で、今回はボートはここでおりて、ジープでホワイトビーチへ向かった。おかげで6km、15分ほどのジープで山道を走る体験をした。しかし、ジープといっても日本製の中古の軽トラックを改造して荷台に座席をつけたもので、フィリピン名物のジープニーとは味わいが違っていた。  昼食後早速、ボートで島巡りに向かったが、ホワイトビーチから直接ボートを出すことができなくなり、近くの港にトライシクルで向かった。ここでも期せずしてトライシクルを体験することになった。ボートは10人ほど乗れ、快適だった。トライシクル代も入れて〆て3000ペソ。時間の制限はない。 プエルトガレラには入り組んだ入り江と島が複雑な海岸線を形成しているが、その中で最大のビーチとリゾートが立ち並ぶのが、ホワイトビーチとサバンだ。その他は無人の島や浜が多く、弁当持参でピクニックと海水浴を楽しむのが昼間の遊び方だ。  かの有名なサバンは、Poblacionの港から国道を反対に向かって、やはり15分ほどのところにある。サバンには数軒のゴーゴークラブがあり、観光客でにぎわう繁華街がある。ホワイトビーチから出かけていくとなると30分の道のりで往復500ペソ程度かかるそうだ。  ほとんど人のいない浜に到着、何人かの白人が泳いでいたが、お弁当を持参してこんなところでゆっくり泳ぐのがプエルトガレラの遊び方だ。  あいにくの雨だったが、かえって涼しくて気持ちが良い。たとえ雨が降っても寒くて泳げないなんてことがないのが熱帯のメリットだ。  翌朝、7時半に出発ということで浜のはずれに行ったら、7時15分の乗船で、7時30分出航、あわてて駈足で乗船する羽目になったが、フィリピンでは珍しく時間ぴったりの出発だった。

プエルトガレラ訪問(その2)2012年4月1日