最近、NHKで「シングル・マザー」の番組をやっている。毎週、月曜日、沢口靖子が主役で、日本のシングル・マザーの困難な日常を追い、母親一人で、子育てをしていくことの難しさを描いている。往年の美人女優の沢口靖子がいかにも惨めな役をこなしているが、ちょっと見るに忍びがたい。おおかた、日本のシングル・マザーはこんな状況にあるのだろう。 私が、子供のころ、戦争で夫を亡くした母子が暮らす母子寮というのがあって、クラスに数人、そこから通っている生徒がいた。皆、なんとなく不潔で、一種独特な雰囲気をかもし出していた。小学校のまん前には、政府が貧困家庭に安価ないし無料で住宅を提供していた営団(エーダン)住宅あったが、フィリピンのスコーターほどではないにせよ、一種独特な雰囲気をもった街並みだった。戦後の日本経済の復興で、このような施設は姿を消していったが、シングル・マザーという形で復活し、200万人を超える生活保護を受ける人たちとともに、貧困層を再形成している。 日本では、高校生や、未婚の女性が妊娠すると、ほとんど宿った子供をおろしてしまうから、このような状況におかれる女性ははまれだろう。出産後、何らかの事情で、夫あるいはボーイ・フレンドと別れるような状況に陥った女性が、シングル・マザーになり、苦難の道を歩むのだろう。 自分専用の机に食事を持っていって、鳥のから揚げをピストルに見立てて、狙い撃ちをするKIAN 問題は、母親の家族はどうしているのか、ということだ。NHKの番組にしても、そこに母親の家族の姿は描かれていない。子供のおじいさんやおばあさん、あるいは母親の兄弟姉妹はシングル・マザーに手を差し伸べないのだろうか。たとえ父親がいないとしても、次代を担う立派な家族の一員であることには変わりはないはずなのにだ。 一方、堕胎が法律で許されず、宗教上避妊も憚れるフィリピンでは、女性が妊娠したら、出産する以外に方法はない。だから、フィリピンでは高校生など10代でシングル・マザーになるケースは枚挙にいとまがない。この世代の男は、ひたすらやりたいだけで、成人男子としての自覚はないし、扶養能力はない。だから、ガール・フレンドが妊娠したら、さっさと逃げてしまうのが通例だ。中にはパーティなどでよっぱらって寝込んだ女の子を集団でレイプして、誰が父親かもわからない、なんてけしからん話もある。 ヤヤと姉のKIM、従妹のALYAと食事にでかける KIAN。ママがでかけていなくてもヤヤや姉に囲まれて彼は幸せだ したがって、花街の半数以上の女性はシングル・マザーと言っても過言ではなく、これらの女性は子供を養うために、たとえ、売春婦にまで身を落としたとしても、逞しく子供を養っている。しかし、母親が働いているとしたら、当の子供はどうしているのだろう。フィリピンでは、家族が赤ちゃんを宝物のように大事にするから、全く問題ない。母親が、花街で鼻の下の長いおやじの歓心をかっている間、しっかりと家族に見守られて、育っているのだ。 こんな女性の生きがいは子供だ。「男には、もうこりごりだ、二度とボーイ・フレンドなんかいらいない」、と口をそろえて彼女達は語る。そもそも、セックスそのものが子供を作ることが目的で、ボーイ・フレンドや結婚などは単なる子供をつくるための手段だから、女にとって、子供さえあれば、十分満足なのだろう。金のない亭主や無責任なボーイ・フレンドなどは無用の長物なのだろう。 腹違いの姉のKIMは若干16歳のカレッジ1年生だが、この年でシングルマザーになって花街に身を落とす女性もざらだ。彼女は父親のカーネルに厳しく監視され、携帯ももたせてもらえない、ボーイ・フレンドなんてもってのほかだ。 そもそも動物界では、メスは、さかりがつくとオスを迎え入れ、妊娠したら、オスなどは相手にしないばかりか、当のオスに対してでさえも子供を守るために牙をむく。所詮、オスは種付けだけのために存在しているのであって、カマキリのように、種付けを終わるとメスのえさになってしまうという、あわれなオスも存在するくらいだ。 シングル・マザーであろうがなかろうが、子供さえ無事に育てば、種(シュ)は維持される。カップルで子供を育てるか、母親だけで育てるかなどは、たまたま、その時代の慣習であり、種の保存にとってあまり本質的な問題ではない。フィリピンでは家族で子供を育てるから、シングル・マザーであろうがなかろうが、種は維持される。一方、堕胎や虐待で子供を殺し、生まれてきた子供はカップルでないと育てられない、なんていう日本は、日本民族という種を維持できるのかどうか、極めて疑問だ。