Yearly Archives: 2012


  2才を過ぎても一向に話し始める気配のないKIANにママ・ジェーンは少々心配気味だった。私は遅かれ早かれ洪水のようにしゃべり始めるから心配ないと諭した。特にKIANの場合はタガログ語、ビコール語(フィリピンの方言)、英語、そして日本語と4つの言葉が周囲で飛び交っているので、話し始めは遅くなるのが道理だ。だからといって、周囲が一つの言葉に統一するなんて余計な事をすると、せっかくのバイリンガルの道を閉ざしてしまう。  最近カメラを向けると、あごの下に手をやってポーズをとるようになった。このポーズはフィリピンの子供達の間ではやっており、親指と人差し指を開いてあごの下に当てる、ある芸能人がはやらせたポーズだが、ちなみに「僕ハンサム」という意味だ。16歳の姉、キムに抱かれて泣き叫ぶKIAN。KIANは若い女の子が苦手だ。 ホリーウイークが開けてマニラに戻る際、いとこの女の子を3人(6~8才)、KIANの遊び友達にマニラに連れてきた。一人っ子はわがままに育ち気味なので、夏休みの間、いとこと遊ばせようという算段だ。しかし、体重がほとんど同じ彼らはKIANのやんちゃぶりに逆にいじめられるというていたらくだ。しかし一日中一緒に遊んでいるので、KIANが彼らと話を始めたのだ。以前はママやダダ(私のこと)しか言わなかったのが、私が抱いていると、「ババ」という、これは降りるという意味だ。次に、「オポ」と言う、これは座ると言う意味のタガログ語だ。 この日は皆でボニファシオ・グローバル・シティのマーケット・マーケットに出かけた。目当てはそこに併設されている遊び場だ。 さらに、いとこのことを「アティ」と言う、これは年上の女の子の呼び方だ。「アティ」に対して「オポ」と言ったら、姉さんに対して、そこに座れと命令しているのだ。一緒に車に乗ろうと、「オポ」、「オポ」を「アティ」に対して繰り返して、促す。これは明らかに会話をしていることになる。  これらは私の知らないタガログ語なので、これからはKIANと一緒にタガログ語を一から覚えたいと思っている。ちなみに日本語の「ハイ」は「ポッ」だ。KIANと名前を呼ばれたら、目下のものは「ポッ」と返事しなければならない。 私はいつもKIANに日本語で話しかけるので、KIANは知らぬ間にそれを覚えている。「タベタイ」、「ノミタイ」、「オモイ」などの言葉をタイミング良く発するのだ。私がKIANを抱き上げるたびに「重い」と言うので、KIANは椅子を持ち上げながら、「オモイ」と言う。知らぬ顔をしながらしっかりと身につけているのだ。さらに「おいしい?」と聞くと首を縦に振って「ウン」うなずく。さらに「マサラップ?(おいしいという意味のタガログ語)」と聞くと、やはり「ウン」とうなずく。「うれしい?」や「マサヤ?」聞いても同様だ。これは、明らかにマルチの言葉を理解し始めている証拠だ。 スーパーに買い物に出かけて、カメラを向けると、手をあごに当てて体を曲げてポーすをとる。 夕食時となると2階から私を「ダダ」と大声で呼んで、泣き叫ぶKIANだが、お腹が空いて一緒にご飯を食べようと言う催促だ。KIANの好物は相変わらず、納豆と海苔、それに味噌汁だ。もちろん鳥のから揚げやアイスクリームにも目がない。 話は変わるが「Baby、Baby」で始まる「BABY」という流行の歌をかけるとKIANは激しく踊り始める。ステップはでたらめだが、そのハチャラカな動きには目を見張る。彼の頭の中も色々な言語がハチャラカに入り交ざって、それがおいおい整理されて、言葉となって出てくるのだろう。動画が重過ぎてアップロードできないのが残念だ。

KIANがついにしゃべり始めた 2012年5月12日


シティ・ランドと言えば、老舗の大手デベロッパーで、比較的安価なコンドミニアムをマカティ中心に提供している。現在もブエンディアとサウス・スーパー・ウエイの交差点近く(デラロサ)、パソンタモとパサイロードの交差点近く等に高層のコンドミニアムを建設中だ。  今回、退職者の方が、月々15000ペソ前後でワン・ルーム(スツジオタイプ)の家具付コンドミニアムを借りたいと言うので、シティ・ランド-デラロサを訪問して、希望の物件を見つけることができた。   シティ・ランドと言えば、安かろう、悪かろうの印象が強く、敬遠していたが、不動産屋さんに頼んでも、そんな予算ではマカティにコンドミニアムは借りられないと敬遠され、色々知恵を絞った挙句、ここにたどり着いた。サウス・スーパー・ハイウエイとブエンディアの交差点にあって、いかにもうるさそうだが、逆に目の前にハイパーマートやキャッシュ・アンド・キャリーなどの大型スーパーがあって、便利な立地だ。また、4棟のコンドミニアムが一緒に立っているために、一階にはサリサリやロンドリー、床屋など生活に必要なものはほとんどコンドミニアムの中で賄えそうだ。 屋上からマニラを望む。シティランド-デラロサはマカティの中心街からちょっと外れているため、360度の眺望がすばらしい。西側はマニラ市街地だ。  屋上のプールやジムに案内してもらったが、一流コンドミニアムと比較したら、少々施設の規模は落ちる。しかし、15000ペソで借りられるコンドミニアムでは、普通ならジムやプールは期待できない、ここはかなり充実していると言える。  東側のマカティ方面は上の写真が北側で下の写真が南側だ。横に並べてみれば判りやすいのだが、南側半分はほとんどが新築の高層コンドミニアムだ。サウス・スーパー・ハイウエイの2階、スカイ・ウエイはここから始まる。前方に見えるコンドミニアムもシティランドの物件だ。 この方は、地震をずいぶん心配していた。フィリピンの構造物は中国のように地震でくずれないだろうか。だから高層ビルはいやだ。また、他の安いコンドミニアムではゴキブリの攻撃にさらされて往生したそう。幸い、ここは清潔でゴキブリの影は見えなかった。地震については、 ①フィリピンは火山国でフィリピン海溝など日本に地形は似ているものの、私の20年の経験では、地震らしい地震は2回しかなかったこと(バギオ地震と、最近のネグロスの地震)。 ②マカティは地盤が非常にしっかりしていて、たとえ地震があっても、関東地方のようにゆるい地盤で地震が増幅されることが少ないこと。 ③フィリピンの耐震設計は昔の日本のように構造物の重量の0.2倍の水平力を考慮することになっており(1990年ごろの耐震設計基準)、日本の従来の建物に比べて、地震が少ないだけ安全であること。 などなど説明して納得してもらった。 ちなみにフィリピンで建設中の高層ビルはすべて鉄筋コンクリート製で日本のように鉄骨製のビルはない。これは、下記の理由によるもので、日本に比べて建設費は数分の一ではないかと推定される。そのため、日本の建設会社による、工事は全く見ることができない。 ① 地盤がしっかりしていて、重量の大きい鉄筋コンクリート構造物を容易に支えることができること。 ② 地震が少ないので、設計上顧慮すべき水平力が小さく、重量がかさんでも設計が成り立つ。 ③ 鉄筋コンクリートの材料は、セメント、砂と砂利、鉄筋でいずれもフィリピン国内で調達が可能、すなわち材料費が安い […]

シティランド(デラロサ)からの眺望 2012年5月12日



フィリピンにやって来て最初に苦労するのが、なかなか良い地図が見つからないことだ。特に道路マップが貧弱で、地方に旅行するときなど苦労する。1989年フィリピンにやって来て最初に手がけたのが地図探しだった。  そこで判ったのがフィリピンにも1万(1万分の一地形図)、5万あるいは20万という地図が立派に存在することだ。日本の国土地理院のようなところ(The National Mapping and Resource Information Authority (NAMRIA))で発行・販売しているだけだが、販売所はボニファシオの基地の中にある。ちなみに下の地図はマヨン火山付近の20万分の一の地形図だ。 フィリピン全体の地図としては色々あるが観光省で発行している地図が日本語で見やすい。主要な観光地が記されて、裏はマニラあるいはセブの観光案内がコンパクトにまとめられている。在日フィリピン大使館の横山さんに頼めば手に入るはずだ。 道路マップとしては主にACCU-mapとE-Z MAPが主要都市とフィリピン全土をカバーするものを出しているが、個人的にはACCU-mapの方が好きだ。最近でこそ、本屋、文房具屋、ホテルなどで見かけるが90年代は、入手がなかなか難しかった。 マニラ首都圏のマップとして優れものがマニラ新聞で出しているNAVIに載っているマップだ。マカティ、エルミタ/マラテ、ボニファシオ、オルティガス、ロックウエルなどが、日本人が訪れる店や事務所が日本語で記載され、大変重宝だ。  いよいよ本題に入るが、何故、フィリピンでは地図が少ないのか。それはフィリピン人が地図を使わないからだ。それでは、何故使わないのか。それはほとんどの人が地図を読めないからだ。日本人からすると、何故と思うかもしれないが、彼らは地図など見なくても、住所さえあればどこでもいけるし、それで不自由はしないのだ。  そもそも、鳥でもない限り地形や道路を上から、あるいは3次元的に見ることはない。地表にいる限り、人は平面的あるいは2次元の世界で暮らしている。だから、どこかへ行くのに人は、元来地図すなわち3次元的ではなくて平面的すなわち2次元的に捉えているのだ。例えば、「まっすぐ1km進んで、マクドナルドのところを右に向かって、3つ目の道路を左に折れて...」てな具合だ。  本来2次元である地形や道路を鳥のように3次元で捉えること、また逆に3次元的に眺めたの地図から2次元に落として捉える、と言うことはよほどの訓練がなければできないことだ。すなわち訓練によって身につけることのできる後天的能力であって、エンジニアーが設計図を見ただけで、現物をイメージできるのと似ている。  例えば、鳥が地上に降りて歩いてどこかへ行こうとしても不可能だろう。また、逆に蟻を空に連れて行って、行き先を聞いても判らないだろう。彼らは位置の捕らえ方が、全く違うのだ。どちらかといえば、蟻に近い我々においては、2次元で捉えている位置を3次元的に表現しようというところにどだい無理があるのかもしれない。 […]

フィリピン人は何故地図が読めない 2012年5月12日


  このほど、MAさんのフィリピン人との結婚の手続きをお手伝いする機会があった。結婚式はアンヘレスの近くのマガランというところで、そのため、相棒のジェーンとともに立会い人として出席した。マガランはアンヘレスから20分くらいのところだが、典型的な田舎町だ。  MAさんは私と一緒の昭和22年生まれの64歳だ。先妻とも別れて、今は一人ぼっち、まだ現役で働いてはいるものの、将来一人暮らしでは介護などの状況に陥ったとき、面倒をみてもらう人もいないという憂いから、まだ30歳のフィリピーナを再婚の相手として選んだ。彼女の実家には今回初めての訪問だが、2週間の滞在がまるで島流しのようでかなりストレスがあったとのこと。この経験を活かして将来の住処など間違いのないように計画したいと言っている。 妻となったフィリピーナは10歳前後の子供を二人持つシングルマザー、日本に働きに行った経験もあり、片言の日本語を話す。彼女としては結婚してしばらくは日本に行って、家の資金を貯めたいという目論見がある。いわば双方とも典型的な結婚の動機をもっている。 式はマガラン市長が執り行ったが、なかなか厳粛なもので、この間約20分、新郎のMAさんは感激で涙が出そうになり、初婚の妻はMAさんが震えていたと笑っていた。単なる立会人として出席した私は、急遽通訳もやらされてちょっとあせった。 新郎新婦による恒例のキスの場面ではMAさんの照れは尋常ではなかった。しかし生まれも育ちも思惑も違う二人が、これから夫婦として一緒に暮らしていくことは容易な事ではないだろう。妻の執拗な金銭的要求をいかにはねつけていくか、もちろんできるだけのことはするにしても、ないものはないと、きっぱりはねつける固い意志も重要だ。よく話しあって納得づくで進めることが大事で、決して短気を起こしてはいけない。3周りも上の人間を生涯一度しかできない結婚の相手に選んでくれただから、その覚悟を汲んでやらなければならない。 ところで、フィリピンでの婚姻の手順は下記となる。 ① 結婚要件具備証明書の日本大使館での取得(戸籍謄本を準備、離婚歴がある場合はその記述があるものも用意する) ② 婚姻許可証を妻の住まいのある市役所で取得。10日間の掲示を経て発行される(具備証明のほかに、妻の出生証明、未婚証明(CINOMA)などが必要) ③ 挙式(牧師、判事、市長などが式を執り行う資格を持っている) ④ 市役所での婚姻証明書の取得 ⑤ 日本大使館あるいは日本の最寄の市役所あるいは日本大使館に婚姻の事実を届け(①から④までの手順で作成・取得したすべての書類を翻訳して提出する)、戸籍に反映させて手続きは完了する なお、手続きを簡単に済ますためには①から④間での手続きを市役所の登録事務所に一括して任してしまうことだ。いくばくかの金で約2週間でやってくれる。したがって、①から⑤まで、約3週間の滞在で完了できる。 式を終え、婚姻許可証の発行にも目処がついて、MAさんはほっとした様子。さすがに新婦と寄り添って幸せそうだ。新婦の二人の子供も加わって、市長室で記念撮影を行った。  この後、身内の人が集まって披露パーティを行うそうだが、そのときの姻戚一同の騒ぎっぷりは想像に難くない。

MAさんの結婚 2012年5月2日



  毎週、金曜と土曜日にはSMモール・オブ・エイシアのマニラ湾沿いで7時から花火が打ち上げられる。この日は、来比中の息子の歓迎で花火見物ととシーフードマーケットでの食事を皆で出かけた。 SMモール・オブ・エイシアのマニラ湾沿いにできたバイ・ザ・ベイにはレストランをはじめ、様々なアトラクションが設けられ、花火見物の人でにぎわっていた。 噴水の周りには涼を求める人でにぎわっている。水を見るといてもたってもいられないのがKIANだ。ヤヤ(子守)の制止を聞かず噴水に飛び込んでしまいそうな勢いだ。 たったの5分程度の花火だが、中々見ごたえがある。あまりの至近距離に子供達は怖がってしまっている。花火はモール・オブ・エイシアのベランダから眺めるのが丁度よさそうだ。 花火の後は、マカパガル通り沿いのシーフードマーケットレストランに移動。ここはマーケットで新鮮な魚介類を買い求め、周辺のレストランで料理をしてもらう。 生きたカニをさわって歓声をあげるKIAN。巨大なシャコにびっくり。生きたロブスターもあるが高くて手が出ない。エビは小さいほうがおいしい、しかも安い。 この日は料理が出るのに手間取ったが、その間、コーラで乾杯したり、氷を挟んでコップに移したり、KIANのパーフォーマンスが続く。KIANにとっては何もかもが目新しい経験だ。 子供も入れて10人、〆て2500ペソ程度の予算で有り余るほどの料理だ。もちろん余った料理は持ち帰って家に残ったボボイらの食事になる。 この店ではライブの演奏がある。ダンスが得意のKIANは早速シンガーと一緒に踊りを披露する。シンガーのコメントは「そんなに迫って、私を妊娠させるつもり、私はあなたには年を取りすぎているわよ」だったそうだ。 カーネルの娘のキムも唄を披露。プロのシンガーと全く遜色のない歌いっぷりだった。 レストランの前には海賊版のDVDが並んでいる。最近、マカティスクエアの地下のDVD売り場が一掃され、パーク・スクエアのオデッセイで750ペソの大枚を払ってCARSというDVDを求めたばかりだ。しかしここでは最新版のDVDが4枚で100ペソという信じがたい価格で売られていた。KIANの大好きなTOY STORY4を見つけて都合12枚を300ペソで購入した。

SMモール・オブ・エイシアの花火と格安DVD 2012年4月30日


 5月の連休の農場訪問を控え、各種果樹の苗とパイナップルの苗を購入するためにタガイタイにでかけた。この風光明媚な別荘地は比較的涼しい気候のため、果物や花の名産地で、道路沿いに無数の店がある。果樹の苗はマホガニーマーケットで、パイナップルの苗は道端のパイナップル畑で購入するつもりだ。 来比中の息子はもちろん、夏休みで田舎から遊びに来ているKIANのいとこ達、それにKIANの腹違いのお姉さんキム、総勢10人(大人6人、子供4人)がモンテーロ一台に乗り込んで出かけていった。  途中で名物のジャパニーズコーン(ゆでとうもろこし)8本を100ペソで買って食べた。これは、すなわち一本25円、日本なら一本500円は固いと息子が感激。 しかし、タガイタイにつくころにはすでにお腹が空いて、早速、マホガニー・マーケットのトロトロ・レストランに飛び込んだ。タガイタイ名物ブラ・ルー(牛のすね肉を煮込んだスープ)など10人がたらふく食べて、1200ペソ足らずだった。 苗木10本を買ってモンテーロに積み込むと3列目のシートを使えない。そのため、2列目のシートには大人4人と子供3人のすし詰め状態で、次の目的地のレジデンスインに向かった。レジデンス・インはタガイタイ・シティを過ぎてしばらく行った左側にある。  ここはスービックにある動物園、ズービックを経営するユーパンコ(マカティ・ブエンジア通りには大型の楽器店を運営している)の持ち物で、1990年初頭から運営されている。  小規模な動物園と展望の良いレストランがあるだけだが、レジャー嗜好が強くなった最近は人気が出てきて、訪問者が多い。そのため、色々とアトラクションを企画しているようだ。しかし今回は予算の関係で子供達とヤヤだけを入場させた。 1990年代は入場料が10ペソ程度で、ほんの気持ちだけの入場料だった。ところが大人と4フィート(1.2m)以上の子供は299ペソ、3~4(0.9m~1.2m)フィートの子供が199ペソ。幸いKIANだけが3フィートに及ばないので無料。だから10人となるとかなりの金額になってしまうのだ。だから、子供の付き添いはヤヤ一人で、そのほかの大人4人は外で待つことにした。      帰り道、道端の果物屋にパイナップルの苗に購入について聞いた。苗といっても要はパイナップルの頭についている葉っぱのこと、1個5ペソということで、200個、1000ペソを買った。それが大きな米袋が3個、ようやく車に載せることができた。これで農場に待望のパイナップル畑がつくれる。 珍しいものにおおはしゃぎのKIANは昼寝の時間も過ぎて、ようやく眠りにつく。しかし、このときパイナップルの葉を指に刺して大泣きして、泣き寝入りの形となった。

タガイタイのレジデンス・イン 2012年4月30日



 マニラ湾の埋めたて地、Sofitel(Philippine Plaza) Hotel の近く、Film Centerで毎日(月曜を除く)オカマのショーが開かれる。オカマといっても遠めには区別がつかない、本格的ダンスショーだ。8時、開演で、約1時間、たっぷり楽しませてくれるが、飲み物や食事は出ない。 当日チケット売り場でチケットを買えば十分で、予約の必要はない。無料雑誌Primerをもっていけば入場料は1200ペソだというので、窓口で2人分 2400を用意した。しかし、入場料は一人2500ペソというのでびっくり、二人で5000ペソは痛い。どうしてそんなに高いのだと、受け付けにごたごた言っている間に、日本人かと質問された。そうだと答えると、入場料は1300ペソだという。それならいいかと3000ペソを渡すと、1800ペソのお釣りがきた。ええっと、聞き返すと、フィリピン人は500ペソだという。そして、まだ来ない同伴者は「フィリピン人に間違いないわね」と念を押された。 いずれにせよ、1800ペソで済んだのは幸いとほくそえんだのだが、どうもいつもと違う。フィリピン人か価格の倍をいつも払わされて、何とかフィリピン人で通せないものかと思うのだが、今日は日本人だから、韓国人の半値とは、生まれて初めての経験だ。喜んでいいものなのか、屈辱なのか、複雑な気分だ。要は支払い能力によって同じ買い物をしても料金が違うわけだが、日本人は、支払い能力において、韓国人劣るとみなされているいとうことなのだ。  確かに韓国のサムソンが大きな利益を享受する一方、ソニー、パナソニック、シャープなどは軒並み大幅な赤字だ。かつての世界のブランド、ソニーが得意のテレビ部門でサムソンに水をあけられて、50過ぎの新社長が再生を誓ったばかりだ。 ところで、オカマショーの方は、映画館のような感じに座席が並んでおり、通路で三つに分かれた客席の真ん中の部分は韓国人で満員だ。両脇の客席はまばらで、我々のチケットでは真ん中に座らせてもらえなかった。金満韓国、貧乏日本てなところか。  ショーの内容はヨーロッパ、フィリピン、中国、韓国、日本の伝統的な踊りを披露し、中々見ごたえがある。これにマジックショーなど加えるともっと楽しめるような気もするが、フィリピンにはこの手のショーがほとんどないので、よしとしたい。同行したフィリピン人は瞬きもせずに見つめていたので、そこそこのもなのだろう。最近少々感受性の鈍くなった私にはショーよりも同行したフィリピン人の方が気になった。  

Amazing Showの紹介 2012年4月29日


  4月19日、パスコホームページへのアクセスが70万回に到達した。昨年の5月19日に50万回に到達したので、丁度11ヶ月で20万回のアクセスとなった。一月あたり18200回、毎日600人強の方のアクセスがあったことになる。大台の100万回達成も、後1年半足らずだ。  最近、連絡のあった退職者の方が、このHPとブログの存在を知り、三日三晩、夜を徹して読み続けたとメールをくれた。読み始めると停められず、過去にさかのぼり、4年前の最初のブログ、「イメルダマルコスとの遭遇」まで、一気に読みきってしまったそうだ。ブログを書くものにとって冥利に尽きるといえる。最近改訂版を出した拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」を読み合わせると、フィリピンのことが手に取るようにわかり、フィリピンについてのバイブルと牧師の説教の様だとも評してくれた。  現在まで、約500件のブログを書いてきたが、できれば1000件まで書いてみたいと思う。そうなるとあと、4年は頑張らないといけないことになる。  2010年、3月に相棒のフィリピーナにベイビーKIANが誕生して以来、話題の中心がKIANに傾いてしまっている傾向が強いが、KIANの成長ぶりを報告する中でフィリピンの文化を読み取ってもらえるとありがたい。その他、退職者にとって有用な情報も仕事柄入手することが多いので、報告していきたい。  そんなわけで、ブログの話題集めに日々心がけるのだが、本業が忙しいとなかなかブログの執筆に手をつけられない。4月はまだ一件のブログをアップロードしただけだが、毎日、ブログの更新を楽しみにアクセスしてくれる600人の方には申し訳ない思いが強い。日々の業務に追われていると平日はどうしても落ち着いてブログを書く時間がとれない。土日がチャンスなのだが、逆に土日だからこそ出かけたり、たまった仕事を片付けたりで、あっという間に半月ぐらいご無沙汰してしまう。  しかし、「金無し...」とこのブログがビジネスの顧客と私を結ぶ唯一のパイプだと思うと、日々の業務もブログあってのものなので、今後も話題集めと執筆に努力していくつもりなので、読者の方々には楽しみにしていただきたい。

パスコホームページが70万回アクセスを達成 2012年4月22日



ホリーウイークの休暇でタバコ市の農場を訪れた折、最終日は空港のあるレガスピ市のカーネル(マム・ジェーンの亭主、KIANのお父さん)の実家に泊まった。翌日の便が早朝6時半出発で、暗いうちに空港に行く必要があるからだ。その際、夕食をとりにレガスピ港の脇にできた新しいモール(イン・バルカデロ・デ・レガスピ)にでかけた。そこには本ブログの主人公のデバインが働いているのだ。 5年前、まだ17歳のデバインと私(ではなくて私の息子)。ちょっとお似合いのツーショットだ。  デバインとのなれ染めは、私が2002年にレガスピ近郊のタバコ市に農地を購入し、そこの農場と住居を建設した際、もっぱら私の食事の世話をしてくれたのが、彼女だ。彼女は当時12歳だったが、すでに顔も体も大人で、すでに男心をくすぐるものをもっていた。インド人との混血で(当時はアメリカ人との混血と聞いていたが、その後インド人であることが判明)大きな目と整った顔つきで、すでにかなりの美形だった。しかし、今回久しぶりに会ったら、まだ若干21歳なのにかなりの重量級で、しきりにダイエットを勧めておいた。  彼女が働いているINASALは現在もっとも出店が盛んなファーストフードチェーンだ。  マム・ジェーンのいとこである彼女の母親が若いときからパロパロ(浮気もの、もともと蝶という意味)で結婚前から異なる国籍のボーイフレンドの子供を作り続けた。そして、フィリピン人と結婚したら、それまで作った子供の面倒を見れなくなり、しかも、そのころおばあさんが亡くなって、デバインは親戚をたらいまわしされる羽目になってしまった。  しかし、行く先々で、その美形に、預かってもらった家の亭主どもがちやほやするので、その女房達がやきもちを焼いて追い出される羽目になった(注)。そこで行きついた先が我が農場だ。そこでマム・ジェーンの母親(マミー)に面倒を見てもらいながら、ハイスクールと専門学校を終えた。私は2003年から 2004年の1年半を農場で彼女と過ごしたが、そのころ彼女はハイスクールの前半で(13~14歳)、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」の191ページのメイドさん役で登場している。 注:フィリピンでは再婚した妻の連れ後の女の子が成長すると亭主が無理やり手篭めにしてしまうということがまかり通っているそうで、義理の父親とて油断できない存在なのだ。ましてや妻の親戚の子供となったら、亭主はもっとも危ない存在だ。だから妻達のやきもちはもっともなことなのである。  港を眺めながら食事ができるレストランは中々風情があって、パスコの法律顧問であるマリソール(写真左の左から2番目、端が亭主)が亭主とともにかけつけてくれた。ちなみに彼女は4人目の子供を宿していて、最近体調不良で仕事が遅くなっている。上の3人は全部男で金太郎飴のように同じ顔をしているが、亭主は、今度こそ女の子ができて欲しいと意気込んでいた。  農場で生活していたころ、デバインは何かと頼りにされ、何かマミーに頼んだり聞いたいるすると次の言葉は「デバイ~ン」と大きな声で彼女を呼びつける。ちょっと小言を言うと「デバイン・カセ」と彼女のせいにされ、それでも何一つ文句をいわず大きな家と農場を走り回っていた。  現在、農場でその役割を担っているのがビアンカだ。彼女はすでに16歳と推定されるが(注)、立派な少女に育っている。今は年に数回農場を訪れる程度だが、そのとき一番の頼りになるのがビアンカで、家の中のことなら何でも知っており、農場の欠かせない人材になっている。現在ハイスクールの3年を終えたところで、後1年で大学進学となる。しかし、13人の甥や姪を抱えるマム・ジェーンに私立に行かせる余裕もないから、ビコール国立大学に入学できたらOKだが、それがだめだったら専門学校で何か手に職をつけさせることなっているそうだ。 注:ビアンカの生い立ちについてはいずれ別途ブログに掲載する予定 ホテルレストラン学科を卒業したデバインは、一時マム・ジェーンと折り合いが悪くなり、農場を出てレガスピでパン屋に勤めていたが、今はINASALのレジをやっていた。農場にはたまに来る程度で、去年のKIANの誕生日と今年の正月に面会した。彼女達はもはや全く屈託がないようで、久しぶりの再会を喜んでいた。食事の後、デバインの話を聞きたいので、生バンドのあるパブに席を移した。KIANは睡眠の時間で両親とともに帰宅した。 PNP(フィリピン国家警察)の幹部であるヤン大佐に悲鳴を上げさせるKIANは怖いもの無しだ。右はいかにも福福しいデバイン。  デバインは16歳の妹のクレヨを引き取ってハイスクールに復帰させ、自分自身も大学に通っているという。朝8時から午後3時まで大学に通って、夕方から深夜までINASALで働いて、寝る時間はあるのかと心配になる。給与は一日256ペソ(多分この地域の最低賃金だろう)。手取り205ペソ、毎日はたいても月々たったの6000ペソ程度だ(1万2千円)。この金で、二人分の宿、食事、交通費、学費を賄おうというのだが、とても可能とは思えない。それでも、いかにも明るく元気に生きているのだ。しかもこんなに太っている、これはINASALのライスのお代わりは無料というポリシーによるものらしい。「ボーイフレンドはいるのか」と聞いたら、「一人」と恥ずかしそうに答えていた。デートの金も時間もないと思うのだが。 […]

デバインの奮闘記 2012年4月22日


  4月2日(月)、ホリーウイークの連休(4月5日(木)~9日(月)の5連休)を利用して、久しぶりにタバコ市の農場を訪問した。早朝にも関わらず、ターミナル3は帰郷する人の群れであふれていた。 KIANは3月31日生まれなので、丁度2歳と2日目の帰郷となる。  ターミナル3はセブパシフィックとANAが利用しているだけで、部分開業だが、空港内の店も大分充実してきている。  空港内では相変わらずKIANが抱っこをねだる。こんな顔をされるといやとは言えず、重量級のKIANのおかげで、ひじと肩の関節の痛みが直る暇がない。いつも活発なKIANを飛行機の中で大人しくさせるためにカッパエビセンを握らせている。 マカティとボニファシオ・グローバル・シティが遠方に朝もやに浮かんで見える。  この日、下界は雲の下、雲海が美しい。レガスピ空港までの空のたびはほんの30分強で、雲に包まれるマヨン火山がそびえている。   レガスピ空港に降り立ったKIAN、正月以来、4ヶ月ぶりだが、今回はしっかりと記憶しているようだ。飛行機に向かって手を振っている。マヨン火山もKIANを歓迎して雲の上から顔を出している。 迎えの車の中でもおおはしゃぎで、いとこやおじさんとの再会を喜んでいる。ナイナイバーはKIANの得意だ。これを英語でPICK A BOO、ビコール語でブラガというそうだが、赤ちゃんの万国共通の遊びのようだ。 農場までの道のりを覚えているのか、盛んに何かを指差している。 1週間の農場滞在を終えて、4月9日(月)、連休の最終日はは父親の実家に移動した。バスターミナルはマニラに戻る人で一杯、一体いつバスに乗れるのか、あてもないままにひたすら待ち続けているように見える。  

KIANの2歳の帰郷 2012年4月22日