Yearly Archives: 2012


    ちょっと早めのクリスマス、年末年始の休暇を取って、12月20日早朝、ターミナル3からセブパシフィックで旅立った。KIANとママ・ジェーンとの3人連れの旅だ。出発は朝の5時半、まだ薄暗闇だ。ターミナルからン眺めるニューポートシティはクリスマスの飾りで灯りに照らされていた。早朝の6時だというのに荷物検査を待つ人々は空港ビルの外に長蛇の列を作っていた。クリスマス寸前の22日、23日だったら、大変な人だったろうとぞっとする。ボーディングのために飛行機に近づくとKIANはたくさんの飛行機を見てはしゃぐ。あこがれの本物の飛行機だ。 フォート・ボニファシオの遠景。この日はよく晴れて、マカティ、ボニファシオ、オルティガスの高層ビル群が手に取るように眺めることができた。 レガスピ近郊の土地を見に行ったが、マヨン火山、レガスピの街並み、そして海が眺められる絶景の地に住宅開発の波が押し寄せていた。平米100ペソ程度だったであろうが、現在は住宅用地となって、経伊部1500ペソに寝あがっている。さらに斜面であるために、造成費が相当かかりそうだ。 マヨン火山は残念ながら雲で隠れていて見えない。マヨン火山が噴火すると、レガスピ方面は泥流で埋まるが、これだけ離れていれば、天然の花火見物としゃれることができるだろう。パスコの法律顧問のSol(ソール)の旦那に抱かれてガッツポーズをとるKIAN。ちなみにSolはジェーンの同級生だが、すでに4人の男の子をもうけている。皆ご主人と同じ顔で金太郎飴のような子供たちだ。  HIGHLANDSと銘打った住宅地団地だが、まだまだ建設中だ。 この辺は、レガスピの市街地から車で15分程度の場所だが、田舎で路上で牛を見かえる。KIANは、「くさい」と鼻と口を覆っている。 しかし、久しぶりに見る田舎の景色に目を輝かせて車の外を眺めていた。  ココナツ林は、景色は平凡だが、平らで造成が楽そうだ。ここはたったの900平米しかないので、ちょっと使い道に困る。  レガスピの南には海岸沿いに道路ができていた。カメリア・ホームズの大規模な住宅団地が開発されている。この辺にはお店が並んで、夜になると恋人たちでにぎわう新名所だそうだ。 タバコ市のファームに到着すると、早速、従兄弟たちの出迎えだ。皆、歓声をあげて、KIANを抱きしめていた。KIANも半年ぶりにあう、クヤやアテを覚えているようだ。

ビコール訪問 2012年 12月23日


   早いものでKIANも来年の3月には3歳になる。この半年、KIANの会話能力はめざましい成長を遂げ、周囲との会話を楽しんでいる。タガログ語が混じると、すぐにママ・ジェーンのチェックが入るが、自分の意思をしっかりと言葉で告げることができる。そして話題のGANGNAM STYLEを独特のステップで踊って周囲を沸かせる。 先日のPRAのクリスマスパーティでは、いろいろな珍しい催しに目を輝かせる。   保育園で教えてもらうらしいが、食事前のお祈りも英語で暗記しているほどで、KIANの知識は著しく成長をとげている。そんな時、KIANを保育園に通わせることを進言した私は得意げに、{子供がが興味を持っていることにチャレンジさせ、決して「まだ早い」とか、「礼儀が悪い」とか、大人の既成概念で子供を縛ってはいけない、かれらは無限の成長の可能性を持っているのだから}と、しつこく繰り返す。 ポールダンサーには、まさに興味津津だ  一方、 KIANのやんちゃぶりは、ますます磨きがかかり、ママ・ジェーンも手を焼いている。先日、保育園の年上の園児にかみついて血を流させてしまうと事件が起きた。ママ・ジェーンはその園児の母親から抗議を受け、さらに父兄会の要求でKIANが保育園を退学させられるのではないかと心配した。 パーティの最後のダンシングタイムはママが他の男と踊っているのを見て、抗議をしていた   KIANの両親、すなわちママ・ジェーンとカーネルが保育園にお詫びに行くと、意外にも先生は「KIANは、何も悪くない、件の園児がKIANの勉強を邪魔するので、KIANが怒って、かみついてしまったのだ」と必死にKIANを弁護する。 保育園での作品を得意げに披露するKIAN  さらに、先生の言うことを聞かない生徒に対しては、KIANが制裁を加えて、言うことを聞かせるそうだ。先生は父兄の手前、子供を叱ることが難しい。だから、すっかり先生の頼られる存在になっているそうだ。  クラスの嫌われ者のはずのKIANにはクリスマスパーティではクラス全員からプレゼントが寄せられるなど、皆に慕われ、すでにクラスをしっかり束ねてしまっているようだ。   誤ってトウガラシを食べてしまい、その辛さに泣叫ぶKIAN  KIANの性格はどう見てもママ譲りだ。ママ・ジェーンの弟のボボイにジェーンの幼少の頃のことを聞いた。ボボイは、「彼女は中国人の父親に甘やかされて、とんでもない乱暴者で周囲に嫌われていた」と評する。ジェーンの母親(マミー)は必死にその性格を矯正しようとしたらしいが、なかなか思い通りにならなかったらしい。その結果、マミーの劣等生だったはずのジェーンを、今では兄弟、皆が頼りにする、頼もしい姉御に育っているのだ。 […]

三つ子の魂百まで 2012年12月22日



マニラ新聞が発行している無料誌ナビ・マニラにビコール・エクスプレスが復活したとの記事が載っていた。ビコール・エクスプレスとは、マニラービコール地方レガスピ市を結ぶ、約500kmのフィリピン唯一の長距離列車。一日たった一本、約12時間かけて走る夜行寝台列車だ。現在は長距離バスに押されて、その存在意義が疑問視されるが、フィリピン国鉄(PNR)の威信をかけての復活だ。   昨年、マニラとラグナを結ぶ通勤列車が、韓国から援助された列車を使って運転されているが、国鉄というにはあまりにもお粗末だった。そのため、日本から援助されたかつてのブルー・トレイン「北陸」を使っての長距離路線の復活はPNRの祈願だった。 ここ数年来、マカティの南、サウス・スーパー・ハイウエイ沿いを走る線路のスコーターが撤去され、通勤列車が走り始めたが、線路はがたがたで、いまだにスコーターの住民の昼寝の場所になったりしている。 ビコール・エクスプレスは、2006年の超大型台風レミンの被害で、鉄橋がいたるところで破壊され、約5年間、不通になっていた。この台風ではビコール地方タバコ市にある我が家も屋根が吹き飛ぶという大変な被害を被った。 レガスピの手前のリガオ、私は、レガスピを訪問することが多いので、まさかこんな状況の線路に列車が走るはずがないと、その復活を信じることができなかった。 レガスピの中心地の近くに駅があるので、今回の訪問を期に立ち寄ってみたが、そこは相変わらずの廃屋だった。 しかしながら、ここでクリスマスの模様しものが開かれるようで、飾り付けがあった。中では公園のように人が散策していた。普通の駅と違って線路はここで行き止まりだから、駅のプラットフォームの端が駅舎となっている。運賃は片道655ペソ、車内は清潔だが、乗り心地は今一、現在脱線横転事故の復旧で運休中だそうだ。 ちなみにビコール・エクスプレスは、ビコール地方の名物料理の名前でもあり、トウガラシとオキアミをココナッツで味をつけた、フィリピン唯一の辛い料理だ。だから、甘党のフィリピン人の中にあって、ビコラノだけは辛党で知られている。

ビコールエクスプレスの復活 2012年12月21日


2014年1月31日追記 2014年1月22日(水)、空港で客を出迎えに行く折、スカイウエイを通ると、その終点にたくさんの椅子が並べられ、なにやら式典が行われる模様だった。翌日のマニラ新聞によると、アキノ大統領も出席して、南北ルソン高速道を結ぶ高架式のスカイウエイ第3期工事(14.8km)の起工式が行われ、2017年4月までに完成する予定だそうだ。総工費は266億ペソ、インドネシアの建設会社、国家建設公社(PNCC)およびサンミゲル社が設立した合弁会社、シトラ・セントラル・エクスプレスウエー社(CCEC)が事業主体となる。 もう一本の連結道、メトロ・エクスプレスウエー・リンクはすでに着工済みで2016年中にも完成する予定なので、この2本の高速道路ができたら、マニラを取り巻くカラバルソン(カビテ、ラグナ、バタンガス、リザール、ケソンの5州)の流通は飛躍的に改善されるだろう。 南ルソン高速道はかつてSouth Super Highwayと呼ばれていた。一方北ルソン高速道はNorth Luzon Express Way,、略してNLEXと呼ばれている メトロマニラの南北を環状に縦断する幹線道路EDSA(エドサ)通りは、朝夕の通勤ラッシュだけではなく、ほぼ一日中渋滞し、マカティからケソンまで10km程度の距離に1j時間以上かかってしまうという、マニラを象徴する悪魔の道路だ。  ここ十数年で、主要な交差点の立体化は完了したが、人口と経済の拡大による自動車の増加で、焼け石に水、高架鉄道のMRTも渋滞緩和に役に立っていない。特に最近整備が完了した、メトロマニラからの南へ走るSLEX(SOUTH LUZON EXPRESS WAY)と北に走るNLEX(NORTHLLUZON EXPRESS […]

メトロマニラ縦断高速道路の着工せまる 2012年12月19日(2014年1月31日改定)



  件の3組のご家族の到着が一時間半ほど遅れ、昼食、書類の準備やクリニックの受診を終えたときは午後5時を回っていた。それから皆でパラニャケに向かい、渋滞にいらだちながら、デューティフリーショップに到着したときは、すで午後6時、すでに暗かった。パーティは午後4時からなので、すでにプログラムの半ばだ。それからまた、会場探しに苦労して、ようやくたどり着いたときはすでにあらかたのスケジュールを終えショータイムやギフトの交換、さらにラッフルの時間となっていた。 永年継続者(Jubilarian)と称してはいたが、これはまさにクリスマスパーティだ。昨年同様、経費削減で会場費をケチったようで、普段、車やバイクが展示してあるところに、にわか仕立ての会場にギュウギュウ詰めに退職者が座っていた。 私も10年目の表彰があるはずだったのだが、遅れてきたため、もらえるはずのギフトにありつけなかった。みなの興味はギフトの交換やラッフル(くじ引き)に移ってしまっている。KIANもピーターパンの格好で駆けつけたが、おばあちゃんに固く手を握られて、どうしていいか困惑している。KIANは人に拘束されることが大嫌いなのだ。後は、歌やダンスの時間だが、音楽がなり始めると、KIANは自然に体が動いてしまう。 昨年と同じ歌手が出演していたが、KIANは覚えているのかいないのか、早速親しげにツーショット。ポールダンサーはちょっと場にそぐわない気もしたが、KIANは口をぽかんとあけて、何をやっているのだろうかと、眺めていた。 クリスマスの写真撮影用に用意されたサンタは、退屈で居眠りをしている。これも昨年と同様、どこかの学校の音楽クラブ(もしかしたらどこかの施設ののチャリティなのかも知れない)の演奏とダンス。マムジェーンはKIANのためにGANGNAM STYLEをリクエストして、KIANのダンスが披露された。動画のアップロードができないのが残念。

JUBILARIAN AND YULETIDE DAY 2012年12月17日


  日本から3組の母と子供達が退職ビザの取得のためにフィリピンを訪問された。総勢8名のいわゆる母子疎開だ。目的は、ずばり、「放射能汚染が蔓延する日本にもはや住む場所はない」と語る。到着早々、皆さんは、始めてのフィリピン訪問と言う話を聞いて、その勇気と決意に驚いた。初めて訪問する国、それも3Kの悪名高いフィリピン(?)で永住することもいとわないという、すべて子供の健康と将来だけが命なのだ。  5人のお子さん連れ、総勢8名の健康診断や銀行手続きなどの申請準備に予想外の時間がかかった。どこか、訪問するたびに、まず、おしっこで、トイレ探しに追われ、喉が渇いたと、ミネラルウオーターの調達に走らなければならない。  到着日の午後は書類の準備と健康診断、そしてPRAのパーティに参加(12.12.12の記念すべき日、別途報告の予定)。翌日は終日マニラ見物。そして3日目は銀行手続きとビザ申請、そしてモール・オブ・エイシア訪問と、連日、夜10時すぎまでの強行軍だった。 マニラ見物の最初の訪問先は、ラスピニャスのサウスビラ・インターナショナル・スクール。母子疎開の先輩の案内で、子供の教育環境とオハナ・コンドやイリジウムなどの住宅環境の視察。先輩のお勧めで、SMサウスモールのMary Graceイタリアン・レストランで昼食をとる。しゃれた店構えは日本のレストランに勝るとも劣らない、それで値段は半分以下と、お母さん達は大満足だ。 次に向ったのがフォートボニファシオ・グローバルシティとアメリカンセメタリー。広々とした芝生に子供達はおおはしゃぎ。そしてマニラ・インターナショナル・スクールや日本人学校の立派さにびっくり。インターの学費、年間160万円にはためいきをつく。彼女達は、放射能汚染で住めなくなった日本を逃げ出す一般庶民だから、企業の援助で、このような学校に通う駐在員子女とはちょっと事情が違う。将来、ご主人も日本に住めなくなると生活の糧を失ってしまうリスクもあるから、財布の紐は固い。フィリピンで外国生活をエンジョイしようなんて気はさらさらなくて、まさにサバイバルの気概を持っている。 お一人がクリスチャンということで、特にイントラムロスや、チャイナタウンの世界遺産の教会群に興味をもたれていた。世界遺産、サンアガスティン教会で、丁度、結婚式をやっていた。この街は歴史地区とはいえ、現役で活動している生きた街なのだ。マプア工科大学などの大学が並ぶ一角は平日のため学生があふれていた。  かのフィリピン近代史の英雄、先代のアキノ元大統領の葬式が行われたのが、クリスチャンの総本山、マニラ大聖堂だ。残念ながらその中には入れなかったが、遠くから記念撮影。そして次に向ったのがチャイナタウン。その一角のビノンド教会は天井の絵画が有名だそうで、そう思って見るとなかなかユニークで見ごたえがある。  キアポ教会周辺の人の洪水にはさすがに緊張、お母さんは子供達の手を固く握り締める。その辺をうろつく犬達に恐怖感を覚えるのは、フィリピンの犬は皆狂犬病にかかっていると信じているからだ。一方、一山5ペソ、10ペソで売っている野菜に、「これなら生活していける」と確信する。しかし、このころすでに暗くなりかけていたので、世界遺産、サンセバスチャン教会は割愛して、本日のフィナーレ、マカティのアヤラトライアングルの電飾ショーに向った。   クリスマスが近いせいか、マカティの渋滞は半端ではない。大分時間がかかったので、5歳のR君は居眠りをしてしまった。アヤラ・トライアングルの地下駐車場でR君をママが抱きかかえると、思わずお漏らし。あわててトイレを探し回る。エレベーターで上がって外に出ると、まさに電飾ショーが始まったところ。クリスマスソングにあわせて公園の木々に取り付けられた電飾が点灯する様子に、皆、感激だ。 8時を回っていたが、貪欲なママ達はさらにグリーンベルトに繰り出す。ぐるっと一回りして、名古屋から出店しているMA MAISONのトンカツを試食。わざわざフィリピンに来てまで日本のトンカツやで食うことはなかろうと、躊躇されていたが、食材が日本から来たものではないことを確認した上で、OKとなった。唯一日本から持ってきているというソース等には皆さん手をつけられなかった。さらに、ジャパニーズ・ライスと表示されていることに敏感に反応していたが、一口食べて、「こんなまずいご飯が日本から来ているはずがない」と確信し、安心して口に運んでいた。  そこのトイレで見つけたのが、モール・オブ・エイシアで和民(わたみ)が開店したというお知らせだ。名前の元祖であるこの私を追っかけて、フィリピンにまできて出店するとはけしからんと思うが、いずれ試しに食べてみたいと思う。ちなみに和民(カズタミ)は私の本名だ。 翌日、PRAでビザ申請を無事に終えて、モール・オブ・エイシアに向った。もちろん、まずはトイレ探し。そして、花火があがるマニラ湾側にいそぐ。途中、スケートリンクを見て、「なんで~~」と思わず絶句。そして広大で人であふれえる屋内の市街に、「日本よりも都会じゃ」と思わず声をうならせていた。 花火見物を満喫して、食事。屋内に9人が座れる席がないので、外のテーブルに座ったが、決して暑くはないし、快適だ。そして、ビール好きの皆さんと、まずは乾杯。そして、「今時、放射能を浴びる心配をしないで、屋外で食事が取れるのが、うれしい」と、まさかの感想をもらす。皆さんは決して東北や関東から来たわけではないのだが、「いずれ瓦礫の焼却などで、全国に放射能汚染は広がり、日本中が放射能汚染地域になる」と信じている。  […]

日本から妻と子がいなくなる 2012年12月15日



   先の選挙で下院議員に当選したフィリピンの英雄マニー・パクヤオ(33歳)が伏兵メキシコのファン・マルケス(39歳)にノックアウトで敗れた。強すぎて戦う相手がいないとまでいわれるパクヤオに果敢にも挑んだ39歳のロートルは一発で大金星をつかんだ。  パクヤオの試合を見ようと、特大スクリーンを設置した無料会場には多くの庶民が集まった。フィリピンではテレビの中継は、試合後、しばらくたってから行われるので、生中継を見るためには有料の会場に行って見なければならないのだ。 ここのところ数戦、微妙な判定で勝利してきたパクヤオは、何が何でもノックアウトを狙って、初めから飛ばした。また、相手はすでに2勝している格下で負けるなどということはありえないと信じていたようだ。しかし、その慢心と油断が、第6ラウンド、カウンター気味に入った右のストレートでマットに沈み、そのまま失神してしまった。この痛恨の一撃でパクヤオの神話は終わりを告げた。 パクヤオの勝利を信じていた観客は、まさかの敗北に、ぼう然としてたちすくんだ。そして、葬式の列のように肩を落として会場を立ち去り、フィリピン国民、皆が喪に服した。 パクヤオのママ・ジョニシアはテレビで「パクヤオに政治に専念して欲しい」と、悲壮な決意を語った。現在奥さんや弟も政治家の道を歩んでいるとのこと。 パクヤオの勝利はフィリピンの国民に希望を与えるものと、ラスベガスからの凱旋の度にマラカニヤンを訪問して大統領に賛美されたものだが、今回はビニャイ副大統領が彼を励ます異例のコメントを発表した。 さらに、先のアメリカ大統領選で敗北したロムニーもテレビに現れ、パクヤオの偉業を賞賛した。まさに世紀の英雄の最期だった。

英雄パクヤオの敗北にマラカニヤンが弔意 2012年12月10日


年、月、日と3つの同じ数字が並ぶ日は、2012年、12月12日が今世紀最後となる。昨年は11.11.11と六つの数字が並ぶシックスナインで、1世紀に一度しかない日だった。この記念すべき日にPRAは、10年、15年、20年そして25年間、退職ビザを継続している外国人を招待して、表彰するパーティを企画している。  25年前と言えば、1987年にビザを取得したのだが、この年はマルコス政権が崩壊した翌年で、退職ビザの制度ができて2年目のことだ。果たしてそんな人がいるとすれば、古代の遺跡ともいえる人だが、不肖私も10年目の節目を迎え、招待状がPRAのハビタン部長から手渡された。こうなると欠席するわけには行かない。 パーティのタイトルは、「JUBILARIAN and YULETIDE Day」という聞きなれない英語だ。辞書で調べてみると読み方は「ジュビラリアンとユレタイドデイ」で、「~周年記念者とクリスマスシーズン」という意味のようだ。  場所は空港の近くのデューティーフリーショップで、昨年、PRAのクリスマスパーティが開催されたところだ。  開催時間は午後4時から8時まで、事前に出欠を届けることになっているが、そんなのは形式で、自由に参加できる。もちろん表彰者以外の退職ビザ保有者も参加自由だ。なお、ギフトの交換会があるので、400ペソ程度のギフトを持っていくことになっている。服装は赤か緑の服となっているが、これも気にすることはない。  また、式典は平日なので、午後3時ごろにはPRAの職員は全員パーティ会場に行ってしまい、PRAは開店休業になるものと予測されるので、要注意だ。

退職ビザ永年継続表彰式(12.12.12.)の開催 2012年12月9日



   昨年の9月にポコアポコに併設されたホテルの開所式に参加して以来、1年以上間が空いてしまったが、久々のスービック訪問だった。うわさには聞いていたが、アヤラ系のHARBOR POINTモールや、スービックに隣接するオロンガポ市にはデパート・チェーンの雄、SMが開業して、いよいよスービックも都市の様相を呈して来た。  マニラの喧騒をさけ、都会の至便と自然の癒し、さらに安全を併せ持ったフィリピンの外国、スービックは退職者にとって一押しの街だ。ここ数年、スービックについては訪問の都度、報告してきた。 アヤラのモールはさすがにセンスが光る。 ポコアポコからは歩いていける至近距離だ  他のSMに比してサイズは小柄だが、スービックのゲートのすぐ近くで、やはりポコアポコから歩いていける  ポコアポコの中庭にはプールやバハイクボが設置され、憩いの場となっている  第一期工事の内側。スービックの特色は高層ビルがなく、2~3階9建てで圧迫感がない。広い土地のせいか、もともと湿地帯で地盤が高層ビルに耐えられないのかもしれないが。プールサイドのコーヒーショップ、隣はキッチン・トマトという名のレストランの厨房があり、日本食を提供している   ポコアポコのユニットからの外側の眺め、全面は海で開放感がある。道路に面してはいるものの、遮音窓で、車の音はほとんど聞こえない 今回、面会した退職者のMさんは、ご自分の所有しているポコアポコ第2期工事のユニットを売却したいとのことだ。広さは52m2、築3年で、まだまだ新しい。家具などは引っ越し先の家に移動したが、キッチン、トイレ、エアコンなどの設備は完備しており、家具と風呂桶を用意すれば、すぐにでも住める。これらの準備には40万~50万円もあれば十分とのこと。販売価格は105,000ドル(約850万円)を希望しているが、多少の価格交渉には応じる用意はあるとのこと。 廊下は吹き抜けで気持ちが良い、屋上には広場がパーティ会場にも使える。 ユニットの全面は窓、後ろは廊下で、風が吹き抜けて心地よい。キッチンやトイレなど基本的な設備は整っている。スプリットタイプのエアコンもついている 投資目的と考えた場合、バブルの状況を呈している昨今のマニラとは違い、マニラのプレセールの10万ペソ/平米に比べて、出来上がりで、8万ペソ/平米と言う価格は割安といえる。それになんといってもすでに出来上がっているというところが、リスクがなくてよい。いわゆる新古物件だ。  本物件を賃貸した場合、700~800ドル程度で賃貸できるそうだが、管理費や税金やらで、手取りは5~600ドル程度になるそう。そうなると、利回りは6~7%。それに後は値上がりの期待だが、スービックは物件が不足しており、値上がり期待もできて、穴場的存在かもしれない。 ユニットの詳細と価格は下記のHPを参照、ユニットはB2タイプの […]

スービック訪問ー物件の紹介 2012年12月2日


  世界で一番長くクリスマスを祝う国として名高い(?)フィリピンだが、10月から始まった飾りつけも、クリスマスまで1ヵ月を切った11月末、街には嗜好をこらしたクリスマスツリーがあふれ、マカティを横断するアヤラ通りも新しいデザインの電飾が美しい。 毎日のように史上最高値を更新している平均株価に象徴されるフィリピン経済の好調は、必ずしも庶民の生活を潤しているようには思えないが、大統領府–マラカニヤン宮殿の前にも巨大なクリスマスツリーが飾られ、ご満悦のアキノ大統領が新聞の一面を飾っていた。 昨年は、なぜか実施されなかったが、国際都市–マカティの中心にある広大な緑地帯、アヤラトライアングルでは、壮大な電飾ショーが毎夜、30分毎に繰り返されている。この日は、この電飾ショーを見物するために、食事の後、KIANを連れて出かけていった。 ショーが始まるまで30分ほど待たされたが、KIANは、広々としたアヤラタワーの広場で、従妹のアレアと走り回っていた。電飾ショーが始まると、KIANは一体何が始まったのかと、きょとんとしていた。  音楽にあわせて電飾がめまぐるしく変化するショーそのものは、ほんの5分ほどだったが、帰り際、知らぬ間に広大な緑地帯は人で埋め尽くされていた。電飾の上にそびえるアヤラ財閥の象徴のアヤラタワーがいかにも大都市の様相を示している。動画が重過ぎて、アップロードできないのが残念だ。 マム・ジェーンが通うジムのあるRCBCプラザのロビーの飾りつけが見事だというので帰りに寄ってみた。そこにも中々ユニークなクリスマスツリーがそびえていた。 もうすぐ、クリスマス、人々は、この日が来るのを指折り数えて待ちわびて、一家の大黒柱を自負するマム達は、家族へのクリスマスギフトの買出しに余念がない。クリスマスが近づくと値が上がると、9月から問屋街のデビソリアで買い物にいそしんでいたマム・ジェーンは、すでにあらかたの買い物を終えてしまったようで、せっせと故郷のビコールに送りつけている。

アヤラ・トライアングルの電飾ショー見物 2012年11月30日