Yearly Archives: 2012


  連休を利用して訪れた息子に同行して1ヵ月ぶりに訪問した農場のスナップ。木々の花が咲き、自然の息吹を感じさせた。  タガイタイで買った200本のパイナップルの苗。1~2年後はパイナップルが食べ放題になるだろう。カラチュチの花が満開になった。フィリピンでは香りのあるこの花が一番好きだ  名前を忘れたが幹にとげのある多肉植物の花。これも名前はわからない 大型の観葉植物も芽を出した。ランの花も咲き始めている  小さな実はアボカド、フィリピンではポピュラーな果物だ。一本の木に20個くらいの実をつけた裏庭のランカ(ジャックフルーツ)の木  ビバリーファームのメインストリートはナラのトンネルだ。ナラの木の葉についた大量の毛虫  ジェーンの兄のダシンがくれた小鳥、つがいで5千ペソ位するらしい。家の周りを飛び交う小鳥、ここではいながらにしてバードウオッチングができる マヨンをバックに遊ぶ子供達。夕暮れにたたずむマヨン火山  田んぼの耕作も進んでいた田植えの準備の苗床にも芽が出始めた 1ヶ月の間にかなり成長した小豚たち。 母豚の出産も近い  闘鶏のエキジビション。 闘鶏の練習、一羽が飛び上がって下でうずくまる一羽を攻撃する瞬間  夏を象徴する入道雲、マヨンと比べて3倍、7000メートルくらいの高さに達する。ベランダの柱と梁を額縁に見立てて構図をとってみた […]

雨期明けの農場はみずみずしかった(その2) 2012年6月4日


 従来フィリピンの教育制度は小学校が6年、ハイスクールが4年、そして大学が4年(文系)、5年(工科系)で、合計が日本等の諸外国に比べて2年短かった。したがって、フィリピンンでハイスクールを卒業しても日本の大学進学の資格がないなど海外への大学進学に不都合があった。したがって、外国人の子女の教育はインターナショナル・スクールに進学しなければならず、高額の授業料を支払わなければならないなど、外国人にとってフィリピンに在住する上での頭痛の種だった。  今回の教育制度の改革で、現行の小学校6年とハイスクール4年の終了後シニア・ハイスクール2年を創設し、合計12年間の教育とともに、幼稚園1年を義務教育とし、合計13年間の教育を大学進学前に受けることになる。これらの教育について公立学校では授業料は無料で、幼稚園と小学校は義務教育となる。 本制度は本年度ハイスクールに進学する生徒から適用され、4年後の2016年からシニア・ハイスクールが開始され、2018年から新制度の卒業生(18歳)が出る。  シニア・ハイスクールはすべてのハイスクールに併設されるが、大学進学の学生が2年間いなくなることになり、大学に付属のシニア・ハイスクールを併設することも検討されている。 ちなみに、フィリピンでは18歳未満のアンダーエイジ/マイナーの雇用が禁止されている。これは何も花街の話に限ったことではなく、ウエイトレスなどの一般的な職業にも適用されていて、ハイスクールを卒業しても法的に2年間は働く術がないのだ。しかし、大学に進学できない貧しい家庭の子供達が学校を出ても働くことができず、親のすねかじりを続けるなどということなどは実際にはありえず、何らかの形で働いてはいるのだが、法の庇護下になく、低賃金を余儀なくされるという矛盾を包含している。今回の措置で、これら16歳から~18歳までの青少年が無料で就学する機会が与えられるということは大いに歓迎すべきことだ。

フィリピンの教育制度が国際標準に改革 2012年6月3日



  農場のあるタバコ市は海にも面していて、海水浴場がたくさんある。しかし、マヨン火山の裾野にある関係で砂浜は黒く、必ずしもフィリピン特有の白砂の美しい浜ではない。水も湾内なのであまりきれいではない。 しかし、わざわざ船に乗って島に行くほどのの余裕のない庶民には気楽に行ける格好の遊び場だ。  気管支を患っているのか咳が出るKIANには海水浴は体に良いという医者のアドバイスで、タバコ訪問中は、KIANを毎朝海水浴に連れて行くことになった。 初めての海に、KIANはためらいがちに海水に足を踏み入れた。しかし、それは大好きな水遊びをするところだと認識したKIANは、すぐにうれしそうな顔をして水につかり始めた。  4月といえば、フィリピンは夏の真っ盛り、水温もぬるく、体が縮こまるようなものではない。気持ちよさそうに水につかるKIANだ。  一人で遊び始めたKIANは時たま水に顔をつけて、苦しそうに水を吐く。しかし、そんなことはおかまいなしに楽しんでいる。  砂遊びもKIANは気に入ったようで、砂をつかんでは落としあるいは投げて、砂浜の遊び方も慣れてきている。子供は遊びの達人だ。遠浅の海岸はKIANにぴったりで、あのうれしそうな笑顔が絶えない。  10時過ぎには帰途についたが、それは日中は暑すぎて、KIANにはまだまだきつすぎるという気遣いだ。ちなみにフィリピンでは朝と夕方の日が落ちてからが海水浴の本番で、暑い日中はお休みする。 翌日、2日目、KIANの海水浴再挑戦だ。この日は雲を被ったマヨン火山がバックに望めた。  近くでダンプカーのおもちゃで遊んでいる子供達に混じろうとしているKIANだが、とんだ闖入者を迷惑そうに追い払われてしまった。  しかし、しばらくして子供達がいなくなると、待望のダンプを独り占めして遊び始めたKIAN。こんな図々しさがとりえのKIANは誰とでも友達になれる。  ダンプの砂遊びに満喫したKIANの海水浴の日課も今日はこれで終わりだ。タバコでの海水浴、マニラでは海と言えばバタンガスまで3時間くらい替えて行かなければならないので、KIANの海水浴も当面お預けだ。

KIANの海水浴初体験 2012年6月3日


 とあるフィリピン通の方が、「フィリピンで恋をするならタガログ語を覚えなくちゃ」と語っていた(実はこの方は、タガログ語ばかりか、英語、スペイン語を自在に操り、フィリピンでの恋は数知れぬというる恋と言葉の達人なのだ)。  花街には日本語をしゃべる子がたくさんいるから、日本語で何とかなってしまうだろう。しかし、彼らにしてみれば商売道具の日本語を駆使して客のハート(財布)を捕まえようとしているのだから、「フィリピンで恋をする」、という感じには程遠い。まあ、それはそれでいいのだが、それなら英語では何故だめなのか。  ご承知の通り、フィリピンの公用語は英語だ。公文書はすべて英語で、英語がわからないと会社勤めもできない。しかし、それだけに四角張った言葉であって、恋を語るにはいかがといったところだ。英語は英語なりに甘い言葉もあるのだろうが我々の実力では英語で相手の心を溶かすなんて芸当はできないだろう。仮に、こちらができたとしても相手が緊張して逆にこころを閉ざしてしまうだろう。 この写真はアンヘレスのジェンネシスというクラブのきれいどころ(中でつながっている左隣のクラブかもしれないが)   その点、タガログ語でせまれば、相手は、もともと自分の話し言葉だから、初めから心を開いている。たとえ片言でもタガログで話をしたときのフィリピン人の打ち解けようは英語や日本語とは比較にならない。しかもタガログ語は英語に比べて実にソフトで、フィリピン人を相手に話していて、タガログ語で返されると心がとろける。その点英語は実にぶっきらぼうだ。  たとえば、「ありがとう」は英語には「Thank you」以外の表現がなくて、そこに感情が入り込む余地がない。しかし、フィリピン人は「サラマッポ(Salamat po)」あるいは「サンキューポ、Thank you po」と返してくる。この「ポ」(Po)という言葉は相手を尊敬している場合、あるいは慕っている場合などにつける接尾語で、これがいかにも心地よい。  相手に質問するとき「What do you want?」 「Why you are angry?」などと質問したら、状況にもよるが、これはすでに相手を責めていることになる。特にメールなどではニュアンスが伝わらないので喧嘩しているようにも聞こえる。しかし、これをタガログ語で「アノン グスト モ?(Anong gusto mo?)」「バケット カ ガリット?(Bakit ka galit?)」といっても決して責められているようには聞こえない。フィリピーナをからかって、相手が嫌がっていても、彼らは「フワッグ ポ(Huwag po)」などと、いかにも優しく拒否してくる。  恋人や夫と会話するときは、初めに「マハール コ(Mahal ko、あるいはLove koとも表現する」と呼びかけるが、これを直訳すれば「私の愛しい人」となり、なんとも甘いやり取りだ。そして会話やメールの最後は必ず「I love you」で閉める。この「I love you」は、タガログ語会話でも重要な愛の表現の一つとなっている。ちなみに「マハール モ バ アコ?(Mahal mo ba ako?俺のこと好きか)」などという言葉は口説き最中のカップルには頻発する。これを100回くらい繰り返すと、相手も降参して「マハール キタ(Mahal kita,愛してる)」と言って白旗をあげてくる。これを「Do you love me?」と英語で繰り返していてはいつまでたっても埒があかないだろう。  「美」は「ガンダ(Ganda)」で、「マガンダ カ(Maganda ka)きれいだね」といえば相手はうれしそうに顔を赤らめるだろう。そして「アン ガンダ モ(Ang ganda mo)」といったら最上級のほめ言葉で、「その美しさに恋に落ちてしまった」という意味合いをかねている。   逆に相手を非難する言葉として「バストス カ(Bastos ka、スケベ、下品、野卑)」という言葉があるが、言い方によっては日本語の「イヤーン バカ」なんて感じにもなる。しかし「プタン イナ モ(Putan ina mo)、相手を非難する最強の言葉、元々”お前の母さんバイタ”という意味」などといわれたら、その恋は終わりだ。 この子達はジェーンの姪っ子たちでちゃきちゃきのハイスクールの少女達だ いつも不思議に思うのだが、日本語に「I love you」に相当する言葉がない。「私はあなたを愛しています」なんてのは日本語ではない。強いて言えば「好きだよ」あるいは「好きよ」といったところだろうが実に間接的な表現だ。タガログ語では「マハール キタ(Mahal Kita)」「イニイビ キタ(Iniibi Kita)」「イニイロ キタ(Iniilo kita」「グスト キタ(Gusto kita )」などぴったりの言葉がたくさんある。そのほか、「カイランガン キタ(Kailangan kita,あなたが欲しい」「ダヒール サヨ(Dahil sayo、あなたのせいで)」など恋を語る言葉が豊富にあって、恋の歌の歌詞作りには事欠かないようだ。  さらに英語では男と女の営みに「セックス」とか「Make love」などと実にそっけない表現するが、日本語は「H」、「やる、する」などと間接的表現を用い、他には「性交」など学術的表現しかない。一方タガログ語では、やはり間接的表現をするものの「ソクソク(Soku soku,これは日本語だとフィリピーナは言うが真相は不明」「パクワン(Pakuwang,元々スイカのこと)」「ボムボム(Bom bom)」など面白い表現がたくさんある。直接的には「カンクータン(Kankutan)」と言うがかなり下品な表現らしい。  いずれにせよ、フィリピ-ナとの会話はタガログ語に限る。そうすれば思わぬ恋のチャンスがめぐってくるかもしれない。

恋をするならタガロク語 2012年6月3日



  ここ数ヶ月、新聞やテレビをにぎわせていたコロナ最高裁長官の弾劾裁判に決着がついた。5月29日に行われた上院議員による表決の結果、20対3で長官の有罪が決定した。最高裁長官が上院による弾劾裁判で有罪判決を受け更迭されるという事態は、フィリピン史上初めてのことだ。 コロナ長官はアロヨ前大統領が2年前、任期終了直前に指名したもので、すでに大統領選の当選が確実となっていたアキノ現大統領の非難の中、長官に就任した。  アキノ大統領就任後、アキノ大統領の行政に不利な判決を出し続け、コロナ長官はアキノ大統領の目の上のたんこぶとなっていた。昨年11月にはアロヨ前大統領の出国監視措置を解除する仮処分命令、アキノ大統領の実家のルイシタ農園の農地分配の命令、などなど。 弾劾裁判の判決の決め手は資産報告義務を定めた憲法違反、240万ドルのドル預金と8070万ペソの預金が報告書に記載されていなかった、というものだ。そのほかの罪状は、すでに有罪判決が確定されたので評決はされなかった。  無罪評決を出したのは、憲法専門の弁護士のアロヨ上院議員(アロヨ前大統領とはたまたま名前が同じだけで何の関係もない)、毒舌家で有名な弁護士、ミリアム上院議員、それに親の代からアキノ家と対立してきたマルコス元大統領の息子のボンボン・マルコスだ。賛成した上院議員は憲法上、果たして有罪かどうかというよりも、コロナ長官の個人資産の額や検察側のショッキングな報告に大いに心を動かされたらしい。 巷の意見は二つに分かれている。コロナ長官の無罪を主張するものと、有罪を歓迎するものだが、知識人は無罪に傾いているようだ。知識人は、アキノ大統領が自己の無策を棚に上げて、アロヨ前大統領やコロナ長官を槍玉に挙げて、失政の矛先を変えようとしているに過ぎない、という見方をしている。彼らは、英雄、コーリー・アキノ元大統領の息子というだけで、大統領に当選したアキノ現大統領の手腕を大いに疑問視しているのだ。

コロナ最高裁長官の弾劾裁判 2012年6月2日


 5月29日昼前、ちょっと強い雨が降り、マカティ市は恒例の道路冠水に見舞われた。マカティの比較的低地にあるパソンタモ通りは場所によっては乗用車が通れなくなった。31日の午後はまだ午後の3時だというのに夕暮れ時のように暗くなり、熱帯特有のスコールが襲った。  今年は例年になく涼しい夏が続いて、4月からようやくフィリピンらしい暑さが連日続いたが、5月も末になると雨季が近づいて、この日はいよいよ雨季入りを感じさせるものだった。6月1日の新聞では気象庁が雨季入り宣言をしたそうだが、これからは毎日スコールがあり、パソンタモ通りは冠水を繰り返すことだろう。  何故、こうもたやすくマニラは道路冠水するのか、その辺は3年前の台風オンドイの調査のブログを参照されたい。  さて、一方6月は新学期シーズンだ。2ヶ月以上の夏休みを満喫した子供達はいよいよ学校へ復帰する。6月4日(月)からほとんどの学校が始まるが、子供達は久しぶりに先生や友達に再会して、教室や校庭の掃除をして、初日を終える。  写真下の右端はカーネルの娘、16歳だ。先日、5月26日に誕生日を迎えたばかりだが、いよいよ大学進学で、広告や装飾を行う芸術学部に進学するそうだ。16歳なら日本で言えば高校1年生だが、おませで長身なだけに大学生の貫禄がある。今日(6月1日)は新学期を控えオリエンテーションに出かけて行った。  他の子供達は田舎からKIANの遊び友達としてマニラに来ていたのだが、いよいよ帰郷が近い。今日、おばあさんやお兄さん達がやってきて、新学期前に田舎へつれて帰る。きっとKIANが寂しがることだろう。

フィリピンに雨季到来ー新学期 2012年6月1日



 1998年、私の相棒のジェーンの家の玄関にダンボールにいれられた赤ちゃんが捨てられていた。母親と目される女が人に頼んで玄関に置き去りにしたのだ。名前も誕生日もわからない乳飲み子だった。 サンパギータの花束を胸に飾って、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」39ページのモデルとなったビアンカ、11歳(推定) ジェーン一家の恒例の年末の記念写真、右端のビアンカは心なしか遠慮気味におさまっている。 ジェーンの家には2歳なる長兄の子供が一人いるだけだったので、早速家で育てることにした。とりあえずブランカ(白紙)と名づけたが、後により一般的な女の子の名前のビアンカに変えた。色白で目の大きい可愛い子だった。  学校に入るにはちゃんとした出生証明がないと具合が悪い。そこでビアンカはマミーの子供すなわちジェーンの妹として届けられた。その後、長兄ダシンの長男、次兄アランの長女、次女、と次々と孫が生まれてマミーの愛情も実の孫へと移っていった。そしてビアンカの試練が始まったのだ。 2007年12月、韓国KBSの農場取材に当たって、その日は、丁度ビアンカの誕生日(捨てられていた日)だったので、急遽、盛大な誕生日パーティを行うことになった。右から3人目がビアンカ 小学校へ行くようになって、ある日、学校の先生から呼び出しがあった。全然やる気がなくて、他の子供達の迷惑になるから退学させたいというのだ。結局、留年の憂き目となり、農場の近くの学校に移して、マミーと農場で暮らすようになった。ビアンカとしては他の子供達が実の親に可愛がられているのを見て複雑な思いを胸に秘めていたのだ。  ジェーンが、ビアンカを責めて、「一体お前は何が欲しいのか」と聞いたら、ビアンカの答えは「Love」の一言だったそうだ。  学校を変わって農場で過ごす様になるとビアンカは見違えるように変わって行った。2003~2004年は私自身が農場で暮らしていて、マミーとデバインそして私の4人暮らしだった。 2011年4月KIANの1歳の誕生日。デバインも久しぶりに戻って13~15歳の娘達が可愛い。後ろに写っているのは私の息子。 タバコ港から船で1時間太平洋に浮かぶ孤島に恒例の海水浴に出かける。誰もいない白い砂浜に子供達は大満足だ。  ビアンカのの役割は豚小屋の掃除や鶏やテラピアのえさやり、庭掃除や食事の後片付けと休む時間もない。デバインと二人で農場と家の仕事をこなしていた。 当時はマミーに何か頼むとすぐに「デバインー」と大きな声でデバインを呼んで言いつけていた。そして今、デバインが家を出て、16歳になったビアンカは、いつもマミーに「ビアンカー」と呼ばれて頼りにされている。 2010年12月末のパーティではハイスクール3人娘らがポーズを取る。 他の子供達が 親の愛情のもとにぬくぬくと育っている間に、ビアンカはマミーを助け、思いやり、責任感のある、子の鏡とも言えるほどの良い子に育って行った。学校の成績もあがり、表彰されるほどだった。 […]

ビアンカの物語 2012年5月26日


以前ブログで紹介した美人女子大生など、若い方がインターネットで見つけ出して利用しているのが、AMAX INN MAKATIだ。単なる普通の民家にも見えるが、いわゆるバックパッカー用の安宿で、この手の宿はフィリピンではめったにめったに見かけることがない。 場所はパソンタモ通りを一歩入ったSantillan通りとDela Rosa通りの角の近く、マカティスクエアの日本レストラン街にも近く便利な場所だ。見てくれは決してホテルやペンションには程遠いが、民家を改造して宿として使っている感じだ。     それでも、小さめの庭やロビーがあってくつろげる。45ペソ均一の格安のカフェもあってありがたい。 部屋は、大き目のスツジオ(ダブルベッドが2つ)が2000ペソ/泊。 普通サイズのスツジオ(シングルベッドが2つ)が1600ペソ、ここまでは値段も部屋も普通のコンドテルとかわらない。  しかし、ここにはさらに、一泊550ペソの個室がある。部屋といってもベッドの広さしかないが、大きな部屋を壁で区切ったもので、一応プライバシーがある。そこには共通スペースがあって、テレビもおいてある。さらに、ベッドスペースが、月極めで4200ペソで借りることができる。エアコンも効いているので、何とか過ごすことはできそうだ。  贅沢さえ言わなければ、十分ステイできそうなので、長期滞在で、しかも予算に限りがある方には向いている。 一応食事と言えるメニューがほとんど45ペソと格安だ。この値段は道路沿いのトロトロよりも安いかもしれない。

格安ペンションAMAX INN MAKATI の紹介 2012年5月26日



ホリーウイーク休暇の3日目、この日も快晴でKIANをつれてマヨン展望台に向かった。展望台に向かうマヨン・スカイウエイは山の西側から向かうが、この方向からマヨン火山の全貌を見ることができるのはまれだ。 一年ぶりの展望台にKIANは何を思うのだろうか。  以下の4枚の写真は展望台からながめたパノラマだ。本来は4枚が横に並んでいる。 展望台は3合目くらいのところにあり、標高はせいぜい700m。ここいらが森林限界で上を覗むと荒々しい岩山ばかりだ。頂上付近は傾斜角が45度くらいで、上ったとしたら地を這って進むことになるだろう。 山を下る段になって頂上付近の雲が晴れてマヨンの西側の斜面がくっきりと見ることができた。スカイウエイの途中から眺めたタバコ市の眺望。この辺には畑があるが、この辺ではトマト、レタス、キウリ、キャベツなどの日本の野菜ができるだろうと思う。  山をバックに車上のKIAN。完璧なマヨンを背景にたたずむKIAN。カメラを向けるとポーズをとるようになったKIANだが、背景のことはでは気にしないので、じっとしていさせることに苦労した。       大きなシダの木と直線に延びる道路、道路わきを歩く犬など、めったにお目にかかることのできない貴重な一枚だ。

マヨン火山の絶景 2012年5月26日


 ホリーウイーク開けの4月7日、KIANの1週遅れの誕生会を催した。今回は内輪だけのささやかな誕生会となったが、それでも大家族のジェーンの息子となると30名の出席者で沸いた。昨年は100以上の招待客で華々しく開催したものの、そうは毎年やってはいられないといったところだ。      料理はみんな手作りで、例の甘いスパゲッティにチキンのから揚げは欠かせない。予算は飲み物も入れて、5000ペソ、1万円程度だ。  KIANとしてはロウソクを吹き消すのが無常の喜びで、つけては消し、消しては付けの繰り返しだった。 すきっ腹を我慢して聴衆はKIANのロウソクの吹き消しを見つめ、そのたびに拍手のサービスだ。  食料は朝から大量に仕込んであるので問題ない。それにつけてもあの甘いスパゲッティが一番人気なのが解せない。  KIANもヌードルとからげには目がないから、ご満悦だ。食事が始まってもろうそく消しをやめない。  ちなみに皿代わりに使っているのが、ザルとバナナの葉、使い捨てでもごみにならないから極めて重宝だ。バナナの葉はその辺にいくらでもある。  最近農場に越してきたマミーのお姉さん、テラピア・ポンドの脇に家を作って住んでいる。彼らもKIANの仕草をながめて幸せそうだ。

KIAN2回目の誕生日 2012年5月26日