「もらう、借りる、預かるは、フィリピーノにとって同義語だ」、とどこかで書いた。フィリピン人にお金を貸しても戻らない、預けておいた金を使われてしまった、なんて経験は誰もがしていると思う。最近もフィリピン通の退職者の方が、「自分が住むために知り合いの家の改築資金にと100万円渡したら、一向に工事が始まるわけではなく、渡したお金は、渡した相手のお産の費用やらに使われてしまった」と嘆いていた。どんな背景であろうが、一旦、お金を渡したら、その使用については、お金を手にした人間の裁量に任されてしまい、その人の考える優先順位で処理されるのだ。もちろん、元の持ち主に断るようなことはしない。だからお金を渡すときは、その使用についての一切の権限を委譲する覚悟をするべきで、それがいやなら自分で直接支払えばいいのだ。 グロリエッタの中華料理のレストランに招待されてご機嫌のKIAN 先日、夜中に便をしてお尻を洗おうとしたら、タボ(柄杓)とバケツが風呂場にない。私は、フィリピン流に用をたした後、タボでお尻を洗う。だから、タボがないということは死活問題だ。かといって、こんな夜中に大声で、昔流にとトイレから「タボ~~」怒鳴るわけにも行かない。しかし落ち着いて考えてみると、このトイレにはお尻を洗うためのシャワーがついている。これを上向きにお尻に当てると、勢いのある水がお尻を経由して、顔に命中する恐れがあるので、普段は使わないでいるやつだ。 小さなケーキに3本のローソクを立ててもらって、もうすぐやってくる3歳の誕生日の練習だ 何とか危機を克服して、翌朝、ゲスト用の風呂場を見ると、私のタボとバケツが鎮座している。一体誰が、何故、私の風呂場からタボを持ち出して、しかも、そのまま、ゲスト用の風呂場においておくのか、普段私が使っているものを持ち出したら、私が困るとは思わないのだろうか、などなど、自問自答が続く。しかし、こんなことで大騒ぎをすると、周囲に白い目で見られるから、何事もなかったように、観察を開始する。 お客さんに料理してもらったすき焼きのしらたきをパンシットに見立てて試食するKIAN 今、夏休みで遊びに来ている小学生の子供達が、私のタボとバケツをゲスト用の風呂場で、体を洗うために使ったことを突き止めた。ゲスト用の風呂場にはもちろんホットシャワーがついているが、普通子供はバケツに汲んだ水をタボを使って体を洗う。しかし、ゲスト用の風呂場にはタボもバケツも置いていなかった。だから私のものを使うよう、マム・ジェーンの指示があったそうだ。マム・ジェーンの指示とあれば、子供達は免罪される。また、彼らにとって借りたものを返すという意識は全くないので、タボを返さなかったことに罪の意識はもうとうない。 今日も誕生会のリハーサルだ 次に、ジェーンを問い詰める。普段から私は「私のものをいないとき勝手に使っても良い、しかし、使用後必ず返すこと」と言っている、なのに、「彼らは、何故返さないのか」と。ジェーンは私のタボを借りるように指示はしたが、それを「返しておくように」とまでは、指示はしなかったようだ。冒頭に述べたように、一旦渡してしまったら、後は受け取ったものの自由裁量だから、次回使いやすいように、ゲスト用の風呂場においておくのは彼らにとって当然のことなのだろう。そこに元の持ち主の意向は顧みられる余地はない。 サイカで好物の「堅い焼きそば」をほうばるKIAN 結論として、「今回は良しとしよう、次回、このようなことが起きたら、二度と私のタボとバケツを使うことは許さない」とした。ジェーンは子供達に私の目の前で、きつく私のお達しを伝えていた。しかし、案の定、数日後、再び夜中、タボとバケツが行方不明になっていたのだ。ジェーンに言うと、今度はキム(16才のジェーンの義理の娘)のせいだというが、うそくさい。それで約束どおり、私のタボとバケツは門外不出となったのだ。 長髪を結ってもらって、女の子の気分のKIAN 事務所でははさみは必須アイテムだ。申請用紙に貼り付ける写真をきったり、封書をきったり、毎日使うわけではないが、これがないと仕事が前に進まないことがままある。そのはさみが、使おうとして机の上のペンホルダーに手を伸ばすとないのだ。そこで、大慌てではさみ探しとなる。しかたがないから、自分の寝室に行って、別のはさみを持ってくる。私の寝室には髪をきるために日本から持ってきた別のはさみがおいてあるのだ。 車の中で従妹のイアを懲らしめるKIAN。これがかれの遊びだ 後で、はさみがなくなったとお触れを出す。誰も「私、知らない」といったムードだ。しかし、翌日になるとペンホルダーに戻っている。しょっちゅうおきるので、はさみを買ってヤヤに渡した。私のものを使うのではなく、これを使うようにと。しかし、そんな処置は一時的なもので、そのはさみは、すぐにどこかに行ってしまい、私のはさみを持ち出すことになる。何しろ、私のところに来れば、必要なものが確実においてあるのだ。 […]