Yearly Archives: 2013


最近NHKで、実質婚(あるいは事実婚)というテーマの番組をやっていた。法的な婚姻関係にはないが、実質的に婚姻関係にある場合の損得についてだ。かつては内縁の妻、あるいは夫と称していたものだが、最近は内縁という響きがよくないためか実質婚(事実婚)と称しているようだ。  熟年になって、離婚あるいは死別によって配偶者を失った親が、子育ても終わり、その後の長い老後の人生のパートナーを求めて、お見合いなどで婚活、そして結婚するということが多いそうだ。しかし、結婚となると相続の問題やら、相互の子供達の関係で、色々ややこしいことが多い。そのため、法的には婚姻関係にはないが、実質的な結婚生活を行うという選択をするようだ。  仮に法的に結婚して、どちらかが亡くなった場合、なくなった配偶者の子供に義理の親の扶養義務が生じるため、子供達は結婚に反対することが多い。また、親の遺産が見知らぬ人間に持っていかれてしまうのも子供としても納得できない。しかし、実質婚ならその面倒もないので、子供の理解が容易に得られるというわけだ。  核家族ないし家族崩壊の進む日本で、いかにもありうる問題だが、親の面倒でさえ嫌う子供達が余計なお荷物を背負いたくないという、いかにも考えそうな、なんだか寂しくなる現実だ。一方、子供たちに迷惑はかけたくないという親達が、残りの人生を一人で生きるのは、あまりに寂しいから、熟年でパートナーが必要とするのも理解できる。  かつては日本も、配偶者を失った親たちは、子供そして孫と生活して、何の寂しさを味わうこともなかった。しかし、子供や孫との同居することが普通でなくなってきた日本の家族では、親としても新たな核家族のメンバーが必要となっているのだ。  日本の熟年独身男性が老後のパートナーを求めて、若いフィリピーナと結婚をするケースが多い。自分より、二回りや三回りも年下なら、自分より先に死ぬことはない、しっかり介護もしてもらえるという、なんとも身勝手な理屈だ。一方のフィリピーナは日本人と結婚すれば、日本に行けて、フィリピンに残された家族の生活も面倒見ることができるという、かたぎな覚悟=打算で結婚に踏み切る。さらに、どうせたいして長生きもしないだろうから、いずれ、晴れて自由な身になり、新しい夫を見つけて、ばら色の人生を歩めるであろうという淡い夢を見ていることだろう。まさに実質婚に対して形式婚というわけだ。  お互いの目論見=打算が一致して、結婚にいたるだが、果たして、そんな結婚生活がうまく行くのか、多いに疑わしい。しかし、まさに、この形式婚を二人の努力でいかに実質婚に熟成させられるかが鍵だ。  フィリピン人にとって、家族とは両親、兄弟、自分と兄弟の配偶者、自分と兄弟の子供達等々と範囲が広く、軽く2-30人に達する。ファミリーメンバーの関係も、実質、形式、血のつながり、その他成り行きなど種々雑多だ。それらが運命共同体として助け合って生きていく  フィリピンでは離婚という制度がない。アナルメントという「裁判官がその結婚が不当で初めから存在していないと判定した場合、婚姻を解消できる」という制度がある。しかし、数百万ペソの費用と数年の歳月を要するために、よほどのお金持ちでないと離婚はできない。だから、結婚をしていても、もはや実質的に婚姻関係にない夫婦が、それぞれ別の家族を持ち、生活しているという、ややこしい夫婦がたくさんいる。  一方、離婚はできないとか、夫婦の資産は共有とか、面倒な規制がある法的な結婚(形式婚)を嫌って、はなから実質婚を行う傾向もある。実質婚でも実質的に家族を形成し、なんら普通の結婚と変わらない結婚生活を送り、子供も作る。お互いの家族との交流もなんら変わるところがない。これは、両者がある程度の社会的ステータスがある場合などに見られるようだ。  そもそも法的な結婚とは何なのか。結婚生活が破綻して離婚という羽目になったときの離婚調停やら愛し合っていたはずの夫婦の憎悪と確執は一体何なのだろう。元々実質婚だけであれば、恋人同士が別れるときのように、しばしの涙ですんでしまうだろう。  そもそも結婚とは、愛し合う男女が共同生活をして子供を作り、家族が形成される、さらに子供が配偶者を向かえ、孫を作り、皆で育てる。そのような共同生活を送り、日々の糧を共同あるいは分業して得るという人類の最小限の共同体だ。それは自然発生的なもので、別に法律であれやこれやと規定しなくても自然のルールというものがあるはずだ。紙に書いたルール=法律が、時代が変わって現状にマッチしなくなったとしても別に不思議なことではない。 ゴメス一家の大黒柱のジェーンは一家を見事に統率しているが、ジェーンの一粒種のKIANは将来の大黒柱の期待を一身に背負い、プリンスとして君臨する。三才の誕生日には一族がかけつけて未来のKINGを祝う  ジェーンの長兄のダシンは形式婚と実質婚が見事に合致した理想の家族だ。二人は幼馴染が結婚し、3人の子供をもうけ、お互いに他の異性を知らないという絵に描いたような夫婦だ。子供達も、とても優しい聡明な子供に育っている。ところが最近、長女のバネサ(17才、大学1年生)が同級生と恋に落ちて、ジェーンが徹底的に妨害し、母親は理解を示すものの、父親はジェーンの命を受けて反対し、バネサは見る影もないほどにやせこけてしまう、という問題に直面している。恋の相手は中々聡明な男子だそうだが、スコーターの極貧の子で、そんな恋はバネサの将来にとって百害あって一利無しと、ジェーンが認めないのだ。  次兄のアランは、たまたま遊びの相手にした女を妊娠させて、ジェーンが強制的に結婚させた。3人の子供までもうけたものの、実質婚といえるにはほど遠く、やがてアランは別の女と一緒になり、中むつまじい実質婚生活を送っていた。可愛い女の子までもうけたが、実質妻はガンで他界し、子供達を形式妻の実家やマミーに預けたまま、アランはあらたな相手を見つけて実質婚をはじめている。件の形式妻は、やはり別の男と実質婚生活をしている。 […]

実質婚と実質家族 2013年5月18日


ビザ申請にやってきた女医のYさんをマニラ見物に案内した翌日、今度はジェーンがエステに案内した。フェイシャルとボディのエステが希望で、これだけは私の手に負えない、そのため、ジェーンのお出ましとなり、グリーンベルトのベロ・ビューティ・クリニックに案内してもらった。ベロといえば芸能人ご用達の有名なエステ・クリニックだ。 グリーンベル4の2階を覗いてみたら、洋麺屋五右衛門が開業していた。同行したYさんによると日本でも有名な店だそうだ。ラーメンの山頭火やユニクロの出店ラッシュの流れのようだ。 その日は、日曜だったので、我が家にはカーネル、息子、キム、ヤヤ、KIAN、それに田舎からやってきていたマミー(ジェーンのお母さん)やビアンカ、それに5人の子供達がいた。そこで、事件が立て続けにおきた。まさに我が家の大黒柱=守護神のジェーンがいぬまに、鬼か悪魔が家に忍び込んだように、3つの事件が同時に発生したのだ。 ショーケースにはおいしそうなピザやスパゲッティが並んでいる。日本風イタリア料理は、果たしてフィリピン人に受け入れられるのだろうか その① 部屋中、煙事件  昼飯時間になったので、2階に上がったところ、誰もいない部屋中に、煙がもうもうとしていた。白い煙ではなくて油くさい黒っぽい煙でダイニングとキッチンがもうもうとしている。一体何がおきたのかと、大声でヤヤを呼んだ。ヤヤは部屋でKIANの相手をしている。ビアンカやマミーも3階から降りてきた。なにやら皆で大騒ぎをしている。  マミーはえらい形相でビアンカ(17才)やヤヤ(子守)を怒鳴りつけている。ヤヤとビアンカは、事態の収拾に忙しい。何かビアンカがへまをしたのかと、ヤヤに聞くと「私にも責任がある」という。後から、ことの次第を聞いてみると、要は、ヤヤが昼食の準備中にKIANが泣くのであやしに行って、ビアンカに後のことを頼んだ。しかし、ビアンカはメンスで体調が優れず、3階に上がって、寝てしまった。そうこうしているうちにフライパンの油が煮立って蒸発して、部屋中が油くさい煙でいっぱいになってしまったのだ。 この日は双子の8歳の誕生日ということで、サイカに招待した。もちろん主役はいつもKIANだが、双子にとっても喜びのひと時だ  しかし、マミーのビアンカに対する怒りは収まらず、ビアンカを怒鳴り続ける。マミーは養女のビアンカを農場でメイド代わりに使っているから、親あるいはボスとして、ビアンカを叱るのは日常茶飯事だ。蒸発した油に火でもついたら大火事になりかねない。だから、マミーの怒りは30分しても収まらず、ビアンカに罵声を浴びせ続ける。多分、ビアンカの生い立ちから始まって、恩知らずなど手厳しい言葉が飛び交ったのだろう。一方のビアンカはただ黙々と後始末をしている。マミーの顔を見ると、もはやヒステリーの絶頂で、いぶかしげに見つめる私の目などは全く見えてはいないようだった。 食事の後、ジェーンから双子の記念写真をとるようにとの指示があり、急遽、車の中で記念写真。マニラと田舎と分かれて住んでいるせいで、体格や顔に少々違いが出てきているが、この写真ではどちらがどちらかわからない その② KIANのこむら返り事件  数日前から、下痢で体調を崩していたKIANが足がつって、ふくらはぎの痛みを大声で訴えていた。カーネルやキムはいたが、手に負えない。私も駆けつけて、KIANの足を押さえて直そうとするが、KIANはつま先を伸ばして抵抗し、ふくらはぎは硬直している。なんともならず、皆、パニックに陥るばかりだ。   ジェーンが戻ってから件の女医さんに診てもらったら、下痢が続くとナトリームやカリームが不足してこむら返りを起こしやすいとのこと、だから緊急にそれらの成分を補給する必要があるとのこと。用意しておいたポカリ・スエットは、どうしてもKIANが嫌がるので、味噌スープを飲ませることにした。女医さんも、それがいいという。ちなみに味噌スープはKIANの大好物だ。普段、ソフト・ドリンクを口にしないKIANはポカリ・スエットがどうしても飲めないようだ。 たまたまビザの申請に来た女医さんにお腹の具合を診てもらうKIAN。なぜか、お医者さんに診てもらうだけで安心して具合がよくなってしまうものだが、英語の達者な女医さんと話をして、KIANも大分、安心したようだ その③ カメラのメモリー消去事件 […]

我が家の同時多発事件 2013年5月16日



5月13日(月)、いよいよ、3年毎の統一選挙の時がやってきた。今年は大統領の選挙がないので、盛り上がりに欠けた感があるが、上院議員の半数、下院議員、市長など役約18000のポストが争われた。ちなみに、この日は特別休日となり、多くの人が故郷に戻って選挙に臨んだ。   これに先立ち、中央選管は、通常2日間の禁酒令を、5日間に延長する指示を出した。しかし、各方面からの抗議で、最高裁がこれを差し止め、普段の2日間となった。私も、5日前の9日(木)、あわてて2ダースのビールを買いだめしたが、徒労に終わった。  さらに中央選管は、10万ペソ以上の現金取引を禁止する措置を発表した。これは選挙人の買収を阻止する目的があったが、中央銀行を初め、多くの団体が、通常の商業取引を阻害するする恐れがあると、抗議が沸き起こり、これもまた、最高裁で差し止められた。 アロヨ前大統領に大統領の座を追われ、違法賭博、フエテンの罪で終身刑を受けながら、即座に恩赦で釈放された元大統領エストラーダはマニラ市長選に出馬した。映画のヒーロー役で庶民の指示を受ける76歳のエストラーダは庶民の街キアポで有権者の最後の支持を募り、未だ健在振りを示していた。マニラ市長選の本命は現職の堅物のリム(83才)だが、エストラーダが勝てば、マニラも再び面白くなるだろう。翌日の開票結果ではエストラーダがリードしているが予断は許されない。 この日、KIANの散歩がてら近くの投票場の取材に出かけて行った。我が家のあるサンアントニオには副大統領のビニャイとその息子でマカティのメイヤーのジュンジュン・ビニャイが住んでいるので、ひそかに彼らとの遭遇を期待していた。   KIANは歩くのが嫌いで、いつもヤヤにすぐ抱っこをねだるので、しばらく使わなかったベビーカーに乗せて出かけて行った。最近は雨が降ることが多く、いよいよ雨季入りを期待させる。特に、この夏は異常に暑く、35度に達する日が多かったので、ほっとしている。このベビーカーには日よけがついているすぐれものだ。  ふったりやんだりの小雨だったが、照りつける日差しがないので幸いだった。10時をすぎていたので、フィリピーノにおやつは欠かせない。お祭り気分の投票場の回りにはスナック売りの屋台がたくさんでいていて、20ペソで揚げ物のおやつを買ってやった。 途中の道路には候補者のポスターが所狭しと張られている。地元だけにビニャイ一家のポスターが目立つ、ちなみに娘は上院議員に立候補している。 近所の投票場は、多くの人が列を成す。数十年、選挙を遠ざかっている私だが、日本と違って70%以上の投票率を誇るフィリピンでは投票場は人で埋っている。 投票場の外にはクモンの張り紙があったが、学習塾のクモンはフィリピンでもかなり幅を利かせているようだ。 投票場のすぐ前にはビニャイ副大統領の家があり、家の前にはフィリピンでは1000万円以上もするトヨタのランドクルーザーが何台も止まっていた。いつぞや、インとラムロスのサンアガスティン教会の前で見たプレートナンバーが「2」のやつだ。 投票場の前ではビニャイが属する野党、統一民族主義者連合(UNA)の候補者名前が書かれた投票用紙のサンプルが配られていた。金で票を売る貧困層にはいかにもわかりやすい。このサンプルと共に現金が渡されるらしい。  ビニャイ副大統領の家の前、サンアントニオ国立高校の前に来ると、どこかで見たような若者がインタビューを受けていた。まさにビニャイ副大統領の息子で、今回2期目のマカティ市長に立候補しているジュンジュン・ビニャイ、マカティ市長だ。 全国37000箇所に及ぶ投票場が厳重に警備されている。特に副大統領のビニャイが投票するこの投票場は警備が厳しい。 […]

2013年の統一選挙 2013年5月13日


夏休みを利用して、農場のあるタバコからジェーンの甥と姪、4人、さらにマミーやビアンカなど合計6人が、遊びに来ていた。それに息子が日本から戻り、も ともとの住人7人とあわせて総勢14人が我が家に滞在していた。まだこのほかにも、6人の甥や姪が田舎に残っているが、夏休みの後半には彼らもやってくる 予定だそうだ。  その中で、いつも、なんとなく一人でつまらなそうにしているのが、ジェーンの弟、ボボイの3人目の子供のタムタム君(7才)だ。 双子の姉(アレアとアレクサ、8才)と、長兄ダシンの次女バレリー(10才)も一緒なのだが、なんとなく仲間はずれになっていることが多い。 子供達を連れて行きつけのサイカで食事を取ることが多いが、ボボイはタムタム君の面倒をかいがいしく見ている  そんなある日、事件がおきた。 KIANがタムタムに絡みついてきたので、タムタムがKIANを振り回して、転ばせてしまい、その折、KIANは顔を床にたたきつけて口びるを切って血を 流してしまったのだ。その話を聞いて寝室に行ってみると、泣き疲れたKIANが、上口びるを大きく腫らせて寝ていた。タムタムは、自分自身がまだまだ幼い 子供と思っているから、4つ下のKIANに対しても手加減というものを知らない。それにKIANは誰彼となくパンチを食らわしたり、足蹴りをかます乱暴者 だから、人が見ていないことを幸いに日ごろのうっぷんを晴らしたのだろう。  3才になりたての子供をやっつけようと思えば簡単な話で、タムタムが人目を盗んで、階段の上からKIANを突き落とすことさえもありうる。そんなわけ で、私からジェーンに「一刻の猶予なくタムタムを我が家から追放せよ」という命令が下された。 この裏には、日ごろからタムタムの存在がうっとうしく思われた私の心理が働いていたかもしれない。 近所のスーパーマーケットで試食品を口にする子供達。中央のちょっとらっきょ頭をしているのがタムタム君。KIANも、この試食品大好きだが、この直後、バレリーがKIANから受け取った試食品を食べてしまい、大騒ぎになった […]

タムタム君の試練 2013年5月12日



5月7日、E-メールで、旧友からマヨン火山噴火の一報が入った。しかし、我が家の誰に聞いても何も知らない。さらに、妻や友人から電話やE-メールの問い合わせが相次いだ。死者も出て、周辺の住民は避難を始めているというので、農場は無事かと心配していた。しかしながら、マヨン火山の麓の農場から遊びに来ているマミーや子供達をはじめ、誰もが話題にすることがなかった。  ようやく、翌日のマニラ新聞で、噴火の全容を知ることができた。確かにいつもに比べて大きな噴煙はあったものの、噴火と呼べるほどのものではなく、マグマの噴出もなく、警戒レベルは「0」のままということだった。死者は登山中のドイツ人等で、火口付近を登山中に振動で渓谷に落下して死亡したもの。たしかに我が家で話題にするほどのこともない日常茶飯事の噴火だったのだ。  最近日本では富士山の噴火が話題となり、地震や噴火のニュースに敏感になっているので、メディアも大きく取り上げたことが、原因のようだ。確かに、マヨン火山は、活発に噴火を繰り返す活火山で、下の写真2枚は、2006年8月に飛行機から撮影したもの。巨大な噴煙と溶岩が流れ出ている様子が見て取れる。 さらに、2009年12月末、噴火警報「3」が発令され、大噴火の予想ないし期待が高まった。夜の空にはマヨンの噴火口が赤く染まり、煮え立つマグマを農場からも垣間見ることができた。 農場とマヨン火山を挟んで反対側にあるレガスピ市の展望台(ラニョンヒル)にはテレビの取材陣が24時間待機し、噴火の瞬間を待ち続けた。このとき、レガスピ市のホテルは、世紀の噴火の瞬間を見物しようとする外国人でどこも超満員だったそうだ。 ラニョンヒル展望台からは、溶岩の流れ出す様子が目の当たりに見えて、裾野の木々が燃えて煙を上げていた。 年が明けて正月、マヨンの噴火警報は「1」に下げられ、山から農場の近くの小学校に避難していた人々が、山に戻って行った。これで噴火騒動も一件落着、外国人にとっては徒労な旅となった。 2007年12月、韓国KBSの取材陣とともに農場を訪問したおり、帰りの飛行機からマヨン火山の噴火口を間近に望むことができた。見ての通り火口はレガスピ市側を向いており、反対の農場のある方向に溶岩が流れ出すことはない。そして火口からはいくつもの溶岩の流れが観測され、その活動の活発さを物語っている。 この斜面に不安定に堆積している溶岩が、大雨で一気に麓に流れ大きな災害を引き起こしたのが、2006年12月の超大型台風レミンだった。写真は土石流に埋もれた家から生き埋めになった人を助けようとしている現場を見学する人々だ。  一方、マヨン火山の北に位置する農場から眺めたマヨンは、噴煙はたなびいているものの、斜面は木々で覆われ、長いこと溶岩の流れがなかったことが見て取れる。レガスピ側からの猛々しい姿に比べて、女性的な姿といえる。もともとマヨンとは女性の名前にちなんでつけられた名前だそうだ。  怖いのは噴火の時の火山灰ではなくて、あとから台風による大雨の影響で発生する土石流だ。農場付近の地元の人々も生れてこの方、この付近はマヨンの被害にあったことはないそうで、相当な噴火のない限り、農場は安泰といえるだろう。だから、私の生きている限りは大丈夫だろうと勝手に思いこんでいる。 2013年3月、ホリーウイークの帰郷の際に農場から撮影したマヨン火山。マヨン火山の絶景は農場にとって不可欠な風景となっている。

すわ、マヨン火山が噴火した? 2013年5月11日


 フィリピンに暮らすとなると、銀行口座の開設は必須だ。口座の開設には基本的にパスポートとACR(外国人登録証)が必要だが、退職ビザを取得された方はPRAのIDカードがACRの代わりとなる。退職ビザ保有者は、立派に口座開設の資格があるのだが、大手銀行のBDO(Banco De Oro)あるいはBPI(Bank of the Philipipne Island)は、あの手この手を尽くして、退職者の口座を開けまいとする。その手口は以下のの通りだ。   I さんは1年ほど前に退職ビザを取得して、お子さんをインターナショナルスクールに通わせている情報通のお母さんだ。その方が、お住まいの近くのBDOの支店で口座を開こうとしたが、どうしても、うまく行かない。そこで、私が口座開設をお手伝いすることになった。土曜だったので、SMマカティの近くの支店に行った。ここだけは土曜でも開いていることを、I さ んは突き止めていた。「住まいは遠いが、私の事務所の住所で口座を開きたい」とい正直に言ったら、「住まいの近くで口座を開け」という。私の住所という事 で開きたいのだと繰り返したら、「私の会社の社員なのか、あるいは本当にそこに住んでいるのか」などと追求され、結局相手にされなかった。そこで、日を改 めて、私の馴染みのPacific Star 支店に行って、あくまでも私の住所に住んでいることにして、無事口座を開設することができた。 息子の帰還のお祝いに、大きなピザを2枚買った。この日のために農場からはマミーとビアンカ、それにヤナが駆けつけた。他に夏休みで遊びに来ている4人の従妹も含めて、総勢14人が我が家にひしめいていた  さらに、同じBDOのSMスーカット支店でM さんの口座を開設しようとした。「住まい近くのアビダ・タワー・コンドだ」 といったら、固定電話の電話番号を教えろという。「自宅にはないので、管理事務所の電話ならある」というと、「その電話番号でもよい」という。そうした […]

銀行は何故、口座を開きたくないのか 2013年5月5日



「もらう、借りる、預かるは、フィリピーノにとって同義語だ」、とどこかで書いた。フィリピン人にお金を貸しても戻らない、預けておいた金を使われてしまった、なんて経験は誰もがしていると思う。最近もフィリピン通の退職者の方が、「自分が住むために知り合いの家の改築資金にと100万円渡したら、一向に工事が始まるわけではなく、渡したお金は、渡した相手のお産の費用やらに使われてしまった」と嘆いていた。どんな背景であろうが、一旦、お金を渡したら、その使用については、お金を手にした人間の裁量に任されてしまい、その人の考える優先順位で処理されるのだ。もちろん、元の持ち主に断るようなことはしない。だからお金を渡すときは、その使用についての一切の権限を委譲する覚悟をするべきで、それがいやなら自分で直接支払えばいいのだ。 グロリエッタの中華料理のレストランに招待されてご機嫌のKIAN  先日、夜中に便をしてお尻を洗おうとしたら、タボ(柄杓)とバケツが風呂場にない。私は、フィリピン流に用をたした後、タボでお尻を洗う。だから、タボがないということは死活問題だ。かといって、こんな夜中に大声で、昔流にとトイレから「タボ~~」怒鳴るわけにも行かない。しかし落ち着いて考えてみると、このトイレにはお尻を洗うためのシャワーがついている。これを上向きにお尻に当てると、勢いのある水がお尻を経由して、顔に命中する恐れがあるので、普段は使わないでいるやつだ。 小さなケーキに3本のローソクを立ててもらって、もうすぐやってくる3歳の誕生日の練習だ   何とか危機を克服して、翌朝、ゲスト用の風呂場を見ると、私のタボとバケツが鎮座している。一体誰が、何故、私の風呂場からタボを持ち出して、しかも、そのまま、ゲスト用の風呂場においておくのか、普段私が使っているものを持ち出したら、私が困るとは思わないのだろうか、などなど、自問自答が続く。しかし、こんなことで大騒ぎをすると、周囲に白い目で見られるから、何事もなかったように、観察を開始する。 お客さんに料理してもらったすき焼きのしらたきをパンシットに見立てて試食するKIAN  今、夏休みで遊びに来ている小学生の子供達が、私のタボとバケツをゲスト用の風呂場で、体を洗うために使ったことを突き止めた。ゲスト用の風呂場にはもちろんホットシャワーがついているが、普通子供はバケツに汲んだ水をタボを使って体を洗う。しかし、ゲスト用の風呂場にはタボもバケツも置いていなかった。だから私のものを使うよう、マム・ジェーンの指示があったそうだ。マム・ジェーンの指示とあれば、子供達は免罪される。また、彼らにとって借りたものを返すという意識は全くないので、タボを返さなかったことに罪の意識はもうとうない。 今日も誕生会のリハーサルだ  次に、ジェーンを問い詰める。普段から私は「私のものをいないとき勝手に使っても良い、しかし、使用後必ず返すこと」と言っている、なのに、「彼らは、何故返さないのか」と。ジェーンは私のタボを借りるように指示はしたが、それを「返しておくように」とまでは、指示はしなかったようだ。冒頭に述べたように、一旦渡してしまったら、後は受け取ったものの自由裁量だから、次回使いやすいように、ゲスト用の風呂場においておくのは彼らにとって当然のことなのだろう。そこに元の持ち主の意向は顧みられる余地はない。 サイカで好物の「堅い焼きそば」をほうばるKIAN  結論として、「今回は良しとしよう、次回、このようなことが起きたら、二度と私のタボとバケツを使うことは許さない」とした。ジェーンは子供達に私の目の前で、きつく私のお達しを伝えていた。しかし、案の定、数日後、再び夜中、タボとバケツが行方不明になっていたのだ。ジェーンに言うと、今度はキム(16才のジェーンの義理の娘)のせいだというが、うそくさい。それで約束どおり、私のタボとバケツは門外不出となったのだ。 長髪を結ってもらって、女の子の気分のKIAN  事務所でははさみは必須アイテムだ。申請用紙に貼り付ける写真をきったり、封書をきったり、毎日使うわけではないが、これがないと仕事が前に進まないことがままある。そのはさみが、使おうとして机の上のペンホルダーに手を伸ばすとないのだ。そこで、大慌てではさみ探しとなる。しかたがないから、自分の寝室に行って、別のはさみを持ってくる。私の寝室には髪をきるために日本から持ってきた別のはさみがおいてあるのだ。 車の中で従妹のイアを懲らしめるKIAN。これがかれの遊びだ  後で、はさみがなくなったとお触れを出す。誰も「私、知らない」といったムードだ。しかし、翌日になるとペンホルダーに戻っている。しょっちゅうおきるので、はさみを買ってヤヤに渡した。私のものを使うのではなく、これを使うようにと。しかし、そんな処置は一時的なもので、そのはさみは、すぐにどこかに行ってしまい、私のはさみを持ち出すことになる。何しろ、私のところに来れば、必要なものが確実においてあるのだ。 […]

フィリピーノは何故借りたものを返さない 2013年4月28日


経済作家の橘玲氏とは、2010年、フィリピンでの日本人の介護の現状をレポートするための取材をお手伝いした以来の知り合いだ。最近、突然連絡があり、私のブログの記事を彼の主催するホームページ「橘玲 ZAI ONLINE 海外投資の歩き方」に連載したいとの申し入れがあった。3月にマニラで面会して、「特に経済に関するものでなくても、フィリピンの現状をレポートするもの」という趣旨なので、快く了承した。  その後、100編ほど適当なものを選んで送ったのだが、今日、第一号として掲載されたのは「放射能汚染を逃れ、母子でフィリピン移住 3組の親子の初めてのマニラ体験」だ。  この話題は、彼とマニラで面会した際に雑談した中で、彼が最も興味をもった話だった。日本では、すでに原発問題は収束しように報道され、多くの人は忘れかけているようだが、「フィリピンを初めとして東南アジアには日本の放射能汚染を逃れて母子で移住する方が少なからずいる」という話だ。この話は、彼にも大変新鮮だったようで、大変驚いた様子だった。こういう話は、メディアの世界にいる人でも知らないくらい、日本では語られていないのかと、逆にこっちがびっくりした。なにしろ、毎日、日本からの訪問客を相手にしている私にとって、このような話題は、日常のことなのだ。  橘氏は、資産を守るために海外に資産を移すということを提唱されているようだが、日本の経済破綻、放射能汚染、そして英会話、この三つがフィリピンへの移住を促すキーワードといえるようだ。特に放射能疎開母子は、フィリピンで子供達をバイリンガルの国際人に育て上げようと賢い算段をしているのだ。  一方、「老後を海外でゆったりスローライフ」なんてスローガンでは人は動かないようで、このような動機で退職ビザを取る人は返って少数派となりつつある。3.11以来、明らかに日本人の海外を見る目が変わったような気がする。日本に住んで観光や駐在の出かけ先としてのの海外から、日本を捨てて移住先としての海外へとだ。 夏休みで我が家にはたくさんの従妹の子供達が遊びに来ている。KIANはパソコンが苦手なアランおじさんにゲームのやり方を教えている。昨日マニラにやって来たKIANから二人目のヤナ(7歳)はしばらく見ぬまに大分美形になった。

「橘玲 ZAI ONLINE 海外投資の歩き方」に連載開始 2013年4月25日



退職後フィリピンへの移住を計画している方がいるが、奥さんの同意がないと実行に移せない。そこで、奥さんに1週間ほどの体験旅行をしてもらい、大いにフィリピンの良さを味わってもらおうという計画に加担させられて、下記のスケジュールで宿泊と移動のアレンジを行った。 3月31日(土):到着 3月30日(日):マカティグリーンベルト散策、教会訪問(ホリーウイークの最終日) 4月1日(月):スービック訪問、ポコアポコ滞在 4月2日(火):クラーク経由でマニラに帰還 4月3日(水):タガイタイへ移動、パスコのゲストハウス滞在 4月4日(木):タガイタイ見物(ゴルフのコースデビュー) 4月5日(金):マニラに移動(定期預金口座開設) 4月6日(土):マニラツアー(イントラムロス、チャイナタウン、グリーンヒル、ボニファシオ、アラバン、モールオブエイシア) 4月7日(日):マカティ散策、教会訪問 4月8日(月):帰国 スービックでは、オーシャンアドベンチャー、ズービック、デューティフリーショップなどを回り、黒豚親子の散歩、自然の猿など、奥さんは歓声を上げていたが、圧巻は大型コーモリの群生地の再発見だ。以前の場所から移動してしまったそうだが、道中注意深く周囲を観察していると、飛行場とズービックの真ん中あたり、海岸沿いの道路の海側の木で発見することができた。世界でも類を見ない、市街地の至近距離で一千羽近い大型のコーモリが木にぶら下がっているのを観察することができる。  同行した山本のぶ子さんのたっての依頼もあり、スービックに隣接するオロンガポのマーケットに出かけた。スービックのゆったりとした雰囲気に比べて、そこは活気にあふれていた。これぞ、フィリピン。奥さんは、少々緊張気味だったが、私にとっては、スービックよりも居心地が良い。新鮮なマンゴが一キロ、40~80ペソと、デューティフリーショップの半分以下で、この安さがまた、まさにフィリピンなのだ。 オロンガポのジープニーは黄色に統一され、オロンガポに独特の雰囲気をかもし出している。 スービックからクラークへ向かう高速道路にはアメリカの軍用車と思われる車が物資を運んでいた。中国を取り巻く不穏な情勢への対応なのか、北朝鮮の挑発に対するものなのか。 […]

H夫妻のマニラ体験旅行 2013年4月14日


あのワタミとユニクロがいよいよフィリピンに上陸した。ユニクロや有名レストランチェーンが海外に活路を求めて世界へ進出しているというニュースは大分前から耳にしていたが、フィリピンにもようやく目が向きはじめたようだ。先日報告した、ラーメン屋の山東火もその一環だ。  この日はH夫妻をマニラ案内し、是非モール・オブ・エイシアにも連れて行って欲しいと仰るので、当方としてはワタミとユニクロを見つけることを課題とした。世界第3位のの規模を誇るモール・オブ・エイシアの巨大さをいまさら語ることはないが、その広さゆえに、その辺の店員や案内所で聞いても、誰も知らないのに往生した。  何とかワタミを探し当てたが、そこはマニラ湾に面する一等地で、毎週、金曜と土曜、7時から行われる花火の見物には絶好だ。 中は、広々清潔で、高級感があふれる。時間が早いせいか、空席が目立つが、花火がはじまる7時ごろは満席となった。客層はいろいろで、特に日本人が目立つこともない、ターゲットはちょっと高級志向のフィリピン人のようだ。 ワタミとはご承知の通り和民と書くが、これは私の本名だ。なんの断りも無しに他人の名前を使ってけしからんと思っていたが、名前は登録標章でもないので、文句をつけるわけにも行かなかった。私は、この名前を60年以上背負って生きてきているので、元祖であることには間違いないのだが。しかし、このワタミが私のしょばであるフィリピンにまでやってきたのだから、一言挨拶があっても良かろうかと思う。後の祭りだが、いっそ、パスコではなくて、会社名をワタミとしておけば、フィリピンでこの名前は使えなかったはずだ。しかし、フィリピン人をこの店に案内して、冗談で「私の店です」なんて紹介するのも面白そうだ。 なかなか美人ぞろいのウエイトレスは、とても気がきいて、てきぱきと動いている。可愛いと思って、ちょっと見つめたりすると、すぐに寄ってきて、「何か御用ですか」と聞かれて、照れてしまう。さぞかし厳しいトレーニングが行われたもの推察されるが、出てきた料理はしっかりと日本の味を維持している。他のフィリピン人向け和食レストランの日本食もどきとは一線を画している。 7時になったので、食事を中断してとりあえず花火見物。下の写真は決して線香花火をさかさまに掲載したものではない。  メニューは日本人にはちょっと平凡で、ただの刺身やてんぷら、焼き鳥などが並んでいる。日本の居酒屋では目を見張るような創作料理が並んでいるが、そんなものを並べてもフィリピン人には猫に小判だろう。価格はモール・オブ・エイシアの一等地にある割には安い。 食後、ユニクロを探したが、こっちは簡単に見つかった。かなり広い売り場面積で、こんなスペースが、まだ空いていたのかと思うくらいだ。 女物が多くて、ちょっと日本との比較がしにくかったが、商品価格は日本と同等だと、同行した奥さんが教えてくれた。そうなると日本とくらべて物価が4分の一程度(昨今の円安で、もはや5分の一とはいえなくなった)のフィリピンとしては、かなりの高級品と言える。ちなみに、790ペソや990ペソのポロシャツは、フィリピンではかなり高いと感じる。

ワタミとユニクロのフィリピン進出 2013年4月14日