KIANがいよいよ公文(KUMON)に通い始めた。公文式というのは、以前から名前だけは知っていたが、具体的には一体何なのか良く知らなかった。しかし、大分前に仕事柄付き合いのあったインドネシアの石油省(ペルタミナ)の高官が日本に来て、子供のために公文式の教科書を買い漁っていたのが、印象に残っていた。そしてフィリピンでも、やたらと公文の文字が目に付くようになった。 バランガイの体育館にはKUMONと書かれた大きな垂れ幕が下がっている(左)。街を行くトライシクルの後ろにも垂れ幕がある(右) フィリピーノが数字に弱いのは厳然たる事実だ。フィリピンの東大、UP(University of the Philippine)にも楽勝で入学できるという才女のアティ・キムも数字の話になると口を閉ざして、下を向く。かの大手弁護士事務所、シシップ・サラサールの辣腕弁護士も数字の話になってくるとパニクってしまった。そんな環境で、もし、せめて日本人の平均位の数字・算数の力があったら、フィリピンでは周囲に尊敬されるに違いない。女の子にも憧れの的になるだろうし、まさに手っ取り早く女の子にもてるコツだ。だから、KIANの将来のために今から公文に通わせて、数字に親しませることが、必要だ。そんなわけでKIANの両親を説得したら、二つ返事で同意してくれた。ただし、学費は私持ちという条件付だ。参考ブログ「フィリピーノは何故数字に弱いのか 2014年9月13日」参照。 実は、トランプやサイコロ、碁や将棋でKIANに数字の概念を植えつけようと思ったが、KIANが理解できるのは数字の3までで、それ以上となると、単に言葉として数字を唱えるだけだ。頭の中のイメージは「たくさんMany」というものなのだろう。だから、ルールに従ってゲームをやるなんて程遠い。トランプをめくって数字の大小で勝ち負けを争うという簡単なゲームでも、スペードのエースが最強と知って、それを手離そうとしない。そこで数字の概念を把握させるというような困難な教育は、プロに任せた方が間違いないと、公文ということになった。公文ならば2歳の子供でも入学できるそうで、きっと数字そのものの概念を植えつけてくれるに違いないと期待できる。 公文通学初日、緊張気味のKIANだが素直に先生の指示に従っている。隣でアシストの女性が何故かずっとビデオを撮っていた。 キムと私が近くの公文を探したが、一つの街に一つ位あるようだ。いくつか当たって、環境や通学の便からサルセド・ビレッジの公文を選定した。公園に面したTWO SALCEDOというコンドミニアムの2階でわかりやすい。場所柄、外国人の子弟が多いようだ。しかし、両親の面接が必要ということで、それを実現するのに1ヶ月以上かかってしまった。それでも暮れも押し迫って、ようやく入学の運びとなった。月謝が1800ペソ、週二回の30分のレッスンだが、この程度ならば、私でも出せる。 初日は、ママ・ジェーンが忘れてしまってパス、2回目は、私が付き添った。面接の時は大分ナーバスになって、いやがっていたそうだが、この時は、積極的に教室へ入っていった。2回目は、ママ・ジェーンが連れて行ったが、タクシーが捕まらず、もたもたしているママ・ジェーンを叱責するほど、熱心だったそうだ。何事にも積極的なKIANだから、なにか新しいことが楽しいらしい。 ゲーム感覚で数字になじんでいくところがKIANの興味を引いているらしい。 付き添いは中に入ることはできないがガラス越しに様子を伺うことができる。何をやっているのか覗いてみると、丸の絵を指差して、1、2、3と数え、3個と答える、そして二つの絵を線で結ぶという、馬鹿馬鹿しいほど簡単なことだ。これを何度も何度も繰り返している。面接で、その子供のレベルをはかり、それに合わせて教えていくという、マン・ツー・マンなればこそできる指導だ。こんな簡単なことを繰り返してやらせるなんて根気は、私にはないし、思いつかない、さすがプロだと思う。30分の授業が終わると、毎回、宿題を渡される。学校でやったものとほとんど同じで、アティ・キムが先生になって、KIANにやらせるのだが、かかった時間を記録することが大事だそうだ。 三つの丸を人差し指でさして数えるだけ、あるいは二つの絵を線で結ぶだけという単純な作業だが、これがKIANに丁度よいようだ。 2日目のレッスンは、ちょっとレベルが上がって絵は4つ、数字も付いている。絵と絵を結ぶのもちょっと複雑になっている。この日も、宿題も渡されたが、簡単なので、KIANはもっとないのかと催促する。これが公文の狙いで、家で勉強をするという癖をつけようとしているのだ。確かに家でテレビ漫画ばかり見ているよりもましなことだ。KIANとしては、達成感を味わっているようだ。 しかし、線を引くだけで一枚の絵を使うのは、ちょっと資源の無駄遣いとも思える。冒頭のインドネシア石油省の高官が教科書を日本で求めたという話が思い起こされる。 KIANの授業を待っている間、周囲を見回してみたら、壁に公文の教育の姿勢が書いてあった。「悪いのは子どもではない」、「ちょうどの学習」など、なるほどとうなずくことが書いてある。成績が悪いと、えてして親は子を叱るが、叱られる子供にとって見れば、手のうち様がない。どうすれば成績が上がるのか、10歳未満の子供達に、その解を見つけられるはずもない。親でさえ、わからないのだから。まさに、日ごろの生活態度、教育方法を改めない限り、伸びるはずもなく、これは、まさに親の責任なのだ。 学校教育の悪弊は、年度ごとに目標が定められており、千差万別の子供達は、一律に目標を押し付けられ、それについていけない子供は劣等性というレッテルを貼られ、上を行く子供は、さらに上に行くことを止められる。それを、それぞれの子供のレベルに見合った教育をして、おちこぼれを防ぎ、さらに高みを目指すことができるシステムはやはり、マン・ツー・マンだからこそ可能なことだろう。 […]