Yearly Archives: 2014


ターミナル3がセブパシフィック航空専用のターミナルとして開港したのが、6年前の2008年8月だった。あれから、6年、紆余曲折を経て、ついに本格的運用を開始するに至ったのだ。ちなみにターミナル3の完成から12年の歳月を要したという、なんとも政治の理不尽さを感じさせる。この遅れによる経済損失はとてつもない金額になると創造される。「マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港 2008年8月13日」「マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港(その2) 2008年8月19日」 6年前に開港したターミナル3は、世界最悪の空港として名高いターミナル1の汚名を挽回すべく最新のターミナルだったが、その利用は、長らくセブパシフィックのみが利用する状態だった しかし、ターミナル1からターミナル3へ移行するのは限られた航空会社であり、目当ての航空会社の便がどこへ到着するのか、よほど気をつけないと、ターミナルを間違えてしまい、出迎えるものにとっては、頭痛の種となる。何しろ、ターミナル間の移動は、最低30分はかかり、特に、現在、ターミナル1/2と3をスカイウエイで結ぶ工事をしているので、ターミナル間の道路は、四六時中渋滞しているのだ。 ちなみに、従来は、ターミナル1が外国の航空会社、ターミナル2がフィリピン航空(PAL)専用、ターミナル3がセブパシフィックと例外的に全日空が使っていた。ターミナル4は他のドメスティック航空が使っているが、ターミナル3では、さらにフィリピン航空のドメスティック便の一部が使っており、これが、混乱の元となっている。 こんな現象が国際便でも起こるのだ。マニラ新聞やプライマーのフライト・スケジュール表にも到着ターミナルは書いていないので、チケットを持っている到着客に聞くしかない。逆に到着する人が出迎えを頼む場合は、到着ターミナルと教えないと、いくら待っても空港で迎えの人に出会えないという事態になる。ちなみに日本からのダイレクト便は、当面、ANAとDeltaのみがターミナル3に到着することになるようだ。 現在、セブパシフィック、ANA、Delata等が利用するターミナル3だが、JALはターミナル1に留まっている この日、タクロバンからPAL便で到着する客の出迎えを依頼された。PAL=ターミナル2との先入観から、予定の時刻にターミナル2に出迎えに行ったが、到着便の案内にタクロバンからの便がない。煙にまかれた思いで、スタッフに聞いてみると、タクロバンからの便はターミナル3に到着するという。ちなみに、案内板にはセブ、ダバオ、イロイロなどからの便しかなかった。 あわててターミナル3に向かったが、逆方向は比較的すいていて、15分くらいで到着することができた。便も遅れていて、客を待たす羽目には陥らないですんだ。ちなみに、PALの便のうち、タクロバンやボラカイ(カティクラン)などからの便はターミナル3に到着するので、必ず到着ターミナルを確認してから出かけないと、あわてることになる。 私が使っている三菱モンテーロはSUVタイプなので、荷物もたくさんつめて便利だが、車両規制で月曜は使えないので、月曜は三菱ランサーで行くしかないが、この車は、大きなトランクが一個しかつめない。車両規制やら到着ターミナルやら、出迎えは、現在、私にとって一番頭の痛い問題だ。

ターミナル3が本格稼動 2014年9月14日


今年の6月から晴れて幼稚園に通い始めたKIANだが、それは波乱の人生の始まりだった。近所の幼稚園ないし保育園に通園を始めたのが2歳だったが、後半の1年間は、ほとんどサボっていたが、毎日ABCの繰り返して、飽き飽きしたのが理由だった。また、おとなしい子供ばかりで、遊び相手に不足したのも原因だったようだ。しかし、2年間の幼稚園がが義務教育化された現在、そうも言ってはおれず、4歳になって本格的な幼稚園に通い始めたのだが。         新しい幼稚園に通う初日。KIANは期待と不安で胸いっぱいだ 通園の送り迎えは、姉のキムの役割で、毎日8時半過ぎに、二人乗り自転車ないし、おじさんのボボイの運転する車で通う。はじめの内は、12時近くまでキムが外で待っていて、連れて帰ってきた。しかし、キムは待っている間に、ボーイフレンドとデートしていることが発覚して、外で待っていることは禁止された。はじめの内、KIANはてっきり外で待っていてくれているものと思っていたが、別に待っていようがいまいがさほどの違いがないとことを悟って、幼稚園が終わってからも、素直に姉の迎えを待つようになった。 園児50人(午前の部と午後の部で合計100人)に対して、先生が約10人、それにヤヤ(子守)が5人、合計15人が面倒を見る。約、園児3人に対して一人という勘定になる KIANは相変わらずABCを習うのがきらいで、学習に身がはいらず、遊んでばかりいるので、先生から、小言がキムに伝えられた。ほとんどの子供は2歳あるいは3歳から幼稚園に通っているので、このままでは、皆について行けず、留年の憂き目に会うかもしれないと。それを聞いたママ・ジェーンは、わが子が留年などありえないと、憤慨した。しかし、ABCなどくそ食らえという私の主張にカーネルも賛同して、幼稚園の教育方針がなっていないと、意見の一致を見た。 しかし、ABCに興味を持てないKIANは、やがて幼稚園に行くことを拒み始めた。しかし、姉のキムは心を鬼にしてKIANに通園すること強制した。泣く 泣く出かけるKIANだが、なにか特別な催しがあると、俄然やる気を出して、ママに、「もたもたしているとスクールに遅れる」とはっぱをかける始末だ。 晴れ着をつけて、一家せいぞろで、ご機嫌で幼稚園に向かうKIAN ある日、幼稚園に出かけるときになって、KIANが行方不明になった。姉のキムはパニックになってKIANを探し回る。当のKIANはおじさんのボボイの部屋に隠れていた。見かねたボボイがキムに告げると、KIANは、「何故ばらしたのか」とボボイに食ってかかった。確かに、KIANは私の机の周りで遊んでいる時もキムの声がすると、あわてて私の足元、机の下に隠れるのが常だ。 ママ・ジェーンはジムに通ったりで、外出することが多いので、キムは母親代わりにKIANの面倒を見ることを言いつけられている。だから、責任重大で、自由奔放なKIANに振り回されて、つい、KIANをしかりつけるので、KIANにとっては、姉のキムがけむったくなってきたようだ。だから、KIANはメイドのドナに抱きついて、「I love you」を繰り返して、キムを牽制する作戦に出ている。パパやママがいつもいなくても周囲がKIANを見守っているので、KIANは幸せだ。 約50人の園児に混じって、ひときわ目立つKIANの晴れ舞台だ そんなある日、パパ・カーネルが幼稚園に特別講師として招かれた。警察の仕事を説明してほしいと言う特別講義だ。KIANは、去年の結婚式の際にあつらえた制服を身に着けて、家族全員、それに私が付き添って、幼稚園に出かけていった。パパ・カーネルとKIANの凛々しい姿は皆の注目を浴びた。KIANの得意絶頂の瞬間だ。 このときからKIANの幼稚園での役割が決まった。悪を懲らしめる警察官として、KIANの本領が発揮された。しかし、先生が「パパ・カーネルに重要な話がある」とキムにつげ、両親が幼稚園に呼び出されるはめになった。先生は、KIANの幼稚園でのKIANの腕白振りを両親に真剣に訴えた。 講義を終えて、記念撮影をするパパ・カーネルとKIAN。「将来は警察官になりたいか」との問いかけに、KIANが「YES」と叫んで手を上げると、園児は次々に手を上げ、KIANはリーダーシップを見せ付けた。先生は、KIANが悪さをすると、皆が従うので、まずはKIANをコントロールすることに躍起となる […]

KIANの波乱の幼稚園生活 2014年9月13日



フィリピーノの数字の弱さには定評がある。サリサリのお姉さんで、おつりの勘定を暗算でできる人にはめったにお目にかかれない。私の良きアシスタント役として活躍してくれているKIANのお姉さんのキム(18歳)は、大変優秀だが、こと数字の話になると、話題をそらす。 9月12日のマニラ新聞に、この件について、面白い話が載っていた。米紙、ウォールストリート・ジャーナルの記事で、米国の心理学者や教育学者の研究成果だそうだが、要は、英語そのものが数字を理解するのに不向きで、英語圏、すなわち、米英あるいはフィリピンではそれがハンデキャップとなっているというのだ。アメリカ人の数字の弱さは、確かに定評がある。 お願いするときは、両手をすり合わせて、「プリーズ」と繰り返す。こんな顔をされるとどんなことでも聞かざるをえない。一方、機嫌が悪いと、白目をして下唇をつきだすで、思わず噴出してしまう。 たとえば、11はイレブン、12はトエルブなどの単語だが、日本語などでは十と一あるいは十と二で表現し、これらが二桁の数であることが良く理解できる。さらに17や18はセブンティーンあるいはエイティーンと表現され、70あるいは80のセブンティーあるいはエイティーときわめて取り違えやすく、しかも、十進法の一の位と十の位が、十台とそれ以上では逆転していて、きわめて理解しづらい。 新聞の記事はそこまでだが、さらに九九に至っては、日本の九九と英語のそれでは圧倒的な違いがある。英語では、9x9=81をナイン・タイムズ・ナイン・イコール・エイティーワンなどと長ったらしい読み方をするが、日本語なら九九八十一(ククハチジュウイチ)と数分の一の時間で唱えられる。 私の執務机の周りで遊ぶのが大好きなKIAN。机の上や引き出しの中のものをいじくりまわして遊ぶのが無常の楽しみらしい。右の写真は、幼稚園の催しもに着けた衣装でご機嫌で帰宅してきたKIAN。幼稚園から帰ってくると、まず私のところに飛んでくるのが日課だ。 フィリピーノは英語で算数の授業を受けるので、まず、十以上の数字、十進法の理解と足算に苦しみ、さらに九九で挫折して、それ以降、大多数の生徒が、一生、算数・数学には無縁の生活を送ることになる。だから、KIANには、数字や九九をを日本語で覚えさせたいと思っているくらいだ。また、一方フィリピンでも普及している公文式ではどのように算数やABCを教えているのか、いたく興味を持っている。場合によっては、公文に通わせることも考えている。 KIANが幼稚園に通い始めてから3ヶ月を過ぎたが、KIANはABCを勉強するのが大きらいで、先生から、このままでは、来年も年少を繰り返さなければならなくなると忠告されている。いわば、留年あるいは落第だ。そんな事態をさけるために、ママ・ジェーンは、家庭教師を雇って、KIANにABCを特訓させようと企てているらしい。私は、頭が良いと評判のKIANがABCがきらいで幼稚園を留年させられ、落第生とレッテルを貼られるかもしれないという馬鹿馬鹿しい現象に腹立ちを覚えている。        カメラを構えると得意のワッキーフェイスを披露しておどけるKIAN ちなみに、KIANが数字として認識できるのは三つまでで、それ以上になると、「たくさん」としか認識できないようだ。ABCも、その日習ったアルファベットしか書けない。それよりも、単語を丸のまま読んでくれといい、一つ一つの文字ではなくて、言葉全体を記号として認識しようとしているようだ。 そもそも、人類数百万年の歴史で、数字や文字が発明されたのは、せいぜい数千年前の話で、世界的に数字や文字が普及したのはたかだか数百年の歴史しかない。人類は、数字や文字無しで、脳を発達させ、人類という、他の動物とは極めて異なる類を形成した。その原動力は、二足歩行で自自由になった手を使い、さらに道具を使って脳を飛躍的に発達させたことにある。 だから、脳の発育に数字や文字は不要だ。現にKIANは数字や文字無しに、おもちゃやスプーンを器用に扱い、英語を流暢に話し、タガログ語やさらに日本語まで理解するという、大人顔負けの知恵を持っている。先日、「重い」の意味を聞いたら、「Heavy」と答え、「待って」の意味を聞いたら、「Wait」と正解し、日本語を教えてほしいと要求する。我が家では、英語、タガログ、ビコラノ、そして日本語が飛び交うが、それぞれが、異なる言語で、同じことを違った言葉でしゃべるということをしっかり理解しているのだ。親たちのタガログ語やビコラノでの会話に、英語で割ってはいることもしばしばだ。 私の部屋で一日の大半を過ごすKIANは、私がいても遠慮はしない。先日は、この姿勢から、にわかに小さなおちんちんを出して、ベッドの上におしっこを撒き散らし始めた。私の顔面も命中させて、大喜びだった。この攻撃には私もたじたじで、一騒動になった。その後も大きな水鉄砲で部屋を水浸しにする気配だったので、「I will threw you from window if you do it」と脅したら、構えだけで水を発射することは、さすがになかった。 子供の脳は、遊びや音楽、そして親兄弟との日常の生活を通じて日夜、飛躍的に発展して行く。それを、子供を机に縛り付けて、1、2、3やABCを繰り返させるなんて愚の骨頂だ。ちなみに、KIANは、ワン、ツー、スリー...テンを諳んじているが、サイコロの目を見せて、いくつかと聞くと、三つまでしか正解は言えない。4つ以上は適当に知っている数字を言うだけだ。しかし、数字や文字は時が来れば、自然に覚えるもので、それよりも、活発に遊んで、歌って、踊って、食べて、寝るのが一番と思う。そもそも、歌や踊りは人類の遥か昔からの楽しみで、歌や踊りを楽しむお祭りのない種族は、存在しない。だから、歌や踊りは、人間としての本能に近いものだと思う。 […]

フィリピーノは何故数字に弱いのか 2014年9月13日


2ヶ月前の去る7月15日にルソン島ビコール地方に上陸し、マニラ首都圏を横断した台風グレンダ(9号)は、すでに記憶の外になりつつある。しかし、わが農場があるタバコ市は最近になってようやく電気が復旧し、普通の暮らしが戻ってきた。当初から、写真で被害状況を知らせるようにリクエストしていたが、最近、所要でジェーンとカーネルがレガスピ市に赴き、その際、農場に立ち寄って、ようやく、被害状況そして復旧の写真を手に入れることができた。   農場へのアクセスロードも周囲の木々が倒れこんでいる。そして農場の中に入ると道路は寸断され、通過することはできない。   入り口近くのマンゴの木は根こそぎ倒れ、反対側のバナナの木も壊滅状況だ。   百羽も間近いと期待された地鶏のカビアが放牧されている地区は、木々が倒れて足の踏み場もない。また、道路わきのナラの木は、葉を全部落としたものの、倒木は免れた。   ファームハウスに通じる道路は倒木で寸断され、立ち尽くすビアンカ(息子の未来の妻となる予定)。   家の周りの木々も倒木ないし枝を落とし、足の踏み場もない。           10m近くに育って、大量の実を提供してくれていたアボカドの木も倒れ、ベランダの屋根を破壊した。養魚場へ通じる道もやしの葉で寸断状態。 養魚場の脇にあるファーマーハウスは完璧に倒壊した。 台風が去った翌日、早速20人ほどの人夫を入れて復旧作業だ。まずは、倒木を片付ける作業だ。 […]

農場を襲った台風グレンダ(9号、7月15日)の爪あと 2014年9月13日



昼食後、KIAN待望のカマヤンビーチに歩いて向かった。途中、野生のサルを見ることができたが、KIANはさほどの注意を払わず、一目散でビーチを目指した。          入場料は大人300ペソ、子供250ペソと案外高額だ。ちなみに60歳以上であれば、シニアシチズンとして240ペソに割り引かれる。依然は、無料のビーチだったのだが、数年前にホテルが建ち、それ以来、有料となったが、迷惑な話だ。スービックにはいくつものビーチがあり、他は無料だが、どこにあるかわからないので、人々は、Ocean Adventureの隣の、カマヤンビーチを目指すのだ。 砂は、ちょっと茶色いホワイトサンド。ちょっと入ると岩になっているが、泳げないKIANは、浅瀬で水遊びをするだけだから、ちょうど良い。 最初はおっかなびっくりのKIANも慣れてきたら、大はしゃぎだ。 一時過ぎにはようやく、パパとママが加わって、ビーチ沿いのレストランで一休み。 パパ・カーネルは、KIANがこんなにビーチが好きだったとは、知らなかった。これからは、毎月KIANをビーチに連れてくると決意していた。冬のないフィリピンでは、一年中海水浴を楽しむことができるのだ。 ここで、ジェーンが帰りに教会に寄って行きたいと言い出した。アンヘレス(パンパンガ)の北、ウルダネッタ(パンガシナン)にあり、一時間くらいのところだという。私は、夜の9時に空港で出迎えの約束があるので、とてもつきあえない。また、荷物が多いので車は三菱モンテーロが必要だ。議論の末、私はタクシーでマニラに帰り、別途の車を手配して出迎えに行くことになった。 めったにないカーネルの休暇なので、譲ったのだが、この後が大変だった。普段、スービックからマニラまでは3時間もかからないところが、ブラカンあたりからNLEX高速道路が混み始め、マニラまで5時間もかかってしまったのだ。さらに、マカティに入ってから、日曜というのに大雨による道路冠水でニッチもサッチも行かなくなってしまったのだ。 電話連絡で、ゲストには空港のタクシーでホテルへ向かってもらうことにして、途中から、家路についた。しかし、SLEXの延長のオカンポ通りがウンともスンとも動かない。車を置いて歩いてパソンタモに向かうと、そこは、すでに水が引いて走れるようになっている。そのため、車を呼んだが、夕飯がまだだったので、開店していたリトル東京の相撲茶屋・関取で遅い夕飯を取った。その時、すでに11時を回っていた。 そんなときの飯は、なんともうまい。そうでなくても、ここの料理の特色は、うまい出汁と量の多いことで、ちゃんこなべは有名だ。オーナーは元関取だそうで、大雨で店内まで水に浸かったというのに開店しているという根性が気に入った。 ちなみにカーネル一行が家に着いたのは、夜中の一時半だったそうだ。

KIAN、初めてのスービックの旅(その4. Camayan Beach) 2014年8月31日


翌日、夜中まで飲んだくれていたカーネルとシジェーンを宿に残し、キムと二人、それにKIANを連れ、9時になるのを待ちかねて出かけていった。午後3時くらいには帰らなければならないので、休みの日は、昼まで寝ている彼らに調子を合わせているわけには行かない。 キムとしては3人連れだと、KIANは彼女の子供かと聞かれ、おまけに、この私は亭主かと聞かれるので、まだ18歳の彼女としては、とても恥ずかしいらしい。おまけに、違うと言ってもなかなか信じてもらえないらしい。たしかに彼女は18歳になったばっかりにしては、かなり大人びている。 Ocean Adventureはスービックの観光の目玉だが、ここも広々とした海岸にきれいな海が広がり、都会にはない、開放感がある。ただし、水族館は、マニラのOcean Parkと比べるとかなり貧弱だ。 Ocean Adventureの入り口で(左)。水族館は今一(右)   4つほどアトラクションはあるが、やはり目玉は、イルカのショー。前面はスービック湾が広がり、いかにもOcean Parkの面目を保っている。いつでもイルカが泳いでいるのを見ることもできる。   イルカショーは遅めに行ったら席がなくなるほど混んでいた。KIANは、何が始まるのかと興味深深だ。 オットセイのショーにKIANはびびりがちで、途中で退場。               後は、ぬいぐるみとの記念撮影、ここで昼食をとり、昼からはパパ・カーネルとママ・ジェーンも加わって待望のビーチでスイミングだ。

KIAN、初めてのスービックの旅(その3. Ocean Adventure) 2014年8月31日



今回のスービックの旅は、KIANにZoobic(ズービック)やOcean Adventureを見学させることだ。4歳にもなれば、まさに大喜びするだろうという目論見だ。しかし、KIANは、ビーチ、ビーチと執拗に繰り返している。しかし、ママ・ジェーンは日に焼けるといやがって決して首を立てに振らない。しかし、ズービックに到着するなり、KIANはビーチのことを忘れていた。 しかし、3連休の中日とあってZoobicの混雑は半端ではなかった。目玉のタイガーサファリの前には数百人の人が順番を待ち、すでに夕方だったので、その日の内に中に入れる見込みはない。KIANには内緒で、その場を離れた。しかし、これだけの人が500ペソの入場料を支払ってレジャーを楽しむ時代にフィリピンもなったのだ。ズービックなど昔は訪れる人もほとんどいなくて閑古鳥が鳴いていたものだが。このような中間層の活躍でフィリピンもいよいよ経済勃興が始まるのだろうか   ズービックの入り口で記念撮影。ここの特徴は、街中の動物園と違って広大な敷地を誇ることだ。動物園の外にも多くの家畜が放し飼いされている。 ズービックの売りは、このWhite Tigerだ。同じユーパンコ経営のタガイタイの小動物園(タガイタイレジデンス)でも子トラとの記念撮影ができる。右は、今回入場できなかったタイガーサファリで以前撮影したもの。放し飼いされたトラの中に檻に入った人間が入っていくという趣向で鶏肉を食べるためにトラが車に襲いかかる。 家族4人が動物に扮する(左)。 動物園は、自然志向で動物を間近に見れるが、白いカラバオは今一だ。   広大な園内を回るときは汽車を模した車に乗るが、これが一時間待ち、しかたなく、乗ってきた車に乗って入場した。 園内には羊、ダチョウ、牛、黒豚、ラクダなどが放し飼いされていて、その中を車で走るサファリの雰囲気だ。 ズービックの目玉のもう一つは、このワニ園だ。数百頭の大型のワニが昼寝をしている。竹で鶏の肉を下ろして、ワニ釣りができるのだが、この日は、餌が売れ切れていてNG。 外へ出てから、KIANが大声を上げたのが、黒い車の左についていた、流行のトランスフォーマーのマークだ。KIANは、この車はトランスフォーマーで、ロボットに変身すると信じていた。 帰り道、天然記念物級のスービックの名物、大こうもりは、いつもの木々で羽を休めていた。数百、あるいは数千羽もいるだろうと思われるが、はじめて見るこの光景にKIANとキムは目を丸くして見張っていた。木の枝に果物のようにぶら下がっているのがこうもり(左)。羽を広げたら1m近い堂々としたものだ(右の写真は以前撮影したもの)。

KIAN、初めてのスービックの旅(その2. Zoobic) 2014年8月31日


ここ数年、マニラ圏のコンドミニアムの建設ブームはすさまじいものがあった。価格もここ5~6年で、3倍近くに上昇した。購入しているのは、主に海外の投資家、あるいは海外で働くフィリピン人(OFW)で、あくまでも投資目的で、実需ではない。完成したら、転売して大きな利益を得よう、あるいは賃貸で投資の回収を計ろうとするものだった。上海など高くなりすぎた不動産に比べて、フィリピンの不動産価格が割安感があり、大きな投資効果が期待できるという歌い文句につられて、投資が殺到した。 たとえ、実需でないとしても、デベロッパーとしても売れさえすれば良いのであって、雨後の竹の子のように高層コンドミニアムが立ち上がった。DMCI(建設会社)、SMDC(SMデパート)など、他業種からの参入も盛んだった。一方、アヤラやメガワールド、フェデラルランドなどの老舗もここぞとばかりにマカティの空いている土地を買いあさった。 建設業界大手のDMCIはメトロマニラに比較的低価格で大型プロジェクトを立ち上げた(左)。デパート業界の雄、SMも超大型のコンドミニアムを多数販売している(右)。 こんな小さなユニットをあんなに高い金で、一体、誰が買うのか、という疑問はフィリピン在住のものなら誰しも持ったはずだ。価格は500万円~1000万円程度(賃料としては5万~10万円に相当)、投資には手ごろで、その価格に合わせて、25m2~50m2のスタジオタイプ(ワンルーム)の小さなユニットが大半だ。 そもそも、フィリピン人は大家族だから、こんな小さなユニットに大枚をはたいて住もうとする人は少数だ。ちなみに25m2のユニットで、月々5万円の賃料は、大卒初任給の2ヶ月近いお金で、一般のフィリピン人にとっては高嶺の花。同じ賃料で、郊外ならば、戸建てに住むことができる。しかし、外国人投資家には戸建ての家は、法律上買えないから、外人でも買えるコンドミニアムということになる。したがって、郊外の戸建てはこのブームとは無縁で、従来と大差のない価格で取引されている。 デベロッパーは、価格が上がるということを海外の投資家に示すために、需要供給の市場原理とは関係なく、売り出し価格を定期的に上げている。傍目に価格上昇は続いており、投資効果は間違いないと映る。しかし、ここに来て、大量の物件が完成し、賃貸市場に流れ込んで、マカティスクエアの新築コンドなどでは、50ユニットの賃借人募集などの宣伝が盛んに行われている。こんな高いお金で借りるフィリピン人は少数だから、日本人などの外国人がターゲットとなる。日本の大手の賃貸仲介の会社も進出してきているが、一体どれだけの日本人が賃貸を必要としているのか、賃借人の獲得競争は熾烈を極め、賃貸料も下降気味だ。 完成して、転売すれば儲かるなどという歌い文句は、過去のものだ。かつて、完成前の購入は、その物件が完成するという保証はなく、リスクの高いものだった。したがって、完成したら、購入価格にかなりの上乗せをして転売できた。今、実需がないにもかかわらず、これだけの新築物件が売り出されている現状で、完成物件を高値で買い求める人はいない。 マロンガイ通り沿いは、マカティの高層地区膨張の象徴で多くの高層コンドミニアムが出現したが、その一角でも未着工のプロジェクトが眠っている(左)。マカティの高層地区で、唯一ともいえる新規着工のプロジェクト。しかし、ブエンディア通りをはさんだ手前の空き地は着工の気配がない(右) とある若い退職者の方は、コンドミニアムを投資目的で購入した。フィリピンでローンを組んで、賃貸収入で返済しようとしている。しかし、賃貸料は低下、あるいは賃貸できるという見通しはなく、支払い済みの頭金は損切りの覚悟を決めているという。別の方は、賃貸の期待ができないので、ホテル仕様に変更して投資の回収を打診されているが、そのためには追加の改装資金が必要で、どうするべきか逡巡している。 そうなると、バブル崩壊で、不動産市場は壊滅し、価格の暴落が起こっても不思議はない。しかし、デベロッパーは強気に価格を上昇させている。そうしないと、海外からの投資家の呼び込みは不可能になるので、価格を下げて叩き売るわけには行かないのだ。 そもそも、デベロッパーは建設前にユニットを売り出して資金を集め建設するから、売れ残ったユニットを叩き売って資金を回収する必要はない。転売あるいは賃貸できないで困るのは投資家で、投資金を塩漬けにするしかない。したがって、バブル崩壊後の価格の暴落は起きないだろう。ただし、需要が供給に追いつくまで、10年、あるいは20年はコンドミニアムの建設は影を潜めるだろう。 マカティの巨大コンドミニアムSM JAZZは完成して入居も始まったが、その手前の空き地(元TOYOTA Bel-Air)は一向に着工の気配がない(左)。パソンタモ沿いの空き地も看板だけで着工の気配がない。 ちなみに昨年当たりに着工を計画し、敷地を準備したプロジェクトは、ほとんどそのままで、一向に建設が開始される気配がない。要は建設前にユニットを売却して資金を集めることができないから、着工できないのだ。一方、外見が、あらかた出来上がったプロジェクトは着々と完成を目指している。すでに売れており、資金も用意できているのだろう。しかし、完成の暁には、誰も住まない幽霊コンドの出現となるのは間違いない。 このコンドミニアムブームのフィリピン経済への影響は、どうなるのだろうか。日本のバブル崩壊のように大きな経済の停滞を引き起こすのだろうか。多分、現在好調を維持しているフィリピン経済は、このまま順調に推移するだろう。なぜなら、このブームで海外から大きな投資を呼び込み、それがそのままフィリピンに塩漬けされて、フィリピン経済に寄与し続けるのだ。デベロッパーもコンドミニアムを大量に販売して、大きな利益をあげ、泣きを見ているのは海外の投資家だけなのだから。 […]

コンドミニアム建設ブームの終焉 2014年8月31日



8月21日(木)はニノイアキノデイ、23日(土)、24日(日)、そして25日(月)は英雄の日と、4月のホリーウイーク以来の大型連休となった。さらに、スービックで開業準備中のSUN PLAZA コンドテルから無料宿泊の誘いがあり、チャンスとばかりに4歳になったKIAN、そして、彼のつきそいに、彼の家族を誘って、スービック旅行を決行することなった。KIANもやっと遊園地や海に連れて行く年頃になって、チャンスをうかがっていたのだ。 KIANのお父さんカーネルの都合で、日曜(24日)出発、月曜(25日)帰還の強行スケジュールとなったが、私は、土曜(23日)に友人とともに先行してアンヘレス入りして、翌日スービックで皆と合流した。アンヘレスについては、すでに語りつくしているので、今回は割愛するが、前にもまして、活気にあふれていた。 以前、何度か紹介したポコ・ア・ポコ・コンドテルの和食レストラン・トマトで腹ごしらえをして、コンドテルに向かったが、それは予想外の大型5階建てコンドルテルだった。ちなみにコンドテル(ないし、サービスアパートメント)とはコンドミニアムとホテルの両方の機能を有する施設で、一日の宿泊から、月単位、あるいは年単位の賃貸ができ、場合によっては購入することもできる。サン・プラザは日本人投資家から資金を集めて建設され、いよいよ開業にこぎつけたものだ。場所は、スービック商業地区のホテル街に位置し、レストランが並ぶ海岸にも近く、また最新鋭の病院も至近距離にあって、絶好のロケーションだ。 出来立てのサンプラザは、レストランなどのアニメティは未完成だが、スービックでは珍しい5階建ての高層(?)で、周囲を圧倒する威容を呈している。 玄関やロビーもゆったりしていて、立派。何を勘違いしたのか、KIANは、自分の新しい住処と思い込んで、得意気に他人に話をしていたそうだ。そういえば、家族が一緒なのはタバコの農場やレガスピの実家で、KIANはそれらは皆自分の家と思っている。たしかにそれは一理あるのだが。 ジムやマッサージパーラー、そしてサウナなども完備していて、まさにリゾートホテルの仕様だ。 部屋は144m2の3ベッドルーム。トイレが3つもあって、後で知ったのだが、このコンドテルの最高級のユニットだった。ベッドはキングサイズが二つにツイン、われわれ5人には広すぎるくらいだ。そしてベランダも広々としていて家族団らんのバーベキューなどにはもってこいだ。カーネルとジェーンは皆が寝静まった後、学生気分になって、ワインボトル一本をあけてしまったそうだ。まだ、ちょっと飾り気がないが、リビング・ダイニングも広大だ。 ベランダからの眺めも絶景だ。ここ一体は皆、ホテルだが、灯台を模したホテルや、戸建て住宅風のものや、まるで高級住宅街の雰囲気だ。 スービック港をゆっくり走る遊覧船、ベランダの手すりは色つきのガラス製で、子供が外を見るためによじ登って落下事故にあうようなことのないように配慮されている。 そして圧巻は、ベランダから眺める夜景だ。イルミネーションを施したホテル群は、まるでデズニーの映画を見ているような雰囲気だ。そして、海岸にでると、そこは遊歩道になっていて、ホテルのプールやレストランが並んでいる。ライトアップされた遊歩道もまるで、デズニーの映画の世界に迷い込んだようだ。フィリピンの外国、スービックの面目躍如といったところだが、メインゲートの近くにできた近代的モール、ハーバー・ポイント・モールもいいが、私はここのほうがスービックらしくて、何枚も上だと思う。 ちなみに、料金は40m2のスタジオタイプのユニットで4200ペソ/泊から、われわれが泊まった最高級の3ベッドルームユニットが13000ペソ/泊、2週間以上の連泊で20%引き、1年契約ならスタジオで、27000ペソ/月からだそうだ。決して、安いとはいえないが、それなりの価値はあると思う。なお、詳細は下記にコンタクトしてほしい。 小田昇平 shoheioda3333@yahoo.co.jp

KIAN、初めてのスービックの旅(その1. Sun Plaza) 2014年8月30日


先日、新たに退職ビザをおとりになったかたから、大量のおそばをいただいた。早速、食べてみたが、大変おいしいので、周りのフィリピーノにも勧めたが、反応は今一だ。一人で食べていたのでは、100束くらいあるので、とても賞味期限内には食べ切れそうにない。 そこで、PRAの創立記念のおりに我が家に立ち寄った鏡さんなどの退職者の方に、おすそ分けをした。皆さん、そばが大好きと喜んでくれたが、まだまだ、大量にある。また、誰かにおすそ分けをしようと思ったら、ジェーンからストップがかかった。 子供達が、そばつゆのかわりにスパゲッティソースで食べたら、大好評だったというのだ。せっかくのそばをスパゲッティソースでは、誰しも、もったいないと思うだろうが、そばは健康によいし、KIANが喜んでいるとなっては、NOと言えない。実際に、食べてみると、たしかにまんざらでもない。名づけてそばゲッティは我が家の定番料理となった。 そばとスパゲッティソースの組み合わせ、まるでゲテモノのようだが、意外といける そばゲッティ・セカンドバージョン、私のために野菜たっぷりのそばゲッティを料理してくれた。 右は、お客さんのお土産のJaw Bonesという組み立ておもちゃに夢中のKIAN。色々組み合わせて形ができるので、レゴのように子供の創造力を養う教育的おもちゃだ。しかし、これが35ピース入りで5500円もすると後で知ってびっくりした。 先日、ラスピニャスにお住まいの退職者を案内して、ビコールの農場を訪問した。いずれ紹介するつもりだが、ジェーンがレガスピ市の丘の上の土地を手に入れて、その契約に行くというので、同行したものだ。ジェーンは、先日、3~4日、同じ用事で家を留守にしたが、KIANがさびしがっていたので、今度はKIANを同行したい。しかし、KIANの面倒を見る人間が必要なので白羽の矢が立ったのが私、いわば、子守(ヤヨ)として同行させられたのだ。 同行した退職者は、農場のお米がおいしい、そしてどの料理もおいしいと、大変喜んでくれた。そこで、お土産に2kgのお米をあげたのだが、その後も継続して買いたいという。そして、PRAの創立記念においでになったおり、ビコールの農場から送ってきたお米、5kgを46ペソ/kgで売ったのだが、しめて230ペソの売り上げ、この程度の収入ならプレゼントしたほうがましだと思った。 そのほかにも農場でとれた、アボカドとバナナが送られてきた。今まで、いつ農場に行っても、まだ収穫するには時期尚早で次回の楽しみとした。そして、次回行ってみると収穫も終わって何もない、ということが繰り返されてきたのだ。そこで、収穫したら、すべてマニラに送ることという指令をだした結果が今回だ。しかし、おすそ分けで、あっという間になくなってしまい、やっぱり、味わうことができそうにない。 農場で取れたアボカドとバナナ、おすそ分けで熟れる前に瞬く間になくなってしまった。 タガイタイから来た退職者の方からいただいたパイナップル。スーパーにあるものに比べて、外観がとても新鮮できれいだ。もちろん味も格別だ。右の写真はチョコレートとピリナッツ、カーネルのお母さんがつくったものらしいが、まるで砂糖の塊で、私には今一だった。 本文とはあまり関係ないが、ラスピニャスの退職者を訪問した折にたちよった日本料理店KEI。マカティスエアの本格和食レストランで食べなれている私には、ちょっと違和感のあるメニューだったが、味は、案外いける。お勧めの味噌ラーメンは昔、仙台のラーメン屋で食べた洗面器ラーメンのように大型だった。

新作料理、そばゲッティ 2014年7月13日