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2014年7月4日、第29回、PRA創立記念パーティが開催された。今回のパーティは3年ぶりになるが、PRA職員、マーケッター、10年あるいは20年目など節目の退職者など、限定的な招待客に限定されたパーティだった。私は、今回の表彰の目玉の鏡さんのお父さんの招待に成功したという功績で、Shiga and Familyという招待状をもらって、キムやKIANを引き連れて参加した。他にも5~6名の退職者の招待枠をもらって、皆さんに楽しんでもらった。ちなみに、鏡さんのお父さんは101歳、PRAの会員としては最高齢、さらにフィリピンに在住する日本人の最高齢というわけで、日本政府からも、つい最近、表彰されたそうだ。 今年のPRAのロゴはかなりあっさりしている。パーティ好きのKIANは緊張気味であごを突き出している。 会場はロハスブルバード沿いのGolden Empire Towerだが、そこに一時間遅れで到着するころ、PRAのGMの秘書から、TV局がインタービューのために待っていると催促の電話がかかってきた。この日、某TV局が取材に来ていたのだが、二人の退職者/マーケッターの一人としてインタビューの依頼を受けていたのだ。PRAの活動に協力している外国人の話をTVプログラムの一部として流したいということだ。 こんなチャンスを見逃さないジェーンは息子のKIANを抱きながらのインタビューの演出に成功。本人もTVに出たくて仕方がないのだが。かなりのスタッフに囲まれてのインタービューだったが、私は、中の会場でのパーティの演説がうるさくて、司会者の英語が聞き取れず往生した。ちなみに、いつ放映されるのかあるいはされたのか、いまだに不明だ。 会場へ入ると、退屈な演説は終わっており、退職者の表彰に移っていた。10年、20年、そして最長は、25年、1985年にPRAは創立され、4年目の1989年にビザを取得した場合、25年勤続となる。PRA日本人クラブ会長の家田さんが名誉ある25年勤続として表彰されていた。1989年といえば、現役だった私が、初めてフィリピンに来て駐在を開始した年だ。表彰の目玉は、101歳の鏡 末吉さんだ。アナウンサーは「なんと、一世紀と一日!」と驚きのメッセージを送っていた。日本では100歳というのは、さほど珍しくはないが、フィリピンではかなりまれなことらしい。 鏡さんを囲んでカガヤンデオロの議員さんとPRAのGMらが記念写真。外の会場では着飾ったPRAのきれいどころがポーズを取る。 この日のパーティはダンス、手品、さらにはプレスリーなども出演して、かなり盛り上がった。特にカガヤンでオロの議員さんの歌と踊りにやんやの喝采だった。 PRA GMのVIPのテーブルにキムとKIANをちゃっかりと同席させてご満悦のジェーン 会場の3箇所のビュッフェには普段と違い、かなり大量の食事が用意されていた。オープンテラスにもたくさんの席が設けられて、もっとたくさんの退職者を招待してもよさそうだった。 パーティは予定を一時間オーバーして7時ごろお開きとなったが、鏡さんは特等席で最後まで出し物を楽しんでいた。キムやKIANもちゃっかりと隣に座ってはしゃいでいた。

第29回PRA創立記念パーティ開催される 2014年7月13日


PRAの創立記念パーティが来る7月4日(金)に、3年ぶりに開催される。今回は29回目の創立記念ということだが、2011年26回目以来、久しぶりのことだ。その間、創立記念は行っていたのかもしれないが、ごく内輪でやっていたようで、私の耳に入ることはなかった。 今回も、10年、あるいは20年目の節目の退職者の表彰などをやるそうで、限定された招待者に限られるそうだ。私も、何も知らされていなかったが、退職ビザを保有する最年長退職者として、101歳のKさんが表彰されるということで、その招待に私が駆り出され、ことの次第を知ることになった。 しかし、急遽、他の退職者にも連絡してほしいといわれて、このブログで紹介することにした。しかし、出席する場合は、事前に連絡がほしいということなので、PRAに直接連絡するか、私に連絡をしてほしい。 2010年に行われた25周年記念は節目の年ということもあり、ソフィテルホテルのボールルームで盛大な式典が行われた。PRAの職員も着飾ってレセパショニストを務めていた。 ヌエバ・エシアにお住まいの101歳のKさんの息子さんに連絡をとったら、快く了承してくれた。しかも、お父さんご本人も遠くからやってくるということで、PRAの担当も大喜びだった。ちなみにKさんは先ごろ、フィリピンに在住する最高齢ということで、日本政府からも表彰され、安倍総理直々の表彰状をもらったそうだ。こういう名誉ある賞には、お父さんもお喜びのことなのだろう。 2011年におこなわれた26回目の創立記念は、前年とはうって変わって、大変地味なもの だった。1歳と3ヶ月になっていたKIANは縦横無尽に会場を走り回って、彩(ご迷惑?)を添えた。そのKIANもすでに4歳、今年はどんなパフォーマンスを見せてくれるのだろうか。 場所は、エルミタのロハスブルバード沿いのGolden Empire Towerなのでわかりやすい。受付は午後、3時からだが式は4時ごろから始まるそうで、6時には終わる。ちなみにPRAはこの日、午後からオフィスを閉めるそうなので、気をつけてほしい。

第29回PRA創立記念パーティのお知らせ2014年6月29日



5月26日はキムの誕生日だ。その前の日の25日は息子の誕生日で、前の前の日の24日は、親しくしている退職者の誕生日で、盛大な共同誕生会が期待された。しかし、急遽、息子が日本へ帰ってしまったので、キムの誕生会だけになった。 女の子の18歳の誕生日は特別で、デブー(デビュー)といわれ、晴れて大人の仲間入りをするいわば、成人式だ。家庭によっては、姻戚のほかクラスメートなど招待して、ホテルのレセプションホールを借り切って、結婚式並みに盛大にやるくらいだ。この日は同年代のビアンカ(息子の許婚候補)とドナ(メイド)が友人代表として参加した。ちなみに、男のデブーは21歳だが、男のデブーの式というものはお目にかかったことがない。 当日まで、どんな誕生会を催すのか決まっていなかったが、結局、おなじみのルートンマカオの中華レストランで、内輪の食事会だけとなった。しかし、たまたま、マニラに来ていた両親の母親(ロラーおばあさん)も参加して、総勢16人の大食事会になった。もちろん、万難を排して、父親のカーネルも参加した。娘のデブーを欠かしたとなると、生涯うらまれることになる。          父親から恒例の赤いバラの花束をプレゼントされて、おめかしするキム(左)。右の写真は、ジェーンの長髪禁止令により、かなり短めに髪を切ってきたキムとビアンカ、18歳らしく、とても可愛らしくなった。 両家のロラが会うのはめったにないことで、バプティスマル、デブー、結婚式、それに葬式くらいのものかもしれない。   子供6人を含むとは言え、16人で5300ペソ、ケーキを含めても一人頭400ペソ足らずで済んだが、ルートンマカオの安い、おいしい、量が多いの三拍子の面目躍如だ。ただし、飲み物は我が家のしきたりで、私のビール以外は注文させない(飲み物は何もここでなくともどこでも飲めるし、割高だ)。 近所のレッド・リボンで買ったきたケーキには大きな18をかたどったいうローソクが立てられていた。誕生ケーキとあらば、すぐに自分でローソクを吹き消さないと気がすまなかったKIANだが、この日は、アテ・キム(キム姉さん)の誕生日としっかりわきまえていた。 反対側の席から、大声で、Happy Birthday Ate Kim、I love you、などと大声で会話するKIANとキム。年の離れた仲の良い姉弟だ。

キムのデブー(18歳の誕生日)2014年6月15日


5月xx日、夜明け前から、携帯が長いこと鳴っていたが、どうせ間違い電話だろうと出ずに切ってしまった。そうしたら、朝早く、とある退職者(Aさん)と一緒に暮らし、面倒を見ていたJが、Aさんが亡くなったと知らせにやってきた。以前から病弱で、つい先日、「床ずれの良い薬を知らないか」と電話があり、「医者に相談してほしい」などと話したばかりだった。 Jにはとにかく、肉親に連絡して、フィリピンに来てもらうこと、その際、家族関係を証明するために戸籍謄本を持ってくることとアドバイスした。 翌々日、Aさんのお子さん(Bさん)が会いにやってきた。結論としてお骨を一刻も早く日本に持ち帰り、葬式を日本でしたいとのこと。当方としては、Aさんは、退職ビザのスマイルプログラムであるために、ビザ預託金2万ドルをEnd of Term needs and obligation(終末のニーズ) に使えるから、下記の書類を準備することをアドバイスした。 ① 預託金を引き出したい旨のPRA宛レター ② 出生証明書の取得(退職者と申請者の関係を証明する文書) ③ 委任状(当方がPRAと折衝、手続きを遂行するため) ④ 入院費、葬式等の領収書ないし請求書 月曜朝一、再度、JとBさんがやってきた。結論として「葬式の費用を払わないと、遺体を火葬することができない。しかも、そのような費用は準備してこなかった。」ということで、一刻も早くPRAに葬式の費用を支払ってもらうことが、急務となった。ちなみに預託金はDBP(Development Bank […]

退職者が死んでしまったら その4 2014年6月7日



先日、ブログ「脳内革命第二弾」で約束したとおり、キーボード(電子ピアノ)を購入したので報告する。ブログの内容は、「小学校程度の子供に音楽を教えると、脳の神経細胞の機能が飛躍的に向上して、頭の回転が速くなり、賢い子に育つ」いう主旨だ。 はじめに、ヤマハの代理店でヒアリングしたら、初心者用で1万~2万ペソで買えることがわかって、さらにジェーンの情報から、キャッシュ・アンド・キャリー(老舗モール)でカシオの製品が1万ペソ以下で買えることがわかった。しかし、カシオのカタログを吟味すると、鍵盤が光ってガイドしたりUSBを介してパソコンとつなげることができるなどの機能を持った製品が、15800ペソで買えることがわかり、それに決定した。3万円程度の投資で、KIANの頭が飛躍的に良くなるとしたら、安いものだ。 キーボードの販売担当の店員と値段交渉して13300ペソに負けさせて現金で支払いを終え、我が家に持ち帰った。早速組み立てて見たが、ピアノの音が家の中で響くと、何かリッチな気分になった。幸い、キムが多少の心得があるそうなので、キーボードの使い方はキムに任せたが、ピアノというより、ほとんど電子機器なので、当方には荷が重い。KIANを始め、子供達がたくさんいるので、先生はキムの役割。当面はおもちゃ代わりにして、KIANがいずれ興味を持ち始めたら、キムやKIANをマカティ・スクエアの教室に通わせるつもりだ。 まずは、購入資金を引き出しにATMに行ったら、KIANがいたく興味を示した。きっと、金のなる木のようなものだと思っているのだろう。カシオの販売所ではキムがKAINを相手に店員のように振舞ってふざけている。            店員に使い方を教わるキム、パソコンが得意なキムは、とても理解が早いが、KIANはちんぷんかんぷんのようだ。たまたま、遊びに来ていたキムのいとこは、実家にキーボードがあるため、相当な使い手だ。 今のところは、まるでおもちゃをいじくる感覚で、5分もしないうちに飽きてしまったが、時間をかけて、習わせていきたい。 小銃を構えるパパ・カーネルを頼もしそうに見守るKIAN。彼らの将来はPNPチーフ(警察庁長官)の期待がかかっているが、我が家ではいつもの風景、KIANはキーボードよりもよほど銃に興味を持っているようだ。 本ブログのテーマとは何の関係もないが、ここしばらく姿を消していた日本米が日本食材店に戻ってきた。日本から輸入したコシヒカリなどは5kgで2000 ペソ前後、400ペソ(920円)/kgもするが、日本で買う値段の倍、フィリピンのお米の10倍だ。フィリピン産ササニシキなどは5kgで 600~800ペソ、120~160ペソ(270~370円)/kgで、フィリピンのお米(40ペソ/kg程度)の3~4倍だ。確かに味や食感は違うが、 フィリピン産の普通のお米を上手に炊けば、十分いけると思うのだが、食通にはやはりこだわりがあるのだろう。 日本食材店に戻ってきた日本米。  市場から日本米が消えた原因は、中国とフィリピンの領土をめぐる小競り合いで、中国はフィリピンからのバナナの輸入を停止し、一方、フィリピンは中国からの米の輸入をストップしたらしい。そのため、市場に、中国産日本米が消え、日本レストランは外国ないしフィリピン産の日本米の確保に走り、高値で買い占め、市場から各種日本米が消えてしまったそうだ。 グルメの日本人には日本米が必須なので、領土問題のとんだ余波が在比日本人に及んだことになる。ある退職者は日本レストランから高値で日本米を買っていたが、市場に日本米が出てきたので、大喜びをしていた。一方、普段からフィリピン米を食べている私にとってはどこ吹く風だった。

キーボードを買いました 2014年5月31日


田舎からやってきた子供たちを楽しませるためにラスピニャスのプールリゾート、Swim@Cecilesに出かけた。場所は、マカティから15kmほど、アラバン-ザポテ・ロードをBFリゾートに向かって南に曲がり、ゲートの手前を右に入って、広い駐車場がある場所だ。駐車場は未舗装で、いかにもローカルの遊びどころといった感じだ。駐車場の左側にチケット売り場があり、そのすぐ右が入り口、チケットを見せると、腕に判を押してくれる。 入場料は大人150ペソ、4フィート以下の子供は100ペソだ。ちなみに双子は背が高いので大人料金を取られた。したがって、大人9人、子供5人で、合計1850ペソ、それにテーブルを2卓借りて200ペソ、ちなみにバハイ・クボは、10人収容のものが一日500ペソだが、すでに空きがなかった。営業時間は朝の8時から夜中まで。昼間は暑すぎるので、夜間の客も多いようだ。 この日はモンテーロが使えないので、ランサーとタクシーで行ったが、ガソリン代1000ペソ、タクシー代往復1000ペソ、それにジョルビーで昼飯を2000ペソで買って、〆て6000ペソの出費だった。さすが、14人もで行くと出費がかさむ。もちろん、スポンサーは私一人、持てるものが払うのがフィリピンの慣わしだ。 SLEXは休日、アラバン・ザポテ・ロードが混むとの予測から、海岸道路(ロハス・ブルバード)経由で、向かった。途中、空港の脇を通るとちょうど飛行機が上空を横切って写真を撮るのに夢中になっている間に、左折する場所がわからず、そのまま、新設の高速道路に迷い込んでしまった。カビテのマニラ湾を横切るこの道路は、つい最近開通したもので、はじめて通過する。道路の陸側には、普段空からしか見れない水上家屋が続いており、新たな景色の発見だった。高速道路の終点まで行って、Uターン、何とかアラバンザポてロードの出口を見つけて、ラスピニャスに向かうことができた。 Swim@Cecilesプールリゾートは、すぐにわかった。駐車場はお粗末だったが、値段からしてそんなものだろう。中には4つのプールがあるが、夏休みの日曜日とあって、多くの子供たちが家族連れでやってきていた。バハイクボは満員だが、テーブルはまだまだ空きが目立った。 二つしか借りていないテーブルだが、14人連れとなると不足で、4つのテーブルを占領、ただし、追加料金の支払いはなし。近くのジョルビーで買ってきた食糧と、近くに住んでいる日本人の差し入れたビールを楽しんだ。 水遊びの大好きなKIANは、もちろん上機嫌。ちょっと深めのプールで恐る恐るだったが、子供用のプール(下の写真)では本領発揮だ。 ちなみにフィリピンの若い子は恥ずかしがって水着を着用せず、服のまま水に入る。この日のために息子はビアンカに水着を買ってやったが、全く水着を着る気配がない。シャツを着たまま入るのは日焼け防止の意味合いも強い。シャツを着たままのKIANも翌日、露出部分が真っ黒に日焼けして、背中が痛いと不思議がっていた。次回はT-シャツが必須と認識した。ちなみに、子供用のプールには日よけのテントが張ってあった。           ご他聞にもれず、プールサイドにはカラオケが設置され、キムとヤヤ、、そしてわれわれ、おじ様族は、子供たちがプールを楽しんでいる間、カラオケにいそしんだ。 そろそろ午後3時を回って帰宅の時間となったが、水遊びに夢中のKIANは聞く耳を持たない。しかし、さすがに遊びつかれたのか、KIANは案外素直に水上がり、夢中になって残っていたフライドチキンをむさぼっていた。カメラを向けると一斉にポーズを取る子供たち。いつでもフィリピーノはフィリピーノは写真を撮られるのが大好きだ。  

ラスピニャスのプールリゾート訪問 2014年5月20日



ホリーウイークも大詰めを向かえ、8日目の土曜日は車で子供たちがマニラに帰り、最終日の日曜は私が飛行機で帰った。KIANとパパ・カーネルそしてママ・ジェーンは翌日月曜にマニラへ帰る予定だった。日曜はエアチケットが高いために月曜にずらしたものだそうだが、土曜は子供たちが発ち、日曜日は私が帰ってしまい、残されたKIANは、夢のような農場の生活が忘れられず大騒ぎになってしまった。           農場に散歩に行くと農夫のダニーがココナッツを収穫していた。養魚場では小魚を捕まえて遊ぶ子供たち。女の子達がマニラに行ってしまい、代わりにやってきた、いとこのタムタムとジェルミーと一緒だ。ジェルミーはKIANと同じ年で好敵手だ この日もマヨンは顔を見せたが、遊び相手が二人の男の子しかいないKIANは、さびしそうだ。 ダシンおじさんのトライシクルで遊ぶKIAN、オスザルはメスザルに毛づくろいをさせてご機嫌の様子          KIANはトライシクルの乗り方は十分に承知しているようだ ママジェーンに抱かれるジェルミーにKIANがやきもちを焼く。私の抱っこをねだるKIANの顔もどこか表情がない いよいよ、農場にお別れの日、皆からのさよならの挨拶が続く 誰もが田舎に帰るホリーウイークは同窓会花盛りとなる。旧友たちとトラックに乗って街を練り歩く姿に必ず遭遇する。   空港でランチの後、私は、飛行機でマニラに向けて飛び立ったのだが、それからKIANの大騒ぎは始まった。農場へ帰ると行って聞かないのだ。そこには誰もいないとママが言って聞かせてもKIANは納得しない。レガスピのカーネルの実家は街中なので、そこにはチキンも豚もいない、庭もないといって行きたがらない。KIANの抗議は翌朝、マニラ行きの飛行機に乗った後も続いたが、家についてたくさんのいとこに迎えられて、ようやくご機嫌が直ったようだ。

ホリーウイークの農場訪問 8日目と最終日 2014年5月16日


ホリーウイーク7日目、4月18日(金)はキリストが処刑された日で、ホリーウイークの佳境、街には帰郷した人々が行列をなし、嗜好をこらした神輿が出る。 パパカーネルの友人が農場を訪ねてきた。養魚場ではアヒルが器用に水中交尾をしていた ママ・ジェーンと縄跳びで遊ぶKIAN、それに久しぶりに四角い口をして泣き叫ぶKIAN この日はマヨンが美しい姿を見せた。カーネルの友人も来ているので、養魚場のテラピアを収穫して振舞った。その大きさにまさに舌を巻くKIAN 料理前のテラピアを見つめるKIAN。庭には、マニラから持ってきたテントを張ったが、すでにこのテントはKIANによって破壊されている テントの前でポーズを取る、キム、ママジェーン、ビアンカ、それにKIAN バーベキューに果敢に挑戦するKIAN、炭火焼のテラピアも食べごろだ。 キムが食べているのは、キャッサバで作ったお餅、とてもおいしい            マヨンをバックに2枚。合成写真みたいだと感心する彼らに、こんな写真を撮るためには、①強制フラッシュにして、②シャッターを半押しして、背景に絞りとピントを合わせ、③ シャッターを半押ししたまま、カメラをを移動して中心に人物をいれて、 ④そしてシャッターを押す、というテクニックをしたり顔に教えてやった 夕方になると、街に人が繰り出す。タバコの中心街は足の踏み場もないほど人があふれるので、近所のバランガイでお茶を濁した。農場のゲートの前には十字架が飾ってあり、KIANも手を合わす   KIANは珍しそうに行列や神輿を眺めている

ホリーウイークの農場訪問 7日目 2014年5月16日



ホリーウイークの農場訪問、6日目(4月17日(木))は祝日で、マニラから帰郷した人々で人口は数倍に膨れあがり、街は人でごった返す。以下、この日の農場のスナップ写真だ。 この日は、マヨンが頭を出していた。右は完成したアンパラヤ(苦瓜)の棚 アンパラヤの苗も順調に育っている。右はオクラの苗。いずれも南国の野菜なのでよく育つ 家庭菜園には、さらにカボチャとスイカの苗が育っている。3ヵ月後には大きな実をつけているはずだが、そのころに農園を訪問する予定はないので、ありつけるかどうかは、定かではない KIANの日課はテラピアのえさやり、右の写真は新しく農場にやってきた子犬を囲む子供たち。しかし、狂犬病の予防注射をやっていないので、速やかに実施するようきつく申し渡した 黒豚の放牧場の境界に石を並べて、黒豚の逃亡を防ぐ作業を行う息子。しかし、数日後早速、一匹の黒豚が隣地に逃げ出してしまい、息子は、ブロック塀を建設することに決めた         広々とした放牧場で草をついばむ黒豚。黒豚は鼻で土を掘り起こして地面を耕してくれるので、その後にカモテ(サツマイモ)などを植えれば、黒豚の食料になり、餌の自給自足が成り立たせることをもくろんでいる 農園の入り口の右一帯は野菜畑となっているが、パイナップルのほか、唐辛子、トマトなどが育っている 名前はわからないが、ちょっと変わった観葉植物とブーゲンビリア          これはサボテンの一種、右は蘭の花だ  息子に飛行機をやってもらってご機嫌のKIANと、私のベッドを占領する子供たち

ホリーウイークの農場訪問 6日目 2014年5月16日


ホリーウイークの農場訪問、4月16日(水)5日目はナガ・シティ(農場から約100km、2時間の道のり)のバシリカ教会を訪問した。 途中私のひざの上に座って窓から顔を出して山の空気を味わうKIAN。峠を越えるとマヨン火山の裾野が見渡せる雄大な景色を一望できる 農場と反対側のマヨンの眺望(もっともどこから見ても山の形は同じだが)。マニラからレガスピ(500km)の国鉄は、現在、ナガまで開通し、この辺は、2006年の台風レミンで鉄橋が破壊されて以来、不通となっている レガスピからマニラに向かう国道はナラの木のトンネルが続く。ホリーウイークの行列が始まっていた バシリカ教会は、この辺ではご利益のある教会として有名で、ジェーンはここで祈った結果、KIANを授かったそうで、毎年お参りを欠かさないそうだ          祭壇の裏に回ると、Our Lady of Penafranciaの本尊(右)に触ることができる 丸い穴から手を入れて 本尊に触れるママ・ジェーンとKIAN。KIANも一丁前にお祈りをしている  いとこのヤナのお祈りを邪魔するKIAN。そして、皆で記念撮影 新しい教会なので、雰囲気に欠けるが、なかなか立派ね教会だ。明日の木曜と金曜は祝日で、教会は人で溢れるそうだ 昼もとっくに回って教会の近くのレストランで食事 ここはカンビン(ヤギ)の料理が名物だ  帰路、ナラの木は、花盛り、一方、マヨンは惜しげなく、その雄姿を見せてくれた  峠の高地は野菜やスイカ、そして果物の栽培が盛ん、大量のスイカを買い求めた […]

ホリーウイークの農場訪問 5日目 2014年5月15日