Yearly Archives: 2024


無事に目的を達してジェーン一家をフィリピンに送り返した後は、いよいよ、5年半の私の家族に対する不義理を果たす番だ。一昨年の次兄の葬式にはパンデミックにも関わらず、長兄からは何が何でも出席するようにとの命が下った。しかし、国家が国を超えての移動を制限している限り、私がどんなにわめいたとしてもどうにもなるものでもない。詳細は控えるが、私は日本人だから、日本には何とか戻れるだろう、しかし、フィリピンはの再入国は、パンデミックが明けるまで、例え、SRRVを持っていたとしても不可能だ。さらに昨年の一周忌にも参加できなかった。 ここに来て、私が一時帰国すると聞いて、長兄の喜びようは想像できる。早速、恒例の兄弟会を開催するというので、妻と二人で出かけて行った。横浜の反対側の千葉の安孫子からタクシーで、かれこれ7年ぶりの訪問だ。残念ながら姉と、三兄は都合で出席できず、長兄夫婦、故次兄の嫁、それに4男の私たち夫婦のみの出席だった。高級な寿司に舌鼓を打って、長兄の昔話に花が咲いたのだが、突如妻が、もう我慢できないとテーブルに臥せってしまった。滅多にない外出と会談に疲れて具合を悪くしてしまったのだ。救急車を呼ぼうとしたが、家に帰りたいという。それで、タクシーを呼んで、横浜まで2時間、42000円を使って戻った。 その夜は、引き続き、私の子供とその家族全員集合の家族会を予定していたのだ。家に戻って血圧を測ると200を超え危険領域だ。近くに住んでいる三男と嫁の計らいで、救急車を呼んで病院へ搬送した。三男の嫁が同行したため、家族会は妻と三男の嫁抜きで行うことなった。まさに10年に一度あるかないかの機会なので妻も強く、開催を望んでいた。 場所はイトーヨーカドーのガストでこじんまりとしたものだ。二人、抜けてしまったが、初めての3人の息子とその嫁、それに孫が4人、集まった一生の記念だ。因みにGUSTはタガログ語ではグストと読み、”好む”という意味だ。 4人の孫に囲まれてはにかむ私。連日の歩きで足の指を痛めて恥ずかしながらサンダル履きだ。 一族のホープ、やんちゃもののケイラ、2歳とは思えない大食いだ。 ロボットが調理済みの料理を運んでくるのは、人件費の削減というよりも客の目を引く見世物なのだろう。 夜になって、妻が病院から戻ってきたが、点滴やらで血圧も下がって、もう安心ということだ。翌日はけろっとしていたが、予定した次兄の墓参りは中止して、私だけ、たまたま休みが取れた三男に送ってもらって養鶏場で働いている次男の家を訪問することになった。 高速を抜けて、すれ違いもできないような山道を数十分進むと、突如として養鶏場が現れる、一回に10万羽の鶏を飼育して出荷するという広大な養鶏場、写真のような小屋が14棟あるそうだ。来る日も来る日も鶏の世話、近くに設けられた山の中の宿舎もそれなりで、幼子を抱えた家族が生活できるのだろうかと不安がよぎる。 最近引っ越したという元教員宿舎は3DKの立派の家で、内部は新築同様に整備されていた。これで家賃、月々15000円は格安だ。しかも学校は目と鼻の先だ。これなら子供達も喜ぶはずで、フィリピン人妻も一生、住んでもいいと言っているそうだ。 近所には立派な寺があるが、きっと、ここに流れてきた落ち武者達が建てたものに違いない。 10分ほどで街に出るが、そこには大きな病院やスーパー、念願の回転寿司もあって、生活するには十分なインフラがそろっている。 道の駅と称する地元でとれた生鮮食品を売っている。特に特大のシイタケはうまそうで、フィリピンに持って行きたいくらいだった。 庭で野菜を栽培するのはお手の物だ。 裏の田んぼを借りて米の栽培もやりたいところだ。 […]

5年半ぶりの日本訪問 その2 2024年5月29日


パンデミックも明けて、日本への渡航も自由になったものの、特にこれと言った差し迫った理由もなしに、日本まで出かけて行くのも億劫だ。一昨年は次兄の葬式にも出席できず、家族に会ったのはパンデミックを挟んでもう7年も前になる。そこで湧いて出たのは、ビジネスパートナーのママ・ジェーンが、お世話になった日本人が脳溢血で倒れて、寝たきり介護状態で、どうしてもお見舞いに行きたいと言い出したのだ。どうせ行くなら子供達、3人にも日本を見せたいというわけで、是非、私に案内をして欲しいと懇願された。 私としては日本に行くきっかけとして好都合なのだが、クッキー(7歳)、ココ(4歳)まで連れて行くのは、子守りまでしなければならないので、大いに躊躇されるところだった。一方、私が同行しないと14歳のキアンが案内から子守りまでさせられてたまらんと嘆いていた。しかし、足代を持つというので、重い腰を上げて、同行することにした。ただし、前半はお見舞いと、子供たちの接待で3泊4日、後半はわたしの家族との時間で、4泊4日、合計で、7泊8日の旅程とした。私の仕事上、せいぜい一週間が限度と踏んだのだ。 家族に連絡すると、特に妻は興奮状態で、長兄の訪問、次兄の墓参り、3人の息子夫婦と孫との家族会、さらに最近日本に家族で移住した次男の住まいの訪問など盛りだくさんの予定のスケジュールを立てるのにてんやわんやとなった。 私としてはホテルの予約、子供たちの接待、ママ・ジェーンの買い物どころと、いろいろ思案してスケジュールと予約にてんやわんやとなった。ホテルは成田空港へのアクセスが良く、お見舞いに行く板橋の介護施設にも行きやすい、前回の札幌旅行でも泊まった上野/御徒町近辺の安宿と決めた。子供達の接待にはママ・ジェーンの第一希望はディズニーランドだったが、ここは、ほとんど一日中順番を待って並んでいるだけなので、却下。フィリピンでもなじみだった、豊洲にできたキッザニア、そして、東京スカイツリー、歩いて行ける上野動物園と決めた。ママ・ジェーンの買い物どころは御徒町周辺に安売り店がひしめいているはずだ。 航空便はLCCとしては質が高いと評判のZIPAIRとして、帰りはJET STAR及びCebPacificとしたが、費用は5人で、約10万ペソ(28万円)で、一人当たり6万円弱でパンデミック前の水準に戻ってきているようだ。JALの子会社のZIPAIRは評判通り、LCCとは思えない最新鋭の飛行機で快適な旅ができた。 LCCでは飛行機の中で食事は軽食を注文することになる。現金での支払いは不可で、試しにフィリピンの銀行のATMカード兼デビットカードを使ったところ、OKだった。しかし、しばらくして銀行からの通知で「銀行からの確認の電話にでなかったので、直ちにカスタマーサービスに電話をよこせ、さもなくばカードを使用停止にする」というのだ。これから日本でもカードを使おうと思っていたのに、飛行機から電話も通じないし、日本から電話をするにも携帯はもっていないし、困ったことだ。幸い、現金主義の私は、あらかじめ円を手配していたので、事なきを得たが、なんとも理不尽な規則だ。たった1500円の使用について、いちいち使用確認の電話をすることもなかろうにと思うのだが。フィリピンにもどってから、支店に行って回復を依頼したら、即刻OKになったが、次回海外に行くときはやはり現金を用意していかざるを得ないようだ。 ホテルは京成上野駅から御徒町の方向に歩いて10分くらいのところに、二部屋3泊、65000円で泊まれたが、一泊一部屋一万円強、クイーンズベッド一つの、それなりの狭苦しい部屋だったが庶民には十分だ。到着は夜になったが、上野広小路近辺の通りには、群がるようにして若い娘さんがレストランやカラオケの呼び込みをしている光景に目を見張った。そして、窓からはドン・キホーテの看板が見えて、ママ・ジェーンの買い物には超便利なところで思惑通りだった。さらに一階にはファミリーマートがあって、サンドイッチで朝食も済ますことが出来た。 翌日は、キッザニア訪問。御徒町から新橋を経て、ゆりかもめで向かう。ビルの間を縫うようにして無人運転の電車に子供たちはいたく興味を覚えていた。クッキーとココは電車というもには乗ったことがないので、改札口を通るたびに興奮していた。なお、計画では豊洲市場に寄り道する予定だったが、毎週、水曜は休みで断念した。 キッザニアの内部は雰囲気的にフィリピンのものと一緒で、あまり変わり映えはしなかった。しかし、クッキーやココは、フィリピンのキッザニアがパンデミックで閉鎖したので、ほとんど経験が無くて、それなりに楽しみにしていた。当方は、いつものように付添人の休憩所で時間をつぶしたが、ママ・ジェーンはここぞとばかり、子供たちに張り付いて、写真撮影に夢中で、入れ替え時間になってもあらわれず、やきもきさせられた。 キッザニアの予約は12時から午後3時までなのだが、ママ・ジェーンがFace Bookでライブをやっているようで、子供たちは、彼女のリクエストに答えて、ポーズをとらされ、彼女が気に入るまで何度もやり直しさせられて、楽しむところではない。それを私が時間だから退場するように促しても、うわの空で、果ては、私になぜ急がなければならないのかと食ってかかってくる始末だ。私は、心の中で、ここは、フィリピンじゃないんだと、叫んでみてもはじまらない。 キッザニアの帰りは買い物タイム、ホテルの近く、御徒町、上野広小路にはアメ横をはじめとするディスカウントショップがひしめいている。ママ・ジェーンの目的は格安ブランドバッグと化粧品、キアンは最近、凝っているプラモデル。そのため、中古品売買のメッカ、MODE OFFとHOBBY OFFに案内した。 […]

5年半ぶりの日本訪問 その1 2024年5月27日



2
パンデミックから4年経過して、ようやく日常が戻ってきた感がある。昨年の8月、すべての入国規制は廃止され、出入国が従来通りになった。違いと言えば、出入国票がe-Travelと呼ばれる電子化されただけだ(とは言うもののスマホを持たないお年寄りはどうやって出入国するのか気になるところだが)。私も、同居する子供たちの対面授業の開始に伴って、マニラに居を移した。 規制が撤廃されたからと言って、直ちに日常がっ戻るわけではない。私のビジネスである外国人のビザ(SRRV)等をお世話する仕事は外国人の入国が許されないパンデミック中は壊滅状態だった。さらに、規制が撤廃されたからと言って、即、出かけて行きましょうかというものでもないのだろう。 しかし、2024年、新年を迎えて、そろそろ重い腰をあげようかということで、にわかに、顧客からのコンタクトが増えた。SRRVについては、円安、物価上昇でフィリピンに移住することの経済的優位性が減少したためか、ボチボチというところだ。しかし、この際、SRRVを取り消そうとか、ほったらかしておいたコンドミニアムを処分しようとか、新しいビジネスをフィリピンで始めようとか、今までとはちょっと様子が違う問い合わせが増えている。退職後の人生をフィリピンで過ごすというよりも、フィリピンを成長するマーケットとして、ビジネスチャンスととらえる、現役組が増えているのだ。一転、多忙ともいえるほどの状況になってきた。 今年になってかからPRAに赴いて申請業務代行をしているが、トップマネージメントの交代、パンデミックの終焉に伴って、リモート中心の従来の手順がことごとく異なって、右往左往することが度々だ。同じ申請を3度もやり直させられることもあり、当方としては、まさに肉体的そして精神的リハビリに加えてビジネスのリハビリ真っ最中だ。 パンデミックの始まったころ、多数の中国人がオンラインカジノで違法に就労しているということで、社会問題になった。街に若い中国人が隊列をなして歩いており、コンドミニアムの需要もうなぎ上りだった。そのため、退職ビザ(SRRV)がこれらの違法就労の隠れ蓑なっているとやり玉に上がって、一時、発行停止に追い込まれた。退職ビザをやり玉にあげたゴードン上院議員が「35歳で何が退職ビザだ」と発言したそうで、まさにその通りだ。このころは、パンデミックで外国人が入国できなかったので、いずれにせよ申請者は皆無なので、何の影響もなく混乱することもなかったのが幸いだった。 その後、SRRVが再開されたものの、50歳未満は申請不可となってしまって、現在まで変わっていない。現在、50歳以上のSRRV申請者の数はパンデミック前と同等になったそうだが、全体では、かなり、減少している模様だ。今月初め、久しぶりに日本人の退職者のSRRV取得をお世話したが、Oath Taking (宣誓式)では日本人は、その方一人しかいなかった。しかし、50歳未満の現役世代のフィリピン移住希望者は少なくなく、SIRV(特別投資家ビザー21歳以上、75000ドルの株式投資が条件)の問合せが増えており、SRRVより多いくらいだ。 パンデミック中は話題に事欠いて、ブログのアップも激減して、年に数回のアップに留まっていた。パンデミックが明けて、すわ、と構えてみたものの、3年以上のブランクは簡単にもどらず、話題もなく、半年以上、アップをサボってしまった。ファンの方から病気ですか、などと問い合わせが来るくらいだったが、かと言って話題と言えば、愚痴位なもので、なかなかその気になれなかった。 しかし、今回のブログの本題は、同居しているカーネル・ヤンさんの国家警察ジェネラル就任のニュースで、まさにブログに絶好な久々の話題だ。キャンプ・クラミの国家警察本庁で行われた就任式には都合で出席できなかったのだが、マラカニヤン宮殿で行われたマルコス大統領出席の元におこなれた宣誓式には万全を期して出席を果たした。本来は、家族のみということなのだが、私はカーネルの兄という申告で出席がかなったそうだ。 当日は、早朝4時起き、5時発ということで、暗いうちに起きだして準備が開始された。しかし、準備に時間がかかるのは女性陣で、当方は待ち時間に一仕事ができたほどだ。そしていよいよ出発の時が来たが、すでに6時を回っていた。まずは本庁のキャンプクラミに到着、朝食の準備がしてあったが、遅れていたために朝食にありつけず(私だけはしっかり家で朝食をとったのが幸いだった)、10台の国家警察専用バスに分乗してマラカニヤン宮殿に向かった。 マラカニヤン宮殿ではセキュリティチェックで、約一時間、バスの中でスタンバイ。ようやく会場に入場できたのは8時半だった。1990年に一度、観光目的で訪れたことはあったが、内部は宮殿と言うだけあって、大統領府としてはなかなかの風格を有している。 会場には今回宣誓式に参加する白い制服に身を固めたジェネラルが55人(このうちヤンさんをはじめとする新任のジェネラルは15人程度)、それにその家族で、総勢、300人程度は参加していたろうか。女性はうちわのような肩がついたドレスを身にまとって、最大限の礼装で着飾っている。男はバロンタガログ、私も窮屈なバロンを着て参加させられた。 因みに警察の肩書は、高い位から順に、ジェネラル、カーネル、メジャー、キャップテンとなっており、警察学校を卒業した場合のキャリアはキャップテンから始まる。10年ほど前にメジャーからカーネルに出世したヤンさんは、一昨年大病を患い長期療養を余儀なくされたので、ジェネラル昇進は危ういと懸念されたが、皆さんのご支援のおかげで、念願のジェネラルの座を射止めることができた。全国で、100名程度のジェネラルがいるそうだが、十数万人の組織のトップ百人だから、千人を超える警察官のトップということになる。タガイタイにある国家警察学校の1995年卒業組としては、出世頭だそうだ。 国家警察は56歳で定年だそうなので、その前にジェネラルになるかならないかは、定年後の天下り先での給与に大きな開きがある。まだ、4歳のココを始めとして3人の子を抱える彼としては、まだまだ、頑張ってもらわないといけないので、今回の出世は家族の将来にとっても一大事だ。 […]

マラカニヤン宮殿でジェネラル就任の宣誓式に参加 2024年3月23日