KIANの育ての親ともいえるヤヤ・チュー以来、5人目のメイド(ヤヤ・リザ)がやってきた(ちなみに我が家では親しみをこめてヤヤもメイドもひっくるめてヤヤ・....と呼んでいる)。それまでのメイドはことごとく蒸発しまっていたのだ。
KIANが生まれたころはメイドとヤヤ(子守)ということで二人の使用人がいたが(ちなみにKIANが生まれて以来、5人ほどヤヤないしメイドが入れ替わったが長続きはしなかった)、その後、やって来たヤヤ・チューは、子守、炊事、洗濯、掃除と、一人4役をこなしたスーパー・メイドだった。ママ・ジェーンは給与を倍にするから、2倍働けと持ちかけたらしいが、昼間はKIANとずーっと一緒で、いつの間にか、炊事、そして洗濯と掃除をこなし、早朝未明から夜更けまで休む間もなく働いていた。二人の子持ちなので赤ん坊の扱いがなれていて、料理もそこそここなし、我が家にはなくてはならない存在となった。2011年の4月から、2014年3月までKIANが1歳から4歳まで、幼児期を世話してもらったことになる。
ヤヤ・チューはKIANの育ての親とも言える
毎週、土曜日、KIANとヤヤ・チューを連れてサイカ・レストランでランチをとるのが私の日課で、私にとっても心休まる楽しみだった。そんなヤヤ・チューがKIANが4歳の誕生日を迎えるころ、突如として姿を消した。なにか家庭にややこしい事情があり、夫以外の男の子を宿し、夫から姿を消すために行方をくらましたらしい(いつそんな時間があったのか不思議だったが)。ヤヤ・チューはKIANをわが子以上に可愛がっており、KIANも実の母のように慕っていた。しかし、意外にもKIANはヤヤ・チューがいなくなってから、ほとんどヤヤ・チューのことを口にすることはなかった。
KIANの横にいつも張り付いてKIANの面倒を見ていたヤヤ・チュー。この日は我が家でシャブシャブパーティだ
そして次にやってきたのが、まだ二十歳そこそこのヤヤ・ドナだ。アテ・キムやビアンカと年が近いだけに、3人姉妹のように仲がよかった。土曜のサイカでの食事はもちろん、タガイタイやプールなどアウティングにも家族の一員として連れ歩いた。しかし、メイドとしての腕は今一で、KIANは、もはや手がかからなくなっていたが、炊事、洗濯、掃除をまともにこなすことができず、アティ・キムやビアンカのお荷物になっていた。ちょっとモダンな女でもあるので、近所の男どもからちょっかいがあって、夜な夜な外出するようになって、ママ・ジェーンの不評を買うようにもなっていった。
年齢が近いアティ・キム(右)、ビアンカ(中央)、そしてヤヤ・ドナ(左)は友達同士のようだった
そんな彼女も、ある日突然姿をくらました。ヤヤ・ドナは元々、ママ・ジェーンの親友のところで働いており、暗い過去があるそうなので、ことさら気を使っていた。農場にいるときなどは、幸福感にしたって、涙さえ流していたものを、裏切られたママ・ジェーンの怒りはひとしおだった。その後、侘びが入ったそうだが取り合わなかったそうで、私にもヤヤ・ドナから連絡があったが、シカとするよう、お達しがあってほっておいた。家出した直接の原因は、アティ・キムとの口論だそうだが、ヤヤ・ドナとしては呼びもどされるに違いないという公算があったらしい。ヤヤ・ドナは、一年も、持たなかったが、KIANとしては特別の感慨はなかったようで、すぐに忘れてしまったようだ。
ヤヤ・ドナは農場に帰ったときも、農場に住み込んで手伝ってくれていた
しばらく、アティ・キムとビアンカがメイド役をしていたが、二人とも学校に通っていたので、家の仕事が滞り気味だった。そこでやってきたのがヤヤ・オ-ディだった。28歳独身のいかにもメイドらしいい雰囲気だった。しかし、このヤヤ・オーディができもので、料理は抜群で皆をうならせるほど、洗濯、掃除もそつなくこなした。しかし、半年もしないうちに「10年近く働いた前の雇用主が戻ってきてくれと切願された」と辞職を申し入れてきた。その後、しばらくしてKIANの一言で、一旦戻ってきたが、数ヵ月後、やはり消えてしまった。関連ブログ「ヤヤ(子守)が帰って来た」参照。
ヤヤ・オーディは写真が大嫌いで、City of Dreamに行くときも顔を隠してしまった
ある日、ヤヤ・オーディが私にさよならを言いに来た。それをママ・ジェーンに告げると、そんな話は聞いていないという。しかし、ママ・ジェーンの話によると、ママ・ジェーンの攻撃に恐れをなして、逃げ出したのだと、せせら笑っていた。詳しい話を聞くと、ヤヤ・ドナはビアンカをそそのかして、一緒に元の雇用者のところで働こうと画策しており、それをママ・ジェーンが嗅ぎ付けて、懲らしめようとしていたらしい。メイドとしては抜群のパーフォーマンスを示して、頭の良い子だった。しかし、頭が良いととなると、ずるがしこいこともするようだ。そのころ、ビアンカも大学を中退させられたので、将来に不安を持っていたらしく、誘いに乗りかけたらしい。
知らぬ間に撮ったヤヤ・オーディの唯一の写真(中央)この写真を見てKIANがヤヤはなぜ僕に怒っているのかと質問してきた
そのあと、メイド役はビアンカに回ってきた。ママ・ジェーンに思惑があったようだが、ビアンカのメイドとしてのパーフォーマンスは今一だった。炊事、洗濯、掃除のどれをとっても落第点で、私の部屋の掃除や洗濯も手が回らなかった。もともとそんなに丈夫な体ではないせいか、いつも部屋で昼寝ばかりしていた。ビアンカは元々捨て子だったのをジェーンの年の離れた妹としてジェーンのお母さんの育てられてきたのだが、20歳になって、いよいよ自立すべき時が来たと考えたのだろう。ブログ「ビアンカの物語」参照。
カメラを向けるといつも同じ顔になるビアンカ、どういう表情が可愛く映るか知っているのだ
じっと、時をうかがっていたのか、2016年3月某日、アティ・キムが私に、ビアンカになにか用事を言いつけたか、なぜならビアンカが朝から見あたらないと言うのだ。一時、大騒ぎになったが、単なるメイドの蒸発とは違い、仮にもビアンカは法的にママ・ジェーンの妹だ。それだけにママ・ジェーンの怒りはすさまじいものがあったと想像できる。二度とゴメス家に顔を出すなと携帯メールを送ったそうだが、フィリピンではウタナローブ(恩)という言葉があるように20年間捨て子を育ててもらった恩は計り知れないもがあるはずなのだ。
ビアンカにとってみればKIANは甥っ子に当たるので、時には罵声を浴びせることもあったが、仲はよかった
ビアンカまでいなくなって、KIANの幼稚園や公文の見送り、炊事、洗濯、それに掃除まで、さらに、私とパパ・カーネルの仕事の手伝いまで、アティ・キムの八面六臂の活躍が始まった。しかし、いくらアティ・キムが歯を食いしばってがんばっても限界がある。そこで急遽、農場のメイドのヤヤ・ミッシェルを招聘することになった。こんな事態にママ・ジェーンは、今までヤヤには家族のように接することにしていた。しかし、3人ものヤヤが蒸発してビアンカまでが家出をするなんて、自分の考えが甘かった、これからは一線を画して扱うと宣言していた。もっとも、メイドが蒸発するのは、大概の場合は、給与の前借があるので、それを踏み倒すために予告なしに消えるだけのことのだ。初日に前借を申し入れて、翌日には蒸発なんて話も聞いたこともある。
夏休みで農場からやってきていたジェムジェムやヤナ(左の顔半分)らとママ・ジェーンの誕生ケーキ(本当の誕生日ではなくて届け出日)を味わうKIAN(後ろがヤヤ・ミッシェル)
5月の選挙前にヤヤ・ミッシェルは田舎にかえり、代わりにヤヤ・リザがやってきた。ヤヤ・ミッシェルはヤヤ・オーディの親戚で、料理関係の仕事をしていて、ヤヤ・オーディと同様に抜群の料理の腕前を持っていた。その上、性格も明るくて、私としてもなんとか引き止めようとしたが、彼女の家族の都合とかで叶わなかった。でも、ジェーンがお産をしたらヤヤとして呼び寄せるとは言っているので、それを楽しみにしている。ちなみにヤヤ・ミッシェルはママ・ジェーンの小学校の同級生だ。
とてもいいメイドだと肝いりでやってきたヤヤ・リザはたしかに朝から夜中まで、働いていないところを見ることがないような、まるで牛馬のような働き者だ。しかし、料理の腕がなっていないし、なんとなく臭い。なんとかならないかとママ・ジェーンに言っても、彼女はすばらしいメイドであるとの一点張りで首をたてに振らない。一方、ジェーンの反省によってか、家族と一緒に外へ出ることはめったになくて、家でひたすら仕事をしており、今までのヤヤとは違う距離感がある。しかし、2ヶ月もするとなんとなく心が通じるようなってきて、まあ、よろしいかなといった気分にもなってきている。そんなわけで彼女の写真は今のところ、一枚もない。
普通の日本人はメイドなど他人が家の中にいることを嫌う人が多いが、フィリピンに住んでいるとメイドのいない生活など想像することさえできない。長年、生活をともにしてきたメイドは、主人が外交官などで海外に赴任するときなど、一緒に連れて行くのが普通だ。日本でもそのための特別のビザの枠さえある。かのコーリー・アキノ元大統領が、アメリカに留学するとき、一緒にヤヤ(子守)を連れて行った話も有名だ。上層階級と下層階級の人が同じ屋根の下で暮らすのが、当たり前のことでもあるが、そこにはしっかりと一線が引かれているのも確かなことだ。