超大型台風30号(国際名:ハイヤン、現地名:ヨランダ)が直撃したとき、レイテ島にいて一時音信普通となっていた退職者の五十嵐忠幸さんが、台風から9日目の11月17日(日)、パスポートの受け取りに事務所を訪問された。
五十嵐さんは16日(土)にレイテ島のオーモックからセブ島に船で渡り、翌日、セブ空港からマニラに戻ってきたのだ。
ビザの発行を待っている間、五十嵐さんは3週間ほど奥さんの実家のあるレイテ島のオーモック市(タクロバン市の南西約50km)に建てた家に滞在してい た。台風が襲った11月8日(金)にタクロバン空港からマニラに戻り、ビザを受け取って10日(日)に日本へ戻る予定だった。 7日(木)にオーモックから航空会社に連絡したところ、8日(金)のフライトはキャンセルの可能性が高いということなので9日(土)のフライトに変更し、7日中にタクロバンに移動する予定だったのを思いとどまった。
そして8日の早朝から強風が吹き始め、超大型台風がサマール島、そしてレイテ島に上陸したのだ。もし強風と高潮で壊滅的被害を被ったタクロバンに移動していたら、家族全員の生命はなかっただろうと五十嵐さんは振り返る。
早朝7時ごろから吹き始めた強風は、9時ごろに最大となった。 窓ガラスが割れ、家の中のものは風雨に飛ばされ、1メートル先も見えなくなった。フィリピン人の奥さんのルシベルさんは、ひたすら神に祈りをささげるだけ だった。強風は午後2時ごろまで続き、いったん収まったが、30分後には方向を変えてさらに強烈な風が吹き始めた(台風の目が通過したのだろう)。
家は頑丈に作ってあったが、そのため、屋根が吹き飛ぶ代わりに、天井が屋根の骨組みとともに落下した。奥さんはヘルメットをかぶって部屋の後片づけを始めたが、五十嵐さんは屋根の修復にどれだけお金がかかるのか、懐が心配になったそうだ。
人々は濡れた衣服を乾かし、散らばった残材で家の修復を始めていた。こんな災害のあとでも、いち早く復興の槌音が聞こえるのは逞しいかぎりだ。
しかし、水には困ったと五十嵐さんはいう。雨水に頼るしかなく、雨が降ると感激して、ありったけのバケツを集めて水を貯める。まさに自給自足の生活だ。
台風が過ぎ去ったあとはもちろん停電で、電気は来ない。フィリピンでは凍え死ぬ心配はないのが不幸中の幸いだが、電気が止まるとテレビもインターネットも使えないので情報が遮断されてしまう。
停電に備えてバッテリーを準備しておいたのがおおいに役立ったという。ジェネレーターを買いに行ったが、もちろん売れ切れで入手することはできなかった。
NPA(New Peoples Army新人民軍)が民家を襲って略奪しているとか、刑務所から囚人が逃げだしたとか、治安が悪化しているとの情報が流れて、電気のない夜は不安でならなかった。
屋外に設置したセンサーが一つだけ残っていて、夜中に猫などに反応してしばしば警戒音を発する。普段なら無視するところが、この時ばかりは妻名義で買った拳銃を持って見回りに出た。意外と早く軍がやってきたが、暴徒の略奪から一般市民を守るためのものなのだろう。
今回はサマールとレイテ島など、中部フィリピンをマンモス級の台風が襲ったが、それが私の農場のあるビコールだったとしても何の不思議もなかった。こん な台風に襲われたらいくら家を補強しても無駄な努力で、シェルターを作って逃げ込むしかない。強風と水害、それにマヨン火山の噴火による土石流に耐えうる シェルターはどんなものか考慮中だ。
家は作り直せばいいのだ。そもそもフィリピンの地方では、家の作りが簡単なので、すぐに吹き飛ばされる代わりに復旧も簡単にできる。一方、インフラが整い高層ビルの立ち並ぶ大都市ほど災害の被害は壊滅的となり、復旧に莫大な金と時間がかかる。
仮に今回の台風と高潮がセブあるいはマニラを襲ったら、国家の存亡に関わる大惨事となっていただろう。