大分前、NHKで、「男は視覚で恋をする、女は理性で恋をする」というテーマの番組をやっていた。男女の恋愛を学術的な観点に立って解析したものだ。
この恋愛の原理は、その後、私が、男女の問題を考える上での基本となっている。欧米や日本では、男女の関係は、人工的な文明(?)が大分入り込んで、ややこしいものになっているが、フィリピンでは、神の教えを忠実に守っているので、この恋愛の原理が適用できて、わかりやすい。
フィリピンでの恋愛の一般原則は、ブログ「フィリピン流恋の手ほどき(その2)」で取り上げたが、今回はより、具体的な問題に論及する。
マム・ジェーンの姪子たちは、16~17歳と、胸も膨らみ、お尻も、もっこりし始めて、いよいよ、男の視覚を刺激するお年頃になってきた。18歳未満のマイナーとのセックスは、それが合意のうえでも、いたした男は罪になる。ということは、それだけ、この年ごろの女性は、男に狙い撃ちにされ、社会は、それを法律で取り締まってでも阻止しなければならないという訳だ。
マム・ジェーンの度重なる注意にも関わらず、姪子たちは、皆、ボーイフレンドができていた。そもそも、あの携帯電話というやつが、男の恋のアタックを容易にする。執拗なテキスト(メール)に、女は身も心もとろける。このころの、さかりがついたばかりのメス達(失礼)は、まだ理性というものがない。男の甘い言葉に、メスとしての生殖本能を呼び起こされ、彼女たちは、これが純粋な「愛の世界」だと勘違いして燃え上がる。彼女たちは携帯を一時も離さず、彼からの甘い言葉を待ち続ける。といっても、「I love you」とか、「Mahal Kita」とか、「I miss you」などの単純な言葉を並びたてているだけなのだが。その点、カーネルが、娘のキム(17歳)には携帯を持たせたないという強硬手段に出ているが、さすが警察のやることは違う。
そんな男の甘い言葉にほだされて男の求めに応じ、なけなしの処女を提供してしまう少女が多い。高々16~7歳のハイスクールの男子生徒に扶養能力があるはずもなく、女が妊娠すると、男は逃げて、女は、出産そして花街への転落というお決まりのコースをたどる(フィリピンで、避妊は宗教上嫌われ、堕胎は法律で許されないため、セックス=妊娠=出産となる)。
そして、女は、花街で、スケベ親父の相手をしながら、はじめて、「恋は、理性でしなければならない」と悟るのだが、すでに時遅しだ。こんな年齢の恋は単なる「青春の甘酸っぱい一ページ」で終わるのが一番いいのだ。へたに成就すると一生涯、悔やんでも悔やみきれないことになる。
マム・ジェーンは姪子達にボーイフレンドがいることを悟り、再び訓話を施す。「もし、男に処女をささげたのであれば、その男の元に行け。学校の費用や生活の面倒はもはや見ないから、勝手に生きていけ。それがいやならボーイフレンドとは即刻別れろ」と。マム・ジェーンに見放されたら、甲斐性のない両親では大学進学は夢の夢だ。そうしたら、自分の未来がないことぐらいは彼女たちにも理解できる。大学1年のバネサ(写真、左、17歳)は早速、ボーイフレンドと別れることを決意したそうだが、果たして本当に別れるのだろうか。
たとえ、ボーイフレンドの元に走ったとしても、フィリピンでは、男に甲斐性がなくて、女が一家の生計を支えていかなければならないことが多い。教育がなければ、メイドあるいはデパートの売り子くらいしか働く先がなくて、一家で食っていける収入は得られない。そうなると、女が稼げるのは花街くらいになってくるが、それでもそこそこのご面相が必要条件となり容易なことではない。
娘の母親たちは、恋に落ちた娘の行く末を十分承知しているから、理性をもつように導こうとする。しかし、母親とボーイフレンドのはざまに立った娘は、えてして、黙っていればわからないと、突っ走ってしまう。ところが、そのうち、出っ張ったお腹を隠すことができなくなり、すべてがあとの祭りとなる。
特にビアンカ(写真左から2番目、17歳)となると、話は深刻だ。マム・ジェーンは「あんたの親があんたにしたような仕打ちを決して自分の子供にするな」と、手厳しい話をした。これには、ビアンカとしては抵抗するすべがない。ゴメス家から放り出されたら、母親の道を歩むしか方法はない。せめて、自活する術を得るまで、ゴメス家の世話になるしかないのだ。
マム・ジェーンも、彼女たちが大学の高学年あるいは18歳をこえて成人すれば彼女たちの自由にするつもりだ。そのころになれば「理性で恋ができる」年頃になるだろうというわけだ。しかし、大人になっても、理性を働かせず、言い寄る男と、ことにいたると、その女は社会的に制裁される。すなわち、結婚後、妻が浮気したりすると、女は、亭主ばかりではなくて、自分の家族からも見放される。16~7歳のガキの頃ならばまだしも、大人の女になって、まだ「理性で恋をする」ことを知らない女の生きていく場所はフィリピンにはない。
「女が理性で恋をする」ということは、要は打算を働かせることだ。この男を愛することが、自分の将来、そして家族の将来にとってどうなのか、それを見極めて、愛だの結婚だのと駒が進められる。さらに、男の愛がもっと深く、長続きするよう、さまざまな恋のテクニックを弄して男をもて遊ぶ。その点、女は、男のようにやりたい一心ではないから、余裕がある。
男としては彼女を落としたければ、愛を誓い、彼女とその家族に将来の保障を与えなければならない。それが、いやなら花街の女を買って、その都度、きちっと勘定を精算することだ。そんな代償も無しに、フィリピーナを上手につまみ食いするような日本人は、いずれ、しっぺ返しを食らってもやむをえないだろう。
一方、「男は視覚で恋をする」という原則に反して、日本の家族には見切りをつけて、あるいは、つけられて、老後の面倒を見てもらいたくて若いフィリピーナと結婚する熟年男性が少なからずいる。本来、「男は視覚=スケベ心で恋をする」べきなのに、身勝手な打算を持ち出して結婚にいたるのは、そもそも恋愛の原理に反する。それに応じるフィリピーナは、はたから打算の塊だ。それもそうだろう、そうでなければ、若いみそらで何故こんな見知らぬはげ親父を愛さなければならないのか、彼女たちは、そんな馬鹿ではない。
結婚しさえすれば、自動的に老後の面倒を見てもらえる、フィリピン人は老人にやさしいから、などと勝手に思い込んで、胡坐をかいている、そんな男の行く末は、「金の切れ目が、縁の切れ目」なのが当たり前だ。いつ果てるかもしれない老後の面倒を見てもらいたいとするならば、彼女そして彼女の一家が、生涯安定して生活して行けるだけのものを保障しなければならない。
しかし、金だけではない。結婚後、彼女を愛して、そのハートと若い肉体を十分満足させてやらなければならない。そして、本当に彼女からも愛してもらわなければ、老後の世話など期待できない。たとえ、打算同士の結びつきだとしても、結婚は結婚、愛がなくては続かない。愛は、結婚後でも醸成され熟成していくものなのだ。
もし、それが不可とすれば、介護士を雇って、老後の面倒を見てもらえば、それで済むことだ。所定のサービスを所定の対価で提供を受け、愛が欲しくなったら、花街で同様に対価を払って済ませばよい。極めてビジネスライクだが、その方が結局安くつくだろう。全てのサービスを行うオールマイティ=妻、あるいは無限のサービス契約=結婚をするとなると、それなりの代償を覚悟しなければならないのは、当然のことだろう。