原子力はパンドラの箱なのか 2011年4月11日


先の東日本大震災の未曾有の爪あとに、日本人が一体となってたくましく立ち向かっていく姿が、毎日テレビで報道されている。どれだけの時間がかかるか分からないが、いずれ、見事に再生し、立ち直ってくれるものと願う。しかし、気にかかるのが福島原子力発電所の事故の収束の兆しが見えないことだ。炉心溶融 という最悪の事態を迎えるとなると、未来永劫、福島県、茨城県などの数県には人は立ち入ることもできなくなってしまうだろう。さらに風評被害により日本の 農業水産物は放射能汚染のレッテルを貼られ、世界の市場からそっぽを向かれるのは間違いない。

 自然災害は時がたてば元へ戻る、というよりは地震や津 波、それに台風や噴火は自然の営みの一つでしかなくて、古来より繰り返し起きているものなのだ。動物そして人間はその自然の営みに翻弄されながらも脈々と 生き延びてきた。2006年の超大型台風レミンで私の農場があるビコール地方アルバイ県が壊滅的被害を受けた時も、マヨン火山はそ知らぬ顔をして、いつも の通り、その美しい姿を誇るようにそびえていた。火口からの火砕流が大雨で流されて近隣の家を押し流したが、それはマヨン火山があの美しい姿を保つため に、古来から続けている営みに過ぎないのだ。マヨン火山にとってみれば、被害を受けた河川敷のスコーターの住民はごくごく最近勝手に闖入して、そこに居 座っていた蟻のような存在に過ぎないのだ。

 自然の営みを災害と称するのは人間が勝手に呼んでいるだけであって、自然にとってみればありがた迷惑なだけだろう。何も人をいじめるために地震や台 風を起こしているのではなくて、それが単なる自然現象であり、人間が生まれる前から繰り返していることであって、そこに人間が自然にとって余計なものを作 るから破壊されてしまうのである。

(下の写真は農場から撮影したマヨン火山の雄姿だが、この台風でなぜマヨン火山がこんなにも緩やかで美しい裾野を形成しているのか理解できた。噴火によって斜 面にたまった火砕流が、台風の大雨により土石流となりさらにゆるい傾斜の裾野を形成するという営みが数万年あるいは数十万年繰り返されて、世界一美しいと 言われる完璧なコニーデ型の火山を作り上げたのだ)CIMG2203s-2

自然現象である風、雨、地震、高潮(ないし津波)などに対して、建物などを設計するための設計基準(設計強度)というものが設けられており、それを守って設計し建設すれば安全とされている。しかし、これらの設計基準は絶対に安全を保障するものではない。下水を設計するときは、例えば3年に一回起きる可能性のある最大の降雨を確立計算で求め、その範囲以内の雨を速やかに排水でいるように排水溝のサイズなどを決める。建物の強度を支配する地震や風の強さは、例えば100年に1回起きる可能性のある地震や台風を想定して設定する。

ということは排水は3年に一回あふれ、建物は100年に一回、破壊されることを前提にしているのだ。これを未来永劫、絶対に安全なものとなると、設計基準は無限大となり、設計することさえ不可能となり、どこかで妥協しない限り何も建設することができなくなってしまう。それで、もし設計基準を上回る想定外の自然災害が 来て建造物が壊れたとしたら、新たにつくり直したほうが安上がりということになるのだ。そういう意味では動物がつくる巣のようなものが効率的で、すぐに水没したり壊れたりするが、簡単に作り直しがきくので、自然災害も痛くも痒くもない。動物にとっての自然災害は、単なる日常的な出来事に過ぎないのだ。

設計基準地を超えた想定外の自然災害が 発生したら、甘んじてその被害を受け止めて、復旧に力を入れて再生させる、それが自然の営みというものなのだ。多くの人命が失われたことには心が痛むが、今回の大震災(とりわけ津波は想定の数倍というものだったそうだが)を教訓に建造物はさておき、人命優先の再生なし復興計画を立ててほしいと思う。

 ところで本題に移るが、果たして原子力発電所の事故は自然災害なのだろうか。原因は自然災害であろうが、原子力発電所そのものは人間が建設したものなので人災と言えるだろう。もし、最悪の炉心溶融という事態に陥って、それが制御不能になったとしたら、もはや回復あるいは再生は不可能となるという厄介な代物だ。

 (下の写真はアンへレス、フィールドのクラブ・ブードーの看板だが、髑髏はまさに人がもたらす災いの象徴だ)CIMG2579s-2

人類は神(自然)でさえ決して手をつけることがなかった原子力というエネルギーを手にして、原子爆弾を製造し、地球そのものを破壊しうるエネルギーを手にした。またさらに、原子力の平和利用と銘打って原子力発電所の建設に励んできた。しかし、安全、安全と主張して建設した原子力発電所も所詮人間がやることで、想定内の自然災害の範囲では安全であっても、未来永劫安全などというものはありえない。だから、今回のように想定(設計基準)を越えた自然災害に対 してはまったく無力だった。

 原子力発電所の事故発生における被害や重大さなどを考慮して、仮に、設計基準を1000年、あるいは1万年としたらどうだろうか。しかし、いくら 1000年あるいは1万年に一回起こる災害だとしても、それは来年やってくるかも知れない。そしてまた、設計基準をそこまで厳しくしたら、構造物は居住ス ペースのない、コンクリートや鉄の塊になってしまうだろう。だったらそんなリスクの高いエネルギーには手をつけなければ良いということになるが、それが人間の知恵というものだ。

 これが、木 材、炭、石炭あるいは石油など太陽を源とする自然エネルギーであれば、自然の力で、いずれ回復・再生が可能であるが、原子力という自然にはありえないエネ ルギーとなると、自然には回復・再生する術がない。そして、この地域はチェルノブイリがそうであったように、もはや人類が居住できないゴーストタウンと なってしまう。人類は自らが制御し得ない悪魔のエネルギー、原子力というパンドラの箱を開けてしまったのかもしれな い。

 しかも放射能汚染というものは目に見えず、人間の五感では知ることができないから、余計に恐ろしい。人間を作った神(自然)にとって放射能汚染というものはまったくの想定外だった。だから人間の体に、細菌にとっての免疫細胞のように、放射能を無害化する能力はない。また、その時はなんとも無くても長い間に蓄積され、DNAを破壊し、人類の天敵である癌を発生させるという、なんともおぞましい存在だ。

(下の写真はモール・オブ・エイシアから撮ったマニラ湾の夕陽だが、パンドラの箱から悪魔が顔を出しているようにも見える)CIMG2597s-2

今後日本では、新規の原子力発電の建設はありえないだろうし、既設の発電所もこれから規制される安全対策から、もはや原子力発電は採算に乗ってこないだ ろう。今後、原子力発電所の建設を目指す国々あるいは原子力発電のビジネスを押し進めようとしている企業にとってはその生命線を絶たれる脅威の事故だったといえる。

 ちなみにフィリピンではマルコス時代に建設し、アキノ政権で凍結され、現在、その再開をを目指しているバタアンの原子力発電所は、もはや日の目 を見ることはないだろう。たった一つの自然災害で戦後営々と築いてきた原子力発電という産業は終焉を迎えることになったのだ。

 そして今後は太陽光 発電や風力発電などいわゆるエコ発電が長いトンネルの時代を経て脚光を浴びる時代が来て、発電は重電の時代からシリコンのハイテクの時代を迎えることにな るだろう。所詮、自然の一部である人間は、その自然に逆らって生きることは出来ず、パンドラの箱を再び閉じない限り、自然にとんでもないしっぺ返しを食らうことを思い知ったのだ。

 

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