その他


フィリピンでは家の中を蟻やゴキブリが闊歩するのは当たり前のことだ。ゴキブリは捕獲器や毒餌をおいて気をつければ、気にならないほどにすることはできるが、蟻はなかなか退治が難しい。私のベッドの脇のテーブルにも、ちょっと食べ物を落としたりすると、朝、目が覚めると蟻がたくさん寄ってきている。 しかし、ここに来る蟻(だと思うが)は、とても小さくて、肉眼では蟻かどうか識別できない。テーブルの上の点であって、動かなかったら埃かどうか区別がつかないほど小さい。しかし、その動きは活発で通常の蟻と同等の動きをするから、すぐわかる。  比較のために耳かきをおいて撮影したが、耳かきの先の左上と右下にいる。右は拡大写真。    前の写真と同じだが、左の写真のどこに蟻がいるかお分かりだろうか だから、この蟻を指で狙い撃ちにしてつぶすのが日課となっている。しかし、これが気配を感じると、健気に逃げるのだ。ボールペンの点にしか見えないこの蟻に、手足があって、脳もあり、判断して行動する、なんて信じがたいところだ。また、通常の蟻の様に、出会いがしらに情報(餌のありか)を交換しているようにも見受けられる。歩く早さは秒速1~2cm、体長の10~20倍も走る。体長、約2mの人間に換算すると秒速20~40mとなる。  2匹のありが一丁前に情報交換をしている様子だ 拡大鏡で見てみると、確かに手足があって、お腹と頭のふくらみから、蟻のように見える。もしかしたら虱や他の動物かも知れないが、その行動から蟻の類と見れる。 私のカメラではここまでが限界で、まだ、よく実像がわからない そして夕べ、彼らが、まさに蟻である証の行動をしたのだ。私が食べたチーズの長さ7~8mmの屑がテーブルに落ちていたが、それを一匹の蟻が運んでいたのだ。しかもまるで、自分の10倍もあろうかというチーズの屑を軽々振り回しているのだ。動画がアップロードできないのが残念だが、こんな怪力は蟻以外の何者でもない。 左上に蟻がしがみついているが、このチーズの屑を振り回す様は豪快だ 彼らもどこかに巣があって、そこで共同生活をしているに違いないが、こんな小さな生き物にも組織や役割があって、一つの社会生活を営んでいるなんて、なんとも感慨深い。これから、指で狙い撃ちする代わりに餌でもおいて置いてやろうかなどという気持ちになってしまう。 のど飴を砕いておいておいたら、一時間もしないうちに大量のミニ蟻が集まってきた。今度はかなりクリアーに撮影できた。まさに社会生活を営む知能を感じさせる 翌朝、小さな蟻が見当たらず、大きめの黒い蟻が現れていた。数は少ないが、小さい蟻を駆逐してのど飴に食らいついている。大き目といっても普段見かける蟻の中では最小の部類だ。これが秒速5~10cm(人間に換算すると秒速50~100m位)くらいで走りまわってとても可愛げがない。そのため、早速、退治することにした

脅威のミニ蟻 2014年3月2日


 2005年に開設されたパスコのホームページが苦節8年、遂に100万回のアクセスを達成した。80万回を達成したのが、昨年の10月2日なので、20万回のアクセスに11ヶ月と19日を要した。その前の10万回は5ヶ月と13日だから、少々、アクセス数が減ったようだ。これは、最近のブログのアップロードが月平均7回で、それまでの11~12回に比べて激減したせいだろう。この点、ブログを楽しみにしている読者に申し訳ない思いをしている。   見事シックスナインの撮影に成功  アップロードが減ったのは偏に多忙ということだが、話題が減ってきた、あるいは話題を取材する時間がないということにもある。もしかしたら、寄る年波で根気がなくなってきたのかもしれない。80万回アクセス達成の時に書いたブログでは、100万回達成にあたって、ホームページの全面見直しを約束したが、どうも時間がとれそうにない。  次の瞬間、残念ながらカウンターは1000001に変わっていた   5~6年前は、アクセスが100万回に達した時は、引退して農場に引っ込むころかと思っていた。しかし、今は、さらにあと100万回くらいは、頑張るか、という気持ちにもなってきている。そうなると、常に読者をひきつける話題が必要だが、そのためには、仕事だけではなく、多方面に活発でい続けなければならない。それが、また、若さを保つ秘訣かもしれないが。 テレビで自分のビデオを見ながら、思わずパーフォーマンスを始めるKIAN   ところで、KIANは、3才半、いよいよ子供になってきている。前々回のブログで詳しく紹介したが、会話という面で、この半年、驚異的な進歩をとげた。ママジェーンをやり込めることもしばしばだ。あと100万回となると、今のペースで5年、KIANは8才になっており、小学校の3年生だ。きっと、元気で活発な、そしてまた思いやりのある子に育っているに違いない。ガールフレンドも一杯できるだろう。 最近の得意のポーズはこれだ

パスコホームページのアクセスが100万回を達成2013年9月22日



 パスコのホームページのアクセス回数が先ほど80万回を達成した。70万回が4月19日だから5ヶ月と13日で10万回のアクセスがあったことになる。そうすると、大台の100万回アクセスは来年の8月末ということになるが、今のところ、それまでは現状でいけそうだ。  カウンターの800000の瞬間を撮影しようと、799900位から、頻繁に更新ボタンを押して、カメラを構えていたのだが、799960くらいのとこ ろで電話がかかってきた。出てみると日本から私への電話で、長電話になるのではないかと気が気ではない。なんとか電話を終えると、まだ、799980で ほっとして、また更新ボタンを押し続ける。しかし、残念ながら799998のあと、800001に数字が飛んでしまった。100万回は、何とかものにした いと思う。 KIANが生まれたのが2年半前の2010年3月31日、そのときはまだ、30万回アクセスだった。その後、50万回のアクセスを2年半で達成した。す なわち半年ごとに10万回だ。100万回達成のころはKIANが3歳半になっている。最近とみに子供らしさを増しているが、そのころはきっと幼稚園のボス になっているだろう。 最近、退職ビザのことでコンタクトしてこられる方の大半はパスコのHPか、「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」をお読みになった方だ。本の方は今年 の初めに改訂版が出たばかりだが、HPのほうもいずれ抜本的にリニューアルが必要かと思う。しかし、HPが500ページ、ブログの方が560篇と膨大な数 になっているので、容易なことではないので、100万回アクセスを期に取り組んで見ようと思う。

PASCO HPのアクセスが80万回を達成 2012年10月2日


 1998年、私の相棒のジェーンの家の玄関にダンボールにいれられた赤ちゃんが捨てられていた。母親と目される女が人に頼んで玄関に置き去りにしたのだ。名前も誕生日もわからない乳飲み子だった。 サンパギータの花束を胸に飾って、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」39ページのモデルとなったビアンカ、11歳(推定) ジェーン一家の恒例の年末の記念写真、右端のビアンカは心なしか遠慮気味におさまっている。 ジェーンの家には2歳なる長兄の子供が一人いるだけだったので、早速家で育てることにした。とりあえずブランカ(白紙)と名づけたが、後により一般的な女の子の名前のビアンカに変えた。色白で目の大きい可愛い子だった。  学校に入るにはちゃんとした出生証明がないと具合が悪い。そこでビアンカはマミーの子供すなわちジェーンの妹として届けられた。その後、長兄ダシンの長男、次兄アランの長女、次女、と次々と孫が生まれてマミーの愛情も実の孫へと移っていった。そしてビアンカの試練が始まったのだ。 2007年12月、韓国KBSの農場取材に当たって、その日は、丁度ビアンカの誕生日(捨てられていた日)だったので、急遽、盛大な誕生日パーティを行うことになった。右から3人目がビアンカ 小学校へ行くようになって、ある日、学校の先生から呼び出しがあった。全然やる気がなくて、他の子供達の迷惑になるから退学させたいというのだ。結局、留年の憂き目となり、農場の近くの学校に移して、マミーと農場で暮らすようになった。ビアンカとしては他の子供達が実の親に可愛がられているのを見て複雑な思いを胸に秘めていたのだ。  ジェーンが、ビアンカを責めて、「一体お前は何が欲しいのか」と聞いたら、ビアンカの答えは「Love」の一言だったそうだ。  学校を変わって農場で過ごす様になるとビアンカは見違えるように変わって行った。2003~2004年は私自身が農場で暮らしていて、マミーとデバインそして私の4人暮らしだった。 2011年4月KIANの1歳の誕生日。デバインも久しぶりに戻って13~15歳の娘達が可愛い。後ろに写っているのは私の息子。 タバコ港から船で1時間太平洋に浮かぶ孤島に恒例の海水浴に出かける。誰もいない白い砂浜に子供達は大満足だ。  ビアンカのの役割は豚小屋の掃除や鶏やテラピアのえさやり、庭掃除や食事の後片付けと休む時間もない。デバインと二人で農場と家の仕事をこなしていた。 当時はマミーに何か頼むとすぐに「デバインー」と大きな声でデバインを呼んで言いつけていた。そして今、デバインが家を出て、16歳になったビアンカは、いつもマミーに「ビアンカー」と呼ばれて頼りにされている。 2010年12月末のパーティではハイスクール3人娘らがポーズを取る。 他の子供達が 親の愛情のもとにぬくぬくと育っている間に、ビアンカはマミーを助け、思いやり、責任感のある、子の鏡とも言えるほどの良い子に育って行った。学校の成績もあがり、表彰されるほどだった。 […]

ビアンカの物語 2012年5月26日



  4月19日、パスコホームページへのアクセスが70万回に到達した。昨年の5月19日に50万回に到達したので、丁度11ヶ月で20万回のアクセスとなった。一月あたり18200回、毎日600人強の方のアクセスがあったことになる。大台の100万回達成も、後1年半足らずだ。  最近、連絡のあった退職者の方が、このHPとブログの存在を知り、三日三晩、夜を徹して読み続けたとメールをくれた。読み始めると停められず、過去にさかのぼり、4年前の最初のブログ、「イメルダマルコスとの遭遇」まで、一気に読みきってしまったそうだ。ブログを書くものにとって冥利に尽きるといえる。最近改訂版を出した拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」を読み合わせると、フィリピンのことが手に取るようにわかり、フィリピンについてのバイブルと牧師の説教の様だとも評してくれた。  現在まで、約500件のブログを書いてきたが、できれば1000件まで書いてみたいと思う。そうなるとあと、4年は頑張らないといけないことになる。  2010年、3月に相棒のフィリピーナにベイビーKIANが誕生して以来、話題の中心がKIANに傾いてしまっている傾向が強いが、KIANの成長ぶりを報告する中でフィリピンの文化を読み取ってもらえるとありがたい。その他、退職者にとって有用な情報も仕事柄入手することが多いので、報告していきたい。  そんなわけで、ブログの話題集めに日々心がけるのだが、本業が忙しいとなかなかブログの執筆に手をつけられない。4月はまだ一件のブログをアップロードしただけだが、毎日、ブログの更新を楽しみにアクセスしてくれる600人の方には申し訳ない思いが強い。日々の業務に追われていると平日はどうしても落ち着いてブログを書く時間がとれない。土日がチャンスなのだが、逆に土日だからこそ出かけたり、たまった仕事を片付けたりで、あっという間に半月ぐらいご無沙汰してしまう。  しかし、「金無し...」とこのブログがビジネスの顧客と私を結ぶ唯一のパイプだと思うと、日々の業務もブログあってのものなので、今後も話題集めと執筆に努力していくつもりなので、読者の方々には楽しみにしていただきたい。

パスコホームページが70万回アクセスを達成 2012年4月22日


ホリーウイークの休暇でタバコ市の農場を訪れた折、最終日は空港のあるレガスピ市のカーネル(マム・ジェーンの亭主、KIANのお父さん)の実家に泊まった。翌日の便が早朝6時半出発で、暗いうちに空港に行く必要があるからだ。その際、夕食をとりにレガスピ港の脇にできた新しいモール(イン・バルカデロ・デ・レガスピ)にでかけた。そこには本ブログの主人公のデバインが働いているのだ。 5年前、まだ17歳のデバインと私(ではなくて私の息子)。ちょっとお似合いのツーショットだ。  デバインとのなれ染めは、私が2002年にレガスピ近郊のタバコ市に農地を購入し、そこの農場と住居を建設した際、もっぱら私の食事の世話をしてくれたのが、彼女だ。彼女は当時12歳だったが、すでに顔も体も大人で、すでに男心をくすぐるものをもっていた。インド人との混血で(当時はアメリカ人との混血と聞いていたが、その後インド人であることが判明)大きな目と整った顔つきで、すでにかなりの美形だった。しかし、今回久しぶりに会ったら、まだ若干21歳なのにかなりの重量級で、しきりにダイエットを勧めておいた。  彼女が働いているINASALは現在もっとも出店が盛んなファーストフードチェーンだ。  マム・ジェーンのいとこである彼女の母親が若いときからパロパロ(浮気もの、もともと蝶という意味)で結婚前から異なる国籍のボーイフレンドの子供を作り続けた。そして、フィリピン人と結婚したら、それまで作った子供の面倒を見れなくなり、しかも、そのころおばあさんが亡くなって、デバインは親戚をたらいまわしされる羽目になってしまった。  しかし、行く先々で、その美形に、預かってもらった家の亭主どもがちやほやするので、その女房達がやきもちを焼いて追い出される羽目になった(注)。そこで行きついた先が我が農場だ。そこでマム・ジェーンの母親(マミー)に面倒を見てもらいながら、ハイスクールと専門学校を終えた。私は2003年から 2004年の1年半を農場で彼女と過ごしたが、そのころ彼女はハイスクールの前半で(13~14歳)、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」の191ページのメイドさん役で登場している。 注:フィリピンでは再婚した妻の連れ後の女の子が成長すると亭主が無理やり手篭めにしてしまうということがまかり通っているそうで、義理の父親とて油断できない存在なのだ。ましてや妻の親戚の子供となったら、亭主はもっとも危ない存在だ。だから妻達のやきもちはもっともなことなのである。  港を眺めながら食事ができるレストランは中々風情があって、パスコの法律顧問であるマリソール(写真左の左から2番目、端が亭主)が亭主とともにかけつけてくれた。ちなみに彼女は4人目の子供を宿していて、最近体調不良で仕事が遅くなっている。上の3人は全部男で金太郎飴のように同じ顔をしているが、亭主は、今度こそ女の子ができて欲しいと意気込んでいた。  農場で生活していたころ、デバインは何かと頼りにされ、何かマミーに頼んだり聞いたいるすると次の言葉は「デバイ~ン」と大きな声で彼女を呼びつける。ちょっと小言を言うと「デバイン・カセ」と彼女のせいにされ、それでも何一つ文句をいわず大きな家と農場を走り回っていた。  現在、農場でその役割を担っているのがビアンカだ。彼女はすでに16歳と推定されるが(注)、立派な少女に育っている。今は年に数回農場を訪れる程度だが、そのとき一番の頼りになるのがビアンカで、家の中のことなら何でも知っており、農場の欠かせない人材になっている。現在ハイスクールの3年を終えたところで、後1年で大学進学となる。しかし、13人の甥や姪を抱えるマム・ジェーンに私立に行かせる余裕もないから、ビコール国立大学に入学できたらOKだが、それがだめだったら専門学校で何か手に職をつけさせることなっているそうだ。 注:ビアンカの生い立ちについてはいずれ別途ブログに掲載する予定 ホテルレストラン学科を卒業したデバインは、一時マム・ジェーンと折り合いが悪くなり、農場を出てレガスピでパン屋に勤めていたが、今はINASALのレジをやっていた。農場にはたまに来る程度で、去年のKIANの誕生日と今年の正月に面会した。彼女達はもはや全く屈託がないようで、久しぶりの再会を喜んでいた。食事の後、デバインの話を聞きたいので、生バンドのあるパブに席を移した。KIANは睡眠の時間で両親とともに帰宅した。 PNP(フィリピン国家警察)の幹部であるヤン大佐に悲鳴を上げさせるKIANは怖いもの無しだ。右はいかにも福福しいデバイン。  デバインは16歳の妹のクレヨを引き取ってハイスクールに復帰させ、自分自身も大学に通っているという。朝8時から午後3時まで大学に通って、夕方から深夜までINASALで働いて、寝る時間はあるのかと心配になる。給与は一日256ペソ(多分この地域の最低賃金だろう)。手取り205ペソ、毎日はたいても月々たったの6000ペソ程度だ(1万2千円)。この金で、二人分の宿、食事、交通費、学費を賄おうというのだが、とても可能とは思えない。それでも、いかにも明るく元気に生きているのだ。しかもこんなに太っている、これはINASALのライスのお代わりは無料というポリシーによるものらしい。「ボーイフレンドはいるのか」と聞いたら、「一人」と恥ずかしそうに答えていた。デートの金も時間もないと思うのだが。 […]

デバインの奮闘記 2012年4月22日



   ロングステイフェアに参加するために半年ぶりに日本の土を踏んだ。期待はしていたのだが、今年は柿の当たり年で、裏庭には食べごろの柿が豊作だった。 この柿を 30個ぐらいフィリピンにお土産に持って帰って来たのだが、周囲のフィリピン人は皆、ありがとうとは言うものの、そのまま冷蔵庫にしまって一向に食べる気配がない。たまたまマニラに来ていたマム・ジェーンのお母さんが大好物といって、ほとんどビコールの田舎に持って帰ってしまったが、フィリピン人特有のお愛想なのかどうか、彼らにとって食べられる代物でないのか、未だに不明だ。りんごやみかん、それにぶどうは中国産のものが大量に出回っているが、柿はほとんどみかけない。それだけ希少価値があると私は勝手に思っているだが。  ロングステイフェアの翌日の日曜日は孫娘(結月、ユズキ、3歳)の七五三だ。午前中、9時か10時といわれていたのだが、フェアが終わって気が抜けたのか、有明のホテルで8時ごろまで寝て、のんびりと横浜の家路についた。11時ごろ誰もいない家についたとたんに、電話がけたたましくなった。息子(三男坊の介哉、カイヤ)が、かんかんになって、一体何をやっているのか、直ちに着替えて近所の富岡八幡に駆けつけろというのだ。七五三などは三々五々、適当に神社にお参りに行けばいいくらいに思っていたが、そうでもないらしい。  しかしながら、私は携帯を持っていないし、息子としてはやきもきして苛立ちが頂点に達していたらしい。あわてて、久しぶりの礼服に着替えて八幡様に行ってみると、式は終わって記念撮影の時間となっていた。しかしなんとか記念撮影に間に合って事なきをえた。 引退して仕事を離れてしまって、日々のんびりしていたら、きっといつもこんな失敗をしでかして、女房や息子にぼけ爺と怒鳴られてばかりいるのだろうと、冷やりとした。この後は恒例の会食だが、嫁(智美さん)のお父さんは忙しくて欠席、近所で和食を楽しんだ。しかし、二人の娘をもうけ、1990年代ものとはいえ高級車のジャガーに乗り、新築の4LDKを手に入れて、好青年振りを発揮している介哉だが、震災のあおりでビジネスが思わしくなく、なかなか厳しいとのことだった。嫁さんは少しやせて和服がはえていた。 夕食は美味しい寿司が食べたいという私の願いで、近所のジャスコの回転寿司に行った。前はいつも待たされたのに、この日は、数組の客しかおらず、回転台に寿司が並べられず、注文しながら食べるというかえって贅沢をさせてもらった。5人半でしめて12000円は高いか安いか、金銭感覚が狂っている私には判断ができない。しかし、破竹の快進撃だった回転寿司も閑古鳥が鳴いているのは、100円寿司の攻勢に圧倒されているためだそうだ。そういえば高校のころ新宿歌舞伎町で10円寿司というのを食べたことがあるが、時代は繰り返すものなのか。  寿司屋には江ノ島在住の次男坊の恵之(ケイシ)が駆けつけてくれた。長男(史誠、シセイ)は結婚しているので、唯一の独身だ。フィリピン人と結婚させて私の農場の跡継ぎでもさせようと画策しているのだが、なかなか思うように行かない。最近は土木工事に没頭しているようで、期せずして土木屋である私の後を継ぐことになりそうだ。2級土木施工管理士にもチャレンジしたそうで、なにか土木屋(あるいは土方)としての貫禄が出てきたような気もする。  一方、介哉の子煩悩ぶりも半端でない様で結月(ユズキ)との戯れ方も手馴れたものだ。この日、私の自宅の3階の倉庫で介哉が探し物をしていた。折りたたみ式の階段であがるために、子供には少々危険だ。それで、介哉がジッジに抱っこしてもらいなさいと結月に話しかけたら、ついに孫娘のOKが出たのだ。前回の訪問では近づくと逃げていた結月だが、ついに肉親としての私の存在を認めてくれたようだ。お土産に毎回バッグを買ってきてやったのが効を奏したのかもしれない。 さて今回のブログの主役であるはずの夕芽(ゆめ)ちゃんは、いつも静かで大人しい、4ヶ月の女の子だ。まだちょっと人格が形成されていないようで、寝てばかりいる。次回、帰るときまでには元気な女の子に成長していることだろう、今度はバッグを二つ買うのを忘れない様にしないとまずい。      

半年振りの日本で二人目の孫に初顔合わせ 2011年11月28日


ロングステイ・フェアとOさんの一周忌も無事に終えて、15日の月曜は3名の方と渋谷で11時、3時そして5時に面会し、さらに17日の水曜日は朝の8 時半に待ち合わせた。渋谷の待ち合わせといえばハチ公前が定番だ。月曜は夕方からは雨模様だったが、ハチ公の前はいつも待ち人で一杯だった。 このハチ公とは今から45年さかのぼった、昭和37年から40年まで毎日のようにお目にかかっていた。それは私が通った高校が青山にあったせいで、神宮 外苑、原宿、新宿そしてこの渋谷あたりが罠張りだったのだ。あれから半世紀近くが経過して、周りのビルや駅は様変わりをしたが、このハチ公だけは昔のまま だ。 ハチ公前に飾られた東横線の電車は当時、渋谷と横浜(桜木町)を結んでおり、朝夕のラッシュはギュウギュウ詰めで有名だった。翌々日、8時半に到着するために横浜からこの東横線に乗ったのだが、その混雑は今でも健在だった。 世田谷の自宅から渋谷へは、大井町線に等々力駅で乗り、自由が丘で東横線に乗り換える方法、後にオリンピック競技上で有名になった駒沢までバスで行き、路 面電車の玉電に載る方法、渋谷まで都バスないし東急バスに乗る方法があったが、好奇心の強い私は毎年通学方法を変えていた。ちなみに渋谷からは地下鉄銀座 線で外苑駅まで行ったが、できることなら、黄色の地下鉄銀座線の車両や緑の玉電の車両もかざってほしいと思う。 忠犬ハチ公の逸話は誰でも知っていると思うが、毎日渋谷で、死んだご主人を待ち続けたという話は、忠誠心の権化のようなものだ。しかし、忠誠心という言葉 でさえ今では死語となってしまった現在、ハチ公の話を思い出しながら、ここで人を待つ若者はいないだろう。

忠犬ハチ公は健在だった 2010年11月21日



3番目の不肖息子、介哉(カイヤ)から、「出来ちゃった婚」と聞いて、「今時の若い者が、でかした」と褒めたのが、3年前。そして今、孫娘の結月(ユズキ)は、もう2歳になって、家の中を走り回っていた。      まだ、数度しか会っていないので、私の顔を見ると逃げ出して母親にしがみつく有様だが、なかなか活発な女の子に育っている。その結月が母親のおなかを指して「赤ちゃんがいる」と言ったというのである。それで尿の検査をしてみたら、確かに妊娠していたそうだ。子供にはそれがわかるのだろうか。これまた「今時の若い夫婦が、でかした」と褒めてやりたい。収入が不安定で、結婚ができない、子供も作れない、という若者が多い中で、立て続けに二人目を作るとは、なかなかの気概だ。  さらに、今回、新築の家を訪問した。前回の日本訪問で購入するという話は聞いていたのだが、一戸建て、建坪140m2、4LDKの豪邸だ。それが3500 万円で、35年払い、月々10万円、ボーナス払い無し、という好条件だ。家が随分安くなったものだ。しかも低金利で支払い条件が大変良い。なかなかできる決断ではないが、これまた、チャンスを活かして「でかした」と褒めてやりたい。   中を見せてもらうと、全自動の洗面所や風呂場、玄関の施錠など、我々の世代には想像できない設備だ。居間の吹き抜けや台所の調理台兼カウンターもしゃれている。格安で手に入れた一畳ほどもある大型テレビも映える。この日は介哉の妻(智美さん)の両親も尋ねてこられて、久しぶりの再開を楽しんだ。 ここまでは介哉としては家族孝行だが、それだけではどうにも自分の男としての欲求がおさまらない。そこで妻と喧嘩までして買ったのが、ジャガーだ。これはやりすぎでは無いかと思ったが、「12年落ちの150万円を月賦で買った」と聞いて、その程度の遊び心を持たないと、仕事に精も出まいと納得。しかし、さすがにビンテージ・カーだ。12年たっているのに、内装も外装も古さを感じさせない。これから10年、20年と乗れば乗るほど価値が出てくるのではないか。しかし、日本は車が実に安い。フィリピンだったら4~5倍はするだろう。  

不肖息子・介哉の甲斐性 2010年11月21日


私がフィリピンに始めて足を踏み入れたのは1989年の初頭、そして、その年の8月から駐在を開始した。そのころの記憶を頼りに20年後の現在との物価の比較をしてみた。また同時に日本の価格も併記して、後述する物価10倍原則や比日の生活レベル格差等について考察してみた。なお、1990年ごろは1ペソが5~6円で、現在は約2円だ。なお、これらは正確な統計に基づいたものではなく、あくまでも私の記憶と知識の範囲内のものなので、正確さを欠いている部分は容赦願いたい。なお、日本の物価は私がほとんどフィリピンに暮らしていたことから良く把握していないが、ここ20年の感覚的平均値を記載した。                1990年         2010年        日本             ペソ    円換算    ペソ  円換算     円貨 大卒初任給/月     2500ペソ     1万3千円    1万ペソ  2万円    20万円    ガソリン/リッター     8        40     […]

フィリピンの物価(20年前との比較)2010年8月7日