フィリピーノ気質


「もらう、借りる、預かるは、フィリピーノにとって同義語だ」、とどこかで書いた。フィリピン人にお金を貸しても戻らない、預けておいた金を使われてしまった、なんて経験は誰もがしていると思う。最近もフィリピン通の退職者の方が、「自分が住むために知り合いの家の改築資金にと100万円渡したら、一向に工事が始まるわけではなく、渡したお金は、渡した相手のお産の費用やらに使われてしまった」と嘆いていた。どんな背景であろうが、一旦、お金を渡したら、その使用については、お金を手にした人間の裁量に任されてしまい、その人の考える優先順位で処理されるのだ。もちろん、元の持ち主に断るようなことはしない。だからお金を渡すときは、その使用についての一切の権限を委譲する覚悟をするべきで、それがいやなら自分で直接支払えばいいのだ。 グロリエッタの中華料理のレストランに招待されてご機嫌のKIAN  先日、夜中に便をしてお尻を洗おうとしたら、タボ(柄杓)とバケツが風呂場にない。私は、フィリピン流に用をたした後、タボでお尻を洗う。だから、タボがないということは死活問題だ。かといって、こんな夜中に大声で、昔流にとトイレから「タボ~~」怒鳴るわけにも行かない。しかし落ち着いて考えてみると、このトイレにはお尻を洗うためのシャワーがついている。これを上向きにお尻に当てると、勢いのある水がお尻を経由して、顔に命中する恐れがあるので、普段は使わないでいるやつだ。 小さなケーキに3本のローソクを立ててもらって、もうすぐやってくる3歳の誕生日の練習だ   何とか危機を克服して、翌朝、ゲスト用の風呂場を見ると、私のタボとバケツが鎮座している。一体誰が、何故、私の風呂場からタボを持ち出して、しかも、そのまま、ゲスト用の風呂場においておくのか、普段私が使っているものを持ち出したら、私が困るとは思わないのだろうか、などなど、自問自答が続く。しかし、こんなことで大騒ぎをすると、周囲に白い目で見られるから、何事もなかったように、観察を開始する。 お客さんに料理してもらったすき焼きのしらたきをパンシットに見立てて試食するKIAN  今、夏休みで遊びに来ている小学生の子供達が、私のタボとバケツをゲスト用の風呂場で、体を洗うために使ったことを突き止めた。ゲスト用の風呂場にはもちろんホットシャワーがついているが、普通子供はバケツに汲んだ水をタボを使って体を洗う。しかし、ゲスト用の風呂場にはタボもバケツも置いていなかった。だから私のものを使うよう、マム・ジェーンの指示があったそうだ。マム・ジェーンの指示とあれば、子供達は免罪される。また、彼らにとって借りたものを返すという意識は全くないので、タボを返さなかったことに罪の意識はもうとうない。 今日も誕生会のリハーサルだ  次に、ジェーンを問い詰める。普段から私は「私のものをいないとき勝手に使っても良い、しかし、使用後必ず返すこと」と言っている、なのに、「彼らは、何故返さないのか」と。ジェーンは私のタボを借りるように指示はしたが、それを「返しておくように」とまでは、指示はしなかったようだ。冒頭に述べたように、一旦渡してしまったら、後は受け取ったものの自由裁量だから、次回使いやすいように、ゲスト用の風呂場においておくのは彼らにとって当然のことなのだろう。そこに元の持ち主の意向は顧みられる余地はない。 サイカで好物の「堅い焼きそば」をほうばるKIAN  結論として、「今回は良しとしよう、次回、このようなことが起きたら、二度と私のタボとバケツを使うことは許さない」とした。ジェーンは子供達に私の目の前で、きつく私のお達しを伝えていた。しかし、案の定、数日後、再び夜中、タボとバケツが行方不明になっていたのだ。ジェーンに言うと、今度はキム(16才のジェーンの義理の娘)のせいだというが、うそくさい。それで約束どおり、私のタボとバケツは門外不出となったのだ。 長髪を結ってもらって、女の子の気分のKIAN  事務所でははさみは必須アイテムだ。申請用紙に貼り付ける写真をきったり、封書をきったり、毎日使うわけではないが、これがないと仕事が前に進まないことがままある。そのはさみが、使おうとして机の上のペンホルダーに手を伸ばすとないのだ。そこで、大慌てではさみ探しとなる。しかたがないから、自分の寝室に行って、別のはさみを持ってくる。私の寝室には髪をきるために日本から持ってきた別のはさみがおいてあるのだ。 車の中で従妹のイアを懲らしめるKIAN。これがかれの遊びだ  後で、はさみがなくなったとお触れを出す。誰も「私、知らない」といったムードだ。しかし、翌日になるとペンホルダーに戻っている。しょっちゅうおきるので、はさみを買ってヤヤに渡した。私のものを使うのではなく、これを使うようにと。しかし、そんな処置は一時的なもので、そのはさみは、すぐにどこかに行ってしまい、私のはさみを持ち出すことになる。何しろ、私のところに来れば、必要なものが確実においてあるのだ。 […]

フィリピーノは何故借りたものを返さない 2013年4月28日


大分前、NHKで、「男は視覚で恋をする、女は理性で恋をする」というテーマの番組をやっていた。男女の恋愛を学術的な観点に立って解析したものだ。  この恋愛の原理は、その後、私が、男女の問題を考える上での基本となっている。欧米や日本では、男女の関係は、人工的な文明(?)が大分入り込んで、ややこしいものになっているが、フィリピンでは、神の教えを忠実に守っているので、この恋愛の原理が適用できて、わかりやすい。  フィリピンでの恋愛の一般原則は、ブログ「フィリピン流恋の手ほどき(その2)」で取り上げたが、今回はより、具体的な問題に論及する。  マム・ジェーンの姪子たちは、16~17歳と、胸も膨らみ、お尻も、もっこりし始めて、いよいよ、男の視覚を刺激するお年頃になってきた。18歳未満のマイナーとのセックスは、それが合意のうえでも、いたした男は罪になる。ということは、それだけ、この年ごろの女性は、男に狙い撃ちにされ、社会は、それを法律で取り締まってでも阻止しなければならないという訳だ。  マム・ジェーンの度重なる注意にも関わらず、姪子たちは、皆、ボーイフレンドができていた。そもそも、あの携帯電話というやつが、男の恋のアタックを容易にする。執拗なテキスト(メール)に、女は身も心もとろける。このころの、さかりがついたばかりのメス達(失礼)は、まだ理性というものがない。男の甘い言葉に、メスとしての生殖本能を呼び起こされ、彼女たちは、これが純粋な「愛の世界」だと勘違いして燃え上がる。彼女たちは携帯を一時も離さず、彼からの甘い言葉を待ち続ける。といっても、「I love you」とか、「Mahal Kita」とか、「I miss you」などの単純な言葉を並びたてているだけなのだが。その点、カーネルが、娘のキム(17歳)には携帯を持たせたないという強硬手段に出ているが、さすが警察のやることは違う。 そんな男の甘い言葉にほだされて男の求めに応じ、なけなしの処女を提供してしまう少女が多い。高々16~7歳のハイスクールの男子生徒に扶養能力があるはずもなく、女が妊娠すると、男は逃げて、女は、出産そして花街への転落というお決まりのコースをたどる(フィリピンで、避妊は宗教上嫌われ、堕胎は法律で許されないため、セックス=妊娠=出産となる)。  そして、女は、花街で、スケベ親父の相手をしながら、はじめて、「恋は、理性でしなければならない」と悟るのだが、すでに時遅しだ。こんな年齢の恋は単なる「青春の甘酸っぱい一ページ」で終わるのが一番いいのだ。へたに成就すると一生涯、悔やんでも悔やみきれないことになる。  マム・ジェーンは姪子達にボーイフレンドがいることを悟り、再び訓話を施す。「もし、男に処女をささげたのであれば、その男の元に行け。学校の費用や生活の面倒はもはや見ないから、勝手に生きていけ。それがいやならボーイフレンドとは即刻別れろ」と。マム・ジェーンに見放されたら、甲斐性のない両親では大学進学は夢の夢だ。そうしたら、自分の未来がないことぐらいは彼女たちにも理解できる。大学1年のバネサ(写真、左、17歳)は早速、ボーイフレンドと別れることを決意したそうだが、果たして本当に別れるのだろうか。  たとえ、ボーイフレンドの元に走ったとしても、フィリピンでは、男に甲斐性がなくて、女が一家の生計を支えていかなければならないことが多い。教育がなければ、メイドあるいはデパートの売り子くらいしか働く先がなくて、一家で食っていける収入は得られない。そうなると、女が稼げるのは花街くらいになってくるが、それでもそこそこのご面相が必要条件となり容易なことではない。  娘の母親たちは、恋に落ちた娘の行く末を十分承知しているから、理性をもつように導こうとする。しかし、母親とボーイフレンドのはざまに立った娘は、えてして、黙っていればわからないと、突っ走ってしまう。ところが、そのうち、出っ張ったお腹を隠すことができなくなり、すべてがあとの祭りとなる。 […]

フィリピン流恋のてほどき(その3, 女は理性で恋をする)2013年1月3日



 とあるフィリピン通の方が、「フィリピンで恋をするならタガログ語を覚えなくちゃ」と語っていた(実はこの方は、タガログ語ばかりか、英語、スペイン語を自在に操り、フィリピンでの恋は数知れぬというる恋と言葉の達人なのだ)。  花街には日本語をしゃべる子がたくさんいるから、日本語で何とかなってしまうだろう。しかし、彼らにしてみれば商売道具の日本語を駆使して客のハート(財布)を捕まえようとしているのだから、「フィリピンで恋をする」、という感じには程遠い。まあ、それはそれでいいのだが、それなら英語では何故だめなのか。  ご承知の通り、フィリピンの公用語は英語だ。公文書はすべて英語で、英語がわからないと会社勤めもできない。しかし、それだけに四角張った言葉であって、恋を語るにはいかがといったところだ。英語は英語なりに甘い言葉もあるのだろうが我々の実力では英語で相手の心を溶かすなんて芸当はできないだろう。仮に、こちらができたとしても相手が緊張して逆にこころを閉ざしてしまうだろう。 この写真はアンヘレスのジェンネシスというクラブのきれいどころ(中でつながっている左隣のクラブかもしれないが)   その点、タガログ語でせまれば、相手は、もともと自分の話し言葉だから、初めから心を開いている。たとえ片言でもタガログで話をしたときのフィリピン人の打ち解けようは英語や日本語とは比較にならない。しかもタガログ語は英語に比べて実にソフトで、フィリピン人を相手に話していて、タガログ語で返されると心がとろける。その点英語は実にぶっきらぼうだ。  たとえば、「ありがとう」は英語には「Thank you」以外の表現がなくて、そこに感情が入り込む余地がない。しかし、フィリピン人は「サラマッポ(Salamat po)」あるいは「サンキューポ、Thank you po」と返してくる。この「ポ」(Po)という言葉は相手を尊敬している場合、あるいは慕っている場合などにつける接尾語で、これがいかにも心地よい。  相手に質問するとき「What do you want?」 「Why you are angry?」などと質問したら、状況にもよるが、これはすでに相手を責めていることになる。特にメールなどではニュアンスが伝わらないので喧嘩しているようにも聞こえる。しかし、これをタガログ語で「アノン グスト モ?(Anong gusto mo?)」「バケット カ ガリット?(Bakit ka galit?)」といっても決して責められているようには聞こえない。フィリピーナをからかって、相手が嫌がっていても、彼らは「フワッグ ポ(Huwag po)」などと、いかにも優しく拒否してくる。  恋人や夫と会話するときは、初めに「マハール コ(Mahal ko、あるいはLove koとも表現する」と呼びかけるが、これを直訳すれば「私の愛しい人」となり、なんとも甘いやり取りだ。そして会話やメールの最後は必ず「I love you」で閉める。この「I love you」は、タガログ語会話でも重要な愛の表現の一つとなっている。ちなみに「マハール モ バ アコ?(Mahal mo ba ako?俺のこと好きか)」などという言葉は口説き最中のカップルには頻発する。これを100回くらい繰り返すと、相手も降参して「マハール キタ(Mahal kita,愛してる)」と言って白旗をあげてくる。これを「Do you love me?」と英語で繰り返していてはいつまでたっても埒があかないだろう。  「美」は「ガンダ(Ganda)」で、「マガンダ カ(Maganda ka)きれいだね」といえば相手はうれしそうに顔を赤らめるだろう。そして「アン ガンダ モ(Ang ganda mo)」といったら最上級のほめ言葉で、「その美しさに恋に落ちてしまった」という意味合いをかねている。   逆に相手を非難する言葉として「バストス カ(Bastos ka、スケベ、下品、野卑)」という言葉があるが、言い方によっては日本語の「イヤーン バカ」なんて感じにもなる。しかし「プタン イナ モ(Putan ina mo)、相手を非難する最強の言葉、元々”お前の母さんバイタ”という意味」などといわれたら、その恋は終わりだ。 この子達はジェーンの姪っ子たちでちゃきちゃきのハイスクールの少女達だ いつも不思議に思うのだが、日本語に「I love you」に相当する言葉がない。「私はあなたを愛しています」なんてのは日本語ではない。強いて言えば「好きだよ」あるいは「好きよ」といったところだろうが実に間接的な表現だ。タガログ語では「マハール キタ(Mahal Kita)」「イニイビ キタ(Iniibi Kita)」「イニイロ キタ(Iniilo kita」「グスト キタ(Gusto kita )」などぴったりの言葉がたくさんある。そのほか、「カイランガン キタ(Kailangan kita,あなたが欲しい」「ダヒール サヨ(Dahil sayo、あなたのせいで)」など恋を語る言葉が豊富にあって、恋の歌の歌詞作りには事欠かないようだ。  さらに英語では男と女の営みに「セックス」とか「Make love」などと実にそっけない表現するが、日本語は「H」、「やる、する」などと間接的表現を用い、他には「性交」など学術的表現しかない。一方タガログ語では、やはり間接的表現をするものの「ソクソク(Soku soku,これは日本語だとフィリピーナは言うが真相は不明」「パクワン(Pakuwang,元々スイカのこと)」「ボムボム(Bom bom)」など面白い表現がたくさんある。直接的には「カンクータン(Kankutan)」と言うがかなり下品な表現らしい。  いずれにせよ、フィリピ-ナとの会話はタガログ語に限る。そうすれば思わぬ恋のチャンスがめぐってくるかもしれない。

恋をするならタガロク語 2012年6月3日


 1998年、私の相棒のジェーンの家の玄関にダンボールにいれられた赤ちゃんが捨てられていた。母親と目される女が人に頼んで玄関に置き去りにしたのだ。名前も誕生日もわからない乳飲み子だった。 サンパギータの花束を胸に飾って、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」39ページのモデルとなったビアンカ、11歳(推定) ジェーン一家の恒例の年末の記念写真、右端のビアンカは心なしか遠慮気味におさまっている。 ジェーンの家には2歳なる長兄の子供が一人いるだけだったので、早速家で育てることにした。とりあえずブランカ(白紙)と名づけたが、後により一般的な女の子の名前のビアンカに変えた。色白で目の大きい可愛い子だった。  学校に入るにはちゃんとした出生証明がないと具合が悪い。そこでビアンカはマミーの子供すなわちジェーンの妹として届けられた。その後、長兄ダシンの長男、次兄アランの長女、次女、と次々と孫が生まれてマミーの愛情も実の孫へと移っていった。そしてビアンカの試練が始まったのだ。 2007年12月、韓国KBSの農場取材に当たって、その日は、丁度ビアンカの誕生日(捨てられていた日)だったので、急遽、盛大な誕生日パーティを行うことになった。右から3人目がビアンカ 小学校へ行くようになって、ある日、学校の先生から呼び出しがあった。全然やる気がなくて、他の子供達の迷惑になるから退学させたいというのだ。結局、留年の憂き目となり、農場の近くの学校に移して、マミーと農場で暮らすようになった。ビアンカとしては他の子供達が実の親に可愛がられているのを見て複雑な思いを胸に秘めていたのだ。  ジェーンが、ビアンカを責めて、「一体お前は何が欲しいのか」と聞いたら、ビアンカの答えは「Love」の一言だったそうだ。  学校を変わって農場で過ごす様になるとビアンカは見違えるように変わって行った。2003~2004年は私自身が農場で暮らしていて、マミーとデバインそして私の4人暮らしだった。 2011年4月KIANの1歳の誕生日。デバインも久しぶりに戻って13~15歳の娘達が可愛い。後ろに写っているのは私の息子。 タバコ港から船で1時間太平洋に浮かぶ孤島に恒例の海水浴に出かける。誰もいない白い砂浜に子供達は大満足だ。  ビアンカのの役割は豚小屋の掃除や鶏やテラピアのえさやり、庭掃除や食事の後片付けと休む時間もない。デバインと二人で農場と家の仕事をこなしていた。 当時はマミーに何か頼むとすぐに「デバインー」と大きな声でデバインを呼んで言いつけていた。そして今、デバインが家を出て、16歳になったビアンカは、いつもマミーに「ビアンカー」と呼ばれて頼りにされている。 2010年12月末のパーティではハイスクール3人娘らがポーズを取る。 他の子供達が 親の愛情のもとにぬくぬくと育っている間に、ビアンカはマミーを助け、思いやり、責任感のある、子の鏡とも言えるほどの良い子に育って行った。学校の成績もあがり、表彰されるほどだった。 […]

ビアンカの物語 2012年5月26日



フィリピンにやって来て最初に苦労するのが、なかなか良い地図が見つからないことだ。特に道路マップが貧弱で、地方に旅行するときなど苦労する。1989年フィリピンにやって来て最初に手がけたのが地図探しだった。  そこで判ったのがフィリピンにも1万(1万分の一地形図)、5万あるいは20万という地図が立派に存在することだ。日本の国土地理院のようなところ(The National Mapping and Resource Information Authority (NAMRIA))で発行・販売しているだけだが、販売所はボニファシオの基地の中にある。ちなみに下の地図はマヨン火山付近の20万分の一の地形図だ。 フィリピン全体の地図としては色々あるが観光省で発行している地図が日本語で見やすい。主要な観光地が記されて、裏はマニラあるいはセブの観光案内がコンパクトにまとめられている。在日フィリピン大使館の横山さんに頼めば手に入るはずだ。 道路マップとしては主にACCU-mapとE-Z MAPが主要都市とフィリピン全土をカバーするものを出しているが、個人的にはACCU-mapの方が好きだ。最近でこそ、本屋、文房具屋、ホテルなどで見かけるが90年代は、入手がなかなか難しかった。 マニラ首都圏のマップとして優れものがマニラ新聞で出しているNAVIに載っているマップだ。マカティ、エルミタ/マラテ、ボニファシオ、オルティガス、ロックウエルなどが、日本人が訪れる店や事務所が日本語で記載され、大変重宝だ。  いよいよ本題に入るが、何故、フィリピンでは地図が少ないのか。それはフィリピン人が地図を使わないからだ。それでは、何故使わないのか。それはほとんどの人が地図を読めないからだ。日本人からすると、何故と思うかもしれないが、彼らは地図など見なくても、住所さえあればどこでもいけるし、それで不自由はしないのだ。  そもそも、鳥でもない限り地形や道路を上から、あるいは3次元的に見ることはない。地表にいる限り、人は平面的あるいは2次元の世界で暮らしている。だから、どこかへ行くのに人は、元来地図すなわち3次元的ではなくて平面的すなわち2次元的に捉えているのだ。例えば、「まっすぐ1km進んで、マクドナルドのところを右に向かって、3つ目の道路を左に折れて...」てな具合だ。  本来2次元である地形や道路を鳥のように3次元で捉えること、また逆に3次元的に眺めたの地図から2次元に落として捉える、と言うことはよほどの訓練がなければできないことだ。すなわち訓練によって身につけることのできる後天的能力であって、エンジニアーが設計図を見ただけで、現物をイメージできるのと似ている。  例えば、鳥が地上に降りて歩いてどこかへ行こうとしても不可能だろう。また、逆に蟻を空に連れて行って、行き先を聞いても判らないだろう。彼らは位置の捕らえ方が、全く違うのだ。どちらかといえば、蟻に近い我々においては、2次元で捉えている位置を3次元的に表現しようというところにどだい無理があるのかもしれない。 […]

フィリピン人は何故地図が読めない 2012年5月12日


ホリーウイークの休暇でタバコ市の農場を訪れた折、最終日は空港のあるレガスピ市のカーネル(マム・ジェーンの亭主、KIANのお父さん)の実家に泊まった。翌日の便が早朝6時半出発で、暗いうちに空港に行く必要があるからだ。その際、夕食をとりにレガスピ港の脇にできた新しいモール(イン・バルカデロ・デ・レガスピ)にでかけた。そこには本ブログの主人公のデバインが働いているのだ。 5年前、まだ17歳のデバインと私(ではなくて私の息子)。ちょっとお似合いのツーショットだ。  デバインとのなれ染めは、私が2002年にレガスピ近郊のタバコ市に農地を購入し、そこの農場と住居を建設した際、もっぱら私の食事の世話をしてくれたのが、彼女だ。彼女は当時12歳だったが、すでに顔も体も大人で、すでに男心をくすぐるものをもっていた。インド人との混血で(当時はアメリカ人との混血と聞いていたが、その後インド人であることが判明)大きな目と整った顔つきで、すでにかなりの美形だった。しかし、今回久しぶりに会ったら、まだ若干21歳なのにかなりの重量級で、しきりにダイエットを勧めておいた。  彼女が働いているINASALは現在もっとも出店が盛んなファーストフードチェーンだ。  マム・ジェーンのいとこである彼女の母親が若いときからパロパロ(浮気もの、もともと蝶という意味)で結婚前から異なる国籍のボーイフレンドの子供を作り続けた。そして、フィリピン人と結婚したら、それまで作った子供の面倒を見れなくなり、しかも、そのころおばあさんが亡くなって、デバインは親戚をたらいまわしされる羽目になってしまった。  しかし、行く先々で、その美形に、預かってもらった家の亭主どもがちやほやするので、その女房達がやきもちを焼いて追い出される羽目になった(注)。そこで行きついた先が我が農場だ。そこでマム・ジェーンの母親(マミー)に面倒を見てもらいながら、ハイスクールと専門学校を終えた。私は2003年から 2004年の1年半を農場で彼女と過ごしたが、そのころ彼女はハイスクールの前半で(13~14歳)、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」の191ページのメイドさん役で登場している。 注:フィリピンでは再婚した妻の連れ後の女の子が成長すると亭主が無理やり手篭めにしてしまうということがまかり通っているそうで、義理の父親とて油断できない存在なのだ。ましてや妻の親戚の子供となったら、亭主はもっとも危ない存在だ。だから妻達のやきもちはもっともなことなのである。  港を眺めながら食事ができるレストランは中々風情があって、パスコの法律顧問であるマリソール(写真左の左から2番目、端が亭主)が亭主とともにかけつけてくれた。ちなみに彼女は4人目の子供を宿していて、最近体調不良で仕事が遅くなっている。上の3人は全部男で金太郎飴のように同じ顔をしているが、亭主は、今度こそ女の子ができて欲しいと意気込んでいた。  農場で生活していたころ、デバインは何かと頼りにされ、何かマミーに頼んだり聞いたいるすると次の言葉は「デバイ~ン」と大きな声で彼女を呼びつける。ちょっと小言を言うと「デバイン・カセ」と彼女のせいにされ、それでも何一つ文句をいわず大きな家と農場を走り回っていた。  現在、農場でその役割を担っているのがビアンカだ。彼女はすでに16歳と推定されるが(注)、立派な少女に育っている。今は年に数回農場を訪れる程度だが、そのとき一番の頼りになるのがビアンカで、家の中のことなら何でも知っており、農場の欠かせない人材になっている。現在ハイスクールの3年を終えたところで、後1年で大学進学となる。しかし、13人の甥や姪を抱えるマム・ジェーンに私立に行かせる余裕もないから、ビコール国立大学に入学できたらOKだが、それがだめだったら専門学校で何か手に職をつけさせることなっているそうだ。 注:ビアンカの生い立ちについてはいずれ別途ブログに掲載する予定 ホテルレストラン学科を卒業したデバインは、一時マム・ジェーンと折り合いが悪くなり、農場を出てレガスピでパン屋に勤めていたが、今はINASALのレジをやっていた。農場にはたまに来る程度で、去年のKIANの誕生日と今年の正月に面会した。彼女達はもはや全く屈託がないようで、久しぶりの再会を喜んでいた。食事の後、デバインの話を聞きたいので、生バンドのあるパブに席を移した。KIANは睡眠の時間で両親とともに帰宅した。 PNP(フィリピン国家警察)の幹部であるヤン大佐に悲鳴を上げさせるKIANは怖いもの無しだ。右はいかにも福福しいデバイン。  デバインは16歳の妹のクレヨを引き取ってハイスクールに復帰させ、自分自身も大学に通っているという。朝8時から午後3時まで大学に通って、夕方から深夜までINASALで働いて、寝る時間はあるのかと心配になる。給与は一日256ペソ(多分この地域の最低賃金だろう)。手取り205ペソ、毎日はたいても月々たったの6000ペソ程度だ(1万2千円)。この金で、二人分の宿、食事、交通費、学費を賄おうというのだが、とても可能とは思えない。それでも、いかにも明るく元気に生きているのだ。しかもこんなに太っている、これはINASALのライスのお代わりは無料というポリシーによるものらしい。「ボーイフレンドはいるのか」と聞いたら、「一人」と恥ずかしそうに答えていた。デートの金も時間もないと思うのだが。 […]

デバインの奮闘記 2012年4月22日



   ママ・ジェーンがKIANを出産してから早くも2年、ヤンチャの度がますます激しい今日この頃だ。ママ・ジェーンは妊娠中、お腹がすいて仕方がないと、その食欲は目を見張るものがあった。食べ終わると、今度は赤ちゃんの分と軽く2人分を平らげていた。体重も70kgには達して、そんなに食べたらお腹の赤ちゃんが育ちすぎて大変なことになる、「小さく生んで大きく育てる」という日本の諺を話しても耳を貸さなかった。 出産の1週間前、ホテルのビュッフェの食べ放題で、うれしそうに大量の食事を摂るジェーン  そして分娩の段になると、自然分娩を試みたが、これ以上頑張ると母体が保障出来ないと医者に忠告され、帝王切開に踏み切った。そして、2010年3月31日、9ポンド、4kg強のKIANが出産したのだ。 この日は警察の車で出勤するパパ・カーネル。手入れに向かうときは決して自分の車は使わない。もちろん警察の車は私用には使わない、というけじめをつけている。 ジェーンも出産後2年経過して日ごろのジム通いの精進が効を奏して、ようやく真っ当な体型になってきた。以前着ていた服がようやく着れるようになったと喜んでいる。  フィリピンでは、ちょっと出産が難しいとなると、すぐに帝王切開をしてしまう。自然分娩はそもそも病気ではないから、病院側としても大きなお金を取るわけにはいかない。私の元部下は二人の子供を帝王切開で出産しそうだが、日本で一人がやっとと言われているはずだ。フィリピンの女性は生みの苦しみをお金で代替するようだ。しかし、そんなお金のない普通の妊婦は市営病院で、只で出産することができる。そして分娩の翌日には退院して母子ともに家で養生するが、子沢山で貧しい人の多いフィリピンではそうでもしないと処理しきれないのだ。 大人の真似をして私のサンダルに挑戦するKIANだが、親指と人差し指の間にひもを挟むのは大人の常識で、KIANは自由奔放にサンダルをはく。ママ・ジェーンの誕生日のケーキはKIANからとなっており、KIANも一人前の人格として認知されつつある。  ところで、フィリピン(英語)で帝王切開のことをシザリアン(CAESAREAN)と呼ぶ。何故そう呼ぶかは日英とも誰に聞いても知らない。このシザリアンとは、かの古代ローマ帝国の帝王シーザーに由来している。時の王は予言者から「あなたは女の股から生まれた子ではない人間に滅ぼされる」と告げられた。そこで王は「そんな人間がこの世にいるはずがない、だから自分は一生安泰だ」と考えた。しかし、その後、王は、シーザーによって滅ぼされることになる。まさにシーザーは帝王切開で生まれ、女の股から生まれた子ではなかったのだ。この秘話から後に、妊婦の腹を切開して出産することをシザリアンあるいは帝王切開と呼ぶようになったそうだ。 サウス・スーパー・ハイウエイに沿って走るPNR(フィリピン国鉄)のディーゼル機関車の通過を待っているとき、大きな口をあけて機関車を見守るKIAN。バックミラーに移ったKIANの顔に注目。彼はシーザーのような大物になれるのだろうか

帝王切開(シザリアン)の話題 2012年3月18日


 先日、フィリピンになじみの深いまだ30代の若い方から聞いた話だ。この方は既婚だが、フィリピンにガールフレンドがいた。しかし、相手が本気になって、日本にまで電話を掛けまくってくるので、手を焼いた。それで20万ペソの現金を手切れ金として渡して、別れ話をした。これだけあれば何かビジネスをはじめて自活していけるだろうとの思いやりだ。  これが大間違いだ。フィリピンでの別れ方は一切のコミュニケーションを絶つ、それだけだ。別れたい女に金をやる輩はおらず、泥棒に追い銭くらいに思っている。たとえ妊娠させてしまっても面倒を見たくないと、雲隠れする男はごまんといて、花街の身の上話のネタを提供しているくらいだ。別れようとしている女にこんな優しさを見せたら、それこそもっと惚れてくれというのと同じで、相手の心をわしずかみにするようなものだ。 某ホテルで見かけた花嫁。離婚という制度がないフィリピンでは正式な結婚にこぎつけるのは中々容易なことではない。  確かに、日本人がカラオケのGRO(ホステス)と仲良くなって彼女の身の上話を聞くと、同情して色々金銭的面倒を見てやりたくなる。さらにハイスクールも出たか出ないでは将来もないと、学校に行かせてやろうと、なんとも優しいのが日本のおじ様族だ。しかし、この若いみそらで、はげおやじの相手をしてくれるなんて、金が目当てとわかっていても、なんとかしてやりたくなるのが日本人だ。しかし、彼女達は生活の糧のために金が必要なのは当たり前としても、そんなはげおやじを本気になって愛してしまうところが恐ろしいともいえるのだが。 KIANのいとこのハイスクール4人組。彼女達の話題といえば恋愛、白馬に乗った騎士が現れるのを心待ちにしている。しかし、そのほとんどが覆面を被ったおおかみで、そんな輩から娘を守ろうとする父親との攻防が絶えない フィリピン流恋の手ほどきは、狙った獲物は逃さない、執拗に愛を告げて、熱くなったハートを花束で駄目押し。KIANはすでにその辺を心得ているようだ ところで、当事者が既婚者であろうが独身であろうが、フィリピンには恋の手管の定石がある。  ①相手をみそめたら、まずはメール攻勢。思いっきり甘い言葉を連発して口説かなければならない。I miss you 、Did you eat already?Good night、I […]

フィリピン流恋の手ほどき(その2)2012年3月17日



 1.コーン・ビーフ事件 10年近く前になるが、私が退職してフィリピンに住み始めたころの話だ。農場で犬を5 匹飼っていたので、彼らの食事の準備が中々大変だった。安い鶏の頭の部分を買ってきてやわらかくゆでてご飯に混ぜて食べさせていたが、鶏のくちばしを除いたり、私自身が面倒を見ていた。そこで、鶏の頭がいつも手に入るわけではないので、緊急用の犬の食料として大きめのコーン・ビーフの缶詰を5個ほど買って部屋に保管しておいた。隠しておかないと、誰かが知らぬ間に食ってしまうので、いざというとき犬の食料がなくなってしまうのだ。  当時メイド役で、まだハイスクールのデビナが部屋を掃除する際にそれを見つけて、「ダダ(私のあだ名)は食料を部屋に隠している」とジェーンの兄のダシンに告げた。そこでダシンらが「ダダはご馳走を独り占めしようと部屋に隠している」と憤慨しているとジェーンが私に告げたのだ。そこで、私は「それは犬の食料であり、自分のお金で買って保管しておいて何が悪い」と反論した。ジェーンがそのことをダシンに告げたが、ダシンは納得しない。そもそもコーン・ビーフは人間にとってもご馳走であり、それを犬の食料にするなんて言語道断であり、挙句の果てに「犬と人間とどっちが大事なのか」などと、わけの分からぬ議論に発展してしまった。このままでは私に対する恩も尊敬も何もかも消失してしまいかねない危機的状況に陥った。  それ以来、私のは犬のえさの面倒は放棄して、彼らに任せ、部屋に食い物は一切置かないことにした。買ってきた食糧は台所に置いておいて、誰でも好きに食べられるようにしたのだ。おかげ彼らに興味のない日本食などはそのまま何年も忘れ去られてしまうはめになってしまった。    定番のアイスクリームをほおばるKIAN。アイスクリームと聞けば泣く子もだまるKIANなのだ。 2.KIANのフライドチキン事件  KIANはチキンから揚げが大好きだ。先日、おなじみの日本食レストランのSAIKAから鳥から揚げをテイクアウトして、一緒に食べた。手に握り締めて食べているのを、先の部分の肉が落ちそうなので箸でつまんでお皿においてやった。そうしたらKIANが激怒して両手でテーブルをたたいて元へ戻せとわめき散らすく。あわてて骨に肉を刺して戻したのだが、その怒り様は初めて見るものだった。そしてもう一本のチキンのから揚げを頂戴と言ったら、また大きな声でわめいて拒否する。普段は何でも分けて食べるのだが、フライドチキンだけは別格のようだ。こんな横暴な態度は赤ちゃんだけが許される特権なのだろうが、KIANにとっては人生最大の危機だったと見えて、しばらくの間私に対しそっぽを向いていた。       そろそろ赤ちゃんを卒業して子供の雰囲気を出し始めたKIAN。やることなすことにはきりとした意志が伺える。 3.ヤナの日本菓子事件  昨年、KIANのいとこのヤナ(6歳)がマミーと一緒にしばらくマニラに滞在した。その時、私がKIANに日本食材店からお菓子を買ってきてやった。しばらくして、そのまま置いてあるので、封を開けて皆に配った。その後、ヤナがジェーンの部屋でさめざめと泣いていたのだ。ジェーンによると、ヤナがKIAN に買ってやったお菓子を見て、全部自分にくれと申し出て、ジェーンがOKしたのだそうだ。ヤナは学校に持っていって皆に日本のお菓子を見せびらかしたかったらしい。そんないきさつを知らない私は、すでにヤナの持ち物になっているお菓子を開けてしまい、ヤナの希望を打ち砕いてしまったのだ。ならば、「なぜ、私に断らなかったのか、そもそもKIANにあげたものを何故勝手にヤナに与えてしまったのか」と抗議した。しかしジェーンは「一旦、KIANに与えたものは、すでにダダの手を離れてしまったのだから、母親がどうしようとかってだ」と切り返す。私は「ならば、KIANに対する私の気持ちはどうなるのか」と反論したが、理解してもらえない。結局、後から日本の別のお菓子をヤナにあげて、丸く収めるしかなかった。 おいしそうにラーメンをほおばるKIAN。バンクオブコマースがペトロンのガスステーションに移動したので、そこにある日本食チェーン、太った少年、テリヤキボーイで食事をした。普段SAIKA等で食事をしている私にとってはちょっと食べられるレベルではなかった。 […]

食い物の恨みは恐ろしい 2012年2月22日


先日、PRA(フィリピンん退職庁)のGM(長官)と打ち合わせをしていた折、いかに日本から退職者を呼び込むかという議題になって、長官は突如として「日本の若者はセックスをしないのか」と質問してきた。日本は少子化で、介護老人を世話する人がいなくなっている。この傾向はこれからますますひどくなって、フィリピン人の出番がある、などと話をしていた最中である。私はあわてて「いやそんなことはない、若者はセックスをまるでスポーツのように楽しんでいて、貞操などという言葉は死後だ」と説明した。長官は「ならば、どうして子供ができないのか」ときりかえしてきた。私は、「日本では避妊意識が徹底しており、かつ堕胎が法律上許されているので、多くの新しい命が消えて行っているのだ。フィリピンのように避妊薬(ピル)や堕胎が法律で禁止されていたら、日本でも巷に子供があふれるようになるだろう」と話した。 マカティのもっともモダンな街、グリーンベルトの中央にある教会、日曜日は、中に入りきれない多くの人々が教会を取り囲んで祈りをささげている。  しかし、少子化はそれだけが原因ではない。家族制度が崩壊した日本では子供がほしくても子育てができないのだ。フィリピンのように大家族であれば子供は皆が面倒を見てくれるので、母親も子供を預けて休んだり、仕事に行ったりできる。人手が足りなければヤヤ(子守)を雇うこともできるから、子育てに縛り付けられて、母親が育児ノイローゼになるなんて話を聞いたこともない。有給の出産休暇は2ヶ月も、もらえるし、出産開けには100%の女性が職場復帰する。その点フィリピンは日本よりもはるかに先進的で、女性ににとって、そして赤ちゃんにとって天国ともいえる状況だ。そんな社会体制を整えれば、日本だってまだまだ少子化を食い止めるチャンスはあるだろうに。 教会の周りの広場にはたくさんのカラバオ(水牛の模型がおいてある。それをまたいで喜ぶKIAN。後ろではたくさんの子供達が記念撮影をしている。 「フィリピンは貧乏で子作り以外に楽しみがないから、やたら子供ができるのだ」なんていう日本人がいるが、それはとんでもない勘違いだ。日本はたしかに戦後生まれの団塊の世代が頑張って、第2次世界大戦の壊滅的状況から世界を日本ブランドで席巻する経済成長を遂げた。しかし、豊かになった日本人は、結婚したらマイホームを手に入れ、妻と一人か二人の子供だけで暮らす理想の生活、核家族化を邁進した。さらに退職したら夫婦二人だけで年金暮らし、子供とは一緒に暮らさない、子供に面倒はかけない、などときれいごとを並べたてている。要は家族が頼りあわなくても生きる糧を獲得して、家族の役割を忘れ去ってしまったのだ。そして現在、核家族どころか、一人で暮らす老人、あるいは生涯独身で核家族でさえ持てない人が急増している。これでは少子化に歯止めをかけるどころではない。   私がいフィリピンにやってきた1989年以前に立てられた教会だが、なかなかモダンなデザインだ。その後に建設されたグリーンベルトの庭園によくマッチしている。 フィリピンでは家族の絆がなによりも強いから、たとえ職がなくても、収入がなくても誰かに面倒を見てもらえる。だから、昼間から大勢の若者が何もしないで街角にたむろしているが、彼らは、なんとか食っていけるのだ。兄弟やいとこが長いこと居候していても、追い出したりしないで飯を食わせている。居候するほうも何の遠慮もなしに毎日3度、ただ飯を食らっている。しかし、一旦、職に就くと彼らが恩返しに困った家族を面倒見る。だから、職がなくても病気で職を失っても、彼らは明るく、日本人のようにすぐ自殺したりしない。だからフィリピンでは、誰かが自殺すると新聞のニュースになるくらいだ。この家族の仕組みこそが人類をここまで発展させ、地球を征服させた原動力なのだ。 最近オープンしたグリーンベルト5はゆったりした広場が特徴だ。KIANは大喜びで、ここぞとばかりに走り回り、ビューティフル・アイズを連発している。  そもそも、子供や老人の面倒を見るのは家族の役割だから、その家族が崩壊したから、少子化、そして介護老人の問題が表面化している。これらの弱者を保護する家族がなかったら、それは国があるいは社会が面倒を見なければならない、ということになる。それが福祉国家だと、もてはやされているが、それに必要な莫大な費用と人材はどこからまかなわれるのか。現役の若い人達が生み出した税金と若い人そのものとなるのだろうが、それが少子化で、若者がどんどん減っていったら、国も社会も回らなくなってしまう。生産活動から離れ消費するだけ、しかも医療や介護などに莫大なコストを必要とする高齢者ばかりが多数を占め、一方では、それを支える若者の減少する。まさにこれは破滅への道のりで家族制度を放棄した先進国がたどる道なのだ。  こんな世の中あるいは国家が存続できるはずがない。日本の経済破綻や大災害によるまさに日本沈没が取りざたされているが、まさにその日が近いという気がする。日本の首相の首を何度すげ替えてみても事態は変わらない。今回の大災害のように日本を大きく揺さぶって目を覚めさせないと取り返しのつかないことになるだろう。だから、日本もフィリピンに学んでかつての家族を復活させるべきだとしみじみ思う。 グリーンベルト5からながめたアヤラの最高級コンドミニアム、ザ・レジデンス・グリーンベルト。3棟ともほぼ完成して、その取引価格は20万ペソ/平米といわれ、50平米のユニットで1千万ペソ(2千万円)、100平米なら2千万ペソ(4千万円)もする。もはや日本とかわらない価格だといえるが、ここはフィリピンの中心マニラ、そしてそのまた中心のマカティの一等地にあるのだから、単純に比較はできないかも知れないが。 フィリピンでも人口抑制の議論が活発だ。人口の増加が貧困に拍車をかけている、だから人口抑制のための避妊薬(ピル)の解禁やコンドームの普及などが必須だという。フィリピンの人たちが避妊や人口抑制に目をむけて、少子化に励んで豊かになっていったとすると、肝心の家族の絆はどうなってしまうのだろう。日本だって、一昔前は家族の絆は強かった。介護施設などはなくて、家族で老人を面倒見ていた。それがちょっと豊かになったら、家族のことを忘れてしまった。    最近ブームのコンドミニアムのモデル・ルームを見に行くと、21平米とか25平米とか、それこそマッチ箱みたいなユニットがほとんどだ。まさか、ここでおじいちゃんやおばあちゃん、それに居候まで一緒に住めるはずがない。フィリピンでも豊かな核家族を夢見る人が増えているのではないか、そしてフィリピン最大の強みの家族が失われつつあるのではないか、と危惧される。 グリーンベルトの散歩のあと、天天火鍋で食事をしたが、店で出会った女の子に盛んにアプローチするKIAN、と思ったらヤヤに何かをねだって大泣きするKIANだ。 […]

日本の若者はセックスをしないのか?2011年9月9日