フィリピーノ気質


 男が女を選ぶ条件は一にも二にも可愛いかどうか、に尽きるといってもいいだろう。性格がどうだとか、頭がどうだとか、金にどうだとか、そんなものはほんの付随的条件にすぎない。いかにも単純なのが男の条件だ。さて女性、とりわけフィリピーナ(フィリピン女性)は一体どういう基準で男性を選び、結婚を決意するのだろうか。 カラオケ・ショークラブ、ニューサチのダンサー達   最近、元花街で働いていたフィリピーナとプライベイトに話す機会があった。彼女は日本人の男性と良い仲になり、場合によっては結婚という可能性もある。その男性を横においての会話である。彼女は21歳、すでに一児の母で、ある程度世の中のことがわかっている大人の女だ。 まず第一番目の条件は  1. 優しいこと  フィリピンでは人を誉めるとき、マバエット(やさしい)と評する。これですべての人格が表現されてしまう。男性は優しいこと、フィリピンではこれが最も重要で、日本人の男性はほとんど落第するのではないかと思う。フィリピーノ(フィリピン男性)の優しさにはとても足元に及ばない。フィリピン流の優しさとは日本のものとは少々勝手が違う。あくまでも表面に現される態度が重要で、日本人が心の底に秘める思いやりなどとはあまり関係がない。  特に日本人亭主の妻に対する横柄な態度はフィリピーナにとっては悪魔のように映るだろう。人前で妻をののしったり、怒鳴ったりしたら、100年の恋も愛もどっかへすっ飛んで一生の敵となることは間違いない。妻や子供そして妻の家族などに対してはどんなに優しくても優しすぎることはないのだ。   どんなに腹が立っても人前では妻に対してはあくまでもにこやかにしていなければならない。そして二人きりになったとき、なぜ、そういうことになったのか、やんわり聞いてみる。妻としてもそれなりの事情があったわけで、良く話し合ってみるべきだ。大概は日本人のフィリピンについての理解不足が原因で、フィリピンでは日常で、ささいで、当たり前なことに腹を立てている自分に気がつくだろう。   さらに夫婦である限り、妻の義理も自分の義理で、妻のお愛想にも付き合わなければならない。フィリピン人の人間づきあいは日本の数十年前の田舎のようで、義理と人情にがんじがらめなのだ。だから、フィリピーノのホスピタリティを身につけなければ早晩、妻に愛想を着かされてしまうだろう。 フィリピンのGRO(ホステス)はとても可愛くてホスピタリティに溢れ、熟年諸氏をとりこにする  そして第2番目の条件は  2. 生活力があること  そんなに大きな金は入らないが全うな生活をして行く位の金あるいは稼ぎがあること。結婚ということを考えた場合、当然のことだろう。フィリピンには、これを満足できず、彼女をはらましたらドロンという輩が多すぎる。堕胎が禁止されているフィリピンでは、男に逃げられ、生まれた子供を養うために花街に落ちていく女性が数知れない。   この点ほとんどの日本人は合格だろうが、多少のまとまった金を持ってはいるが年金や給与などの定期的な収入がない、というのは少々具合が悪い。フィリピーナはご承知の通り、預金というものをしない、あるいはそんな金を持ったことがない女性がほとんどだ。特に花街に働く女性やジャパユキさんにとって 100万円というお金は天文学的数字で、いくら使ってもなくならないと感じるだろう。だから彼氏や亭主がそんなお金を持っていたら、バカスカ使ってしまい、早晩使い切ってしまう。亭主としてはしっかり財布の紐を縛っておかないとやばいことになる。その点、年金などの定期収入があると、なくなってもまた入ってくるので安心だ。その亭主がいなくなると収入も途絶えてくるので、家族をあげて大事にしてくれるだろう。 […]

フィリピーナの結婚の条件2009年4月20日


  昨日、NHKワールドのクローズアップ現代という番組で「認認介護」というテーマを取り上げていた。認知症の夫を、これまた認知症の妻が介護をしていて、妻が夫を殴り殺してしまったという事件である。妻は傷害致死犯として告訴され、執行猶予の刑を受け、現在自宅で一人暮らしをしているという。また、妻は夫を殴り殺したという事実を記憶しておらず、なぜ夫が死んでしまったのかと首をかしげているそうだ。この事件が家庭内介護をとりまく問題を提起し、役所そして介護ビジネスに関わる人々がいろいろ議論を重ねているという。  この番組をフィリピンで見ていると、まず気になるのが家族はどうしていたのか、子供はいないのか、兄弟はいないのか、家族が一緒に暮らしていればこんな悲惨な事件は発生しなかっただろうに、ということである。フィリピンはご承知の通り、大家族で年老いた親が一人あるいは夫婦だけで暮らしているなどという状況はありえない。お年よりは多くの子供や孫に囲まれてたとえ貧しくても幸せに暮らしている。老老介護や認認介護などという状況はありえないのだ。 私の友達に、最近フィリピンで結婚したことを悔やんでいる方がいた。一人で暮らしていたほうが金はかからないし、気楽だし、それに妻が色々と用事を言いつけたり、小言を言われたり、うっとうしくてたまらんというのだ。数年前に結婚したときは周囲のアドバイスも聞かず結婚に夢中になったいたのにだ。この人には84歳の車椅子のお父さんが一緒にフィリピンで暮らしている。お父さんが2年ほど前に脳溢血で倒れたとき、一人っ子の彼は途方にくれたが、フィリピン人の妻がフィリピンに引き取ったらという思いがけない提案に、思い切って連れてきた。その後、お父さんの回復は目を見張るようで現在は車椅子も不要になり、元気に暮らしているそうだ。さらにお父さんの年金だけで十分家族一同の生活が賄えるという、願ってもない状況だ。もし彼が独り身だったらどうなっただろうか。日本に帰ってお父さんの面倒を見るという介護の生活が始まるのか。そしてもし自分自身も病気にでもなったら、一体どうなるのだろう。悠々とフィリピンで暮らしていられるのも妻とその家族のおかげであるわけで、その妻の要求をうっとうしいなどと言っては罰が当たるというものだ。 家族があれば介護の問題や、子供の世話などという問題は起こらない。家族のメンバーが、それぞれが役割も持って家族を維持すればすべては解決される。少子化大臣や介護保険など、ややこしい仕組みや議論は必要ない。この家族という仕組みこそが人類100万年の歴史が獲得した解決策なのだ。この家族のメカニズムが日本では核家族などと言って崩壊し始めているから、認認介護のうえの夫殺しなどというとんでもない事態が起こるのだ。 先日、NHKで非常に興味ある番組をやっていた。男と女の問題で、恋愛は子孫を残すためのメカニズムだというのである。恋愛をするとき、男は視覚脳が活性化し、女は記憶脳が活性化する。要は男は目で、女は頭で恋をする。男が女を見るとき、ほとんど腰と尻に注目しているそうだ。要は腰がくびれて尻が出ているセクシーな体型を好むのだそうだ。それはその女が子供を産むのに適しているかどうか見極めているのであって、男は自分の子孫を残す本能を働かせているのだ。一方、女はこの男が本当に約束を守り、自分に子供が出来て育児に専念しているときにしっかり養ってくれるかどうか、記憶脳を駆使して見極めているのだという。だから女は昔の約束やベッドで、男がついしてしまった約束を覚えていてその実行をせまったりするのだ。これも子孫を残すという女の本能なのだ(見てくれの悪い男性よ、あきらめることなかれ、誠意さえ尽くせば女は惚れてくれるのだ)。 それで二人は恋に落ちるのだが、他の動物のようにセックスをしたらおしまいでは困る。人間は二足歩行のために、母親の産道が狭く、赤ちゃんを未熟児のままで出産する。だから赤ちゃんは2~3年は母親の手厚い保護の下に育てられなければならない。そして母子は父親に食料の面倒を見てもらわなければならない。父親としてはセックスをして子供を作ってしまえば用はないはずであるが、それでは母子が生きて行けないので、無条件で相手に尽くすという恋愛のメカニズムが必要となるのだ。だから、この恋愛は赤ちゃんの手があまりかからなくなったら一段落するようになっている。そもそも恋愛は数年で冷めてしまうものなのだ。 NHKの番組はそこまでだったが、その先に結婚というメカニズムがあり、さらに家族というメカニズムがある。恋愛、結婚、そして家族、それが人類をして世界を制圧することを可能として、究極の仕組みだったのではないかと思う。子孫を残すという本能の恋愛から始まって、やがて恋に冷める男性を結婚で束縛して、家族を形成する仕組みだ。 老人問題が家族で解決できるのはいいが、なぜ役に立たなくなった老人がいるのか、その老人は家族に対して何の役割を持っているのか。動物界では狩を出来なくなったものは死を迎えるのが決まりなのではないか。動物界では閉経を終えたメスは速やかに死を迎えるそうだ。であれば生殖能力を失ったあるいは食料を獲得することが出来なくなったオスはそれで生涯を終えることになる。しかし、人類においては閉経を迎えた女性はさらに数十年間生き続ける。子供を作ることができないおばあさんが娘の子供、要は孫の面倒を見ることにより、より多くの子孫を残すことができる。すなわちおばあちゃんのいる家族の存在こそが人類繁栄の鍵だったのだそうだ、 神様はオスとメスを作り、セックスという快楽を与え、それによって意図せずとも子孫が残されるという、奇想天外な仕組みを生物に与えた。そこまではどんな動物でも同じだ。しかし、人類は百万年の歴史の中で恋愛、結婚、家族という仕組みを獲得することにより、ここまで繁栄できたのだ。介護問題や少子化問題でゆれる日本、この家族という仕組みを捨てようとしている日本はやがて滅びの道を歩むのではないかとさえ思う。フィリピンでは家族の絆は相変わらず強烈だ。巷は子供で溢れている。そんなフィリピンに人類としての力強さを感じる。期せずして本年のマニラ生活電話帳は家族の象徴でもある子供を抱く女性の姿が表紙となっていた。

恋愛・結婚・家族のメカニズム2009年3月4日



 マカティのブエンディア通りとパソンタモ通りの角に24時間営業のマクドナルドがある。対面にコールセンターがあるため、24時間いつもにぎわっていて、ピーナッツやタバコを売る屋台も多数出て、下町の喧騒がここにはある。  この店はマカティ市長のビニャンの息子さんが経営しているそうで、ちょっと離れたところにあるマカティ市役所の職員の誕生日の振る舞いや簡単な職員のパーティはすべてここからの仕出しによるそうだ。市役所以外でも幼稚園などの市の経営する施設の仕出しは一手に引き受けて、幼稚園の先生はいつもいつもマクドナルドのハンバーガーを食べる羽目になってうんざりしているそうだ。一旦権力を握るとあらゆる局面でその力を利用して家族や友人に便宜を図るのがフィリピンの通例なのだ。

マクドナルドの大繁盛店2009年2月22日


 日本でもフィリピンでも最近はオムツを干しているという景色を見ることは無くなった。ほとんどが使い捨ての紙おむつを使っているせいだ。一回使っただけで捨ててしまうというのはいかにももったいない。それに使っている紙の量も相当のものだ。  この紙おむつを一個作るのにどれだけの木材も必要とするのだろうか。木を大量に切って一回使って焼却してしまうなんて、地球温暖化を進める元凶だと思う。そもそも紙おむつなど無くても昔ながらの木綿の生地でやれば何度でも洗って再利用ができるのだ。フィリピンでは子供のしつけに熱心ではないから、2~3歳になってもオムツをしている。一日3枚x365日x3年間=3285枚の紙おむつが一人当たり消費されることになる。このために何トンの材木が必要で、何トンの二酸化炭素が発生することになるのだろうか。  一方、2歳になる子供に母乳をあげている母親が知り合いにいる。びっくりして聞いてみるとフィリピンでは当たり前という。さらに幼稚園に行ってもほ乳瓶でミルクを飲むのが普通だそうだ。日本ならば6ヶ月位から離乳食を取り始め、1歳位でミルクはやめているはずだ。3~5歳になってもミルクから主な栄養を取るなんて子供のために良いはずが無い。米や肉・魚そして野菜などを良く噛んで食べて栄養をとることにより始めて健全な成長が図れるのだ。  お金が無いことを象徴する表現に「ミルクもオムツも買うお金がない」という言葉を耳にするが、上記の背景を見ると「馬鹿にするな」といいたくなる。子供のしつけを怠って3歳にもなってミルクを飲んでオムツを使っている。しかもお金のかかる粉ミルクと紙おむつだ。それでお金が足りないなどとは言語道断だ。「子供のため」といえばおおいに同情を買ってなんでも通るのがフィリピンだが、これだけは許せない。実は子供のためではなくて、母親の怠慢のせいなのだ。普通の食事をしていればはるかに少ない費用で栄養はとれるはずだ。  しかも紙おむつは水分をよく吸収するので、おしっこをしても気持ちが悪くないそうだ。だから、平気でおしっこを垂れ流し、コントロールすることを憶えにくい。そのためいつまで経ってもオムツ離れしないのだ。3歳になってもおしっこをコントロールできない子供なんて将来が危ぶまれるというものだ。もっとも介護用オムツや忙しい母親の手間を省くという観点ではこの紙おむつも多いに利用価値はあると思う。  話は違うが、フィリピンの米作りは堆肥を使わない。すべて化学肥料だ。ワラや籾殻は燃やすか捨ててしまう。堆肥などの有機肥料は畑を肥やしおいしい作物をつくるために必須だと思うのだが。さらに養鶏・養豚やテラピアの養殖などにも配合飼料を使う。この飼料が案外高くて、売値のほとんどを占めてしまう。昔、農家の人が豚の飼料に残飯を集めていたのを覚えているが、フィリピンではそんな面倒くさいことはしない。残飯は捨て、鶏や豚の糞もただごみとして捨てるだけだ。農場では、ワラやもみ、鶏や豚の糞は貴重な資源だと思うが、ひたすら廃棄物として処理される。  紙おむつや粉ミルクそして肥料や飼料、その共通点は何か。すべてお金持ちの経営する大企業の製品だ。テレビなどでも盛んに宣伝され、それを使わないと時代に取り残されていると錯覚してしまうのだろうか。だから3度の食事もままならないのに、粉ミルクと紙おむつを買って子供に与え、農家は借金をして肥料や飼料を買い、収穫のほとんどを借金の返済にあてることになる。だからフィリピンでは、金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はいつまでたっても貧乏なのだ。

ダイアッパー(紙おむつ)に苦言2009年2月6日



 先日紹介した孫の結月(ゆずき)も6ヶ月になった。久しぶりに写真が送られてきたので、フィリピーノの相棒に見せたところ、感激されてしまった。色白で、キュート、あの赤ちゃん独特のいいにおいがしてくるようだというのだ。ちなみにタガログ語で、マプテ、マガンダ、マバゴと褒め言葉のオンパレードだ。フィリピンの赤ちゃんはどうなのかと聞くと、この赤ちゃんに比べたら雲泥の差だという。この赤ちゃんは目が細くて小さいところがとても可愛いというのだ。日本では目が大きくて可愛いという表現になるのだが、フィリピンでは目が小さくて可愛い、目が大きくてブス、という表現になるようだ。フィリピンにはこんなに可愛い赤ちゃんはいないとまでいい切る。 当方の眼から見ると、確かに可愛いかもしれないが、普通の赤ちゃんに見える。一方フィリピン人の赤ちゃんは意外と色白で、目がパッチリしていてとても可愛いと思うだが、無いものほしさということなのだろうか。  下の写真は昨年の9月初め、お宮参りに参列したときの写真だが、デジタルなのだが、どうしてもメールに添付して送ることが出来ず、今回やっと入手したものだ。インターネットの時代になんともお粗末な話だが、そもそもは私のカメラが寸前に壊れてしまい、しかもスペアのカメラは相棒が田舎に行くので貸してしまっていて、肝心のときに写真が撮れなかったためなのだ。中央が私の3男で結月の父親だが、しばらく前までやんちゃな悪がきと思っていたが、それが父親になってしまったのだ。私も年をとるわけだ。

日比赤ちゃん比較 2009年1月30日


 12月8日のマニラ新聞「新移民残日録」にフィリピーナ「無くて七癖」と称して、フィリピーナ気質が七つにまとめられていた。まさに言い得て妙である。 25年間に渡るフィリピーナ妻との付き合いで得た82歳の日本人の結論としては「寛容を持って接する」しかないということだ。その七癖とは以下の通りだ。 1. 必ず時間には遅れる(時間を守る気が無い) 2. 携帯電話は自分のため(自分ががかけるためのもので、人から電話を受けるためのものではない) 3. ブロークンの一言(ものが勝手に壊れたのであって、自分が壊したのではない) 4. 借りた金は返さない(返す金がなければ仕方が無い、借りた相手には知らん顔) 5. 夫なくても子作り(シングルマザーが次々と子を作る) 6. ソーリーを言わない(自分のミスを認めない、謝らない) 7. 女性も殴りあう(切れると殴り合いさえ厭わない) これらのことは、フィリピンにしばらく住むといやが上でも思い知らされることばかりだが、日本人にはなかなか理解がしがたい。一方、フィリピーナにとってはいとも当たり前のことのようで、これがなぜ取りざたされるのか理解できないらしい。もちろん悪いことなどとは思っていないから、直そうなんてこれっぽっちも思わない。フィリピンにいる限り、それを理解して受け入れるのは日本人の役割なのだと思っているようだ。 我々日本人は子供のころからこれら七つの癖は良くないこととしてしつけられ、いつしか天来の悪癖として忌み嫌うようになっている。この七癖を持っているとしたら、日本では誰にも相手にされないどうしようもない輩として扱われるだろう。そうなるとフィリピンはどうしようもない悪癖がまかり通る文化文明の劣る国なのだろうか。 逆にフィリピン人から見た日本人の七癖はどうなんだろうか。ちなみに私がフィリピーナに良く怒られる癖を七癖になぞらえて上げてみた。 1. 「時間にちょっと遅れるだけでパニックになったり、遅れた相手を罵倒したりする」 ちょっと遅れたからといって死んでしまうわけでもないでしょう。気楽に気長にやらないと長生きはできないわよ。 2. 「長電話をするなと文句をいう」 暇な時間に友達と会話を楽しむのが何が悪いの。 3. 「何か無くなったり壊れたりすると徹底的に犯人を探し出して追求する」 そんなことをしても元に戻るわけでもないでしょう。 […]

フィリピーナ「無くて七癖」2008年12月9日



 国連人口基金の発表によると、フィリピンの2008年の推定人口は8970万人で、2007年より380万人増加したそうだ。2000年代の平均の人口増加率は約2%、したがって5~6年の内に1億人に達する見込みだ。 東南アジアではインドネシアについで2番目の人口大国で、減少に転じている日本の人口が1億2790万人だそうなので、このままでは15年後位に日本の人口を抜くのは間違いないだろう。ちなみにマニラ首都圏の人口は2007年に1055万人と1千万人の大台を突破し、全国の人口増加割合よりはるかに大きく、地方から首都圏への人口の流入が激しい証拠だ。写真のようなフィリピンの若者達がこれから子作りに励むとなるとこの傾向は決して変わらないだろう。  ちなみに私が初めてフィリピンにやってきた1989年には、フィリピンの人口が7000万人、マニラ首都圏が700万人、国土面積は日本の70%、また島の数が7000と7づくしで大変憶えやすかった。あれから19年、ずいぶんと変化したものだ。フィリピン政府はこの人口増が貧困増につながると人口抑制にやっきとなっている。しかし、あの子供好きなフィリピン人から子供を奪ったら一体何が残るのか。子供が唯一の幸せと考えている彼らから子供を奪うことなどできなはしないし、はなからあきらめた方が賢明というものだ。カトリック教会でも現在下院に提出中の「人口抑制法案」に対しては徹底抗戦の構えだ。  フィリピン人はほとんど見境もなく子作りに励んでいるように見える。たとえ経済的に許されなかろうが、結婚していまいが、お構い無しだ。避妊がはばかれ、堕胎が禁止されているから、妊娠すると皆出産することになる。したがってシングルマザーも多いが、いずれの場合でも子供たちは家族中の愛情を一身に受けてたくましく育っていく。そして子供を育てることが親の生きがいであり、親子ともども幸せなのだ。仕事があるから、面倒を見れないから、経済的に難しいから、などなどと理由を挙げて、子供を作らない、あるいは妊娠してもおろしてしまう、という日本の発想は、なにかおかしいのではないか。フィリピンの方が自然で愛と幸せに溢れているのではないかと感じるのは私だけだろうか。

フィリピンの人口が9000万人に肉薄2008年11月20日


  フィリピーノの子供の傍若無人ぶりは他でも触れた。そしてそれをほっておく親の顔をあきれて眺めることがしばしばあることも。しかし、フィリピーノの子供への愛情は日本人には想像のつかないものがある。しかも、子供は自分あるいは家族のものという感覚が強く他人が介入すべきものではないのだ。 3歳のいとこに化粧をしてあげて遊ぶフィリピーナ(8歳) 仮に他人の子供がコンドミニアムなどの廊下で遊んでいて、あまりにうるさいので注意する、あるいは他の子供をいじめているので注意する、時には聞き分けがないのでたたいたりしてしまったりすることがあるかと思う。そんなことをフィリピンでやったら大変なことになる。なにしろ子供は何をしても許される社会だから、他人がわが子を叱ったり、たたいたりしたら、それはもう戦争だ。たとえその子供にどんな非があろうとも、あなたにどんな事情があろうとも、決して許されることではないのだ。あなたは悪魔の化身として忌み嫌われ、その家族からは一生口を聞いてもらえなくなることは間違いないだろう。 そうなると一体どうやって他人の子供に注意したらいいのだろうか。親しいフィリピン人に頼んで、それとなく親に伝えて注意してもらうのだ。遠まわしにいかに当方が迷惑を被っているか、それとなく伝えて子供を指導してもらうのだ。それでもだめだったら我慢するしかない。 ある日、コールセンターに夜勤しているフィリピーノが、昼間は寝ているので子供たちがコンドミニアムの廊下で大騒ぎをして遊んでいるのは甚だ迷惑であることを親に伝え、外で遊ぶか静かに遊ばせるよう要求した。ところがその子供の親は、昼間に子供が遊んで何が悪い、しかも、子供が静かに遊ぶことなどできはしないと、聞き入れてもらえなかった。そこで話はバランガイ・キャップテンまで行ってしまったが、キャップテンの判定は、件の子供は白。昼間に寝なければならないのは個人的な理由であって、それを他人の子供に押し付けることはできない、ということだった。その後も子供たちはコンドミニアムの廊下で何事もなかったように大いにはしゃぎまわっていたのはいうまでもない。 トライシクルも子供にとっては遊び道具だ   これをフィリピン人はなんと社会的常識にかけるのだと責めてみても始まらない。フィリピンに住んでいる限り、社会的常識に欠けているのは我々外国人なのだ。

フィリピン人の子供を叱ってはいけない



当たり前のことを言うなと叱られるかもしれないが、ちょっと古いタイプの人には人前で平気でおならをする人が少なからずいる。それを大物である証のように思っているのだ。ちょっといやな気もするが、「美人へもすりゃクソもする」という言葉があるくらい、誰でもすることだから、大目に見ていることも確かだ。このおならは日本では「すかしっぺ」などと言って笑いのネタにされることが多いくらいだ。 ところがフィリピンでは事情が違う。ご承知の通り、フィリピーノはにおいに敏感だ。においの元となるおならは人前では決して許されないことなのだ。ゲップをするとフィリピーノは必ず「Excuse me」と言って、たとえ誰もいなくても周囲の人に詫びる。しかし、おならはそれでは済まされない。フィリピーノは、年寄りや子供は弱者として何でも許しいたわる。しかしおならだけは別で、たとえ年寄りでも、人前でおならをすると、ひっぱたかれても仕方がないくらい下衆なものとして嫌われる。 確かにこんな状況ですかしっぺなどをされたらたまらないだろうが   フィリピーナと仲良くなりかけて、何故かある日突然相手にされなくなってしまったことがあるとしたら、そんなところに原因があるのかもしれない。フィリピンで女性にもてようとしたら、体臭やおならなど、ことのほか気をつける必要がある。もちろん夫婦や恋人あるいは家族の間では許されるようだが、やらないことにこしたことはないだろう。

人前でおならをしてはいけない


フィリーピーノ・ファミリーのボスは妻であることは再三触れた。一つのファミリーにも母親や子供の妻、など複数の妻がいる。さらに亭主の彼女などというややこしい存在もある。そうなるとこの妻達の間で誰がナンバーワンの地位を獲得するか熾烈な戦いがあるのだ。 仮に母親が死んで娘達の長女あるいは長男の妻がナンバーワンの地位を獲得したとする。しかし、そこに後妻が現れると話が難しくなる。通常、妻に死に別れると娘は父親の女性関係に非常に敏感になる。なぜならば父親に自分より年下の彼女でもできるとナンバーワンの地位はその年下のハナタレ娘に奪われて、年下の継母のこ憎たらしい命令を唯々諾々と聞かなければならなくなってしまうからだ。花街辺りから連れてきた彼女となると教養も品性も娘たちよりずっと下で、それが家族の長として権勢を振るうことになってしまうのが娘達にはとても我慢できないのだ。若い彼女と娘、二人の板バサミになって父親は途方にくれることになる。どっちを取るのよと両方からせまられて苦渋の決断をしなければならないのだ。若い彼女をとれば、家族から見捨てられることは間違いない。財産も当然娘達に奪われるだろう。最近似たような状況で義理の息子を殺してしまい、自分も自殺したという日本人がいた。 ここで問題なのはこの妻の権勢は家庭だけでなく、旦那が経営する商店や会社にまで及んでしまうことだ。妻と長い年月努力を重ねて築きづきあげる会社というのは日本でも同じこと。その妻が死に若い彼女ができたとすると、その彼女ないし妻はナンバーワンの地位を利用して、会社内部で権勢を振るい始めるのだ。日本人の場合、その動きを悟ることは至難の業だ。知らぬ間にすべてのフィリピーノ社員は新しい妻ないし彼女の下僕になってしまうか、ほとんど役にたたない彼女の姻戚連中でしめられてしまう。彼女のいう通りにならない社員は日本人の社長(旦那あるいは彼氏)に悪口を並べて首にしようと画策する。それでもだめなら、私とあいつのどっちを取るのといつもの手で責めてくる。会社のお金も一部の社員と共謀してバンバン使うだろう。もともとビジネスのビの字も知らない人たちがほとんどだろうから、目の前の利益しか見えない。社員は彼女の言いなりだから、気が付いたときにはニッチもサッチも行かない状況に陥ってしまっているというわけだ。 フィリピンに家族やら会社を持っているということがないならば若い彼女や妻と仲むつまじく暮らすことも可能だろうが、自分の置かれた状況を良く吟味してから行動に移ることが肝心だ。もし色々しがらみがあるようだったら、ビアハウスやショークラブあるいはマッサージ等で浮気を楽しむくらいにしておいたほうが無難なようだ。

カカア殿下が会社をつぶす