提言・提案


先の東日本大震災の未曾有の爪あとに、日本人が一体となってたくましく立ち向かっていく姿が、毎日テレビで報道されている。どれだけの時間がかかるか分からないが、いずれ、見事に再生し、立ち直ってくれるものと願う。しかし、気にかかるのが福島原子力発電所の事故の収束の兆しが見えないことだ。炉心溶融 という最悪の事態を迎えるとなると、未来永劫、福島県、茨城県などの数県には人は立ち入ることもできなくなってしまうだろう。さらに風評被害により日本の 農業水産物は放射能汚染のレッテルを貼られ、世界の市場からそっぽを向かれるのは間違いない。  自然災害は時がたてば元へ戻る、というよりは地震や津 波、それに台風や噴火は自然の営みの一つでしかなくて、古来より繰り返し起きているものなのだ。動物そして人間はその自然の営みに翻弄されながらも脈々と 生き延びてきた。2006年の超大型台風レミンで私の農場があるビコール地方アルバイ県が壊滅的被害を受けた時も、マヨン火山はそ知らぬ顔をして、いつも の通り、その美しい姿を誇るようにそびえていた。火口からの火砕流が大雨で流されて近隣の家を押し流したが、それはマヨン火山があの美しい姿を保つため に、古来から続けている営みに過ぎないのだ。マヨン火山にとってみれば、被害を受けた河川敷のスコーターの住民はごくごく最近勝手に闖入して、そこに居 座っていた蟻のような存在に過ぎないのだ。  自然の営みを災害と称するのは人間が勝手に呼んでいるだけであって、自然にとってみればありがた迷惑なだけだろう。何も人をいじめるために地震や台 風を起こしているのではなくて、それが単なる自然現象であり、人間が生まれる前から繰り返していることであって、そこに人間が自然にとって余計なものを作 るから破壊されてしまうのである。 (下の写真は農場から撮影したマヨン火山の雄姿だが、この台風でなぜマヨン火山がこんなにも緩やかで美しい裾野を形成しているのか理解できた。噴火によって斜 面にたまった火砕流が、台風の大雨により土石流となりさらにゆるい傾斜の裾野を形成するという営みが数万年あるいは数十万年繰り返されて、世界一美しいと 言われる完璧なコニーデ型の火山を作り上げたのだ) […]

原子力はパンドラの箱なのか 2011年4月11日


  先日、私のブログのファンである日本人から、きっと役に立つと「40歳からの元気食「何を食べないか」10分間体内革命」という本をいただいた。その本に書いてあることは、簡単に言えば、「健康に生きるために日本人は日本食の原点に回帰せよ」という主張だ。私が、糖尿病の体験で気がついたこととほぼ同じ主張なので、勇気付けられる思いがした。 昭和の前半、30年代くらいまでは、食事といえば、ご飯に納豆、漬物に鮭の切り身、それに味噌汁というのが定番だった。それが、パン食や乳製品がもてはや され、日本人の体がおかしくなってしまったという。だから、パンや牛乳そしてソフト・ドリンクや缶コーヒーで育った50歳くらいまでの人の多くはアトピー や花粉症、それに糖尿病などの持病で悩まされている。  それに比べて、ご飯と味噌汁で育った 60歳台以上のお年よりは日本を最長寿国に押し上げるくらいに元気で、アトピーや花粉症も糞くらえだ。これは急激に進んだ食の欧米化により、日本人が本来 摂るべき栄養が摂れず、体の免疫機能など不調をきたして、健康を維持する力を失っているというのだ。菓子パンのようなパンや缶コーヒー、食卓の主役にのし 上がった肉料理、そして野菜サラダにかけられるドレッシングやマヨネーズなどに含まれる大量の砂糖や脂肪によりカロリー過多となり、ご飯や芋などに含まれ る植物繊維などが不足して便秘や下痢を引き起こしている。しかもダイエットのためにご飯を食べないなどというのは愚の骨頂だという。ご飯こそが主食といわ れるくらい大事なエネルギー源であると同時に栄養素なのだ。   最近はドリンクの自動販売機にソフトドリンク、特にコーラがほとんど姿を消して、お茶などが主流となってきているのは、結構なことだ。また、駅前にはおに ぎりやさんやそば屋さんが繁昌していることは、日本人がみずから食の改悪に気がついて、本来の日本食に回帰しつつある証拠なのだという。 (先日、日本を訪問した折に撮影した自販機には、いわゆるソフト・ドリンクと呼ばれるものはほとんどなかった)   […]

糖尿病体験記(その3)2011年1月29日



最近ある退職者の方から、フィリピンのGDPはベトナムに抜かれ、そしてカンボジアにも抜かれつつあると話していた。戦後、東南アジアの雄であったフィリピンがマルコスの腐敗政治にうつつを抜かしている間にタイ、マレーシアそしてインドネシアの後塵を拝しているとは聞いていたが、まさかベトナムやカンボジアまでに、とは意外だった。  しかし、地方はまだしもマニラ首都圏、特にマカティの建設ラッシュは目を見張るものがある。マカティだけでも20件程度の大型コンドミニアム建設プロジェクトが動いている。一体これだけのコンドミニアム・ユニットを誰が買うのか、まさに庶民の購買意欲が沸騰しているとも言える。ちなみにこれらのコンドミニアム・ユニットは25~50平米と小型で価格も2~5Mペソ (400万~1000万円)と中間層が手が届く範囲に設定され、かつての富裕層向けの大型コンドミニアム・ユニットは影を潜めている。 (小売業界の雄、SMが建設中のコンドミニアム群JAZZ、マカティの好立地に一大コミュニティを出現させようとしている。JAZZの完成模型、まさに住居、ショッピング、レジャーが一体となった街を形成しようとている。SMはこのほかにもマニラ首都圏に10件近いプロジェクトを遂行中だ)    確かにリーマン・ショック以降、フィリピン経済を牽引していた海外投資が冷え込み、既存の日系会社の駐在員も激減し、マカティのカラオケでは閑古鳥が鳴いていた。従来の主要産業であった、バナナ、パイナップル、ココナツなどの農産物の輸出では一国の経済を維持することはできない。そうなるとフィリピンは不況の真っ只中にいるはずだ。  しかし、ここで忘れてはならないのがフィリピン最大の産業OFW(Oversea Filipino Worker、海外出稼ぎ労働者))の存在だ。国民の1割が海外に暮らし、彼らのフィリピンへの送金は軽く年間1兆円を超え、フィリピンの国家予算に匹敵する。この金額は公式な送金だけであって、裏銀行経由の送金も加えるとその倍になるという。          (マカティ、ロックウエルとインターナショナル・スクール跡地のコンドミニアム・プロジェクト。ここにも高層ビル群が出現しつつある)  仮に3兆円の外貨が毎年流入するとすると、約9千万人の国民がが暮らすフィリピンでは、一人頭、3万3千円となる。子供も含めて一家族が5人とすると、年間17万円、月々1万4千円(約7千ペソ)の収入となり、フィリピンではこの金額で家族の生計が成り立つ。すなわちOFWの海外送金は国民全部を養っていける金額に達しているのだ。もちろん、これらは国民に平均して配られるわけではないので、貧困層の一掃というわけには行かないが、家族から一人のOFWを出せば、その家族は安泰で中間層の仲間入りをして、コンドミニアムユニットの購買層にもなるのだ。 (完成が間近いマニラ高架鉄道(LRT)環状線とルソン南高速道路の2階建て高速道路(スカイウエイ))  果たしてフィリピンのGDPには、このOFWの海外送金は考慮されているのだろうか。これらはフィリピン国内での生産の結果ではないから、この国のGDPにカウントすることは出来ないだろう。だから、フィリピンではGDP=購買力、ではないのだ。仮にフィリピン国内の経済が破綻してもフィリピンはOFWの送金で国民全部が生き延びていける。そのの収入がGDPに全く反映されていないことになる。  遠くはアジア通貨危機、そして最近はリーマン・ショックで、フィリピン経済はほとんど打撃を受けなかった。何故?とフィリピン人に聞いたら、「フィリピンはずーっと不況で、リーマンだろうが何だろうが、これ以上不況にはならない。それにフィリピン人は貧しさに慣れているから、食べるものが半分になっても、家族で分け合って生きて行けるのよ」と力強い回答だった。一方、これが飽食と他力本願に慣れきった日本人だったらどう反応するのだろうか。 […]

フィリピン経済の底力 2010年12月21日


国会で人工避妊の是非が論議されている。ピルなどの人工的避妊薬を許すべきかという論議だが、アロヨ前大統領の時も、またラモス元大統領のときも大論戦 が繰り広げられた。フィリピンでは堕胎は胎児の殺人としてみなされ法的に許可されていない。一方、避妊は宗教上の理由で嫌われる。だから恋人や夫婦はおお らかにセックスをしてその結果子供が出来る。売春などの結果できることも多々ある(最近はコンドームの普及で避妊と感染予防が徹底してきてはいるようだ が)。出来れば生むしかない、その結果、巷には子供があふれている。 政府は子沢山は貧困の元凶として、人口調整の必要性を必死に説く。しかし、フィリピーノの子供好きと宗教の厚い壁に阻まれて人工避妊法(ピル)の解禁に こぎつけることができない。聖職者は人工避妊を堕胎とみなして反対している。一方、フィリピーノは例えどんなに貧しくてもたくさんの子供達に囲まれて生活 するのが、何よりも幸せなのだ。そして強い家族の絆で生き抜いていくことが出来るのだ。 元来人類は避妊のことなど考えなくても人口の爆発的増加などはなかった。疫病や飢饉で自然調整がされるので、人々は子孫の繁栄のために子作りに励んでき た。しかし現代医学の発展で子供が簡単に死ななくなった。さらに食料の大量生産と国家間の調整で局所的飢饉が減った。だから今までどおり子作りに励んでい たら人口が増加しすぎて、貧困や飢餓の状況をつくり出すというわけだ。  しかし、先 進諸国では人口の減少に歯止めがかからず、国家的問題になっている。逆ピラミッドの人口構成では年金や健康保険などお年寄りが現役組に頼るという構図が成 り立たない。国家が破滅するシナリオだ。だからフィリピーノから子育てという幸せを取り上げ、先進諸国の後を追うことが果たして正解なのか多いに疑問のあるところだ。   ラモス大統領の時代に、私の秘書にこの避妊論争について質問をした。彼女はやはり、コンドームも含めて人工的避妊には否定的で、生理カレンダーで×日を […]

人口抑制法の是非 2010年12月20日



フィリピンは混血国家だ。だから、西洋系やら、東洋系、インド系、さらに原住民系まで、各種各様の顔をしている。だからほとんどの日本人男性の好みのタイプの女性が存在する。また文化風習も、古来マレーと中国、そして近代ではスペインとアメリカの影響を強く受け、独特な文化を形成している。しかし、フィリピーノとしてはそれら世界の文化が一つに融合しているのだ。だからフィリピーノの行動や発想を単純なものさしで計ることはできない。 (キャンパスを歩いている学生を見ても同じ人種とはとても信じがたい) (セブパシフィックのスチュワーデスは美人が多い) 日本の航空業界で、かつてスチュワーデスは女性のあこがれの職業だった。しかし今はなり手がいないのか、ほとんどの新人は外国人だ。しかしフィリピンでは未だに憧れの的だ。だから飛行機に乗る時は美人のスチュアーデスに出会うのが楽しみとなっている。 (バギオの観光地ではお土産の他に売り子をからかうのも楽しい) アメリカ・スタイルの遊び場のゴーゴー・クラブに行ってみると、何で、と思うような女性がたくさん踊っている。また、白人が連れて歩いている女性を見ると、どうもいただけないごめん相が多い。クラブのダンサーに聞いてみても、白人の好みは理解に苦しむと言っている。ちょっと可愛らしいダンサーに聞いてみると、白人には見向きもされないという。どうも白人は我々東洋人とは異なった美的感覚を持っているようだ。 (グリーンヒルの装飾品売り場の売り子。モスリムが多いが顔つきは色々だ) 自分の目で見ると美人かそうでないかは、一瞬の内に判断できる。ところが、何故美人なのかと問われてみても説明ができない。とにかく美人は美人なのだ。学生時代にダンスパーティに参加していて、壁にいる美人を誘いたいから、友達に、一緒にいるもう一人の女を誘って、美人を一人きりにしてくれと頼んだ。そうすると件の友達はさっさと美人を連れて行ってしまった。どうもその友達と私では美人の判断基準が違うようだった。 (レセプションはどこでも可愛い子を置いている)  そうなるとどうも美人の絶対基準は無いのではないかと思えてくる。要は自分好みかどうかであって、誰が見ても美人という絶対的なものはないのではないか。フォトジェニックという言葉があるが、写真写りの良い女性と悪い女性がいる。あるいは若い女性は一般的に写真写りが良い。実物よりはるかに可愛く写ることがよくあるが、一方ちょっとした加減で正視に耐えない場合もある。要は美人かどうか、好みかどうかなどというものは大変主観的なもので、ちょっとした加減で大きく変わるものなのだ。 (クラークにあるカフェと近所のレストランののウエイトレス) しかしながら、良くもてる子とそうでない子がいるから、より多くの人に好まれる顔というのがあるのだろう。またブスだけど好みだ、という場合がある。だから好み=美人というわけでもなく、より多くの人から好まれる人が美人なのだと言えそうだ。すなわち、好みとはピラミッドの斜面の一方向のようなもので、上に行くほど狭くなる。そして裾野は広い。山の高さを美人度とすると、頂上にあたる女性は超美人で万人の好みだが、程度が下がって裾野に近い子は反対側の斜面が好みの人にとってはとんでもない、ということになる。だからいつの世でも美人は、美人投票で決定し、一定の規格を満たしているから美人であると判定するという話は聞いたことがない。それではどんな顔がより多くの人に好まれるのかということになるが、それは美人が好まれる、としか言いようが無い。 (マカティのカラオケには時たまオヤッと思う可愛い子がいる)

美人の定義とは何か 2010年12月20日


先日ビザを取得してお帰りになったKさんは、タイのパタヤに5年在住のロングステイのベテランだ。Kさ んによると退職後のロングステイ先としてはフィリピンに軍配があがるとのうれしいコメントをいただいた。ちなみにフィリピン退職庁としては日本人のロング ステイ先としてマレーシア、タイそしてフィリピンと続くと認識している。そういう点でタイはフィリピンの競合相手なのだ。 Kさんの観察によると、  1. 物価:フィリピン:タイ=1.0:1.5 でフィリピンに軍配(1バーツ=1.5ペソだが、物価タイでは大体1バーツのものがフィリピンでは1ペソで買える)  2. ホテル:1.5:1.0 でタイに軍配  3. 日本食、日本食材:少なくともパタヤに関する限りはその豊富さと安さでフィリピンに軍配  4. 空気汚染:マニラとバンコックの比較ではタイに軍配  5. 治安:セキュリティガードがタイにはいないから、それだけタイが安全らしい  6.言語:タイには英語も日本語も話せる人があまりいないからフィリピンに軍配  7. 美人度:圧倒的にフィリピン軍配  そういう訳で4勝3敗でフィリピンの勝ち。このほか、永住ビザの取りやすさ、公用語が英語、日本に近い、など、フィリピンが勝っている点がまだまだあるから、結論的にフィリピン優位は揺らがないだろう。  土曜にアンヘレスに案内したさい、Kさんは2回感激した。その一つは和食レストランYUFUINの安さだ。特に刺身定食(280ペソ)の質と量にに、こんなことはタイではありえないと感激していた。 夜の部になってKさ んは再び感激した。それはクラブ・アトランティスの圧倒的な量と安さだ。ここは300人程度の女の子が働いているというが、その数は半端ではない。下の写 […]

フィリピンとタイとではどっちが住みやすい 2010年12月19日



商売がら多くの人と会うせいか、久しぶりに連絡があって、名前を聞いても誰だか見当がつかないことが多々ある。年のせいかとも思うが、10年以上前に社内の人に会いに行くとき、これから会う人の名前が思い出せず、あせったことがある。先日もカラオケで後ろの席に見覚えのある人が座っており、顔は間違いなく知っているが名前もなにもかも思い出せない。その人が声をかけてきて、「元...の...です」と聞いた途端、すべてを思い出した。  何故人は他人の名前を忘れるのか。私は名前がデジタル情報だからではないかと思う。一方顔や景色などの映像、声や匂い、触覚などはアナログ情報だ。ひと目見た顔は忘れない、などと豪語する人がいるように一旦入力されたアナログ情報はそう簡単には忘れない。しかも顔を認識するのに1秒の時間も不要で、一瞬の内に識別できる。さらに同じ人の顔でもうれしいのか、悲しいのか、怒っているのか、複雑な心の内まで識別できる。文字や数字そして名前はデジタル情報なので識別や理解に時間がかかる。これらのデジタル情報を処理するために人類は大脳を発達させたわけだが、未だにこの分野は頭脳にとって苦手のようだ。 (無垢としかいいようなのない赤ちゃんの頭の中は全くのアナログの世界だ。デジタル情報が入ってくるのは幼稚園くらいからだろうか)  動物と人間を比べたとき、アナログ情報を処理するという観点に立つと、そこには人間の優位性はない。例えば、犬の嗅覚は人の数千倍の感度を持ち、夜間の視覚も足元にも及ばない。それぞれの種は生き抜くために必要な能力を磨き、それは人間をはるかに凌ぐ。それぞれの個体に名前などは付け合っていないだろうが、相手あるいは敵を識別する能力に何の疑問を挟む余地はない。一方、人間が動物と差別化できるのはこのデジタル情報の処理能力以外にはないだろう。  しかし、人間にとって数千万年~数億年にわたって動物として培ってきたアナログ情報処理能力と、ここ数万年~数十万年、あるいは、ほんのここ数千年のあいだに氾濫し始めたデジタル情報の処理能力とのあいだには雲泥の差がある。人の脳がデジタル情報をコンピューター並みに処理できるようになるには、まだ、数百万年の月日と数万回の世代交代が必要だろう。そのころ人間は頭でっかちで体の小さい想像上の宇宙人みたいになっていることだろう。 (コンピューターにとっては怒っているのかあるいは悲しいのか、人にとってはいとも簡単なことを判断するのに複雑なプログラムを用意しなければならない。一方、人には生まれたときにすでに脳に組み込まれているのだ。) ところで言葉はアナログ情報なのかそれともデジタル情報なのだろうか。少なくとも文字はデジタル情報なので、文字で書かれた文章はデジタル情報だろう。一方、声で発音された言葉はアナログ情報ではなかろうか。だから、文章の理解と言葉の理解では使用する脳が違うのだろう。だから本に書かれた英語のフレーズ (デジタル情報)をいくら繰り返してみても会話は上達しないのだ。。色々な記憶術という本を読んでみても、要は、名前などのデジタル情報をアナログ情報に関連付けて人の膨大なアナログ情報処理プログラムに乗せて記憶しているだけなのだ。 (クリスマスになると街は花売りなどの少女が、クリスマスの資金集めに働きに出る。クリスマスの喜びを分けてくださいというわけだが、これらの少女の可愛さなど、コンピューターで判断することは到底できないだろう)   人は6歳になったら小学校、中学校、高校そして大学と16年間も長いデジタル情報の学習コースに乗せられる(フィリピンでは6、4、4ないし5の合計 14~15年)。しかし、人間の頭脳の大半を占めるアナログ情報処理は趣味やスポーツの世界、あるいは世間に出てからの丁稚奉公で学習するものだ。実際問題、教室で習うデジタル情報よりも遊びや趣味の世界で身につけた知識の方が世間で役に立ったというのは誰でも経験していることだ。だからデジタル情報だけに耽るお宅は、人間性というものを学ぶことが出来ず、秋葉原の無差別殺人事件のように時には人間社会の反逆児になりかねない。  (アナログ世界に住むキアンは何の憂いも悩みもなくすくすく育っている。おきている間中静かにしていることはなく、常に手や体を動かしている。この運動により、神経細胞が発達し、やがて器用に歩いたり、手を使えるようになるのだ。まるで赤ちゃんはリハビリテーションを楽しんでやっているようだ)  コンピューターの基本は、ONかOFFあるいは0か1の信号が素子に記録してあるだけで、この素子を8個、16個あるいは32個で一つの文字を表現する。そしてこれを百万個集めたのが1メガで、その千倍、10 億個が1ギガのメモリーだ。そして情報をプロセッサーで色々処理するだけだ。コンピューターはもともとデジタル情報を処理するために開発され発展してきたのだから、文字情報などの処理や記憶はすこぶる早い。しかしながら写真などのアナログ情報はデジタル情報すなわち、0と1の情報に変換して一つ一つの点ごとに記憶するというすこぶる稚拙な方法で記憶する。たかが写真1枚記憶するの数メガの記憶容量を必要とする一方、写真一枚をインターネットで送るのにも随分と時間がかかってしまう。   […]

人は何故他人の名前を忘れる 2010年12月11日


自分が子供のころ、「何か具合の悪いことが起きたら、他人を責めたり恨んだりしないで、自分の行動や言動を反省して同じ過ちを繰り返さないよう、心がけなさいと」教えられたものだ。そうでなければ未来への成長は無いと。しかし、世の中へ出ると、何かまずいことが起きるとすぐに他人を責め、犯人探しをする人が実に多いことに困惑し、自責ばかりでは世の中をうまく渡っていけないことを知った。私をそういう人を他責の人と呼んだ。  最近の国会でも法相が失言問題で辞任した。野党・自民党がが鬼の首を取ったように大騒ぎをして国会を混乱させようとしていたが、自民党もこんなことくらいしか出来ないのは実に情けない。政治家はまさに他責の人の代表選手で、あんなことを得意になってやっていて恥ずかしくないのだろうか。国民に選ばれた国会議員として日本の将来のために、国民のために何が出来るか考えて、与党の足を引っ張るばかりではなくて、前向きな行動をとって欲しいものだ。こんな政治家達に日本の未来はとても任せられない。 (無邪気な子供は皆、善悪の判断もつかず、他責の人だが、親に叱られて自責の念を憶えていく。だが、甘い親に育てられた子供や、親に面倒を見てもらえなかった子供は他責の人に育つ)  尖閣諸島の問題でも、中国政府は一般大衆によるデモまで画策し、日系の会社を焼き討ちし、日本を責め立てた。それに業を煮やした勇気ある人があえて映像を流出させたものと思うが、自分の非が明らかであるのに逆に相手を責め立てる、自責の念のかけらも無いのが中国政府だ。一方、北朝鮮が延坪島を砲撃した際も、朝鮮放送は韓国を断固として糾弾し、自らの正当性を高らかに主張していた。これらの発想はまさにやくざの発想だ。自分が都合が悪くなると、逆に大声で相手を脅して切り抜けるのがやくざなのだ。こういう輩を相手にビジネスの話はできない。ビジネスは契約に基づく取引だが、自分に都合が悪いあるいは損になるとしても契約をルールとして話し合い合意にいたるものだ。中国ではビジネスが実に難しいというが、そんな契約やルールは糞くらえの人たちとは何も話しても無駄で、関わりを持たないのが一番賢い。  (政治家は概して他責の人、一方神は無責の人だ)  先日、日本に行った折、生まれて初めて法廷なるものを傍聴する機会があった。他人と係争になったとき、判定を下すのが裁判所だが、ここでも恥も外聞も無い議論が展開される。誰が見ても白黒は明らかであるにもかかわらず、弁護士はああでもない、こうでもないと無意味で破廉恥な議論を展開する。ここで他責のみがまかり通って自責などという言葉は存在しない。そして時にはそんな訳のわからない理屈が通ってしまうそうだから呆れてしまう。法と正義を守るべき先生がたがこんなでは世の中真っ暗だ。特に弁護士は正義の味方ではなくて、お金を払う人の味方だから、彼らにとって黒を白というのもたやすいことなのだ。   (キアンと同じポーズで居眠りをするヤヤ(子守)。キアンが寝ているときだけがヤヤの休める時間だ)  さて、フィリピン人は自責の人なのか、あるいは他責の人なのだろうか。一般にフィリピン人は失敗や悪さをしても謝らない。ものを壊しても、「壊れてしまった」と表現して、「自分が壊した」とは決して言わない。だからあまり自責の念はなさそうだ。だからといって他人も責めることもない。自分は悪くない、かといって他人も悪くない、具合の悪いことが起きたのは、自然あるいは神の意思によってそうなる運命だったのだ。すなわち誰も悪くない無責の人達なのだ(無責人(任)というわけではないが、時にはそう映る時もある)。だからフィリピン人の社会は表向きとても平穏だ。表向きというのは、悪い人間はどこにもいるし、嫉妬や愛憎は人一倍激しいから、いつも平穏とばかりは言っていられないのが現実だ。一方、他人を責めることが出来ないから、自分に不都合なことが起きたら自分で責任を取らなければならない、自己責任の国だ。そういう意味では自責の国かもしれない。  これはフィリピン人がほとんど皆クリスチャンであるためなのだろう。日本人は仏教徒というより、ほとんどが無神論者だが、道徳・倫理の背景は儒教の教えだ。この自責の念も儒教から来ているものと思う。元来、人は他責の人で、子供は自分勝手で泣きわめいて我を通そうとする。だから儒教が人の道として自責を説いたのだろう。一方、キリスト教は無責を説く。この宗教的ギャップは、日本人にとってフィリピン人の行動を理解しにくいものにしている要因だ。しかし、赤ちゃんは万国共通で、自責も他責も無責もない、純粋無垢でまさに神の子というべき存在だ。   (おもちゃにしていた柿の種の袋を取り上げられて、悲しそうな顔をするキアン。こんな顔をされたら、周囲の大人は抵抗する術を失い、何でも言うことを聞いてやるしかない。泣いたり笑ったり、感情を目一杯表現することが周囲の大人をとりこにする赤ちゃんの最大の武器だ。)

自責の人、他責の人、無責の人 2010年12月4日



最近は30代~40代の若い方や単身女性の退職ビザ取得者が目立つが、退職後、若い連れ添いを求めてフィリピンにやってくる熟年退職者も相変わらず少なくない。これらの方は何らかの事情でフィリピンとは縁が深く、フィリピーナの魅力にはまっている人たちだ。すでに連れ添いを見つけて退職ビザを申請する方や、これから見つけようと張り切っている方など様々だ。  この春、退職ビザを取得したWさんも、現役時代に築き上げた財でフィリピンで充実した楽しい老後を過そうと期待に胸を膨らませてフィリピンにやってきた。ビザ申請中に色々リサーチを終え、半年後、本格的にフィリピンに住み始めたときはすでに連れ添いの候補者がいた。ご本人は独身なので結婚も視野に入れて彼女との将来を設計し、家族とも親しくなって、早くも1ヵ月後にはめでたく射落とすことが出来た。  ビザの申請段階から、これからのフィリピン暮らしについて色々アドバイスしていた関係で、Wさんからは何かにつけてアドバイスを求められた。 (アンヘレスのクラブ・アトランティスは相変わらずの盛況だ。そろそろクリスマスの飾り付けが始まっている)  彼女の仕事と家族の関係でアラバンに小さなコンドミニアムを買って、そこに一緒に暮らすことにしたいう話を聞いた。その時点では彼女とは深い関係にいたっておらず、会ったののもまだ数えるほどとのことだった。 1.アドバイス その1  男と女の関係ほど危うくて当てにならないものは無い。仮にアラバンに住んだとして、彼女との仲が思惑通りに進まなかったら、あるいはまた、例えいい仲になったとしても、いつ壊れるかもしれない。そうしたら、アラバンに一人で暮らすつもりですか、夜遊びが好きなあなたに、そこの暮らしが耐えられますか。それが出来ないとすると、そのコンドミニアムを彼女にくれてやるか売りとばすしかないでしょう。そうなるとすべてを失うか、あるいは半値くらいで売れればオンの字ですよ。  この話を聞いて、われに帰ったのか、Wさんは、即座に気が変って、マカティスクエア近辺のコンドミニアムを物色して住むことにした。彼女も納得し、めでたくLive In(同棲)生活が始まった。   (アトランティスのショーはなかなか見ごたえがある。ショータイムは9時なので、それにあわせて行くことにしているが、その直前は風船飛ばしで盛り上がる)  しばらくして、Wさんから会いたいとの話があって事務所で面会した。曰く、彼女と喧嘩をしてしまい、部屋に帰ってこない。喧嘩の原因は新居のHouse Warming Party(引っ越し祝い)をやることになり、彼女は妹を呼びたいと言い出した。そこでWさんは、以前、妹に会った時の印象が悪かったので、妹は呼びたくない、I am disgusted […]

フィリピン流恋の手ほどき 2010年12月2日


英語を話す家庭で生まれた赤ちゃんは3歳位になると流暢に英語を話す。ゼロからスタートしたのに、ほとんどの日本人は中高6年間英語を勉強していても、 とてもかなわない。一方、タガログ語にいたっては2~3才の子供が数ヶ月で覚えるところを、当方は15年以上にフィリピンにいても足元にも及ばない。 (なんとも可愛らしい仕草でミルクを飲むキアンだが、その好奇心は厭きることを知らない) 年を取ればとるほど新しいこと、特に言葉は頭に入りにくいものなのだが、とにかく赤ちゃんそして子供は言語の天才で、すぐに言葉を覚えてしまう。だか ら、彼らに英会話の学び方を教わるのが一番手っ取り早いのではないだろうか。それでは赤ちゃんはどうやって言葉を覚えるのだろう。 生ま れたての赤ちゃんはもちろんどの言葉も知らない。だから最初に話す言葉はバブ・バブやママ・パパで世界共通だ。しかし、この1歳未満の時に赤ちゃんの頭脳 では喋るための準備が目覚しく行なわれているそうだ。赤ちゃんは周囲の言語を聞いて、その言葉を発音するための能力を培い、不必要な能力を削いでいく。例 えば、RとLの発音を日本人は区別できないが、赤ちゃんはそれが出来るのだが、日本語にはその区別が無いので、この時点でRとLを区別する能力を削除して いるのだそうだ。もし、両親が国際結婚のため家庭内で複数の言語が飛び交っているとしたら、両方の言語をネイティブで話す基礎がその時出来るそうだ。だか ら、子供が混乱しないように家庭内では一つの言語に統一しようなどという両親の努力は、子供の能力を削ぐ結果になるだけだ。 そして、1 歳から徐々に単語を発し始め、2~3歳では爆発的に語彙数を増やし、いくつかの単語を連ねた言葉を話し始める。我々が外国で生活するのに必要な会話能力と しては充分なレベルだ。喋ることは食べたり動いたりする人間の基本能力の一つ、だから、脳や器官に異常が無い限り、誰でも能力に関係なく喋ることが出来る ようになる。昔中学や高校で英語が出来た・出来ないなんて関係のないことだ。そもそもアメリカに生まれた赤ちゃんは誰でも英語を話すのだ。 […]

英会話の賢い学び方 2010年11月24日