風俗・風物


  ハロハロといえば、フィリピンの代表的デザートだ。日本のかき氷のようなものだが、トッピングがハロハロなのだ。ハロハロとはごちゃ混ぜという意味で、ちなみの写真のハロハロのトッピングはチーズ、ウベ芋、プリン、ゼリー、ミルク、などなど数え切れないくらいのお菓子の食材が乗っている。  このハロハロは第2次世界大戦後、元日本兵が食うためにかき氷を売り始めたのが起源といわれ、最近ではファストフードの雄、チョーキンも大々的に売り出している。夏には街角にハロハロショップがひしめくが、特にエルニーニョの影響で猛暑が続くマニラでは飛ぶように売れている。  タバコの北にある地熱発電で有名なTIWI(ティーウィ)という街に、DjCというハロハロ専門店がある。ここでハロハロを食べるのが、私のタバコ案内のお決まりコースだ。20年ほどに開店したそうだが、マニラ、レガスピ、ナガなどの都市に支店を出すほどの繁昌ぶりだ。かつて大手のレストランからレシピを買いたいと申し入れがあったが、オーナーはそれを拒否して、秘伝の味を守ったそうだ。 店は極当たり前のサイズだが、テーブルは満員だ。そして、15~30分程度で食べ終わって、どんどん回転していく。一杯50ペソ(100円)と決して安くはない値段なので、相当儲けていると推定される。ちなみに売り上げは10テーブルx4人x2回/時間x12時間x50ペソ=48,000ペソ。粗利率を 50%と仮定すると、一日24,000ペソの粗利になる。1ヶ月で72万ペソの粗利。その半分が利益だとしても月々36万ペソの利益という、まさにリッチなビジネスだ。  

デザートの王様、ハロハロ 2010年3月23日


洗車やマッサージパーラーも、もう古い。インターネットカフェ、ロンドリー、飲料水、タクシーオペレーター、5-6(金貸し業)などなど、かつては小資本で開業できて、儲けが大きいと、雨後の竹の子のようにオープンしたが、これらのビジネスは、もはや過去の遺物だ。そして、フィリピンで今一番はやっている新商売が古着屋だ。フィリピン全土、街のあちらこちらに新しい店がオープンしている。古着とはいえ、新品同様の服がショートパンツやT-シャツが50ペソ、ジーンズなどが100~200ペソ程度で買える。こういう店を「UKAY-UKAY」というが、「UKAY-UKAY」とは「かき回して探す」というような意味で、バーゲンセールの特設売り場で主婦が服をかき回して気に入ったものを探す様子を指したものだ。はじめてみたときは日本語の「愉快愉快」からとったものなのかと思ったが、違うようだ。 すべてが日本、香港、アメリカ、ヨーロッパなどで使われた古着だから、ものは良い。デザインもよいし、中にはブランド物もある。一度や2度手を通しただけで、品質の良いものが新品の半値以下で買えるのだから、実利的な人は皆ここで買う。だからデパートの服売り場は閑古鳥が鳴いている。まさにフィリピン庶民の味方ともいえる商売だ。  これらの服は、海外からの援助物資の横流しだそうで、税関が、これらの援助物資を金を取って業者に流しているらしい。バリクバヤン・ボックスという日本からフィリピンへ引越し荷物やお土産などを送る運送形態がある。箱の大きさは74x54x64cm角の大き目のダンボールで、重さは60kgまでで、1万円程度で送れる。このバリクバヤン・ボックス一杯に古着が詰まったのを12,000ペソで仕入れられるそうだ。中身は見てのお楽しみ、中には高く売れる服もあるが、くず服ばかりで損をすることもあるそうだ。古着の詰まったバリクバヤン・ボックスを20~30個も仕入れれば、そこそこの品揃えになるから小資本で商売を始めるにはうってつけかもしれない。しかし、今のうちが勝負だ。そもそも商品に限りがあるから、あとから参入しても仕入れが出来ないだろう。

古着屋が愉快愉快 2010年3月23日



マヨン火山の雄姿を期待してリニョン・ヒル(LIGNON HILL)にのぼったが、厚い雲の覆われたマヨンは姿を見せてくれなかった。一方、マヨンの反対側に広がるレガスピ市はきれいに見えた。今回は飛行機の発着のタイミングには会わなかったのが残念はだった。  リニョン・ヒル展望台のアトラクションとして作られたのが、ジップラインだ。ジップとはジッパーのジップで日本語なら「ビリー」と布が破れる音の擬音だ。この遊びはロープに取り付けられた椅子に乗ってロープをすべるだけの単純な遊びだが、マヨン火山を眺めながらすべる十数秒はスリル満点に違いない。高所恐怖症の私には試して見ようもないが。 下の写真は今回の訪問で唯一撮影することが出来たマヨン火山の写真だ。レガスピ空港から離陸直後の一枚だ。

人間ロープウエイ(Zip Line) 2010年3月23日


メトロマニラの中心であるマカティはここ15年ですっかり高層化され、国際都市の仲間入りをしている。これらほとんどの高層ビルは1990年代後半に建設されたものだが、これら近代的なビル群は鉄筋コンクリート製で、日本のように鉄骨ないし鉄骨鉄筋コンクリート製のビルはほとんどない。  マカティに建てられた最初の高層ビルはマカティ・アベニューとブエンディア通りの角に建っているパシフィック・スタービル(左下写真)で1989年に完成した。これだけは鉄骨製だ。さらに最初の高層コンドミニアムが同じごろアヤラ・アベニューに建設されたパシフィック・プラザ(右下写真、左側)で、このころは海外の設計者のデザインによるものが多く、多分鉄骨製だろう。その後、DMCIなどの大手建設会社が鉄骨製の設計に対して鉄筋コンクリートがはるかに安いと設計変更を施主に提案し、鉄筋コンクリート製の高層ビルが定着していった。 何故鉄筋コンクリートが安いのか。フィリピンに製鉄所はないから鉄骨はすべて輸入される。一方、セメント、砂利、砂はフィリピンで調達できる。それに人件費が安いから現場で手間暇のかかる鉄筋コンクリートの方がはるかに安く上がる。しかも、マカティの地盤は日本の都市のようにふわふわな粘土の沖積層や比較的固い砂利層の洪積層ではなくて、まるで岩盤のような、いわば砂岩のような地層だ。だから地震があってもあまり揺れず、重量の大きい鉄筋コンクリート製のビルでもしっかり支えてくれる。かつて自社ビルを建てた折、たったの数メーターの深さの地盤をバックホーで掘削していたら火花が出たくらいだ。数十メートルの掘削も土留め無しで掘っているし、マカティで杭を打っているのを見たことがない。ほとんどすべてのビルの基礎は直接基礎で基礎工事が極めてシンプルだ。  今、マカティは再びビルの建設ラッシュだが、ほとんどのビルはコンドミニアムだ。私の事務所があるパソンタモ通りを南に下り、パサイ通りを左に折れて、ドーシットホテルに向うビル街の外周コースを歩くと、交差点ごとに高層のコンドミニアムが建設中だ。そのすべてが鉄筋コンクリート製なのだ。   鉄筋コンクリートはご存知の通り、階ごとに柱や梁の鉄筋を組んで、支保工と型枠をつくり、コンクリートを流し込んで出来上がり。それを繰り返し、上へ上へと上がっていく。日本のように一気に鉄骨を組み立てて、あっという間にビルの骨格が出来上がるのと違い、極めてのろい。しかし、上層で骨格を作っている間に、下層階は仕上げに入っているなど、並行して工事が出来るの、建設期間はそんなに差がない。また、さほどの重量物を運ぶ必要が無くて、タワークレーンもちゃちで、いまだにT字型のクレーンが主に使われている。  コンクリートの柱、梁、床の骨格が出来ると、壁はほとんどの場合ブロックで作る。ブロックは安いし、断熱、遮音効果もあって、中々優れた材料だが、重くて手間がかかるのが難点だ。しかし、地盤が良く、手間賃の安いフィリピンにはぴったりだ。それに現場で積み上げていくので、どんな形でも自由自在に作れて、精度の心配もない。だから実石さんの作るブロックが飛ぶように売れわけだ。 マニラの高層ビル群を眺めてみると、ここ15年の様変わりに感心する。写真下の中央がシャングリラホテルで、後方がサルセド・ビレッジ及びレガスピ・ビレッジでマカティの高層ビル群の中心地だ。左隅の低層ビル街はコマーシャルエリアでデパートやモールだ。右の写真はアヤラ通り沿いに立ち並ぶ高層ビル、手前はマカティ・メディカル(病院) マカティの東、かつての軍の基地を払い下げて開発中のフォート・ボニファシオ・グローバル・シティのビル群。2000年代の開発の目玉だが、急ピッチな開発のために空室が目立ち、値下がり傾向にあるそうだ。右の写真の手前は名門マニラゴルフ。マカティとフォートに挟まれ、都会の一等地にあるゴルフ場で、値下がりが目立つゴルフ会員権の中で、ここだけは高値を堅持しているそうだ。 さらにマカティとフォートの間には広大な高級ビレッジのフォルベス・パークとダスマリニャス・ビレッジが広がる。大使公邸や商社の支店長、そしてフィリピンのお金持ちが住む別天地だ。右の写真はマカティに続く高層ビル群のオルティガスだ。ここは、写真手前のアジア開発銀行を囲むように1990年代後半、瞬く間に高層ビルが建ち並んだ。

マニラの高層建築は鉄筋コンクリート製 2010年3月14日



今年の2月14日はバレンタイン・デイとチャイニーズ・ニューイヤーとが重なり、しかも日曜日とあって、チャイナ・タウンの混雑は尋常ではなかった。この日はビザの発行を待っている日本人と二人で旧正月恒例の竜と獅子の舞を見にチャイナタウンを訪問した。下の写真はLRT-カリエド駅からのながめ。竜や獅子の舞は夕方なので、とりあえずカリエド駅から東のキアポ教会へ向った。この付近一帯はスモール・デビソリア(フィリピン全土の商店の問屋街)とも呼ばれるが、退職者はその人出に圧倒されていた。ちなみにキアポ教会はブラック・ナザレというキリスト像を祭るもので、毎年1月9日の祭りには100万人の熱心な信者が集まり、街に繰り出したブラック・ナザレに触れようと怪我人まで出る騒ぎとなる。   教会の周りには相変わらず怪しげな占い師(Fortune Teller)や薬草を売る店が並ぶ。この日はバレンタイン・ディとあってバラの花を売る店が目立った。 キアポ教会に向う参道は4本あるが、それぞれ売っているものが違う。洋品雑貨、メガネ/薬品、野菜/果物など、それぞれの通りごとになんでも格安で売っている。  カリエド駅に戻って反対方向に進むとチャイナ・タウンの中心、サンタクルス教会に出る。中央広場には大きな噴水があり、教会と反対側の中国門があるところがオンピン通りで、チャイナタウンを横断してビノンド教会にいたる通りだ。門には「恭喜発財」(コンシーファッチョイと読む)と書かれているが、これは中国語の「謹賀新年」だ。さすが中国、新年を祝うと同時に金をもうけようと志を新たにするのだろう。 オンピン通りは金を売る店がたくさんあるが、通りの屋台では今年の干支にちなんで安物のトラの置物が売られていた。 チャイナ・タウンでは馬車が現役で働いている。観光客と見るとすぐに乗らないかと声をかけてくる。しかし、外人と見ると必ずと言っていいほどぼるのでやめておいたほうが良い。先日、退職者の方が、50と言われて乗ってみたら、降りるとき50ドルを請求されたそうだ。私も50ペソといわれて乗ったら、後で一人50ペソと言われて3倍取られたことがある。 中国人は正月にティーコイを食べる。ゆでて食べる餅だが、意外とおいしい。またパイナップルとみかんで作った飾り物がユニークだが、これはやはり金を意味して、お金が手に入ることを祈願したものだ。  夕方、5時過ぎ涼しくなってきたところで、獅子舞や竜の踊りを見ることができた。太鼓に合わせて二人一組で獅子を舞う。中はさぞ暑いだろうと同情される。退職者の方も竜の踊りを見てやっと満足してくれた。その後はいつもの川沿いの屋台で格安の中華料理を楽しんだ。通りには人ごみに乗じて選挙宣伝カーが走る。

チャイニーズ・ニューイヤーとバレンタイン・デイ 2010年2月16日


 パスコの相棒のジェーンが卒業した国立タバコ・ハイスクールは、フィリピンでトップ3を競う屈指の名門ハイスクールだ。他には、フィリピン国立大学 (UP、University of the Philippines)付属ハイスクール、国立リザール・ハイスクールなどがあげられる。ご承知のとおり、フィリピンの学校制度は6-4-4ないし 6-4-5制で、日本の中学と高校をあわせたのがハイスクールで4年制と日本に比べて2年短い。また、大学は文系が4年、理科系が5年で、トータルの教育期間は日本より1~2年短い。その代わり、法学部や医学部は9年と、返って日本より長い。  タバコ・ハイスクールにはタバコ市やアルバイ県に限らずビコール地方全体から生徒が集まってくる。卒業すると多くはマニラのUPやレガスピのBU(ビコール大学)に進むそうで、地元に残っている人は少ない。卒業生には牧師、弁護士、医師、エンジニアー、その他多様な道に進んでいるが、未だに職に就けない人も少なからずいるそうだ。また、海外で働く人たち(OFW、Oversea Filipino Worker)もたくさんいる。  ちなみにタバコ・ハイスクールの全生徒数は8000 人に達し、フィリピン有数のマンモス・ハイスクールだ。ちなみに先生の数は300人程度と、小さな私立ハイスクールの生徒数にも匹敵する。なお、1学年は 38クラスあり、成績の良い順から第1クラス、第2クラスと順に振り分けられ、第1クラスともなると秀才の集団だ。ちなみにジェーンは第4クラスだったそうだ(当時は1学年は24クラス)。写真はタバコ・ハイスクールの校舎とユニフォームを着たジェーンの姪のバネサ。外からはわかりにくいが、学校のキャンパスは大学並みに広大だ。 今年は卒業から15年目で、10年、15年、25年そして50年の節目に行われる学年全体の同窓会の年だ。ジェーンはこの農場を会場として提供することを提案し、約50名の卒業生が集合した。100人以上来るのではないかと予測されたが、意外と低調だった。そのため前日から用意した100人分の料理が半分ぐらい残ってしまうのではないかと心配された。  料理の準備は前日の朝から、夜中まで、ジェーンの家族全員、メイドとその家族、パスコのマッサージ嬢のタンとデバインなどなど、総勢15人くらいでとりかかった。農場で飼っている2頭の子豚を犠牲にして、料理の主要な材料とした。アドボン・バブイ、上海ルンピア、クリスピー・パタそしてレチョンなどの豚肉料理、唯一の野菜料理のチョップソイ、それに定番のスパゲッティやサンドイッチ、さらにゼリーやブコ・パンダン、グラマンなどのデザートと、8人掛けのテーブルに乗り切れないほどの料理の量だった。飲み物はコーラやスプライト、1.5 リッター入りが40本も用意された。お皿は竹で編んだざるにバナナの葉を敷いた伝統的なものを100枚ほど用意した。 […]

国立タバコ・ハイスクールの卒業15周年同窓会 2010年1月5日



  先日ADB(アジア開発銀行)を防災科研の方々と訪問した際、「ケソン市内の北方、La Mesaダム貯水池に近いところにPayatas(バランガイ・パヤタス)というゴミの投棄場があり、ゴミの投棄が一つの産業を形成している」聞かされ、多いに興味がもたれ、今回の見学となった。  1990年代はフィリピンを象徴するかのようにマニラ湾沿いのスモーキー・マウンテンが色々なメディアに登場した。やがて、そこが一杯になって、このパヤタスにゴミの投棄場が移動したのだ。ちなみにフィリピンではゴミの焼却場は存在せず、もっぱら投棄に頼っている。やがてここも一杯になり他に投棄場を探さなければならなくなるはずだが、昭和30年代、東京湾の「夢の島」に東京中のゴミが集められていたのと同じ状況だ。   20年近い投棄により、現場には大きな山が出来ていた。この投棄場に近づくとゴミのにおいがし始めて、空気もなんとなくよどんでいるような気がした。またその周辺もゴミだらけで、周辺の住宅に住む人々はどんな思いでこの山を観ているのだろう。こんなところに新たに住もうとする人もいないだろうから、宅地などの資産価値などないような気がする。   ADBの方が産業と呼んでいたのは、きれいに言えば「有用なゴミを選別し、資源回収を行なうこと」であるが、要はゴミ拾いだ。マニラ中のゴミが集まるわけだから、そこから、金属、プラスティック、などかなり大量の有用なゴミがある。それを選別し(拾い集め)てリサイクル業者に販売するわけで、だからゴミ山(彼らはDumping Siteと呼んでいた)周辺はジャンク・ショップだらけだ。実際は、まず個人がこつこつとゴミ山から拾ってきたプラスティックなどをジャンク・ショップが買い入れ、それをリサイクル工場に持ち込んで売却するという仕組みだ。だからゴミ収集車と有用ゴミの回収車が走り回り、ごみ山からの悪臭のほかに、粉塵や排気ガスも混ざって劣悪な環境となっている。   残念ながらゴミ山の中には入れてもらえなかったが、その入り口には造園がなされていた。ごみ山にも植物がはえるということを市当局は言いたいのだろう。しかし、ケソン市あるいはバランガイ・パタヤスが何故このような環境破壊の元凶のような巨大なゴミ山を受け入れたのだろうか。   相棒の話によると、ここから発生するメタンガスを利用して発電をしているそうで、地域の住民の電気料金は無料だそうだ。また、このゴミ山のおかげで相当数の人の雇用が発生し、まさに宝の山であり、バランガイとしても多いにメリットがあるということだそうだ。ゴミの山の周囲の道路沿いはスコーターとなっており、ゴミ拾いを専業とする人たちが拾ってきたゴミと一緒に暮らしている。彼らにとってはゴミは生きる糧だから決してないがしろにはできないのだ。    ゴミの投棄においても工学というものがあり、ちゃんと計画しておかないと未来に大いなる禍根を残す。それはメタンガスの発生と地下水の汚染である。メタンガスは埋め立て後、長い間発生し続けて火災の危険性をもつと共に悪臭を放つ。さらにガスの発生により地盤が陥没する恐れもある。そのためにはガス抜きのパイプを埋め込んでおく必要があるそうだ。また、ゴミを通り抜けた雨水は地下水として周辺の土壌を汚染する。そのためこの地下水を封じ込める対策が必要だ。ADBの方の話によると、このゴミの山についてはこれらの対策がなんらなされておらず、将来、さらに大きな環境問題を引き起こすことになるだろうとの話だった。 […]

パヤタスのゴミ投棄場 2009年12月24日


 12月も半ばを過ぎると、街のいたるところでクリスマスパーティが開催されている。職場の会議室、駐車場、レストランなど、予算の関係でありとあらゆるスペースが利用される。フィリピン退職庁(PRA)は台風16号オンドイと17号ペペンで被害を受けた人々を慮ってクリスマスパーティを中止して、慈善運動に切り替えたが、一般の庶民にとってクリスマスパーティがなくてはその年は暮れようがない。  12月17日はPRAの認定マーケッター (退職ビザの代行業者)で組織される組合のパーティ。午後1時から4時と堂々と執務時間内に行われた。韓国や日本をターゲットにしているそれぞれのマーケッターの営業戦略の発表など、一応発表会の形は取っているが、お祭りムード一色だ。さらに今年それぞれのマーケッターが獲得したビザ申請者の数によって順位がつけられ表彰が行なわれた。第1位は中国系、第2位は欧州系、第3位は日系で当社(PASCO) が堂々、この3位に食い込んだ。一方昨年ダントツの1位だった、韓国は第4位以下に甘んじた。   日本や韓国の民族衣装を着けて国別の曲を披露した後は、いよいよ待望のゲームに突入。もちろん勝者は景品がもらえる。全員に配られるお土産、PRAからの差し入れのTシャツ、その他各社が提供するゲームの景品と皆、山のようにお土産を持って帰って至極幸せだった。   下の写真のゲームはコップを口にくわえた箸でリレー式に運ぶゲーム。落としたらアウト、もちろん先にゴールした組が勝者だ。   翌18日はいつもお世話になっているBank of Commerceの支店の社内パーティに参加。こちらは午後6時からと節度がある。パーティ開始早々、待ちかねたようにまず食事。腹がくちくなったら、早速カラオケとゲームに突入だ。     BOC恒例のこのゲームを詳しく紹介する。複数の男性がナスをまたにはさむ。フィリピンのナスは長ナスなので極めて男性のそれに似ている。男性の数より一人少ない女性が、男性の周囲を音楽に合わせて回る。曲がとまったら、ナスを競争でつかむ。ナスをつかみ損ねた女性は脱落し、男性一人減らして、女性一人になるまで繰り返す。要は椅子取りゲームの応用版だ。しかし、男性の股間に挟まれた長ナスを女性陣が競争でつかむところがなんとも言えず、笑いを誘う。若い男女が集う職場のパーティなどにはうってつけではないだろうか。このようにフィリピンでは少々Hなパーティ・ゲームが数多くある。

フィリピンはクリスマス・パーティ・シーズンの真っ只中 2009年12月20日



  バギオでの災害調査の一歩はバギオ市長からのヒアリングだった。この市長は若干37歳、バギオで大学を経営するファミリーの一員で、この若さでフィリピン有数の都市を引っ張っている。市長と話をしているのは防災科研の調査一行の方だ。   この日は丁度、Safety Weekだそうで、市庁舎前の広場には学生が集まり、市長のスピーチに耳を傾けていた。なにしろ皆若い。バギオは若者の街といった印象だ。サングラスをかけた市長というのも絵になる。   今回の調査のアレンジをしてくれたのは、写真右下のラジオ局の人で、おかげでいろいろな人や現地をつぶさに訪問することができた。   翌日の土曜日は、偶然、この地方のお祭りのグランド・パレードが行なわれていた。バギオを中心とするルソン島北部、山岳地帯はCordillera Administrative Regionと呼ばれ、空中都市バギオのほかバナウエの天空に通じるライス・テラス(棚田)などで有名だ。偶然とはいえ、前回の訪問でもパレードに出っくわした。どうも毎週何らかの催し物を行い、観光客を喜ばしているのではないかと思う。   この地方の原住民はイグロット族と呼ばれるが、パレードの衣装はほとんどがイグロット族のもので、とても雰囲気がある。そういえばバギオに住んでいる人の顔つきは、マニラのものとはちょっと違う。マニラの人は多くが色白でスペインや中国の血が混ざっている人が多い。ここではそのような人はあまり見かけず、どちらかといえば色黒だ。実際。イグロット族の血が相当混ざっているのではないだろうか。

防災科研の台風災害調査に同行(その1 バギオ2)2009年12月11日


 9月ともなるフィリピンはクリスマスの準備が始まる。September、October、NovemberそしてDecemberなど末尾にberのつく月はもはやクリスマスシーズンなのだそうだ。街のあちらこちらにはクリスマスランタンを売る店が出る。近隣のブラカンやラグナからやってきたランタン業者だ。1000~2000ペソ程度のランタンは家の入り口に飾られクリスマスムードを盛り上げる。ランタン業者は1月になっても店じまいしないが、これは安くなったランタンを次のクリスマスのために買い求める客が少なからずいるためだ。大きな荷物を持ってふるさとへ帰り、来年まで在庫をかかえるよりも安値で売ってしまおうと業者の魂胆とが一致したものだ。   今年は9月末~10月初め立て続けに台風16号(オンドイ)と17号(ぺぺン)がフィリピンに甚大な被害をもたらし、その復旧もままならない状況においては、クリスマスの飾り付けを差し控える風潮が強い。退職庁でもクリスマスパーティを取りやめ、代わりにチャリティ活動を行なうという謹慎ぶりだ。街の飾りつけも大げさなデコレーションをやめ、キリストの生誕などを模した飾り付けが多い。  パシフィック・スタービルの前の飾りつけ。 パスコが入るGMA LOU-BEL Plazaビルの飾りつけ。  下の写真はバギオの高級ホテル、マノールのロビーの飾りつけ、とモール・オブ・エイシアのクリスマスツリーだ。やはり商業施設はそこそこの飾りつけは欠かせないようだ。    パサイ通りの民芸品店のバリクバヤンの飾りつけ、大きなランタンとキリストの像がセンス良く飾りつけられていた。

フィリピンにクリスマスがやってくる 2009年12月8日