風俗・風物


  先日退職者の方の日本の自動車免許証をフィリピン免許証へ書き換えるためにLTO (Land Transportatio Office、陸運局)に赴いた。事前準備として、尿検査(麻薬検査)並びに視力検査を行なう民間のクリニックに行った。   丁度電話がかかってきて話をしていると、職員がキャーキャー騒いでいてうるさくて仕方がない。人が電話をしているのになんて礼儀知らずなのかと、同行したフィリピーナの相棒に文句を言った。彼女いわく、有名なイケメン男優が、数十はあろうかというクリニックの、よりによってこのクリニックに裏口から、そっとやってくるというのだ。だからクリニック内は騒然だ。ガラス越しに覗いている女の子もたくさんいた。個室で書類に記入しているそのイケメン男を見ると、私の目にはその辺にいる、ただのいい男にしか見えない。相棒はちゃっかりとツーショットにおさまって至極ご機嫌だった。  イケメン男優の名前はジェリコ・ロザレス、24歳。メトロ・マニラの北東のはずれ、比較的貧しい人たちが暮らすナボタス出身だ。あだ名はエコというが、魚の行商をしていたそうだ。フィリピンの俳優や歌手はクリス・アキノを初め比較的富裕層が多いが、彼の場合は典型的貧困層の出身だ。   彼は、毎日、夜の10時半、チャンネル2、ABS-CBNで放映されている人気番組、「ダヒール・マイ・イサン・イカオ(君一人のため)」という番組の主役だ。毎晩女性達はテレビで彼の甘いマスクを見て、あたかも自分が相手役のヒロインとなったような錯覚をして喜んでいるのだ。   一方、夕方の5時半からは14歳の子持ちの美女が主人公の番組、「カトロセ」が同じABS-CBNで放映されている。この二つの番組は、その時間帯に外出する子供がいなくなったという社会現象ともなったジュディ・アン・サントス主演の往年のお化け番組「エスペランサ」あるいは「マリマール」などの流れをくむもので、現在、フィリピンで人気を2分している番組だ。

イケメン男優に遭遇 2009年11月12日


  11月1日は天国や地獄へ行った万人が聖人となり、現世に帰り、家族と再会できる万聖節だ。カトリックの国フィリピンでは日本のお盆と同様、ほとんどすべての人が田舎に帰り、家族らと墓参りをする。彼らの墓参りは、食べ物や飲み物を持参し、亡くなった家族と食事を共にして生前の思い出を語り合う。そして、その宴は朝まで続くこともある。    10月30日の午後、台風サンティのルソン島への上陸により夕方から強い風と雨が降り、雨の墓参りになることが危ぶまれた。しかし、翌10月31日から快晴に恵まれ11月1日は絶好の万聖節日和となった。  庭から花を切り取ってお墓に飾る花をバナナの幹に生けた。家の前にはその家族の亡くなった人の数だけローソクを立てるのが慣わしだ。     タバコ市のメインストリートは通行禁止となり、人の群れが続き、両側には屋台が並び、ローソクや食べ物を売る。   お葬式には賭博は付き物で、大目に見られているが、この日も簡単な賭博が開かれ、子供たちがコインを賭けていた。   墓場の中に入ってもローソクや食べ物を売る屋台が続く。どこの国でもなかなか商魂がたくましい。   墓場の中央の通りはラッシュアワーのように込み合っている。もちろん一方通行だが、人の群れは夜半まで続く。   墓参りをする家族たち。ちなみにフィリピンでは土葬だが、コンクリートの棺を地上に並べ積み上げていく。この辺の墓は一般庶民の墓だ。   墓の上にも大勢の人が乗っかって時を過ごす。コンクリートの棺を買えない貧しい人たちは土葬をする。   貧富の差はお墓を見れば一目瞭然、、これらの墓は比較的富裕な家族のものだ。 […]

万聖節の帰郷 2009年11月5日



 6月14日(日)は、あいにく小雨となってしまったが、マカティのマガリアネス・ビレッジで歯科医と技工士の学校を営むドクター小林の70回目の誕生パーティに参加した。出席者は100名前後と推定されるが、7~8割はフィリピン人だ。これだけの盛大なパーティを催すことができて、かつ多くに人に祝福され、小林さんも幸せものだと思う。(写真下、右がドクター小林)  マガリヤネスの豪邸の庭に設えられたテーブルは約、10脚、各々のテーブルに10人程度の客が座ることが出来る。それぞれのテーブルには日本人とフィリピン人が混在して談笑していた。  料理は天ぷら、すし、刺身などの定番の和食にフィリピン料理。大きなレチョンもあった。当方としてはやはり、すしや刺身に手が伸びる。ケイターリングの会社が入っていたが、かなりのボランティアの女性も手伝っていた。きっと、小林歯科と技工士養成学校のスタッフだろう。  ゲスト・シンガーによるショータイムの後、小林さんの長男が歌を披露してくれた。まずはアギナルドの世界的ヒット曲「ANAK、子供」、そして「ホテル・カルフォルニア」。ギターを爪弾きながら見事なものだった。ちなみに彼は日本語とタガログ語を母国語として話し、英語、さらにスペイン語を操る語学の秀才でもある。そして現在は歯科医並びに歯科技工士としてお父さんを手伝っている。  小林さんにはさらに3人の息子と、2人の娘さんがいる。お孫さんも3人いるそうだ。お子さん達は皆、いい子で、バイリンガルでかつ英語も達者。どうやったらこのように子育てができるのか、特に母親がフィリピン人の日比国際結婚で、一つのモデルとも言えるのではないかと、いつも感心して眺めている。

小林歯科医の誕生日に出席 2009年6月15日


 私の友人のロリーの50歳の誕生パーティに招待された。グリーンヒルのクラブ・フィリピーノという大きな会場で華やかに行なわれた。我々日本人は50歳あるいは60歳といった年になると、なんやら情けなくて、誕生会を開いてお祝いする気にもならないが、フィリピンでは1歳の誕生日以来、死ぬまで祝うのだ。特に年を取れば取るほど長寿がめでたいということで祝うのだそうだ。 しかし、彼の場合は格別の意味がある。若いころから、自分はせいぜい40才位までしか生きられないと言っていた。それは肝臓か腎臓に疾患があって、体型も超肥満型で、私もダイエットをして体型を整えないと長生きできないと、忠告していた。しかもつい先日脳梗塞をわずらって倒れたのだ。半身麻痺の状態だったそうだが、この日会ったら、全く元へ戻っていた。   ロリーとはクゥエートの建設現場に駐在していた時に、私の部下として働いて以来、26年の付き合いだ。フィリピンでも会社の幹部として長いこと使っていた。現在は独立して建設マネージメントの会社をやっているが、中東のプロジェクトを受注するなど順調だそうだ。彼は私の知っている人(日本人も含め)の中では5本の指に入るほどの優秀な頭脳の持ち主で、並みの日本人ではとても太刀打ちできない。 会場には100人ほどの招待客が、高級料理とされる子牛のレチョンなど料理を楽しんでいた。大き目の豚のレチョンも2頭ほど用意されていたが、子牛のあっさりしたレチョンの方がはるかに美味だ。口にしたのは15年ぶり2度目の貴重な体験だ。  簡単なスピーチをやらされたが、スクリーンには彼の若いときの写真が映し出され、歌やダンスなど催し物もふんだんだった。ダンスタイムではプロのダンス・インストラクターがお相手をしており、なんども誘われたが、皆上手に踊っているのでとても踊る勇気はなかった。  帰りの足が心配で10時過ぎに失礼したが、パーティは12時過ぎまで続くそうだ。ここにはフィリピン独特のスクォーターや貧しさなどの気配もなく、皆、紳士、淑女、そして子供は太り気味な子が多かった。  一方、先日の日曜日には友人の日本人の子供の1歳のパーティに招待された。グロリエッタのDadで、こちらも50人ほどの人を招待して行なわれた。もちろん本人は分けがわからないだろうが、誕生日というのはことのほか大きなイベントなのだ。ちなみに誕生日プレゼントは別に気にしなくてもよいようで、出席して祝うということが重要らしい。  

誕生日は幾つになっても祝うのがフィリピン流2009年4月22日



 聖週間と訳されるホリーウイークはイエス・キリストの磔による死を悼み、そして、その復活を祝う宗教的行事だが、市民がキリストやマリアの像を引いて歩く姿は日本の夏祭りと通じるところがある。木曜と金曜は祝日で翌土曜と日曜の4連休となり、それぞれの曜日にちなんだ催し物が行なわれる。ホリーウイークの日程は毎年異なるが、本年は4月9日(木)~12日(日)となり、その前後の交通機関は故郷へ向う人そしてUターンでどこも超満員だった。   タバコ市のメインストリートのZiga 通り、遠くに見えるのがタバコ教会  木曜日はMaundy Thursdayと呼ばれ、聖書を読んだり、聖書にちなんだ劇を見たりして敬虔な気持ちになる。金曜日はGood Fridayと呼ばれ、キリストが磔に処される日だ。この日、人々はキリストの痛みを知るために、地方によっては裸足で十字架を担いで歩いたり、本当に釘を手足に打ってで磔になったりする。だが、普通はキリストやマリアの像を引いて街を歩くだけだ。土曜日はBlack Saturdayと呼ばれ、キリストの死を悼む。この3日間は肉を食べてはいけないことになっているが、さほど厳密に実行されているようではない。日曜日はEaster Sundayと呼ばれ、キリストの復活を祝う日だ。   街はバランガイごとに自慢の山車を引いて歩く 夜の7時を過ぎると20~30mごとに山車が並び、さながらラッシュアワーのように渋滞する  行列は2時間足らずで終わるが、行列に参加しないで見物する人たちもかなりのものだ。タバコ市だけでも双方合わせて、3~4万人に達するのではないかと推定される。見ていて飽きるほどの人が並んで歩いていた。一方、マニラはガランとしており、渋滞も大気汚染もなく、生粋のマニラッ子にとってもありがたい1 週間だったろう。 行列を見物する人々が道の両側を埋め尽くす

ホリーウイーク中、田舎は人で一杯2009年4月12日


 お手伝いしていた住宅の建設が終わり、引渡しも無事に終わったために、しばらくアンヘレスに行く機会がなかった。今回は住宅のタイトル(登記)の移動が完了したとの連絡がデベロッパーからあったので、その受け取りに出かけていった。1~2週間もあれば終わるといっていたものが、約2ヶ月もかかってしまった。お役所仕事だから仕方がないとは言え、タイトルがちゃんと移動されるまで所有権の公的な保証がないのだから、遅れると何かあったのではないかと心配になる。タイトルの移動を遅らせて、その間に他人に売却してしまうなんてこともフィリピンではざらにあるらしい。   エドサ通り沿いに走るMRTはノースエドサのSMで工事が中断されており、その延長工事がようやく開始され、急ピッチで進められていることは前に報告した。2ヶ月ぶりに工事を見てみるとその進み具合に感心する。少なくともノースエドサとNLEX(ノースルソン・エクスプレスウエイ)の入り口当たりまでの橋脚の建設は80%程度終わっている。橋脚が出来ると別の場所で製作した橋桁を載せて大方の形が出来てしまう。年内にはあらかたの施設の全容が出来上がるだろう。しかし、駅となる部分の建設が全く行なわれていないようなのが気にかかる。  パンパンガに入る辺りにある延々と数キロも続く陸橋の下の家については以前にも紹介したが、今回は良い写真が撮れたので、再度掲載する。まさに橋の下の家。小さいときに母親に怒られると「お前なんか橋の下から拾ってきたんだよ」と決まって言われたことを、いつ通っても思い出す。  アンヘレスに来たからにはフィールド・アベニューの探訪は欠かせない。フィールドアベニューの中ごろ、ちょっと脇の道に入ったところにウッドベルという日本レストランが開店していた。入り口のところに「一生懸命 営業中」と掲げてあるのがなんとも好感が持てる。今回はマッカーサーロードにある「なるほど」で食事をすることになっていたので、入る機会がなかったが次回は是非体験試食をしてみたい。英語の店名に中国風の門構え、それに赤いちょうちんとなんとも店構えに一貫性がないが、おいしければそれでよいのだ。   不況の影響か、100軒もあるというお店同士の競争が激しさを増している。なかでもなんどか紹介したアトランティスやドルフィンが頑張っている。左下の写真はアトランティスでやっているボディペイントショー、女性の体をキャンバスにして絵を描いて出来栄えを競うということらしい。残念なが毎週木曜日開催なので今日は客引きが熱心なドルフィンを覗いてみた。  ドルフィンは大分前に覗いたことはあるが、久しぶりに入ってみると、中は立錐の余地がないほどの混みようだった。客で混んでいるのではない、従業員やダンサーなどで店が一杯なのだ。たいした広さでもないところに300人の女性が働いているという。なんとまた、このオーナーは雇用の創出に貢献しているのだろうと感心してしまった。カルチュラル・ダンサーと呼ばれる女性が次々とショーを見せてくれる。一杯たったの100ペソ足らずの飲み物を注文すれば、これだけのショーを見れるのだからなんともお得だ。そうこうしているうちに客席も一杯になってきた。これらのダンサーもテーブルでお相手をしてくれる。もちろん一杯250ペソのレディズフォリンクは必須だ。2時間ほどいて、レディズ・ドリンク2杯、ジントニック3杯でしめて800ペソ(1600円)足らず。なかなかの満足度だ。  最後にちょっとセクシーな写真を一枚紹介しよう。一般にこの手の店では写真撮影は厳禁なのだが、ここではOKな店が多い。かつでマニラのエドコン (EDSA International Entertainment Complex)にカメラを持って入ったら、ガードにつかまりそうになってしまった。写真好きな人は是非アンヘレスに足を延ばしてほしい。

久々のアンヘレスの旅2009年3月22日



  つい先ごろ、寒波襲来のニュースを載せたかと思ったら、今度は夏のニュースだ。ここ1週間、毎日暑い日が続いている。ここのところ涼しくて気持ちの良い天気が続いていたので、ますますそう感じるのかもしれない。日中外を5分も歩くと汗が噴出してくる。しばらくご無沙汰だった太陽もさんさんと輝いている。  朝の7時ともなると太陽がピカーッと照り始める。ジープニーの中では扇子で扇ぐ人もちらほら。こんな時、ジープやトライシクルなど短距離の交通機関が多いのに助かる。  フィリピンの学校は3月後半から夏休みに突入する。6月の第1週まで、2ヶ月以上の長期休暇だ。人々は家族あるいは友達と一斉に郊外へアウティングに出かける。やはり海が人気で、マニラ南方のカビテやバタンガスの海岸はアウティング客で一杯になる。日帰りかせいぜい一泊の旅行で、大量の食材や飲み物を持って、現地で料理をして食べるのだが、そのための施設があちらこちらにある。  アウティングの主役は男性。料理の準備をしたり、女性に飲み物を用意したり大忙しだ。そして帰宅だが、ご多聞にもれず渋滞でマニラにいつ到着するかもしれない車で、運転役を除いて皆疲れて居眠りをするのが通例だ。

フィリピンに夏がやってきた2009年2月22日


 2月19日も当たりが出ず、ついに賞金額は2億5千万という史上最高額に達した「スパーロト6-49」は一口20ペソで1-49から任意に選んだ数字6 つを的中させる、日本のナンバーズに相当する宝くじ。最後に当選者が出たのが2008年12月21日で、それ以来賞金が積み重なって次回抽選の22日には 3億ペソに達する見込みだそうだ。  夢の賞金を当てようと一攫千金を夢見る庶民がロト売り場に押し寄せている。街のあちこちにあるロト売り場には一体何事かと思うばかりの長蛇の列ができている。人々はロトを買うことに夢中だ。たとえ当たらなくても良い(絶対に当たらないのだが)、一時でも夢を見れればよいと、一日の稼ぎのほとんどを費やしてロトにつぎ込むのがフィリーピーノだ。このときばかりは奥さんも文句は言わない。一家全員が夢を肴にして食卓を囲むのだ。  下の写真がロトの申込書。意中の数字を鉛筆でマークして窓口出すと、即座にコンピューターで読み取って数字を記載したチケットが渡される。このデータは即座にホストコンピューに送られてリアルタイムで賞金額がはじかれる。当たり番号は厳正な監視の中で1~49の番号から6つの数字が選ばれ、その模様はテレビで中継される。  19日のテレビではロト売り場の様子が中継されていた。今フィリピンの最もホットな話題はこのロトなのだ。

スーパーロト6-49の過熱2009年2月20日



 2月15日、仕事上関係のある人物のお母さんの葬儀に参列した。この人のお姉さんは某有名大学のオーナーに嫁いでおり、そのオーナーの義理の母の葬儀ということになる。要はフィリピンのお金持ち一家の葬儀というわけでパラニャケの立派な葬儀場の1階を借り切って行なわれた。  葬儀場の中は献花で埋め尽くされていた。有名大学のオーナーの母親だからフィリピン商工会議所などをはじめ100本を越す献花が所狭しと並べられていた。  葬儀はいろいろな人が挨拶や歌を歌ったり、あるいは写真をスクリーンに映し出し、亡き母との思い出がつづられていた。おひつの横には等身大の像(写真)がおかれ、たったの1~2日の内に大変な準備が行なわれ、さぞかし忙しかっただろうと想像される。これが最近のお金持ちの葬儀のトレンドなのだと感心した。  最近はジープニーに乗るのが趣味になり(実は車が故障しているので)、葬儀のあったパラニャケからジープニーを3回乗り継いでマカティに帰ってきた。ジープニーに乗ると今まで見えなかった街並みが見えてマニラを再発見をするようで楽しい。この日はジープニーの乗り換えのため、EDSA通りとサウス・スーパー・ハイウエイが交差する高架橋の下を歩いた。もともとEDSA通りとハイウエイさらにその脇を通る国有鉄道と、主要な交通の交差点ということで複雑な立体交差だったところにさらにスカイ・ウエイと高架鉄道のMRTが加わって大規模な4階建ての立体交差となってしまったのだ。  このような国の所有地でかつ高架下のスペースという好立地となると、たちまちの内にスコーター・エリア(スラム街)になってしまうのが通例だが、ここは噴水や植物を植えてこぎれいな公園になっている。しかしもともと人通りがあまりないところなので、閑散としていた。公園をつくったのはきっとスコーター締め出しの口実なのだろう。  ハイウエイ沿いに走る国有鉄道の両側にはスコーターが建ち並びマニラの恥とまで言われていた。最近その立ち退きが実現し、線路の両側は清々したものになっていた。しかしこの国有鉄道はほとんど使われておらず途中で線路も途切れ、駅には人影もなく、たまにみる列車も おんぼろで、とても実用に供しているとは思えない。  その証拠に線路の上に昼寝をしている子連れの女性がいた。もともとここの住民で線路をまくら代わりにしていたのだろう。枕が替わると眠れないというので、ここにやってきて昼寝をしているのか。高架橋の下は陽もあたらず心地が良いのだろう。この人たちの葬式は一体どんなものなのだろうか、一度位参列してみたいものだ。

フィリピンの葬儀と高架橋の下2009年2月16日


 2009年は2月13日がクリスチャンにとって最も不吉とされる金曜日と重なった。いわゆる13日の金曜だ。しかも翌日の14日はバレンタイン・デイ。 15日は日曜だから、13日は給料日でもあった(ちなみにフィリピンでは15日と月末、月々2回に分けて給与が支払われる)。うれしいやら怖いやらフィリピーノの心は13日の金曜日をどうすごすべきか複雑だった。  13日の金曜がなぜ不吉なのか定説はないらしい。キリストが貼り付けにされたのが金曜で、最後の晩餐に参加した弟子の数が13であるとか、色々言われるがはっきりしていない。一方バレンタインは有名なカソリックの神父で2月14日にローマ皇帝の手により殉教したのを悼んだのが、いつしか恋人達や夫婦が愛を深める日となったそうだ。   日本ではバレンタインといえばチョコレートと相場が決まっており、店頭にはチョコレートが溢れる。しかし、海外では男性が意中の女性に花束を送って、デートに誘うのが一般的だ。この日は意中の男性が赤いバラの花束を持って現れるのを女性は心待ちにする。夫婦やステディな仲では、男性がこの儀式を怠ると大変なことになる。他に女がいるに違いないとか焼餅を焼かれて、一晩中恨みごとを言われるはめになるのだ。  一方、意中の女性もいない場合は、一晩だけでも意中の人になってあげますと、カラオケ・クラブやナイト・クラブではバレンタイン・デイのスペシャル・ビッグ・ナイトのオンパレードとなる。この日のためにGRO(Guest Relation Officer、要はホステス)やショーダンサーは特訓をやらされて得意のダンスや歌を披露するのだが、楽しんでいるのは彼女達ではないかと思うくらいノリノリだ。      バレンタインデイの主役は赤いバラの花束だ。前日位からかなり高騰するそうだが、街の角々ではにわか花屋が出現して、そこそこ繁盛しているようだ。花問屋で数百本まとめて数千ペソ(一本10ペソ以下)で売っているのをしゃれた紙やプラスティックで包んで一本50ペソ~100ペソ程度で売りつける。なかなかおいしい商売のようだが、年に一回の商いでは致し方ない。新聞によると不況のせいから例年の半分程度の価格の花束が売れ筋だったそうだ。

13日の金曜日とバレンタイン・デイ2009年2月15日