風俗・風物


 マニラ首都圏並びに近隣の県を縦断する幹線道路であるノース・ルソン・エクスプレスウエイ(NLEX)~エドサ通り(EDSA)~サウス・スーパー・ハイウエイ(SLEX) 沿いには無数の巨大広告塔が建ち並んでいる。その高さは20~30m、ものによっては50m程度はあるのではないかと思える。下の写真はSMシティ・ノースエドサにある広告塔だ。どれだけの宣伝効果があるか知る由も無いが、費用も並大抵ではないと思う。下の写真はNLEXとEDSAの交差点にあるもので比較的短期間で絵図が変わるようだ。きっと一日あるいは一月いくらという価格設定になっているのだろう。  最近SMシティ・ノース・エドサが改装オープンしてSMモール・オブ・エイシアを凌ぐ規模になったそうだが、その目の前にまさに巨大な広告塔ができた。前面はパクヤオのボクシング姿だが、周囲のビルの高さからその巨大さが推定できる。高さは50mを下らないと思う。人の度肝を抜くのが大好きなヘンリー・シー一族のやりそうなことだ。  エドサ通り沿い、特にパシッグリバーを渡るあたりに大きな広告が目立つ。当方には一体何の広告かわからないが、美人が微笑んで“Love me again”などとあってはハンドルを握る手も上の空にならないかと心配だ。

巨大広告塔2009年2月5日


 このブログでも再三にわたり、アンヘレスの紹介を行なってきたが、それはある退職者の住宅建設のお手伝いをしていたせいで、毎月アンヘレスを訪問していたためだ。その住宅がめでたく完成し、退職者も日本から移り住んで約1ヶ月、ようやく家具もそろい落ち着いてきた。そこで、このたび、牧師とご近所さんを招待してお祓いとお披露目の儀式ハウス・ブレッシングを執り行うことになった。このハウス・ブレッシングは宗教的儀式もさることながら、ご近所さんとの付き合いの初めでもあり、これからの生活に欠かせないものだ。  まず、牧師がひとしきりお祈りを捧げた後、家の隅々を回って聖水を振り掛ける。参列者はロウソクを灯しながら、後に従う。それが終わると牧師あるいは家の主人がコインを投げて皆がそれを拾うのだが、縁起物で大事にしまっておくそうだ。そしてもちろんその後はお楽しみの食事だ。定番のルンピアやバーベキューなどのフィリピーノ料理に混じって奥さんの手作りの寿司や天ぷらもある。最初は遠慮がちだった客も、どうやって作るのか、今度作り方を教えて欲しいなどと話が弾んだ。    このビリッジはモダンな家が建ち並ぶ新しい高級住宅街で、土地は200m2程度であまり広くは無いが、建物は車庫やベランダも含めると200m2程度と大型の一戸建てが並ぶ。値段は5百万ペソ程度。普通の庶民が住めるところではない。私の持論だが、このような住宅に住むフィリピーノを友人とし、付き合っていく限りいろいろ助けてくれて何のトラブルも発生しない。フィリピン人社会の上層に暮らす人たちだから色々なコネを持ち、困ったときにとても頼りになるのだ。  フィリピンには2種類の人が住んでいるのではないかという気がする。この招待された人たちは、いかにも上品で色白で奥様・お嬢様然としており(それに少々太めだが)、お金の苦労などしたことがないようだ。タガログ語と英語を流暢に話し、話題も豊富だ。退職者の方はその会話を楽しめないのが歯がゆく、英語あるいはタガログ語を勉強しようと決意を新たにしていた。  

ハウス・ブレッシング(その2)2009年2月5日



 1月11日は小生の?回目の誕生日だ。この日は友人に誘われてチャイナ・タウンにあるフィリピンで一番古いスペイン/フィリピン レストラン、 Ambos Mundos(アンボス・ムンドス)で昼食をとることにした。そのため12時過ぎ、願い事が何でもかなうといわれるチャイナ・タウンのキアポ教会の前で待ち合わせた。   日曜のミサの時間にぶつかったために、教会の前や横には入りきれない大勢の人々がスピーカーから流れる牧師の祈りに聞き入っていた。キアポ教会と言えば、一昨日のフィエスタでは200万人を超える人々が教会から運び出されたブラック・ナザレの像の行列に殺到したことで話題になったばかり。しかも幸いにも今年は死者がでなかったと関係者は胸をなでおろしていたそうだ。   キアポ教会の周りは野菜や果物、日用品そしてロウソクや怪しげな薬品を売る屋台で一杯だ。さらに教会からPaterno(パテルノ)通りに入るとメガネ、Raon(ラオン)は電気製品など、専門店街が続く。もちろん格安でなんでも揃っている。   キアポ教会からしばらく歩いてTorres(トレス)通りのAmbos Mundosレストランにたどり着いた。入り口には黒豚2頭を置いているのが印象的だったが、創業1888年、120年の歴史をほこるレストランの威厳を感じさせるほどのものではない。前日テレビで紹介されたせいか、店は満員だった。しかし、注文してから1時間近くも待たされ、いささかうんざりした。料理も特に老舗らしさを味わえるものでもなかった。一緒に経営されている1955年創業のWah Sun中国料理店のほうがかえってにぎわっていた。   レストランから程遠くないSta. Cruz(サンタ・クルス)教会はチャイナ・タウンの中心だ。しかしこの地域は地図を見てもチャイナ・タウンとは書いていない。Quiapo(キアポ)、 Binondo(ビノンド)、Devisoria(デビソリア)などの地区を総称してチャイナ・タウンと呼んでいるのだ。 […]

誕生日にチャイナタウンを探訪 2009年1月12日


   1月6日、タガイタイ・シランに近々開業が予定されている介護施設アモーレの里の新年会に参加した。この日はあいにく私の相棒がアンヘレスに行く用事があり、車が使えない。仕方が無いので、バスとジープニーを乗り継いでいくことにした。事前のヒアリングによると直行のバスは無く、まずメトロマニラの南の玄関となっているアラバンまでバスで行き、そこからジープニーを乗り継いで行かなければならないとのこと。アンヘレスで大分ジープニーの修行を積んだので何とかなるだろうとで1時間以上余裕を持って出かけていった。アラバンまではスムーズに行けたが、そこから先は乗り合わせた人にジープニーの乗り代え場所と行き先を聞きながら、手探りの旅となってしまった。   アンヘレスのバリバゴといえば有名なフィールドアベニューのあるところだが、同じな地名のところにタガイタイ等に向うジープニーステーションがあった。ようやくそこでタガイタイに向う最後のジープニーに乗ることができたが、すでに開会の3時をとうにすぎていた。知っているつもりのビニャンやサンタロサも実は高速道路沿いのほんの一部を知っているだけで、おかげ様でアラバンから南の一般道路沿いの多くの街をこの機会に見学することができた。 アモーレの里に到着したのが4時半近く、会はすでにたけなわだったが、おかげ様ですぐに食事にありつくことができた。   地上5階、地下一階の大変立派な建物だが、1階部分の内装が完成しており、モデルルームもできて、開業を待つばかりになっている。野菜畑では立派に野菜が育っている。玄関にはアモーレの里のモットーが掲げられていた.   。   中央通路は広々としていて入居者がくつろげるようになっている。また、クリニック、キオスク、喫茶店、ジム、客室、事務所などが地下に配置される予定だ。  建物の前、屋外にしつらえられた宴席にはすでに40~50名の客が、スタッフによるカルチャーダンスを楽しんでいた。久々のおせち料理やつきたてのもちを楽しんだ後はゲームやビンゴなど皆でを楽しんだ。   5時過ぎ、8名のシスターが到着した。なぜシスターか招待されたのかわからないが、ビンゴの時間になると日本語での数値の読み上げに対して躊躇せず紙に穴を開けている。このシスターは日本語がわかるかと疑問に思って耳をすましていると、日本語で話している。そこで話しかけてみると全部日本人だという。ラグナのドンボスコ校の人だそうだが、確かに良く見ると日本人だ。日本人のシスターがフィリピンにいるなんてはなから思っていないから、てっきりフィリピン人だと思いこんでいた。そうやって見ると日本人もフィリピン人もあまり見てくれには区別がないようだ。    […]

アモーレの里の新年会 2009年1月7日



 退職者の一人が農場を訪問した主な理由は、マニラのおおみそかの喧騒を逃れるためだった。マカティのコンドミニアムから眺めると、花火と白煙で街はまるで火の海になるとのことで、室内に流れ込んだ硝煙と喧騒に朝まで悩まされるそうだ。そのため今回は農場で静かな夜を過ごそうという算段だったが、夜も更けてくると、花火の音が激しくなってきた。しかし、周囲100mには家が一軒もない農場では、これらの音も遠くで汽笛を聞くようで、かえっておおみそかの雰囲気が増して心地の良いものだった。タバコの市街地付近ではかなりの花火が上がっており、街の硝煙と喧騒はマニラと同じではなかったかと推察される。  12時になると本来はなべや釜をたたいたり、ラッパを鳴らして、少しでも喧騒を助長し、新年を迎えるのがフィリピン流だ。しかし、今回は件のお客さんがあることから、なべや釜はやめて家から少々離れてラッパを鳴らすだけにした。ラッパが一段落したら年越しそばならぬ、年越しのスパゲッティやそのほかのご馳走を食べる。日本のおせち料理というところだが、ここでは夜中から食事が始まるのだ。何人かの子は眠気なまこで食事に向かっていた。  そして食事のあとはお正月のギフトだ。マニラのデビソリアでしこたま買い集めた安物のおもちゃや衣類、靴などをギフト用の紙にくるんで配る。このときばかりは子供たちの目はらんらんと光っていた。  正月の飾りは13個以上の丸い果物や卵とナッツ、米、それに現金で、ともに収穫と富を象徴するものだ。これにより今年の豊作と収入を祈るのだが、たぶんに中国的影響が強い気がする。そのためか師走のマーケットは果物を売る店がやたらと多かった。1月1日は教会へ行ってミサを行う。そして2日は日本と同様、親戚や知り合いの家を訪問する。この日は二組、20人ほどの客があった。私の相棒は同窓生との食事のあとはダンスに興じていた。  近所を散歩するとバランガイの子供たちが道端でダンスを練習していた。この子供たちから将来有名なダンサーが生まれるかもしれない。ボクシングの英雄、マニー・パクヤオやビリヤードの世界チャンピオン、エフレン・レイエスもこういう巷のチャンピオンから生まれたのだ。

フィリピンのおおみそかと正月 2009年1月5日


 退職者の二人を案内して闘鶏見物にでかけた。年末ということで普段にも増して人が集まり、闘鶏場はほぼ満員、駐車場には入りきれないくらいのオートバイが並んでいた。ここタバコでも庶民の足としてのバイクが定着している証拠だ。  闘鶏場の控え所には多くの人々が自慢の闘鶏を胸に抱いて出番を待っている。悲しいながら、このうちの半分は1時間もしないうちに生涯を終えることになるのだ。        戦う2羽の闘鶏が出てくるとまず、闘志を掻き立てるために別の闘鶏とにらみ合ったりかみ合ったりさせる。さらに戦う2羽を対面させるあたりから賭けが始まる。まるでせりのような掛け声で場内は騒然となるが、手振り身振りで賭け金と賭ける闘鶏のコーナーを示す。賭けの相手を見つけて金額が折り合うと賭けが成立する。青コーナーはメロン(有る)、赤コーナーはワラ(無い)と呼び、かけ方はいたって単純だ。胴元はいなくてあくまでも客同士1対1の勝負だ。戦いが始まると賭けは終了。あとは勝敗を見守る。勝負がつくと、負けたほうが賭けの相手にお金を渡しておしまいだ。賭け金は1階席が500ペソ以上、2階席が 100ペソ以上だ。なお、掛け金の10%はコミッションとして闘鶏場に支払わなければならない。 1回の勝負で数千ペソのお金のやり取りが行われるからフィリピンでは大変な金額だ。この間、われわれには誰と誰がいくらで賭けが成立したのか皆目見当がつかない。しかし、彼らは試合が終わるとちゃんとお金を渡しあい、何のトラブルも発生していない。コンピューターも使わないで短時間のうちに闘鶏の死を賭したゲームが進行していく様は驚異に値する。もし自分も賭けに参加したいと思ったら隣で大声をあげている人に頼めばよい。メロンに500ペソ、などとだけ告げて、結果を見守る。負けたら500ペソを支払い、勝ったらコミッションを除いた450ペソを回収して渡してくれる。ただしその場合、チップを10%程度渡すことをお忘れなく。    闘鶏はそもそも闘争本能が旺盛でオス同士が出会うとあっという間に喧嘩が始まる。だから2匹のオスは決して一緒にできない。喧嘩の方法は親指にあたる突起で相手を攻撃するものだが、闘鶏ではそこに鋭い刃物を取り付けて戦わせる。だから、出会い頭の一発のけりで勝負が決まってしまうことが多い。負けたほうはもちろんオーナーあるいは負けた相手のオーナーの胃袋に納まってしまう運命だ。   勝ったほうでも傷だらけになることが多いが、その場合は場外の獣医に傷口を縫って治してもらえる。たまには相打ちで引き分けということも有る。また、決定打が出ないままずるずると戦いが続いて双方が疲れてしまい、どうしようもなくなることも有る。その場合は10分の制限時間があり、タイムオーバーの引き分けとなる。 ちなみに場内にはほとんど女性はいない。いてもスナックの売り子ぐらいのものだ。大金を儲けたり、すったりする博打は女性の敵なのだ。一方、バードウオッチングが趣味の退職者は闘鶏を初体験して大変満足した様子だったが、これもバードウオッチングの内なのかと首をかしげていた。

闘鶏入門 2009年1月5日



 フィリピンでは新築の家や事務所は牧師を呼んでお払い(ブレッシング)を行うのが慣わしだ。ビコールの我が家は建設後すでに5年を経過するが、台風の被害にあったり、あまりよいことがなかった。それはブレッシングをしなかったせいだということになり、この機会にブレッシングを執り行った。  相棒の同級生が牧師をやっているというので、相棒の友達や家族を一緒に招いた。たくさんの知り合いを呼んで一緒に家の安全と存続を祈ってもらうのだ。タガログ語と英語を織り交ぜたお祈りをひとしきりやると、牧師が先頭になり、それぞれの部屋に聖水を振りかけながら、清めて歩く。人々はろうそくを掲げながら後に続く。   それぞれの部屋のブレッシングが終わったら、家の主人がコインをばら撒く。子供たちはそれを必死に拾う。子供がいなければ大人たちだ。さすがに子供がいる場合は大人たちはそれに混じってコインを拾うのは恥ずかしいようだ。事務所のブレッシングでの大人たちが歓声をあげてコインを拾うさまはすさまじいものがある。これらのコインは縁起物とされ大事にとっておくそうだ。子供たちにとってはもちろんおやつを買う軍資金となる。ちなみに犬たちは何がおきているのか、そ知らぬ様子だが彼らもご馳走のお余りにありつけることは間違いない。  もちろん祝い事に食事は付き物だ。招待された人たちではとても食べきれない料理が並ぶ。肉料理が数種類に甘い飲み物とデザート、野菜は一切ない。野菜は客を歓待するにはむいていない。あくまでも肉が主体だ。フィリピンでは野菜は貧乏人の食物とされているのだ。   フィリピンで人々と仲良くやっていくには何かと機会をとらえて、振舞うことだ。けちけちしないで誰でも招待して、たらふく食わせる。そうすれば気前がよくて良い人という評判が定着して、なにかとかばってくれたり、助けたりしてくれるだろう。これが人間関係を築く上で最小の投資で最大の効果を得ることができるこつだ。

ハウス・ブレッシング2008年12月29日


 本年度のクリスマス、正月休みは見事につながってしまい、12連休という最長の大型連休となってしまった。ちなみに、それぞれの休みの理由は下記のとおりだ。 12月24日(水):クリスマスイブで官庁は半日、個人的に休む人が半数以上で実質的に休み 12月25日(木):クリスマスの祝日 12月26日(金):クリスマスと土曜にはさまれたブリッジ休みで大統領令による特別休日 12月27日(土):休日 12月28日(日):休日 12月29日(月):日曜と祝日にはさまれたブリッジ休み 12月30日(火):リザール・デイの祝日 12月31日(水):年末特別休日 1月1日(木):正月の祝日 1月2日(金):正月と土曜にはさまれたブリッジ休み 1月3日(土):休日 1月4日(日):休日  24日のクリスマスイブは官庁は実質的に休みとなってしまうので、23日までに官庁手続きを終えないと、来年の1月5日まで12日間も待たされることになる。幸い、2名の退職者のPRA関連の手続きはぎりぎり23日で終了し、ほっとした気持ちで連休を迎えることができた。  一方、街の混雑は23日までで、地方へ向かうバスステーションや道路、そして最後の稼ぎをもくろむ行商人などで繁華街は人や車ででごった返した。また、普段は見かけない物乞いがやたらと目に付いた。これらの人々は明らかに装いを異にしており、普段山奥に住んでいる人たちが里に下りてきたといった雰囲気だ。下町のエルミタで人と会う約束があったが、タクシーを拾うのはまったく不可能。仕方なくジープニーでLRTブエンディア駅に向かい、それからLRTでペドロヒル駅でおり、目的地まで歩いた。おかげでちょっとした冒険をしてしまった。 […]

フィリピンの超大型12連休2008年12月28日



 世界的金融危機のあおりを受けてPASCOも苦しい経営を強いられているが、クリスマスパーティはフィリピーノ社員にとって欠かせない行事ということで、ささやかながら事務所でパーティを行った。料理はすべてスタッフによる手作り、その代わり小さなギフトや景品を大量に用意した。時節柄カラオケもなしとし、代わりに先日Bank of Commerceのパーティで知った、現金のお札をまるめて短く切ったストローに入れ、それを目隠しして選ぶくじ引きを行なった。一等賞は500ペソ、2 本、2等賞は100ペソ、2本だ。  フィリピンでは何を行なうにもお祈りから始まる。まずは神への感謝の言葉を述べ皆でアーメンを唱える。そして、ご馳走の前で記念撮影。会長、社長の挨拶などつまらぬ訓示は無しで、即、食事に突入だ。  参加者は社員が11名、ゲストが3名と1/2、だが食事は20人前程度用意された。あえて残るようにするのだ。残った料理は皆でTake Outし、2次会で食べたり家族に振舞ったりするのだ。このTake Outがないと何かもの足らず、フィリピーノは満足感を得ることができないそうだ。  パーティには定番の鳥のから揚げ、シャンハイルンピアを初めアドボン・バボイ、スパゲッティ、ビーフンなど。から揚げはあげすぎ、スパゲッティは甘すぎると文句を言うのは日本人くらい。皆、これでもかこれでもかと言うくらい、腹いっぱいに食べていた。  おなかがくちくなったら今度はゲームだ。おなじみの椅子取りゲーム、ビールの早飲み、などなど。今夜は13歳と3歳のお嬢様が参加したので、男女のセクシーなゲームは遠慮したようだ。ゲームの勝者には景品が贈られ、その間に随時くじ引きが行なわれた。社員は興奮のルツボにはまりっぱなしだった。  ゲームやくじ引きの景品、それにおみやげ(Give Away)をたくさん手にしたスタッフはいかにも幸せそう。これがないと1年を締めくくることができない。会社への忠誠心などもこのようなパーティで培われると言っても過言でもない。

PASCOクリスマスパーティ開催2008年12月23日


 地球温暖化が取りざたされている昨今だが、12月17日の早朝、バギオはこの冬一番の寒さ、10.8度を記録した。マニラも19.1度だった。フィリピン厚生省は風邪や発熱の注意報を発令した。20度という気温はフィリピン人にとって相当な寒さである。雨上がりなど気温が25度以下に下がると我々日本人は心地よく感じるが、フィリピン人にとっては寒いと感じて長袖やジェケットを着る人が出て来る。フィリピン人が寒いと言うと、私は「寒いのではない、暑く無いだけだ」といつも言い張っている。本人が寒いと感じるのだから勝手なことなのだが、本当に寒いといえるのは10度以下に気温が下がったときだけのはずだと思う。  しかしバギオは1000mを超える高地にあるだけに本当に寒くなるときがある。一度Tシャツ一枚に半ズボンで何の着替えもなしに出かけたことがあった。あいにくの雨模様だったが、しばらくの間外で待たされた時、寒くて寒くてふるえが止まらなかった。それでも長袖にズボンだったら何の問題もなかったろう。しかしフィリピンで寒さに震えるなんて想像だにしなかった出来事だった。  この日、今年一番の寒さにバギオの人々はジャケットにマフラーそれに手袋のいでたちだったという。バギオでは普段でもマーケットなどではジャケットを着ている人を見かけるが、とにかくフィリピン人は寒さに弱い。しかしかのジャパユキさんは日本の寒さをどう凌いだのだろうか。郷に入っては郷に従えのことわざのようにすぐに順応してしまうらしくて、日本の寒さをそんなに恨めしそうに言うジャパユキさんはいない。それよりも一冬過ぎてフィリピンに戻ってくると皆色が白くなって美人になって帰ってくる。  元来フィリピン人はスペインや中国の血を引くために、地は案外色白で、普段は陽に焼けて黒くなっているだけなのだ。そこで、話はちょっとずれるが、肌の色について興味深い話を一つ披露したい。 いつか、NHKで色の黒い白いは日光の強弱に人類が適合した結果だという番組をやっていた。元来人類はアフリカで生まれ、体毛を捨てた黒い肌により強い日光から身を守り、草原を走り回って多くの獲物を捕まえ繁栄して行ったそうだ。人類が世界に散らばる過程で日光の乏しい北方に移動するためには数万年の時が必要だったという。それは白い肌を得て、少ない日光を有効に体内に取り入れ骨の形成に必要なビタミンDをつくる能力を獲得するのに何百世代もの世代交代による進化が必要だったのだ。一方日光の強い南アジアには人類はあっというまに広がっていった。その名残が今でもニューギニアやオーストラリアの原住民に見られる。  現代は飛行機でその日のうちに北や南の国に移動できる。その結果、イギリスに住むインド人の子供が日光不足でクル病にかかったり、オーストラリアでは強すぎる紫外線のために皮膚がんにかかる白人が多発しているという。要は彼らは短期間の内に肌の色を変えることができないためにこのような病気になってしまうのだ。一方、かのジャパユキさんは、北の日本にいると白くなって、フィリピンに戻ると黒くなるという、住むところの気候にたくましく適合しているのだ。これはなにもジャパユキさんに限ったものではなく、東洋ないし東南アジアに住む人々の全般的特徴ではないかと思う。色黒の白人というのは聞いたことが無いし、黒人は何百年アメリカに住んでいても黒いままだ。そうなると世界の距離がなくなった今、世界をまたにかけて活躍できるのは肌の色を変えるという特殊能力をもったアジア人=黄色人種ではないかと思う(ちょっと誇大妄想のような気がしないでもないが)。

フィリピンに寒波襲来2008年12月19日