風俗・風物


恋も戦いと一緒で、前進、すなわち、それを成就させるための努力は楽しくて、何の苦もないが、恋が破綻して手仕舞いする時は、戦いに負けて退却するのと一緒で大きな苦痛と痛手がともなう。 フィリピンの若者が恋をするとき、男のアタックは強烈で、女心をとろけさせる。特に10代となると、やりたい一心で、身も心をささげる。こんなに愛してくれるならと、女は、なけなしの処女をささげてしまうのだが、それが悲劇のもととなる。フィリピンでは避妊をきらい、堕胎は殺人だから、恋=セックス=妊娠=出産となる。妊娠となると、生涯の愛を誓った件の色男は、手のひらを返したように、トンずらしてしまう。子供を生み育てる使命を神から授かった女は、子供のために、それこそ、身も心もささげなくてはならなくなる。それでも女たちは、子供がいて幸せと感じる。 彼らの別れ方はいたって簡単で、男は女との一切のコミュニケーションを絶つ。携帯電話番号も代えてしまう。なまじ、別れ話を持ち出して女に納得させようとか、手切れ金を渡そうとか、余計なことは考えない。1~2ヶ月もなしのつぶてを続ければ、女もあきらめる。子供がいなければ、女も次の相手を探すから、それで済むのだが、子供を作って、相手の人生を台無しにしてしまったとなると、そうは行かない。どっかでばったり会ったりしたら、ずぶりとやりかえされるから気をつけなければならない。 KIANは、若い女、ヤヤ・ドナ(20歳)とアテ・キム(18歳)に面倒を見てもらって、男冥利につきる これが、日本人だったら、そうはいかない。女を孕ませて、例え、日本に帰ってしまったとしても、NPO法人を名乗る日本人が現れて、あの手この手で、責めて来る。認知していようがしていまいがDNA鑑定なるものがあるから、そう簡単には逃げ通せない。特に、役人や大企業に勤めている場合は、世間体というものがあるから、結局、数百万円レベルのお金で和解となる。もちろん、和解金の半分はNPOの取り分になるのは必定だ。 ならば、大多数のシングルマザーを作り出したはずのフィリピン人の男は何故追及されないのか。それは、いたって簡単な理屈で、幾ら追求したとしても、取るべきものが何もないからなのだ。そんな馬鹿なことに女は時間も金もかけないが、恨みだけは一生続く。 久しぶりにフィリピン人の友人と会うと、ところで、あの娘はどうした、今でもコミニュケーションはあるのか、聞かれる。コミニュケーションがある、すなわち交流、関係が続いているということなのだ。だから、女との別れは、コミニュケーションを絶つ、それにつきる。 ところかまわず姉のアテ・キムとイチャイチャしているKIAN。こうしてKIANは女をくどく手練手管を学ぶのだ 若いみそらをはげ親父にささげて、ある日、「この携帯は使われていません」では、女としても身もふたもない。だから、GRO(フィリピーナホステス)は、大きな魚(熟年日本人男性ないしはげ親父)が針にかかったとたんに、周到な仕掛けをする。それは、一緒に生活するための家を建てようなどと持ちかけるのだ。田舎に両親の土地があるとか、サブディビジョン(団地)の出物があるとか、今の内なら建売が安く買えるとか、あるいは、おじさんが建築屋で安く建築できるとか、様々な有利な話を持ち出して攻めてくる。 はげ親父は、若い彼女との甘い生活を夢見て口元と財布の紐が緩む。退職金の半分程度だから、まあ、いいだろう、これで彼女との絆も深まるだろう、などと、ますます鼻の下を長くする。 しかし、そこに女のしたたかな作戦がある。フィリピンでは、外国人は土地が買えないから、土地付き一戸建ての名義は彼女とならざるをえない。だから、彼女たちは、外人でも所有できるコンドミニアムの購入は決して勧めない。自分名義の家を建てる、あるいは買ってしまったら、例え、ある日突然、携帯が「この携帯は使われていません」とささやいても、にやっとするだけだ。これで、名実ともに家が手に入った、はげ親父なんていないほうがせいせいする、とほくそえむ。彼女から三行半を突きつけられる場合もあるが、そんな時、件のはげ親父は、騙されたと歯軋りするが、それこそ、後の祭りだ。 最近、用意周到に準備した書類で、女のしたたかな作戦を、こなごなに粉砕した賢い退職者がいる。別れの原因は二股かけていた女の方にあるのだが、上述の仕掛けは、しっかりとかけられており、女としては準備万端だった。しかし、その退職者から、PRAの預託金を使用したいという相談が私にあり、女の仕掛けに対して、逆仕掛けをしたのだ。退職者は、半信半疑だったが、そんなこともあろうと、素直に私が作成した書類に彼女の署名を取りつけ、準備万端としたのが功を奏した。 そして、2年後、まさに、そのときが来た。女の二股作戦に業を煮やした退職者は、彼女名義の資産をすべて売却し、始末してしまった。それを知った女は当然、金切り声をあげて抗議したが、後の祭り、退職者の携帯は冷ややかに「この携帯は、使われていません」を繰り返すだけだった。 息子の見送りに一族の子供達がマニラにやってきた。彼らが息子の家族となる日も遠くない その仕掛けの逆仕掛けとは下記だ。 […]

フィリピン流恋の手ほどき(その5 賢い別れ方)2014年11月23日


ママジェーンがシェルのガソリンスタンドからレゴの車を手に入れてきた。1500ペソ以上のガソリンを入れると180ペソの追加料金でレゴがもらえる。中国製ではなくてオリジナルのレゴなので、市中で買ったら1000ペソ位するかもしれない。パッケージはプラスティックでコストと運搬・貯蔵費を節約しており、シェル特注のもののようだ。 かつて、ペトロンでも同様なプロモを行っており、KIANのために5~6台のスポーツカーのおもちゃを手に入れたものだった。そして恒例のサイカでのランチのあと、2台目を手に入れたのだが、シェルのガソリンスタンドはレゴ目当ての客であふれていた。 サイカのランチでは、若い退職者が参加されたが、シェルのレゴの話をしたら、是非、全種類をそろえたいと語っていた。ジオラマや兵隊の人形あるいは車の模型などが大好きな人だから、大人でさえ、大いに興味を引かれる優れものだ。 ママジェーンからプレゼントされたレゴの車は、KIANが分解組み立てするには丁度良いサイズで、一日中、肌身離さず持ち歩いて、大事にしていた。元通りに組み立てるのはちょっと難しいので、好き勝手な形に作り変えて遊んでいる。レゴとしては、特殊でチョロキューの引いて話すと走り始めるのが、私にとっても面白い。 最近、田舎からおばあちゃんとやってきたいとこのジェムジェム(4歳)が、KIANが幼稚園に行っている間に、勝手に持ち出して、遊んでいた。学校から帰るやいなやそれを発見したKIANの怒り用は尋常ではなかった。取り返してからも泣き叫んで、自分で組み立てなおして怒りが静まるまで30分はかかった。   サイカの食事のあと、マカティスクエアのいつものプラモデルやで、レゴの人形を買いに行ったが、KIANは一人で3個(大き目のもので120ペソ、小さいものが50ペソ)買うと主張する。そうなると、ジェムジェムや双子の手前、ちょっと具合が悪い。ジェムジェムはジェムジェムで、ヤヤに小さな車を買ってくれとせがむ。これが意外と高くて300ペソもするので、ヤヤにとってはどうしようもない。わたしとしても300ペソはちょっと痛い。結局、何も買わないで店を出たが、KIANの落胆振りは想像に難くない。それから、シェルのガソリンスタンドで件のレゴカーを手に入れる泣き止まなかった。KIANのおもちゃに対する執念はちょっと異常なものがあり、そろそろ我慢することもしつけないと、やばいかなと思う。 家に戻ってから、双子の一人、アレクサがさっさと組み立ててくれた。アレクサは、こんなことが得意だが、もう一人のアレアは見向きもしない。だから、KIANはアレクサが大好きで、いつもアレクサ、アレクサと傍に呼びたがる。ちなみにアレクサはトンボイで発想が男じみているそうだ。せっかく組みあがったレゴカーだが、しばらくするとKIANは自分風に組み立てなおして、遊んでいた。

KIANは現在、レゴに夢中(その2)2014年11月9日



相棒のジェーンは毎週、日曜の朝、家族(ジェーン、カーネル、キム、KIAN)で教会のミサに参加するのが日課だ。我が家のあるPrime City Condoの隣はセント・ポールという有名な教会なので、歩いて5分の至近距離にある。特に我が家は敷地の端にあるので、塀の向うは教会の敷地だ。この教会には神学校が併設されているので(といより新学校に教会が併設されているといったほうが正しい)、広大な敷地を有するが、もともとPrime City Condoの敷地も、この神学校のものだった。 この日、キムは警察学校の入学試験で、不在だったが、代わりに私が、3人に同行した。コンドと教会の間の塀には小さな出入り口があって、日曜の朝だけは、扉が開いていて、コンドの住民は近道を通って教会へ行くことができる。両親はKIANを敬虔なクリスチャンとして育てようと考えているのか、以前は、見向きもしなかった教会通いをしている。 私と言えば、宗教には全く無関心なので、何も語ることはできないが、心の平穏を得るために、必要なものだとは思う。しかし、イスラム国にように平穏を乱すように作用することもあるので、一概には語れないだろう。歴史的には主教には弾圧と戦争がつきもので、キリスト教といえどもだった例外ではなかった。 教会の回りは緑に囲まれ、落ち着いた雰囲気をかもし出している。ミサの参加者も、ほとんどがPrime City Condoの住民で、いわば中間層だ。 小粒の教会だが、凝ったつくりをしている。そこかしこにおかれた扇風機が目を引いた。          後ろのほうに座ったが、KIANは今一興味がなさそうだ。天井の巨大な扇風機も珍しい。 寄付を神父に届ける役割を与えられたKIANは緊張気味だ。それが終わると、ほっとしたのかうれしそうに走って戻ってきた。 延々と続くミサに痺れを切らしたKIANは、しばし私と息抜きに外へ出た。涼しい木陰で戯れるKIAN。ろうそく台では5ペソで平たいろうそくを買い、それを吹き消すKIAN。ろうそくと言えば、KIANにとっては誕生日なのだ。   ようやくミサが終わって、近所のお医者さんに抱かれるKIAN(ジェーンのまぶたの整形手術した整形医)。教会の外では例の甘いタホ(豆腐)を売るおじさんが大忙しだ。

日曜のミサに参加 2014年10月29日


フィリピンはサリサリ(何でもあり)とハロハロ(ごちゃ混ぜ)の文化といわれるくらい、フィリピン人にとってサリサリ(ストアー)は、なくてはならない庶民の味方だ。サリサリの売りは、日常生活に必要なもの、特に食品は何でもそろっていること。しかも、その日暮しの庶民が買えるように、最小単位でばら売りする。その最たるものが、タバコの一本売り、そして携帯のロードをペソ単位でチャージすることだ。さらに、24時間営業のサリサリもあり、まさにコンビニエント・ストアーの元祖的存在だ。 サリサリと並んで庶民の味方となっているのが、トロトロ(レストラン)で、フィリピン人好みの食事を格安で提供している。ちなみに、トロトロとは指し示すという意味で、並べられたおかずを指でさして買うことから、この名前がついている。 我が家のあるプライム・シティ・コンドミニアムの前のセント・ポール通りに出てみると、左右100mくらいの間に、約10軒のサリサリとトロトロがあり、どこも繁盛している。目の前がPhinesという24時間営業のパン屋さん兼サリサリ、その右は、サリサリ兼トロトロで、いつも人であふれている。ここの看板娘は双子のオカマで、カメラを向けると恥ずかしがって店の奥に逃げ込んでしまった。 セント・ポール通りを右に行くと、いくつかのトロトロに先に24時間営業のサリサリがある。店員はビコール出身だが、一度、農場のあるタバコの市街地でばったり出会って、こちらに微笑みかけてきた。数秒後、それが件のサリサリの店員とわかって、微笑を返すことができた。 私は、毎日最低5回は、このサリサリに足を運ぶ。目的はタバコの一本買いだ。箱で買うと、つい吸いすぎて、喉が痛む。そこで、禁煙ではなくて節煙のために、タバコを箱で買うことはやめた。事務所で仕事をしていて、タバコが吸いたくなったら、サリサリまで行ってタバコを一本買って、吸う。そうなると、なかなか本数が行かない。一日、2~3本でおさまることさえある。ちなみにタバコ一本の値段は4~5ペソ(10円強)で、一昔前に比べて倍くらいに値上がりしている。 小銭がないので、10本入りの箱を35ペソ(80円)で買い求めたら、店の子が、「今日は威勢がいいのね」という顔をして、目を丸くしていた。てっきり私がタバコを箱で買えない、困窮日本人かなにかとでも思っているらしい。フィリピン人は弱いもの、困っている人の味方だから、返って親しみを覚えているらしい。 ご他聞にもれず、糖尿病の予備軍の私の課題は、食事と運動だ。おかずは魚中心、毎日納豆を欠かさず、ご飯控えめの腹七分、それは、ほぼ達成している。一方、運動のほうは、ジムもトライしたが、ベルトの上をひたすら歩くような無機質な行動は耐え難く、三日坊主だった。かといって、散歩するにはマニラの町は環境がよろしくない。最近、なにか足の衰えを感じて、このままではいかんと思い悩んでいた。 しかし、タバコの一本買いの習慣が、思わぬ効用があることに気がついた。 私の部屋は3階にあるが、ビールを飲んで、タバコが吸いたくなると、わざわざサリサリまでタ バコを買いに行かなければならない。階段を下りて、セントポール通りに出て、サリサリまで、約250m、往復、約500mの道のりだ。それを一日、5回やっ たとすると、2.5km、約30分、4000歩くらい歩いていることになる。これに、仕事で出かけたときの歩数も加えると一日5000歩はくだらない。1万歩までは達しないものの、50%とは、まんざらでもない。 タバコが増えるのは健康に良くないが、それによって運動量が増すというプラスの効用もあることになる。まさに、株の信用取引のようなリスクヘッジになるというわけだ。

サリサリ・ストアの思いがけない効用 2014年9月28日



5月26日はキムの誕生日だ。その前の日の25日は息子の誕生日で、前の前の日の24日は、親しくしている退職者の誕生日で、盛大な共同誕生会が期待された。しかし、急遽、息子が日本へ帰ってしまったので、キムの誕生会だけになった。 女の子の18歳の誕生日は特別で、デブー(デビュー)といわれ、晴れて大人の仲間入りをするいわば、成人式だ。家庭によっては、姻戚のほかクラスメートなど招待して、ホテルのレセプションホールを借り切って、結婚式並みに盛大にやるくらいだ。この日は同年代のビアンカ(息子の許婚候補)とドナ(メイド)が友人代表として参加した。ちなみに、男のデブーは21歳だが、男のデブーの式というものはお目にかかったことがない。 当日まで、どんな誕生会を催すのか決まっていなかったが、結局、おなじみのルートンマカオの中華レストランで、内輪の食事会だけとなった。しかし、たまたま、マニラに来ていた両親の母親(ロラーおばあさん)も参加して、総勢16人の大食事会になった。もちろん、万難を排して、父親のカーネルも参加した。娘のデブーを欠かしたとなると、生涯うらまれることになる。          父親から恒例の赤いバラの花束をプレゼントされて、おめかしするキム(左)。右の写真は、ジェーンの長髪禁止令により、かなり短めに髪を切ってきたキムとビアンカ、18歳らしく、とても可愛らしくなった。 両家のロラが会うのはめったにないことで、バプティスマル、デブー、結婚式、それに葬式くらいのものかもしれない。   子供6人を含むとは言え、16人で5300ペソ、ケーキを含めても一人頭400ペソ足らずで済んだが、ルートンマカオの安い、おいしい、量が多いの三拍子の面目躍如だ。ただし、飲み物は我が家のしきたりで、私のビール以外は注文させない(飲み物は何もここでなくともどこでも飲めるし、割高だ)。 近所のレッド・リボンで買ったきたケーキには大きな18をかたどったいうローソクが立てられていた。誕生ケーキとあらば、すぐに自分でローソクを吹き消さないと気がすまなかったKIANだが、この日は、アテ・キム(キム姉さん)の誕生日としっかりわきまえていた。 反対側の席から、大声で、Happy Birthday Ate Kim、I love you、などと大声で会話するKIANとキム。年の離れた仲の良い姉弟だ。

キムのデブー(18歳の誕生日)2014年6月15日


3月も後半になると夏真っ盛り、毎日暑い日が続き、日中に外に出るのがはばかれる。そんな今、フィリピンでは全国的に卒業式のシーズンだ。これが終わると長い夏休みが始まり、6月早々に新学期を迎える。3月26日はKIANが通う幼稚園の卒園式だった。いつもサボってばかりいるKIANだが、こんなときだけは張り切っている。1週間後の3月31日には4歳の誕生日を迎えるKIANの晴れ舞台だ。 この日は、いつも多忙でほとんど家にいることのないパパ・カーネルが半日休暇をとって息子KIANの晴れの姿を一目見ようと式に参加した。もちろん、ママ・ジェーン、それに姉のキム、ダダ(私)、さらには私の息子と、総勢5人の大人が式に参列した。KIANは2012年8月(2歳と5ヶ月)から通園を開始したので、約1年半通ったことになる。今年の6月からは近所の本格的な幼稚園に通うことになっており、卒園というよりも保育園のお別れ会といった雰囲気だ。          昨年の終了式では五つくらいの表彰状をもらったそうだが、今回は最後に「Most Active Award(大変元気だったで賞)」という、とってつけたような表彰だった。確かに終盤はほとんど幼稚園には通わなかったし、Active(元気)であることは間違いない。それでも、表彰状を渡すために先生がKIANの名前を呼ぶと歓声をあげて表彰台によじ登り上り、父兄の喝采を浴びていた。 他の児童は、ちゃんといすに座って行儀がよいが、KIANだけが、ちょろちょろと動き回って、悪く言えば落ち着きがない。しかし、それが子供らしくて好ましく、他の子供には精気がなくて三つ四つの子供とは、とても見えない。こんな子供たちばっかりではKIANが幼稚園をさぼってばかりいたのもうなずける。 フィリピンは、プラック(表彰状)社会と言われ、学校でも会社でも生徒や社員を何かと表彰する。悪いところを探すのではなくて、なにかよいところを見つけて表彰する、この習慣は幼稚園でも始まっているのだ。KIANの喜びようを見ていて、なかなかよい習慣だと思った。         そういえば、ここ2~3日、ヤヤを見かけない。ジェーンによると、娘の小学校の卒業式に田舎に帰ったそうだ。給与を前借して一週間ほど田舎に帰っているという。一方、2~3日前、ジェーンの兄のアランが、家に来ていた。娘のハイスクールの卒業のために田舎に帰っていて、お土産に農場から米を一袋持ってきてくれた。娘といっても別れた妻の実家に引き取らせて、金銭的にもまったく面倒を見すにほったらかしなのに、卒業式だけはわざわざ田舎に帰って出席したのだ。 卒業式は、子供にとって、大変大事な行事で、親は何が何でも出席するのがフィリピンの慣わしだ。考えてみると、自分の卒業式に親が参加したというのは全く覚えがないし、自分が子供の卒業式に出たことも一度もない。まあ、出席したいと言っても子供が拒否するだろうが。 フィ リピンでは、バプティスマル(洗礼式)に始まって、1歳の誕生日、幼稚園、小学校、ハイスクールの卒業式、18歳のデビュー(女の子の成人式)、大学の卒 業式、そして最後に結婚式と、親の参加は必須だ。締めくくりは葬式だが、その後も墓地で、毎年、万聖節(All Saint […]

KIANの卒園式 2014年3月30日



最近 往年の名クラブ、ミス・ユニバースが復活したといううわさを耳にした。2002年ごろから10年近くお世話になっていたが、2011年6月21日に閉鎖されたことは、このブログでも報告した。その後、オーナーが代わって名前を変えて復活したものの、往年の華やかしころの面影はなく、また閉店、そしてまた開店と閉店を繰り返し、人々の記憶から消えていった。今、マニラで一番熱いとマネージャーが豪語するほど、隆盛を誇ったミスユニバースだった そのミスユニバースが、いよいよ復活したといううわさが飛び交っていた。どうも、女の子達にリクルート攻勢があり、ベイ(もとエイシアン)の子達にも声がかかっていたようだ。そんなわけで夕べ、ゲストと外食したついでに軽く覗いてみることにした。 ミス・ユニバースの命日(6月21日)の翌日、ネオンも消え、さびしげにたたずんでいた。そして8月24日、カンポスという名前で復活したものの、往年の名声を獲得することなく消えていった 表のネオンが壊れていて、名前を確認できなかったが、単なるユニバースという名前になったようだ。入り口では、まず、マネージャーの名前を聞かれたが、まさかいるとは思わず、昔のなじみのマネージャー「トニーボーイ」の名を告げた。そうしたら、いるというのである。 ネオンの一部が消えているが universe GIRLS CLUBというのが正式名称らしい 中に入ってみて、最初に気がついたのが、全体的にきれいで、安食堂のいすとテーブルだったのが全部ソファーになっていたことだ。これなら十分くつろげる。舞台には2本のポールが立っていてポールダンスも楽しめるが、ショーも垢抜けていて、ベイの一枚上を行く。 早速やってきたトニーボーイに詳しく聞くと、提供サービスは基本的に前と同じで、価格体系は、入場料;200ペソ、ビールが90ペソ、レディズ・ドリンクが600ペソ、VIPルームは別途500ペソで使えてカラオケがあるそう。その他の特別サービスも前と同じ料金だそうだ。 しばらくすると、ベイで顔おなじみだった懐かしい女の子が、こっちを見つけて微笑みを投げかけてきた。様子見といってもテーブルに女の子も呼ばないで、様子見にもならないと、ひとり呼び、二人呼び、そして席がいっぱいになってしまった。ここいらで酩酊し始めたので、お開きにしたが、明朗会計は相変わらずだった。

速報ミスユニバースが完全復活 2014年3月14日


最近、ママ・ジェーンからKIANの前ではビールを飲んではいけないというおふれが出た。これは一大事、私の人生の最大の楽しみを奪うつもりかと反発したが、敵もかたくなに主張を繰り返し、パパ・カーネルのきついお達しだともいう。 私の日々の楽しみは、KIANと一緒に食事をとる事で、その時のビールがたまらなくおいしい。夜は、食事中にサンミゲル・ビールの小瓶2本、そして、そのあと寝るまでに2本と大体4本くらい空ける。最近はランチにも1~2本飲んで、少々度が過ぎているかなと思うこともないが。 サンミゲルビール(主にピルセンとライトが人気)は圧倒的なシェアを誇る。私は氷を入れて呑むが、そうすれば、飲み終わるまで冷たくておいしい。ビールに氷をいれて呑んだら、フィリピン通の証拠だ しかし、減らせというのならばまだしも、一気に食事中に飲んではいけないというのはいかにもつらい。もし、飲んだら、KIANを一緒に食事させないとまで言い張る。KIANもママ・ジェーンに洗脳されて、私がビールを飲むかどうか見張っている。先日、ママ・ジェーンがいないので、ヤヤもキムも私にビールを飲むことを勧めた。鬼のいぬまに洗濯といったところだ。 ヤヤも、KIANに「Secret、ヒ・ミ・ツ」と言い聞かせた。KIANはわかったようなわからないような顔をして「Secret?」と繰り返した。うわさをすればなんとかやらで、その時、ママ・ジェーンがちょうど帰ってきた。KIANはママ・ジェーンのところに飛んでいって「ダダ(私のこと)がビールを飲んだ」と言いつけた。「フィリピーノに秘密はない。皆に知ってほしかったら、秘密ね、と言えば、あっという間に広がる」といわれるが、まさにKIANは3歳にして、そんな意識をもちあわせているようだ。 セブンイレブンの冷蔵庫に並んでいるビール。サンミゲルのほかにもレッド・ホース、コルト45、などの地元のビールが並んでいるがキリン一番絞りや朝日・辛口も奮闘している(香港等からの輸入品)。ただし、値段は70~80ペソで倍誓い。レッド・ホースはアルコール度が6.9%でサンミゲルの5%より、高い。そのせいか庶民には人気がある ジェーンの主張は、先日、KIANがパパ・カーネルに向かって「パパもビールを飲め、そうすればダダのように強くなる。」進言したそうだ。ジェーンは「ダダはKIANのアイドルだから、ダダのやることは何でも正しいと思っている。3歳のうちから酒を礼賛するようでは、先が思いやられる」と、カーネルがとても心配している、と言うのである。 そもそもフィリピン人で普段から酒を呑む人はあまりいない。酒を飲むのは誕生日などのパーティだけで、食事をしてから、未明まで飲み明かす。したがって、晩酌という習慣はないようだ。酒を飲むときは外に出て、それなりのところで飲んでいるが、もしかしたら皆、恐妻家だからかもしれない。特に女性が食事中に外で飲んでいるのを見たことがない。普段からビールを飲むのはビア・ハウスのGRO(ホステス)くらいかもしれない。 近所のとろとろレストランは、夜になるとビール酒場になる。GROはいないが、夜な夜な、たくさんの男女がビールとカラオケを楽しんでいる。特に土日は昼真っから、テーブルに大量のビール瓶を並べて酒盛りをしている姿がある もともと瓶入りのサンミゲル・ビールを飲んでいたが、ある日、国家警察の警官がビール瓶が爆発してまともに歩けなくなるような大怪我をした。その情報がつたわるやいなや、我が家では瓶ビールが禁止となり、缶ビールに変更された。缶ビールはサリサリには売っていないので、セブンイレブンかスーパーで買うしかない。したがって22~3ペソで買えるものが、一気に40ペソになってしまった。しかし、今回は缶ビールさえも禁止となったのだ。 KIANがボトルから豪快に飲んでいるのは、もちろんビールではなくてただの水。ビールはコップではなくて瓶から直接飲むのがフィリピン流だ もっとも、禁酒はKIANとの食事中だけの話で、食後は自由というのだが、一滴の酒も受け付けないママ・ジェーンは、食前の一杯が格別だということを知らない。ちなみにジョルビーやマクドナルドなどのファースト・フード系は一切アルコールを出さない。一方、ビア・ハウスと呼ばれる庶民の遊びどころは、もっぱらビールしか出さない。 しかも、そのビールが40~50ペソ程度と格安で飲めて、男性客を呼び寄せる売りになっている。ちなみに、かの高級ナイトクラブ、ベイ・エンターテイメントでさえも110ペソだ。GROのレデイズ・ドリンクもビール(どういうわけかサンミグ・ライト)のみで、だからビア・ハウスのGROは皆ビール腹だ(ただし、GROがのむビール200ペソ程度)。ビール=ビアハウス=GROという連想が働いて世の女性軍はビールを敵視するのではないか、と疑いたくなる。 空港に近い、バクララン、エアポートロード沿いには20~30軒のビア・ハウスが並び、夜遅くなると道路にGROがお出ましして、客を店に引き込んでいる ビール無しの食事も、やってみるとどうってことはなく、その代わり、氷入りの冷たい水をがぶがぶ飲んでいる。一方、我が家は大分前から禁煙で、私は、仕方なくサリサリ・ストアで一本買いをして、外で吸っている。おまけに、ビールも隠れて飲まなければならなくなってしまって、肩身がせまい。しかし、内心、健康のためにはよろしかろうと、あえて我が家のルールに従ってはいるのだが、愛飲家と愛煙家にとっては天国だったはずのフィリピンも、そうとばかりは言っていられないようだ。

我が家の禁酒令 2014年3月12日



2月24日はジェーンの3?回目の誕生日だ。残念ながらカーネル(ジェーンの旦那)は多忙で出席できなかったが、昼はしゃぶしゃぶ(天天の火鍋風)、夜は焼肉としゃれ込んだ。冷蔵庫に長いことしまってあった「焼肉のたれ」もようやく日の目を見ることができた。レストランで食べたら一回につき3000ペソはくだらないところを、2回で1000ペソで済んだとジェーンはうれしそうだ。それでも、普段とは違う雰囲気にKIANをはじめ、皆、大喜びだ。 催し物が大好きなKIANは終始ご機嫌で、食欲も旺盛だった。 昼は見かけなかったバースディ・ケーキがカーネルの取り計らいで、夜には届けられ、KIANは相変わらず、自分のバースデイと勘違いしているようで、ケーキを抱えてうれしそうだ。ろうそくがないのがちょっと残念だった。 さらにキムが新しいバラの花をカーネルから届いていると教えてくれた。つい先日、2月14日のバレンタイン・デイには赤いバラの花束があったが、今日はピンクのバラの見事な花束だ。KIANにはこの花束にどういう意味があるのか理解できないらしく、いつもの微笑がない。       実はジェーンには、もう一回誕生日がある。2ヶ月遅れの4月24日だが、これは役所に届けられている誕生日で、出生証明にはこの日が誕生日となっている。もちろんパスポートにも、この日が誕生日と記載されている。 3?回目の誕生ともなると、本人はさほどの感激はないようで、ごく内輪のささやかな誕生会だった。しかし、ジェーンは朝から、「誕生日おめでとう」の返事に忙しく、数百通に及ぶ携帯メールが入ったそうだ。

ジェーンの3?回目の誕生日 2014年2月26日


現在、フィリピンでもっとも人気があり、偉大なタレントと言えば、バイスガンダ以外に名を上げることはできない。かつては、シャーロン・クネタ(女優、歌手)、クリス・アキノ(女優、現大統領の妹、英雄コーリーアキノ元大統領の娘)あるいはフェルナンド・ポー(俳優、元大統領候補)やドルフィー(コメディアン)など、時代を画するタレントがいたが、現在は、バイスガンダ以外にこれといったタレントはいない。キム・チューやサラ・フェロニモ、マリアン・リベラなどの女優は単なる可愛子ちゃんで、タレントと呼ぶには程遠い。 バイスガンダとは「バイス」がVice Presidentの「VICE」で副という意味、「ガンダ」はタガログ語で「美」という意味の二つの単語を合成したもの。オカマのバイスガンダにはぴったりの名前だ。彼は、ちゃきちゃきのコメディアンで雰囲気的には日本の物まねタレントののコロッケに似ている。しかし、その抜群のトークは、上院議員のミリアム・サンチャゴ女史や元大統領のエストラーダを手玉にとって笑わせてしまったというほどのものだ。彼の話術にかかると、可愛子ちゃんタレントも、つい本音が出てしまい、テレビで何でもさせられてしまうほど。彼はオカマであることを前面に出して、かえってそれを売りにしている。男でもない女でもないバイスガンダに誰もが心を許し、打ち解け、その話術に翻弄される。               テレビではいつも厚化粧に真っ赤な口紅をつけて登場、フィリピンのオカマのアイドルでもある。180cmの長身で舞台でもかなりの存在感がある バイスガンダは、かの東洋一と言われるスラム街、トンドで1976年3月31日に生まれ、本名はJose Marie Borja Viceralという長ったらしい名前(奇しくも、今日、2月24日が誕生日の私の相棒のジェーンと同い年だ。しかも、3月31日はKIANの誕生日でもある)。父親はバランガイ・キャップテンでオカマのバイスガンダには、いつもきつくあたっていたらしい。しかし、バイスガンダの目の前で射殺され、それが、バイスガンダのトラウマになっている。Far East University(FEU)で政治学を専攻したバイスガンダは1999年から芸能活動を開始した。はじめは、ナイトクラブなどでコメディをやっていたせいで、下ネタ中心のジョークで、嫌いな人もいるが、そのハイセンスなジョークには誰もが舌をまいて笑い転げる。学生時代はなんとも当たり前な顔つきだった  2009年、ABS-CBNテレビの番組「It’s Showtime」で、メジャーデビューを果たしたバイスガンダは、タレントとして不動の地位を確保した。2011年には「Gandang Gabi, Vice!(こんばんわバイスです)」が開始され、バイスガンダがテレビに出ない日はないほどになった。現在は、クリス・アキノに取って代わる、間違いなくABS-CBNの看板スターだ。 有名人や有名タレントをスタジオに呼んでのトークショーはゲストの意外な一面を引き出して、笑いにつなげる 2010年5月、統一選挙ではビニャイ、マカティ市長候補に対立したメルカド候補の選挙戦にに出演(?)、舞台を縦横に歩き回るパーフォーマンスに聴衆はやんやの喝采を送った

バイス・ガンダの物語 2014年2月24日