風俗・風物


 ここのところ、もっぱらお世話になっている花街がエイシアン・エンターテイメント・ネットワーク・マニラだが、安心、信頼、満足の3拍子そろったお店だが、その灯が消えようとしている。先日、日曜日、客を案内して、久しぶりに覗いたところ、看板のネオンは輝いてはいるものの、ドアにはCLOSEという小さな看板が掲げられて、「消毒で臭いので今日は開けられない」と、ガードが訳の分からないことを言っていた。そのままでは、客がおさまらないので、隣のDynasty Realに行って様子を聞いてみた。  そこのママさんの説明によると、土曜にNBI(検察庁のような組織)の手入れがあり、フロア・マネージャーや女の子、150人ほどが連行されてしまったそうだ。居合わせた客は、勘定を済ませて帰らせられ、何もなかったらしい。月曜になれば、NBIのオフィスが開くので、話がついて店も再開されるだろう、もし、そうでないと長引くかもしれない。他人事ではないので、ママさんは心配そうに話をしていた。  そして、火曜日に様子を見に行ったら、逞しく再開していた。しかし、謹慎・自粛中で、舞台のダンスはツーピースのセクシーダンスまで、テーブルに女の子を呼ぶことはできても、それ以上のサービスは一切無し。まさに、フィリピンのナイトクラブとしては半身どころか、全身麻痺状態だ。ウエイトレスたちは「Well Come Back」と、やけに愛想が良い。店が閉鎖されてしまっては、彼らは職を失うわけで、まさに、復活を祈っている様子がひしひしと伝わってくる。店の存続は偏にわれら顧客のひいきに頼っているのだから、愛想が良くなるは当たり前だ。  しかし、客足はまばらで、女の子の数もかつての3分の一程度、いつも10時くらいになると満員だったころが嘘のようだ。馴染みのマネージャーや女の子の話によると、かなりのマネージャーがNBIに拘束されたままヒアリングが継続しているそうで、それが無事に完了したら、元のように戻るであろうとのこと。ちなみに、席に着いた女の子は、当日、NBIの事務所に連れて行かれヒアリングをされたが、それだけで、解放されたとのこと。マネージャーはストックルームに2時間もの間、隠れていて難を逃れたそうだ。  そうなると、可哀想なのが、女の子達だ。出勤しても、テーブルに呼ばれてドリンクのコミッションだけでは足代位にしかならない。だから、半数以上は家で寝ていたほうがましとばかり出勤しないそうだ。もっとも客足もまだまだだからバランスがとれてはいるが。  数日後、件の客とよからぬ企みを持って、お店に行った。それは女の子をデートに誘って、外で抜け駆けをしようというものだ。収入がほとんどなくなってしまったかわいそうな彼女らを救おうといういうボランティ精神なのだが、店には少々後ろめたいところだ。  女の子達は、二つ返事だったが、デートの当日、見事にすっぽかされてしまった。客がボランティで提案したのだから、これを素直に喜んで見せる、これもまた、彼女らの営業トークらしい。そうなると、一刻も早く、元のエイシアンの復活を願うところだ。決して、ミス・ユニバーサルの後は追わないで欲しい。

また一つマニラ名物の灯が消えた(その6) 2013年8月5日


7月も半ばを過ぎると、マニラにはいよいよ本格的な雨が降って、道路の冠水も日常茶飯事となる。パソンタモ通り沿いの和食レストランやカラオケが集中するリトル東京/マカティ・スクエアあたりは、よく道路冠水が起きることで有名だ。道路冠水の原因は、もちろん大雨だが、小一時間ほど、ちょっと強い雨が降るだけで、低い場所にある道路は簡単に冠水してしまい、いたるところで道路網が寸断される。ジープニーやSUVならば、水しぶきをあげて走り去るところだが、タクシーなどのセダン・タイプの車は、かなり必死の覚悟で走らなければならない。一旦エンジンが止まってしまうと、排気口から水が逆流して、エンジンがかからなくなってしまうためだ。こんな時に役に立つのがエンジンのない車、すなわち自転車なのだ。 道路冠水は雨季(6月~11月)のマニラの風物で、いたるところで、道路が冠水し、交通が麻痺する  10年ほど前にパソンタモ通りではかなり本格的な下水道工事が行われたが、効果があったのは1~2年で、すぐに元にもどってしまった。そもそも、マニラは地形が平坦だから、いくら道路に沿って排水溝に埋設したとしても、勾配がほとんどないから、流速も小さくて、土砂やごみが堆積して排水路の断面がすぐに小さくなるか、ふさがってしまう。  フィリピンでは予算の関係か、メンテ(維持管理)というものをほとんどしないから、せっかくの排水溝が宝の持ち腐れになってしまうのだ。もし、適切な勾配を維持しようとしたら、末端で水位が海面以下となって流れる先がなくなってしまう。そのため地下に大規模な貯留槽を作って、ポンプでくみ出す等、大規模な工事が必要になるのだが、そんなことは予算の関係でとてもできない。  しかもフィリピン人の悪い習性として、ゴミは下水に捨てるということがまかり通っている。特にスコーターではこの傾向が顕著で、行政の頭痛の種となっている。そんなわけで、道路冠水は雨季のマニラの風物誌として不動の地位を守っているのだ。 2009年台風オンドイによる首都圏の洪水被害は、我がコンドミニアムの前の道路も1m近い水位となってしまい、2週間近く首都圏の機能が麻痺した。    ところが、2009年、台風オンドイの影響で首都圏マニラを襲った大洪水はちょっと事情が違う。マニラの排水を一手に引き受けるパシッグ川が、上流からの大量の雨水と、満潮が重なって、水かさを増し、堤防を越えて陸側に流れ込んでしまったのだ。その結果、空からの雨水と川からの雨水が溜まって、まさにマニラが大きな水溜りになってしまったのだ。この時は排水溝がパシッグ川に流れ込むところに設けられている水門やポンプは、なんの役にも立たなかった。  本来、マニラ上流の雨水は一旦ラグナ湖にためて、大雨の後、徐々に海に流す洪水対策が取られている。この時は、ラグナ湖の水位が上昇して、貯留池としての役割を果たすことができず、大量の雨水がパシッグ川からマニラを襲った。すべてが想定を上回る大雨のために起きたのだが、その辺の解決策は政府レベルで進められているはずだ。 パシッグ側の水位が高いときは水門を閉めて、雨水の逆流を防ぎ、同時にポンプで排水する。従って、満潮で水位が高いときに強い雨が降ると、雨水の流れる先がなくて、至るところで道路冠水が発生する  さて、いよいよ本題だが、マニラ市は、最近、スーパー等で使うレジ袋をすべて紙製のものに変更するという施策を実行した。そこで、運転手役のボボイに質問した。「何故、プラスティックの袋を紙袋に変更したのか?」と。彼は、「知らない。」と答えた。さらに「それは良いことか?」たずねたら、「良くない。とても不便だ。」と回答し、会話は先へ進まなかった。  さらに。17歳のキムに同じ質問をした。キムは「それは地球のCO2を減らし、オゾン層の減少を防ぎ、地球の環境破壊を防ぐためだ。」と学生らしい回答だった。しかし、これではマニラ市の役人の思いを全く理解しておらず、市民の協力を得るまでは道のりは遠い。 首都圏の小売店の袋はすべて紙製に換えられた。紙であれば、薪代わりに使うこともできるし、捨てられてもいずれ溶けて流れて下水管を詰まらせることもなかろうというわけだが、その努力は報われるのだろうか  そこで今度はジェーンに質問した。ジェーンは即座に「下水道を詰まらせているプラスティックのゴミを減らし、洪水の元凶となっている排水管の詰まりを解消するためのものである。」と回答した。さらに続けて、「私は、買い物袋を持って買い物に行くので、紙の袋さえも必要としていない。それを徹底するために、いっそ、レジの袋を有料にすればいいのだ。」という、模範解答が帰ってきた。   そこでボボイの回答を披露すると、「庶民は、公共の利益については全く関心がなく、自分の利益だけを追求している。なかには、下水管をプラスティックで塞いで道路冠水をわざわざ引き起こし、それで、人や荷を運んだりしてチップを稼いでいるけしからん輩までいる。だから交通整理の係官は雨が降って交通整理の仕事がないとマンホールがプラスティックで覆われていないか見回っているのだ。」と憤慨し、庶民の意識の低さを憂いでいた。庶民レベルまで彼女のような意識を持ったら、マニラももっと住みやすくなると思うのだが、先の長い話だろう。

道路冠水/洪水と紙製レジ袋の因果関係 2013年7月20日



  世界で一番長くクリスマスを祝う国として名高い(?)フィリピンだが、10月から始まった飾りつけも、クリスマスまで1ヵ月を切った11月末、街には嗜好をこらしたクリスマスツリーがあふれ、マカティを横断するアヤラ通りも新しいデザインの電飾が美しい。 毎日のように史上最高値を更新している平均株価に象徴されるフィリピン経済の好調は、必ずしも庶民の生活を潤しているようには思えないが、大統領府–マラカニヤン宮殿の前にも巨大なクリスマスツリーが飾られ、ご満悦のアキノ大統領が新聞の一面を飾っていた。 昨年は、なぜか実施されなかったが、国際都市–マカティの中心にある広大な緑地帯、アヤラトライアングルでは、壮大な電飾ショーが毎夜、30分毎に繰り返されている。この日は、この電飾ショーを見物するために、食事の後、KIANを連れて出かけていった。 ショーが始まるまで30分ほど待たされたが、KIANは、広々としたアヤラタワーの広場で、従妹のアレアと走り回っていた。電飾ショーが始まると、KIANは一体何が始まったのかと、きょとんとしていた。  音楽にあわせて電飾がめまぐるしく変化するショーそのものは、ほんの5分ほどだったが、帰り際、知らぬ間に広大な緑地帯は人で埋め尽くされていた。電飾の上にそびえるアヤラ財閥の象徴のアヤラタワーがいかにも大都市の様相を示している。動画が重過ぎて、アップロードできないのが残念だ。 マム・ジェーンが通うジムのあるRCBCプラザのロビーの飾りつけが見事だというので帰りに寄ってみた。そこにも中々ユニークなクリスマスツリーがそびえていた。 もうすぐ、クリスマス、人々は、この日が来るのを指折り数えて待ちわびて、一家の大黒柱を自負するマム達は、家族へのクリスマスギフトの買出しに余念がない。クリスマスが近づくと値が上がると、9月から問屋街のデビソリアで買い物にいそしんでいたマム・ジェーンは、すでにあらかたの買い物を終えてしまったようで、せっせと故郷のビコールに送りつけている。

アヤラ・トライアングルの電飾ショー見物 2012年11月30日


  私の20年以上の友人で建築屋のフィリピン人にKIANが、彼の孫のNathanちゃんの1歳の誕生日に招待された。以前KIANの誕生会を紹介したが、フィリピンでは1歳の誕生日は特別で、友人や親戚を集めた盛大なパーティでに赤ちゃんを紹介し、世の中への第一歩を祝い、そして、この子の将来のサポートをお願いするのだ。そのために、盛りだくさんの料理や出し物で招待客を振る舞う。しかし、当の赤ちゃんは何もわからず、ただ戸惑うばかり、KIANの時も熱を出して具合の悪いKIANにとってはとんでもない迷惑だった。 会場は、マカティでも最高級のコンドミニアム群が立ち並ぶロックウエルのコンドミニアムの1階のファンクションルームで開催された。Nathanの母親(私の友人の娘)は30代でネッスルのバイス・プレジデントに抜擢された名門ラサール大学出身の才女だ。 他人のパーティを乗っ取ってしまうのが得意のKIANは会場に入るなり、舞台に上がって、音楽にあわせて得意のダンスを披露している。パーティではいつも自分が主役と思い込んでいるKIANだ。そんなKIANを観客も大喜びをして、パーティを盛り上げている。 主催者の親戚の女の子に気に入られて談笑するKIAN。 招待客の主役は子供達だから舞台の周りは子供用のテーブルと椅子が用意され、さながら幼稚園のようだ。 会場の外のガーデンの一角にしつらえられた料理は100人前、ケータリングサービスのウエイトレスが料理を盛ってくれる。KIAN(中央)は必死に曲芸を見つめる。 曲芸や腹話術で子供達を楽しませることは誕生会の必須事項で、曲芸には夢中になっていたKIANは腹話術は意味がわからず飽きてしまっていた。 恒例の誕生ケーキに親子でロウソクを吹き消すセロモニー。KIANも遠くから息を吹いて応援している。 会場は風船で飾られ、ポップコーンや綿菓子などの屋台も出ている。 この写真が友人だが、70歳に手が届こうというのに、髪は黒々として、まだまだ現役のバリバリだ。Nathanは終始知らん顔だった。

KIAN、1歳の誕生会に招待される 2012年6月28日



 コロナ最高裁長官の弾劾裁判がたけなわのころ、息子とタクシーに乗って色々話をしていたが、ラジオのボリュームが大きすぎて話ができない。ドライバーにボリュームを下げるようリクエストをしたら、今大事な番組をやっている、国民は皆、ことの行方に夢中になっている、とえらい剣幕で文句を言われた。結局ドライバーはラジオのボリュームを下げず、弾劾裁判の中継に聞き入っていた。なにしろスピーカーは後部座席の耳元にあるので、わけの分からないタガログでがなり立てられたのではたまったものではない。件のドライバーは客がどうのというよりコロナ長官の私財の詳細についての暴露に夢中になっていたのだ。 最近はほとんどのタクシーは白い車体で、区別がしやすくなった  ちなみにタクシーに乗るとドライバーはボリュームを上げる。これは彼らにとっては客へのサービスのつもりなのだ。それをうるさいと言ってボリュームを下げさせるのは、一説によると日本人くらいのものらしい。今回も、大事な番組だから、我々も聞き耳を立てるべきだと説教していたのかもしれない。しかし、いくら言われても、我々はタガログ語が理解できないから、雑音にしか聞こえない。 別の機会に、口笛を吹くドライバーにお目にかかった。気持ちよさそうに運転中口笛を吹き続けているのだ。この口笛は、ドライバーに限ったものではない。セキュリティーガードも退屈そうに口笛を吹いているのを良く見かける。昔、駐在員として子会社の経営をしていたころ、社員が口笛を吹きながら廊下をあるいているのを注意するよう部下に命じた。これに対し、それは無理だと拒否された。彼はとても気分を良くしているのだから、それをとがめたら怒る、というのである。 それを思い出してドライバーに口笛を止めるようには言わなかったが、その口笛はタクシーを降りるまで続いた。  退職者の方で、タクシーを苦手とする方が多い。乗るときあるいは降りるときの値段の交渉がいやだというのだ。悪いドライバーは平気でメーターの2~3倍を吹っかけてくる。色々交渉して、1.5~2倍くらいで折り合いがつくのだが、それが面倒だというのだ。高くてもいいから正規料金をすっきり済ませたいのが日本人だ。最近では空港のイエロータクシーでさえも料金をごまかすので始末が悪い。 空港の送迎専用のタクシーは黄色で、ナンバープレートはレンタカーの分類となっている  確かに、最近はガソリンが高止まりして、初乗り35ペソを40ペソに上げたのも焼け石に水で、まともにやっていたのでは、一銭の稼ぎにもならないだろう。首都圏の万年渋滞もこれに輪をかけている。車の値段やガソリン代は日本と大差がないのに、初乗り40ペソ(80円)というのは奇跡の数値だ。タクシーのドライバーでなくても2倍や3倍に吹っかけたくなるのも無理はないだろう。  さらに、つりをまともに返すドライバーはめったにいない。60ペソ以上の料金で100ペソ払うと、サンキューといってほとんどの場合はそのまましかとしている。私としては20ペソよこせと催促するのだが、言えばちゃんとよこす。いずれにせよ、面倒なやりとりを毎回繰り返さなければならないのは、退職者にとってはいかにも面倒なことだ。  それにつけても、しゃくに障るのは、必要なときにはめったにつかまらないのが、タクシーだ。乗客を乗せていないのに素通りしていく。そして逆に必要のないときに、やたらと声をかけてくるのだ。雨の日の夕方などはタクシーを捕まえることははなからあきらめておいたほうが良い。

フィリピンのタクシーは公害か 2012年6月6日


 一ヶ月ほど農場に滞在した息子がマニラに戻ってきた。二日ほど滞在して日本に帰るとのことだ。ゆくゆくは農場に家を建てて暮らすつもりで、年に4ヶ月くらい日本に出稼ぎに行くという優雅な生活を夢見ているようだ。しかし、一人で特に目的もなしにただいたのでは退屈してしまい、いい加減、農場滞在も飽きがきたようだ。 息子は毎年やってきているので、タバコ市のジェーンの姪や甥とは仲良しで、ハイスクール3人組とマミーそれに5歳のヤナが、息子を見送るのだとバスでマニラにやってきた。すでに、この夏休みをマニラで過ごしている小学生組み3人、それにKIANとキム、それに私と息子を含めて5人の大人が加わって総勢15 人が天天火鍋で食事を取ることになった。  息子が負担したバス代が5人分で6000ペソ、天天での食事は私が負担したが切り詰めて3000ペソ。想定外の出費が続く。6人のマニラ行きは息子が皆に見送って欲しいとリクエストしたと言うことだが、そういわせるように仕向けたに違いない。日本人には500kmの道のりをバスで駆けつけて送迎するという発想はないし、マニラ行きが決まったときの彼らの喜びようは尋常ではなかったらしい。 久しぶりの天天の食事に大いにご機嫌なのがKIANだ。この日は、よほどお腹がすいていたと見えて、食べ物が用意できるのを待ちかねて、ソースをさらについでなめるという芸当までやってのけた。それにイカ・ボールを箸にさしてソースをつけてほおばるという仕草は、とても2歳と2ヶ月の子供とは思えない。 帰りは、15人が一台の三菱モンテーロに乗り込んだ。元々2・3・2の7人乗りだから、後ろの2列は6人づつが二重にになって座っていたことになる。運転手以外は皆、ひざに人を載せていたことになる。 翌日はキムを含めたハイスクール4人組に息子と来比中の客と一緒にタガイタイに出かけた。タアル・ビスタホテルの眺望、マホガニーマーケットの果物や牛肉の屋台を堪能した後は、20軒ほど並ぶトロトロ・レストランの一つで食事だ。  目玉はもちろんタガイタイ名物のブラルー(牛のすね肉のスープ)、それにカルデレータ、イカのアドボなど、どれもおいしいと、好評だった。〆て1500ペソは妥当なところか。 食後に、4個で100ペソのパイナップルを、300ペソで12個を買い求め、この日のおみやげとした。これらはタバコへのお土産として翌日にはなくなってしまったが、もっと買っておけばよかったと後悔しきりだ。その辺においてあるバナナは、一房全体で100ペソもしないだろう。荷台がないので購入は断念した。  マーケットと食事だけではハイスクール組みには物足らない。タアル・ビスタホテルの脇にある乗馬場で、30分250ペソを200ぺそにまけさせて初めての乗馬体験を楽しんでもらった。  同行した日本人(女性は)は乗馬も趣味だそうだが、日本なら半日くらい楽しんで万札は固いと、その安さに驚いていた。当方はちょっと馬に乗せてやっただけで800ペソの出費はかなり痛いのだが。しかし、わざわぜタバコから10時間かけてやってきたハイスクール組みにとって、新学期を控えた夏休みの最後に、この位の楽しみがないと、息子としても友好関係は維持できない。    その後、タガイタイで当社のゲストハウスとしても機能している退職者の家を訪問して、この日の締めとした。左はジェーンがKIANにつくってやった車だ(本ブログとは何の脈絡もないが)。 翌日は、いよいよ息子の日本への出発、全員で見送りだ。空港へは車の定員の関係で子供中心となったが、それでも全部で12名がPAL専用のターミナル2で見送った。  30年以上前に成田空港ができて以来、見送りなどという習慣には無縁となっていたが、車一台に鈴なりに乗り込んで見送ったり出迎えたりするという習慣は、いつまでも続いて欲しいフィリピン名物だ。 […]

息子の帰国の見送りに大騒動 2012年6月5日



  このほど、MAさんのフィリピン人との結婚の手続きをお手伝いする機会があった。結婚式はアンヘレスの近くのマガランというところで、そのため、相棒のジェーンとともに立会い人として出席した。マガランはアンヘレスから20分くらいのところだが、典型的な田舎町だ。  MAさんは私と一緒の昭和22年生まれの64歳だ。先妻とも別れて、今は一人ぼっち、まだ現役で働いてはいるものの、将来一人暮らしでは介護などの状況に陥ったとき、面倒をみてもらう人もいないという憂いから、まだ30歳のフィリピーナを再婚の相手として選んだ。彼女の実家には今回初めての訪問だが、2週間の滞在がまるで島流しのようでかなりストレスがあったとのこと。この経験を活かして将来の住処など間違いのないように計画したいと言っている。 妻となったフィリピーナは10歳前後の子供を二人持つシングルマザー、日本に働きに行った経験もあり、片言の日本語を話す。彼女としては結婚してしばらくは日本に行って、家の資金を貯めたいという目論見がある。いわば双方とも典型的な結婚の動機をもっている。 式はマガラン市長が執り行ったが、なかなか厳粛なもので、この間約20分、新郎のMAさんは感激で涙が出そうになり、初婚の妻はMAさんが震えていたと笑っていた。単なる立会人として出席した私は、急遽通訳もやらされてちょっとあせった。 新郎新婦による恒例のキスの場面ではMAさんの照れは尋常ではなかった。しかし生まれも育ちも思惑も違う二人が、これから夫婦として一緒に暮らしていくことは容易な事ではないだろう。妻の執拗な金銭的要求をいかにはねつけていくか、もちろんできるだけのことはするにしても、ないものはないと、きっぱりはねつける固い意志も重要だ。よく話しあって納得づくで進めることが大事で、決して短気を起こしてはいけない。3周りも上の人間を生涯一度しかできない結婚の相手に選んでくれただから、その覚悟を汲んでやらなければならない。 ところで、フィリピンでの婚姻の手順は下記となる。 ① 結婚要件具備証明書の日本大使館での取得(戸籍謄本を準備、離婚歴がある場合はその記述があるものも用意する) ② 婚姻許可証を妻の住まいのある市役所で取得。10日間の掲示を経て発行される(具備証明のほかに、妻の出生証明、未婚証明(CINOMA)などが必要) ③ 挙式(牧師、判事、市長などが式を執り行う資格を持っている) ④ 市役所での婚姻証明書の取得 ⑤ 日本大使館あるいは日本の最寄の市役所あるいは日本大使館に婚姻の事実を届け(①から④までの手順で作成・取得したすべての書類を翻訳して提出する)、戸籍に反映させて手続きは完了する なお、手続きを簡単に済ますためには①から④間での手続きを市役所の登録事務所に一括して任してしまうことだ。いくばくかの金で約2週間でやってくれる。したがって、①から⑤まで、約3週間の滞在で完了できる。 式を終え、婚姻許可証の発行にも目処がついて、MAさんはほっとした様子。さすがに新婦と寄り添って幸せそうだ。新婦の二人の子供も加わって、市長室で記念撮影を行った。  この後、身内の人が集まって披露パーティを行うそうだが、そのときの姻戚一同の騒ぎっぷりは想像に難くない。

MAさんの結婚 2012年5月2日


  サウス・スーパー・ハイウエイとブエンディ通りの交差点近辺、あるいはマカティ・アベニューを夜半に車で通りかかると、サンパギータ売りの少女が車から中を覗いて、手にしたサンパギータの首飾りを買って欲しいとねだる。ご承知の通り、サンパギータは国の花で、車の中に飾るといいジャスミンの香りが車中に広がる。こんな夜中にいまだ花を売り歩かなければならない境遇を哀れんで、つい財布の紐が緩む。昨夜、小銭がないのでタクシーの運ちゃんに20ペソを貸して欲しいと言ったら、拒否されてしまった。「花を買ってはいけない」というのだ。「かわいそうだから」というと、「そうではない」という。何か納得できない気持ちで帰ったが、何故いけないか、ジェーンの教えを請うた。 道端で客待ちをする少女達、カメラを構えるとなぜか顔を隠す。ジェーンは彼らが犯罪に寄与していることを自覚しているからだという。  ジェーンいわく、「サンパギータを売っている少女達はシンジケートに組み込まれていて、売り上げは皆バックの黒幕のものになる。彼らは子供達を利用してあくどい商売をしているのだ。また、夜中に車の窓を開けると間髪をいれずに大人が手を車中に突っ込んで、引ったくりやホールドアップをするから、きわめて危険だ。さらに外国人がお金をばら撒くと、この商売を助長することになり、ますます多くの子供たちが利用され、犠牲になる。だから花を買ってはいけない。」と、納得の行く説明をしてくれた。  バクララン教会前では大量のサンパギータを売っている。このおばさんはシンジケートとは関係はないのだろう。また、キアポやデビソリアでよく見かける買い物袋を売る子供達。これはきっと、親の商売のお手伝いjをしているに違いない。  マカティでもカラオケを出ると少女がバラに花を売っている。1本10ペソくらいで仕入れたものを100ペソで売っているのだろう。中で指名するGROにプレゼントをしてやれというところだが、彼らもシンジケートに組み込まれているという。確かに同伴したGROは黙っているだけで買ってやるように勧めない。しかし、バラの花売りの少女は比較的美形が多いのは何故だろう。  パソンタモのカラオケの前でバラの花を売る少女、そいてプエルトガレラのホワイトビーチで手編みのブレスレッドを売る少女。皆可愛い顔立ちをしている。  エルミタやマカティアベニューの繁華街には日中、乳飲み子を抱いてお金をねだるイタ(原住民の一種)のおばさんがいる。哀れそうなやせた顔と眠りこける赤ん坊で同情を引く作戦だが、彼らもシンジケートの一員だという。どこからか調達されてきた赤ん坊は猛暑の中でも眠りこけているが、薬物で眠らされているらしい。彼らにお金を与えることも単にシンジケートを潤わすだけで、犠牲となる赤ん坊を増やすだけだから、やってはいけないという。  島耕作の漫画で、インドではこのような子供達が観光客の同情を引くようにシンジケートに腕を切り落とされようとする場面で島耕作がその子を買い取るという話があった。それに近い状況がフィリピンにもあるようだ。

サンパギータ売りの少女 2012年2月24日



  朝、食卓の上においてある赤いバラの花束を見て、今日はバレンタイン・デイであることを思い出した。これは、カーネルがマム・ジェーンに買ってきたものに違いない。  女性がチョコレートを意中の男性にプレゼントするのは日本だけで、海外ではもっぱら男性が赤いバラの花を女性にプレゼントする。この場合、意中の人、というよりも恋人や妻など釣った魚へのえさとしてプレゼントする。これをしなかったら、翌年のバレンタインが来るまで、口をきいてもらえなくなるから、男性も必死だ。したがって、この日、バラの相場が跳ね上がるのは当然の慣わしだ。 朝方、やけに血糖値が高いので、クリニック、PRA、銀行などの用事を歩いて済まそうと思った。アヤラ・アベニューのはずれにある消防署の近くまで来ると大きな花屋が開いている。もちろん売っているのは赤いバラの花だ。消防自動車の赤に赤いバラ、その辺一体は真っ赤だった。 私が40代で現役のころ、バレンタインの日に大量にバラの花を仕入れて、あるカラオケ店のお姉ちゃん全員に配ったことがある。義理チョコならぬ、もてたい一心のいわば義理バラだ。しかし、義理バラという概念はフィリピンにはなくて、あくまでも一発必中の本命バラしかない。もちろん花束は大きければ大きいほどよくて、フィリピン男性は、この日、数千ペソの大枚をたかがバラにつぎ込むのだ。 14日のマニラ新聞はカラオケのコマーシャルでにぎわった。単身赴任の一人身でガール・フレンドもいない寂しい日本人駐在員に、この日だけのにわかガール・フレンドを提供しようという魂胆だ。私も、こんな夜を一人で過ごすのも寂しいと、おなじみのAsianに向かった。9時ちょっと前に入ったのだが、客は私一人でがらんとしている。妻もガールフレンドもいなくて、こんな日に、こんなところにやってくるのは私くらいのものから、ちょっと寂しい思いもした。 それでも9時を過ぎると段々にぎわってきて、馴染みのY子さんを呼んでみたが、休んでいる。こんなかきいれどきに休むなんて、どう見ても本命の彼氏とのデートに違いない。ところで、普段仲良くしている彼女がいるとして、自分が本命かどうかは、この日でわかる。いくら誘ってもデートに応じなかったり、何やかやと言い訳を言ってデートに来なかったとしたら、本命の彼氏が別にいると思って間違いない。バレンタイン・デイは本命の彼氏と過ごすのが鉄則なのだ。もし、この日にデートしそこなったら、その彼女はあっさりあきらめたほうがいい。

2月14日のバレンタインは赤いバラ 2012年2月16日


 クリスマスは敬虔なフィリピーノにとっては1年で一番大事なイベントだ。地方では大都市に出稼ぎに行っている人々が皆、家族の待つ田舎へ帰る。タバコも例外ではない、街は、いつもの倍の人々であふれる。  タバコの中心、シティホールの前の広場は電飾で飾られ、久しぶりの再開を喜ぶ人々で夜中までにぎわう。  シティホールの前にしつらえられた特設舞台では歌自慢の子供達が、自慢のクリスマスソングで人々を迎える。 そして正月を迎えるために花火と爆竹は欠かせない。この日のために10軒ほどの花火やが軒を連ねていたが、もう今年も残り少ないというのに、たくさんの花火が並んでいる。売れ残ったらどうするのだろう。年をあけて来年になったら買う人もいないから、年内に売りつくしてしまおうと必死だ。しかし、買う人はほとんど見かけない。毎年多くの人が花火で怪我をしたり、命まで落としてしまう人がいるという。

クリスマス・イン・タバコ 2012年1月15日