風俗・風物


 10月9日(土)、私の相棒、ジェーンの赤ちゃん、キアンのバブティスマル(洗礼式)は滞りなく終わった。この日から、キアンはキリスト教信者として世間に受け入れられ、社会生活をスタートしのだ。  式はパスコの事務所に近いSacred Heart Churchで行なわれた。件の学校調査においでになった家族をホテルでピックアップして、丁度10時に教会に到着したが、ジェーンの家族などが外にいるので、てっきり式は始まっていないと思い、待っていた。そうしたら、礼拝堂脇の小さな部屋ですでに式は始まっていた。フィリピンには珍しく、時間通りに式は始まったが、入りきれない人たちが外で待っていただけなのだ。  式が終わると礼拝堂で記念写真の撮影。家族、友達、日本人の招待客など、グループ別にキアンとその両親を中心に収まる。カメラマンもたくさんいるから、そう簡単には終わらない。本人にキアンは何をやっているのかもわからず、途方にくれている様子だった。 総勢80名近いお客さんのお目当てはもちろん、レセプション、披露宴だ。おなじみの中国料理店「ルートン・マカオ」のメインダイニングルームを貸しきって行なわれた披露宴会場には中華料理が次々と運ばれ、最後はまだ料理があるのかとあきれ返るほどだった。  農場からはるばる500kmの旅をしてきたレチョンは手付かずのままだった。しかし、どんなに料理が残ってもフィリピンでは問題ない。家に持って帰って、夜半までパーティは続くのだ。それにルートンマカオの従業員も多いに恩恵に預かったようだ。  やはり、パーティーを盛り上げるのは歌と踊りだ。会場が狭いので踊りというわけには行かなかったが、バンドと歌手の生演奏が雰囲気を盛り上げ、参加者は皆楽しそうだった。フィリピンの披露宴では余計なスピーチや出し物はない。歌と食事で楽しむだけだ。ただこの日は珍しく、キアンのお父さんであるカーネル・ヤンの挨拶と、飛び入りでジェーンの姪や友達が歌を披露した。  食事が一段落すると、撮影会だ。キアンは各テーブルを回って、記念撮影をする。初めのうちは合わされてお愛想笑いをしていたものの、最後は「いい加減にして」といった感じで不機嫌になってしまった。普段は半日位寝ているのに、朝から大勢の人に囲まれてへとへとに疲れてしまったようだ。

キアンのバブティスマル 2010年10月15日


フィリピン名物がことごとく新政権の影響で廃止、そして復活する中、アンヘレスもその例外ではなかった。遅ればせながら、最近のマニラ新聞に「女性ら 200人を人身売買容疑で拘束」というニュースが載った。今更、売春容疑(新聞には人身売買とあるが)もなかろう、と興味津々だった。たまたまその日アンヘレスに行ったので、その辺の事情を地元に人に聞くと、昨夜、「Forbidden City(紫禁城)」など、4つの店に手入れが入ったというのだ。何故、その店が狙われたのか、100軒以上のクラブがひしめくこのフィールド通りで、見せしめなのか、警察へのつけ届けが滞ったのか、議論は絶えない。  昼食後、早速、フィールド通りを歩いてみると、まず、フィエスタと称しておかしな格好として歩いている団体に遭遇。しかし、フィエスタにしては人数があまり に少ない。タバコ市のフィエスタだって数十~数百人の学生や児童が可愛らしいダンス行進を見せてくれる。観光客のチップ目当てのグループか、などと勘ぐっ てしまう。  そして、確かにあの「Forbidden City」が「CLOSED」と、なにか誇らしげに閉鎖されている。他の店はどう かというと、相変わらずの盛況だ。まだ昼間なので開いている店は限られていたが、私のなじみの「VOODOO」などは座る席が無いくらいの盛況だった。同 行した退職者も「VOODOO」のいかにもフィリピンのゴーゴークラブといった雰囲気にいかにもご満悦だった。右の写真は最近人気のAgasyaの外観。韓国人経営で、日本人好みの女の子が多い。 この日は初めてフィールドの中ほどにあるカレーやさんに入ってみた。「Rikako Curry House」と称したこの店はいつも目にはとまっていたのだが、あまりにもローカルっぽいカレーやさんなので入るのが躊躇された。入り口には女性のヌード の絵など似つかわしくないものが並べられている。 メニューはもちろんカレー中心だが他にも若干ある。カレーの値段は忘れたが気にならないほどだから、200ペソ以下だったと思う。食べてみておやっと思った。当たり前の話しだが、カレーが辛いのだ。日本の辛口程度で、甘党のフィリピン人にはちょっと手が出ない。私には丁度良いが、果たしてこれで一般の 客は喜んでもらえるんか心配だ。フィリピン人用に甘口なんてのもメニューに加えたらはやるのではないかと思った。   […]

アンヘレス最近の話題 2010年9月20日



LAカフェが再開されたという話を聞いて早速取材に出かけた。エルミタのデルピラ-ル通りに行くと確かに開店していた。しかしながら、LA CAFEのLAが消えて、CAFEというネオンがだけが光っていた。また、名前はBAY CAFEと代わっている。早速写真を撮ると、ゲートのガードが写真撮影は禁止だという。せっかくブログに載せて再開を周知しようというのに、余計なことを言うものだ。 カメラをガードに預けて、早速、中に入ってみるとそこにはかつての賑わいがあった。しかし、奥の部屋は客が三々五々いるだけで、まだ再開のニュースは知れ渡っていないようだ。かつてのそれと一目でわかる外人客目当ての女性はそのままだ。彼女達もLAカフェの再開を首を長くして待っていたに違いない。 これで、ほとんどのマニラの名物は復活したことになる。   Bayカフェはチラッと中をのぞいただけで、デルピラール通りを歩いてみた。アマゾニアやバタフライは相変わらず営業しているが、中にはほとんど人はいない。なぜかLAカフェ(Bayカフェ)だけが相変わらずはやっているのだ。. デルピラール通りをUNアベニュー近くまで歩いたところで事件が起きた。ここまで来ると街のネオンも途絶えがちで、カラオケあるいはビアハウス言ってもほとんどがGROのお持ち帰りの可能な少々品の悪い店が多い。5mほど店が途絶え、暗くなったところで、新聞を腕に巻いた男が近寄ってきて、手を出してき た。物乞いにしては威勢が良い。ポシェットを触るので、先日のスリの経験の記憶もナマナマしい私は思わず手を跳ね除けた。そうするとにわかにすごんで、シノガリン・カ(うそつきめ)と訳のわからないことを言って、1000ペソ払えという。さらにもう二人の男が寄って来て囲まれてしまったのだ。当方はなす術もなく、立ち尽くした。同行した日本人がそれに気づいて、数メーター先からきびすを翻し、すごい形相で戻ってきた。それをみて3人の男は去って行き、事なきを得た。 教訓としては、こんなところに近づかないことだが、もし興味本位で出かけるとしたら、一人では絶対に行かないことだ。数人あるいはフィリピン人に同行してもらうのが間違いない。またさらにポシェットなど、大金が入っていると思わせるようなバッグなどは持たず、とられても惜しくない範囲の若干の金だけを持ち、さっさとくれてやり、その場を立ち去ることだ。 さらに悪いことは続いた。その夜、目にゴミが入った様でやけに目がむずがゆい、あるいは痛い。翌朝、目が真っ赤に充血しているので早朝、医者に行ってみる と、Sore Eyes(昔プールに行って感染した結膜炎のこと)だと診断された。目薬を処方されたが、数日は目の痛みとかゆみに煩わされることになってしまった。どうもデルピラール通りは私にとって鬼門のようだ。

LAカフェが復活(ただし、ホールドアッパーにご用心)2010年9月12日


アンヘレス・シティの花街で働く女性の総数は2万5千人に達すると、スービックでポコアポコ・コンドテルを経営するWさんが話していた。アンヘレスの フィールド・アベニューのクラブの数は約100軒、一軒当たり平均100人の女性が働いていたとしても、1万人にしかならない。一体他の女性はどこにいる のだろう、ウエイトレスも含めた人数だろうか、などと独り言は続く。さらにWさんによると、アンヘレスはアジアではバンコックの次ぐ規模の歓楽街だそう だ。でもその集中度はバンコックに勝るのではなかろうかというのが、当方の印象だ。 一昨年、Nさんの経営するフレンドシップクラブの開所式に招待されて以来、なにかと縁が続き、毎月のように訪れているアンヘレスだが、この日の退職者の案内では、スービック訪問を早めに切り上げ、夜はアンヘレス、フィールド・アベニュー探索というスケジュールとした。    最近は大型店が隆盛で、従来の小さな店には客足が遠のいている。大型店の代表が「アトランティス」、「ドルハウス」、老舗の「ブルーナイル」最近オープン した「紫禁城」、さらにマッカーサー通りの近くには幾つもの大型店が新規オープンしている。一方、小型店として頑張っているのが24時間営業の「ブー ドー」だ(ちょっと目立たないがアトランティスからマッカーサー通りに向って100mほど進んで右側の店)。 まず初めは、9時と10時半にやるショーが見ものの「アトランティス」探訪。最近は細長い風船を舞台と客席でやり取りするのがおもしろい。また、来るたび にショーの出し物が違う。店の普通の子達が毎回これだけのショーを見せるのだからたいしたものだ。ちなみにここには300人の女性が働いているそうだ。       さて、次に案内したのが、小型店の代表「ブードー、VOODOO」、昼間でも比較的多くの客がいる人気店だ。そこに入った途端、びっくり仰天、なじみの子が1年ぶりに戻っていたのだ。うわさではフィリピーノ・ボーイフレンドの子を宿して辞めたはずだったのに。   早速呼んで身の上話を聞いてみた。「19歳の誕生日に酔っ払って寝てしまい、目が覚めたら下半身が痛いので変に思ったが、従兄弟に聞いて、自分がレイプさ […]

あるフィリピーナの悲劇(アンヘレス編)2010年8月23日



日本では消費税引き上げの議論が活発だ。いくら国民の負担増になるとはいえ、政府としては財源を確保しなければ何もできない。借金だけに頼っていてはいつしか破綻して破産宣告をして借金を帳消しにしてもらうなどの処置を取らなければならない。そうなると国債に投資していた金融機関や個人も連鎖して破綻、まさに日本沈没だ。日本はなんともいえない難しい選択をせまられている。  フィリピンではアキノ新大統領が就任するまでの半年間にアロヨ政権は大半の国家予算を使い果たし、新政権の政策に使える予算は年間予算の10%しか残っていないとアロヨ政権を非難している。しかし、アキノ大統領は増税や新税の創設をしないと宣言しているので、安易なVAT(付加価値税、消費税)をあげることは出来ない。賄賂や汚職をなくして、とるべき税金をとりさえすれば財源は確保できるという主張だ。ちなみにフィリピンのVATは12%と先進国並みの重税だ。また、フィリピンで所得税などの税金をまともに払っている企業は皆無だという。税務署が賄賂を見返りに積極的に脱税を勧めるというお国柄なのだ。しかし、現在は新政権の様子見で税務署も沈黙を守っているようだ。       (街中50m毎にあるといわれるコンビニエントストアの元祖、サリサリ・ストア(何でもあるという意味)。日常の生活に必要な品物は何でも売っており、タバコなどは1本づつ、携帯のロードまで10ペソ単位でばら売りをして庶民の生活を支える)     そして、新政権が打ち出したのが、国民の40%が従事しているという零細自営業者への課税だ。現状、課税を免除されているサリサリ、トロトロなどの零細小売業、さらにマーケットの小売商、挙句の果てにトライシクルやパジャックにも所得税を課そうというのである。20ペソ以上の売り上げには領収書を発行して所得課税の基礎にしようというのだが、領収書の発行の手間や税金の計算だけでも大変な手間だ。 (ウエットマーケットあるいはパランケと呼ばれる公設市場は市町村の中心部に位置して、一坪程度の無数の小売商が建ち並び、肉や魚、野菜や果物、乾物などあらゆる食材を最も安く求めることができる、庶民の台所だ) (また、古都ビガンの街では広場に露天商を集めたバザールを開いて商品を格安で売っており、まさに庶民の買い物どころとなっている)  サリサリやパランケの売り上げは1日せいぜい数千ペソで、仕入れ、人件費、家賃などを引いたら、利益はせいぜい数百ペソ程度だ。メトロマニラの最低賃金約400ペソだが、それに届くかどうかといったところだ。それに領収書発行の手間や所得税を払ったら、利益はなくなってしまうと、店主は猛反発しているそうだ。街角のトロトロにしても同様だ。 (トロトロとは指し示すという意味で、調理済みの料理を指でさして注文することから来ている)、1食50~100ペソ程度で食べられて、これもまた、庶民の味方だ。ちゃんと店を構えたレストランとなると100ぺソ以上300ペソ程度もかかってしまう。それにVATもかかる )  一番可哀想なのはトライシクルやパジャックのドライバーだ。例え一日の収入が半分でも車両のオーナーにはバウンダリーと言われる定額の車両賃貸料を支払わなければならないので、学校の休みなど客の少ないときは持ち出しになることもある。そんな彼らから所得税をとろうなどという発想は貧困ということを体験したことのない富裕層出身のアキノ大統領だからこそできるのだろう。与党の下院議員も猛反発しているそうだ、こんなことをしたら、次回の選挙で当選するはずがない。これら貧困層はなんといっても国民の40%を占める大票田なのだ。  地方に行くと交通機関はジープニー、トライシクル(3輪オートバイ)、パジャック(3輪自転車)に限定されるといって過言ではない。街の角々には客待ちのトライシクルやパジャックが列をなしている。彼らの収入は、トライシクルで1トリップ往復で100ペソ程度、一日数回の往復で300~500ペソ程度、車両の使用料150ペソを支払うと200~300ペソ程度の手取りだ。これに対しパジャックは一回5~10ペソで一日の収入は100ペソ程度、自転車の使用料、25ペソを支払うと、一日100ペソに満たない手取りだ (こんな過酷な労働を強いる商売でも長い列をなして客待ちをしなければならないほど供給過剰で厳しい情勢になっている。金を稼ぐのが難しければ使う人も少ないという景気の悪循環だ)  

フィリピン版消費課税の嵐 2010年7月25日


著書「金なし、コネなし、フィリピン暮らし」でも一押しと進めている「ミスユニバーサル(MU)」が危機的状況に陥っている。先の選挙で当選したトリニダッド(Peewee Trinidad)パサイ市長の指示で、MU名物のオール・ザ・ウエイ(全裸ショー)が禁止されたため、客足が激減し、いつも満員の席が3分の一程度しか埋まっていないのだ。例えオール・ザ・ウエイでなくて、ツー・ピースでも大差ないとも思うのだが、それではゴーゴークラブとの差別化ができず、やはり見ごたえのあるショーがないと客がこないようだ。 なじみのフロアー・マネージャーの案内で楽屋に入ってみると着替え中の見覚えのある子達がしきりにテーブルに呼んで欲しいと声をかけてくる。彼女達はテーブルに呼ばれて注文してもらったドリンク一杯に付、何がしかのコミッションをもらうのだが、これが収入の主体だ。テイクアウト(お持ち帰り)の名誉に預かるのはそうざらにあることではない。 8月19日追記  しばらく振りに、覗いてみたら、女の子達は超シースルーのツーピースをつけて踊っていた。急きょ特注したのだろう。ほとんどスケスケでしかも肌色の下着のようなものだから、黒や茶色の部分もはっきり見えて、かえってセクシーに感じる。結局、この辺が市当局との折り合いだったのだろう。しかし、客足は多少戻ったものの、女の子の数は半分程度に減っていて、フィナーレではいつも女の子が舞台から溢れるほどいたのに、たったの5~6人に減って寂しいことこの上ない。  8月29日追記 MUのことが気になって10日振りに覗いてみた。しばらくショーを見ていたが、相変わらずのシースルーでお茶を濁している。10時過ぎになって、ソロ・ダンサーが突如としてブラを取って出てきた。目を凝らしてみてもシースルーのブラはつけていない。ゲストと同席していた女の子に聞いてみたら、ソロ・ダンサーはオール・ザ・ウエイが許されているという(私は財布をすられてしまい、スッカラカンなので女の子のリクエストを自粛)。数分後、ダンサーが誇らしげに下も取って、バタンバタンといつもの大また開きのダンスを始めた。周囲を見渡してみると、いつの間にかほとんどの席は客で埋まり、皆満足げだ。この影には店のオーナーと当局との熾烈なネゴと袖の下が動いたのだろう。いずれにせよ、MUの復活はめでたいことだ。  9月28日追記  9月23日、久しぶりにゲストの案内でMUを覗いてみた。店に入るやいなやダンサーのオールザウエイが目に飛び込んできたが、これはいつものことだ。いや、たしかダンサーはシースルーの下着のはずだった。それがこの日は、全く元に戻っていたのだ。ダンサー達も窮屈なシースルーの下着無しに伸び伸びと踊りを楽しんでいるようにも見えたが、錯覚だろうか。特にこの日は2年ぶりになじみの子が戻ってきており、久しぶりのオールザウエイとともに懐かしさにふけった夜だった。いずれにせよ、MUの完全復活はめでたい。 一方、ゴーゴークラブ8軒が固まっている、エドサ通り、ヘリテージホテルのはす向かいのEDSA Intenational Entertaiment Complex(通称エドコン)も客足が激減している。ちょっとのぞいてみると、腕をつかんで中へ引き込まれてしまう位だ。先日、日本人のたっての依頼で覗いてみたが、中は客一人に対して数十人の女性といった割合だった。こんな調子ではいつまで続けられるのか心配になってくる。  日本人専用のカラオケ・クラブも長いこと閑古鳥が鳴いていた。ほとんどの店は「飲み放題500ペソぽっきり」という謳い文句で客を呼んでいるが、それでも大きな店に数組の客しかいないこともしばしばだった。しかし、最近満員に近い状態のときもあるので、客足が戻ってきたのかという気もしないでもない。新聞の広告もカラオケクラブの広告で一杯だが、いつまでこのバトルが続くのか、淘汰の時が来るのか要注意だ。 ちなみにNTTホテル経営のカラオケ・クラブ「スバル2」がパソンタモのリトル東京の向かいにオープンした。「スバル1」も見ごたえのあるショータイムなどを企画して健在だが、果たして勝算があるのか、カラオケ市場が上向くとの読みなのか、気になるところだ。  […]

また一つマニラ名物の灯が消えた(その2) 2010年7月23日



  5月の選挙で無事再選を果たしたリム・マニラ市長のやったことは、なんとマニラ名物とも言えるほど有名になったLAカフェの閉店だ。エルミタのデルピ ラール通りにひときわ目立つ看板を掲げるLAカフェは出会いを求める男女で24時間ごった返していた。フィリピンに観光に来る日本人でも知らない人はいな いくらいの超有名店で、フィリピン在住の日本人の間でも閉店を惜しむ声がささやかれている。 LAカフェの内部に入るとそこには白人や韓国人そして日本人と、ほぼ100%が外国人だ。そして一目でそれとわかる客を物色して媚を売るフィリピーナ だ。しかし、たくさんいるウエイトレスのほうがはるかに可愛らしく、申し訳ないが食指が動くような子はめったにいない。内部はとても広く、2階や隣の建物にまで拡張されていて、2階にはライブバンドもはいっていた(上の写真を撮った日は世界的にヒットした「アナック」を歌ったフレディー・アギラーのライブ)。  普通のナイトクラブなどとは違って、女性も客として入店していて、ドリンクをおごってくれる男性客をひたすら待ち続けている。ドリンクにありついたら、早速交渉だ。ママさんや店が商売に関わっているわけではないから、その手のお店の3分の1から半分くらいで話はつくようだ。現在、入り口にはCLOSEDと掲示され、ガードは近いうちに再開するとは言っていた。 近 くにある同系のアマゾニア、バタフライなどはそのまま開店中だが、量と質の面でLAカフェとは比べ物にならない。LAが閉店したのだから客と女性がこっち へ流れても不思議ではないのだが、アマゾニアは従来どおり閑散としていて、目を覆いたくなるようなしおれた花ばかりが目に付いた。 ところでリム市長といえば、1990年代初頭、当時ツーリスト・ベルトとも呼ばれマニラ歓楽街の顔のようになっていたデルピラール通りのゴーゴークラブを一 網打尽にした悪名高い市長だ。市長は3期9年が限度だから、一旦上院議員となったリムは、前々回の統一選挙で再びマニラ市長に返り咲いた。そして、初めに やったことが、マニラ湾沿いの観光名所となっていたベイウォークの店を一掃したことだ。 これらの店は、レストランやバラエティーショーを見せるもので、決 していかがわしいものではない。かえってマニラ湾沿いの遊歩道に人を集め、安心して夜歩きが出来ると評判の観光名所だった。それを付近の住民が夜中までう […]

また一つマニラ名物の灯が消えた 2010年7月22日


 タレントあるいはジャパユキさんの日本行きのビザの発給がストップして以来、若いフィリピーナにとって唯一の日本行きの方策は日本人との結婚しかなくなった。すでに結婚をして日本に在住して、アルバイトでフィリピンパブで働くフィリピーナも多くはいるが、若いフィリピーナにとって夢の日本行きは結婚によってのみ実現されると言っても過言ではない。とはいいつつもフィリピンにいて日本人の配偶者を見つけるのは至難の技だ。そのため、プロモーターの斡旋で見ず知らずの日本人と形だけ結婚して、日本行きを目指す、すなわち、イミテーション(偽装)結婚だ。  日本の入管もこの偽装結婚を厳しく監視していて、本当に結婚生活をしているか、自宅訪問をしたりするそうだ。この偽装結婚の謝礼に日本人男性には月々数万円を払うそうで、プロモーターへの支払いなど、ジャパユキさんにとってほとんど収入が見込めないこともある。そうなると、もっと稼ごうと体を売るなどという、かわいそうなはめになっているジャパユキさんも多いようだ。 この子達の日本行きは遠い夢か 晴れて日本行きの目的も達して、それなりの収入も得て、フィリピンにもどり、元の生活に戻る。もちろん結婚という話も出てくるだろう。しかし、日本で離婚手続きをしたとしても、フィリピンでもちゃんと手続きをしないと、結婚の経歴はそのまま残ってしまう。プロモーターに在日フィリピン大使館に届けたから大丈夫だよと言われ安心していても、いざ結婚しようとすると、フィリピンに婚姻の記録が残っていて、婚姻の資格証明書が出ないということが多発する。  従来は、離婚の事実が記載されている戸籍謄本を在比日本大使館に提出して離婚証明をもらい、それをCity Civil Registryに提出し、証明書を最寄の市役所に提出すればよかった。市役所からNSO(国家統計局)に書類が送られ、婚姻の資格証明書が発行された。さほどの手間ではなかったが、ジャパユキさんにとっては必ずしも簡単とも言えない手続きで、これを怠って結婚できないはめになっているフィリピーナも多い。しかし、昨年法律が改正され、こんな簡単な手続きで離婚することが出来なくなってしまったのだ。   ご承知の通り、カソリックの国、フィリピンには離婚という制度がない。一旦結婚したら、それは生涯有効なのだ。しかし、裁判に訴えて、この婚姻が無効であるという判決を裁判官が出したら、その婚姻は初めからなかったことになり、晴れて独身に戻れる(アナルメント)。このようなお国柄だから、日本に行くために結婚して、フィリピンに戻ったら離婚、などという神を冒涜するような行為が許されるはずがない。  そのためか、日本で行なった離婚をフィリピンにおいても有効にするために、裁判所に届けて離婚が正当であるという判決をもらわなければならなくなったのだ。そのためには10万ペソ程度の弁護士費用と半年~1.5年の月日が必要とされるそうだ。ジャパユキさんにとっては気の遠くなるような話だ。念願の日本行きを果たしたとしても、本命の彼との結婚も当分お預けとなってしまう。また、日本人との結婚・離婚を繰り返し、日本行きの手段にしてきたベテランジャパユキさんにとっても頭の痛い話だ。 カラオケはジャパユキ予備軍のたまり場だ   次に結婚だが、かつては出生証明をもっていけば、市役所から比較的簡単に婚姻許可をもらえたものが、現在はNSOからシノマ(Certificate of No Marriage、CENOMA)という婚姻資格証明をもらわなければならなくなった。戸籍という制度がないから、出生証明と婚姻証明がすべてだったフィリピーノには頭の痛い問題だ。同姓同名の人間が結婚しているとすると、その人とは他人であることを証明しないと、シノマが出ない。もちろん過去に婚姻歴があるとそれを正式に抹消していない限りシノマは出ない。  これらの措置は、偽装結婚や重婚による日本行きのビザ取得が日常化ないし商業化しているという状況に政治家が業を煮やしたものと思われる。たしかに神聖な結婚をビザ取得の手段にするなどということは許されるべきものではない。しかも、それをえさにジャパユキ志望の若いフィリピーナの体をもてあそんだり、月々の謝礼を当てにしたり、日本男児の名折れともいえる輩もいるのも腹が立つ。しかし、可哀想なのはかのジャパユキさんだ。こんな手段までとって念願の日本行きを果たし、故郷に錦を飾ったまではいいが、その偽装結婚に生涯縛られるはめになってしまうかもしれないのだ。したがって、政府の狙い通り偽装結婚による日本行きも下火になることは間違いないだろう。

ジャパユキさんの試練 2010年7月7日



   5月10日、統一選挙がついに幕を閉じた。大統領選はアキノ上院議員の圧倒的な勝利に終わったが、毛並みと誠実さだけでは政治はできない、という落胆の声も聞かれる。エストラーダは貧困層の根強い支持で2位につけた。当初優位にいたビリヤールは子供にお金を渡しているところをスクープされたりして3位に失速。知識層が期待するテオドロ・ギボやゴードンは下位に甘んじた。副大統領はアキノ陣営のロハスとエストラーダの相棒であるマカティ市長のビナイの接戦だ。マカティ市長にはビナイの息子ジュンジュン・ビナイが当選した。  大統領選は2月10日、地方選は3月26日に選挙運動が開始されたが、その間、街はポスターであふれ、選挙の応援カーが走り回っていた。選挙運動は前々日の5月8日で終了し、9日は、選挙戦の加熱を防ぐために、アルコール類の販売や提供は例年通り禁止された。 5月8日、マニラの南のバタンガスに行ったおり、地元の市長候補を応援するパレードが大量の人を動員して行なわれていた。もちろんお金で雇われた人たちだろうが子供までが混ざって候補者のシンボルカラーのT-シャツを着てトラックやトライシクルに乗って行列をなしていた。おかげこちらは渋滞に往生した。 選挙当日、我が家のあるバランガイ・サン・アントニオに投票場に出かけてみた。そこには日本の投票場では信じられないような人ごみが出来ていた。私なら、この人ごみを見ただけで投票場をあとにするだろう。有権者リストに自分の名前を見つけて、それが自分であることの証明としてIDを見せ、そして初めて投票を許されるというなんともいえない稚拙なシステムに原因があるようだ。ちなみに有権者数は5千万に超え、投票率は75%だから4千万に近い人が投票したことになる。投票場は約37000箇所だから、一箇所あたり、千人だ。しかし、ここのような人口密集地帯では10倍の1万人くらいになるのではないか。      投票場ではGMAテレビの取材が行なわれていた。投票日の寸前まで不具合が報告されていた電子投票システムが本番でどうなるのか極めて興味深いところだったが、順調に機能していたようだ。     人が集まるところには必ず食べ物の屋台が出るのはどこの国でも同じだ。投票を終えるまでに2~3時間は優にかかるだろうから、喉が渇いたり、お腹がすくのは当然だが、日本の投票場では決してこんな光景は見られないだろう。こんな状態では投票する人はいなくなってしまうだろう。 投票場の近くには今回の選挙で副大統領に立候補しているビニャイ市長の自宅がある。この付近ではちょっと見られない豪邸だ。家の前では冷たいジュースを無料で配っている。当方も少々の喉が渇いたのでご相伴に預かったが、さらにテントの中では只で食事が取れるそうだ。だから選挙期間中は貧しい人も食には事欠かなかったそうだ。ビニャイの自宅の前は粗末な家で、子供達が選挙の様子を伺っていた。また、ちょっと年寄りの人に声を掛けられたが、彼らは票を買う仕掛け人だそうだ。投票権があれば1000ペソほどの臨時収入になるところだった。  ビニャイ市長の自宅の前には別の投票場(サン・アントニオ・ハイスクール)があり、ここにも多くに人が群れていた。赤いT–シャツを着ている人はビニャイ市長の運動員だ。この人たちが何を待って行列をつくっているのか皆目わからないが、皆はただひたすらに順番を待っている。皆、中々忍耐強い。ここでもカメラマンが準備をしているが、きっとビニャイ市長が投票場へあらわれるのを待っていたのだろう。  通りには警察官と兵士が銃を持って控えている。全国で37000ヶ所もある投票場に、これだけの人が待機しているとなると、全国で20万人以上の人が動員されていることになる。カメラをかまえると、是非プリントしてプレゼントしてくれとせがまれた。日本では執務中の警官は、写真を撮ることさえ許されないというのに、むこうから写真を撮ってくれと目で合図してきたのだ。 これは投票用紙のサンプル。大統領、副大統領、上院議員のすべての名前が記載され、その横の○を塗りつぶすようになっている。これはエストラーダ/ビニャイ陣営が作成して配ったものだから、彼らの名前と陣営の候補者の名前だけが、黒い文字で浮き出ている。確かにわかりやすいやり方だ。  

5月10日、統一選挙 2010年5月11日


  4月7日、旅行から戻って、マカティ・スクエアに両替に行った時のことだ。地下の海賊版DVDの売り場場付近で悲鳴と銃声のようなパンパンと言う音が聞こえた。逃げ惑う人や警官のような人影が走り回っている。流れ弾にでもあたったらやばいと恐る恐る様子を見ていたら、DVDの詰まった箱を持って逃げる人がいて、それを警官が制して床にDVDが散らばったりして、パンパンという音がしているのだ。  さらに警官がDVDの店の商品を床にばら撒いているの見て、段々状況がわかってきた。警官が海賊版のDVDを押収しているのだ。息子はチャンスとばかりにカメラを持って地下に飛んでいった。野次馬根性はオヤジと変らないようだ。  しばらくして興奮した面持ちで戻ってきた息子が報告してくれた。チーフらしき男が中々のハンサムで(写真の右)、2階から発せられる黄色い声に手を挙げて答えたり、女の子がそばに来て記念撮影が始まってしまったとのことだ。警察の手入れにイケメン警官との撮影会なんて、フィリピンらしくて面白いものだと思った。 警官とその手下の私服の人たちが大量の海賊版DVDを袋に詰めて意気揚々と引き上げていく。それを撮影するテレビ局のカメラマンとおぼしき人たち。息子は良い経験をしたと満足げだった。  この話をお産直後の相棒のジェーンに話をしたら、ことの真相を話してくれた。彼女いわく、「海賊版DVDは100ペソ以下で10~30本くらいの映画が見れるので、映画館では閑古鳥がなき、どんどん閉鎖されている。これでは映画俳優や映画関係者が食いっぱぐれると、政府組織として、Video Regulatoryが組織されAnti Piracy(海賊版撲滅)の活動をPNP(国家警察)やNBI(国家調査局)の力を借りてやっている。この組織の前の会長は、今Vice Presidentに立候補しているエド・マンサノ(大統領候補ギボ・テオドロの相棒)。この日イケメン警官と思ったのは、今の会長で同じく映画俳優のロニー・リケだから、女の子がキャーキャーと騒ぐのは当たり前なのだ。また、明日になれば、また何も無かったように海賊版のDVDがならんでいるわよ」  たしかに、これだけ全国津々浦々に広まった海賊版DVDの販売網を簡単なことではつぶせないだろう。それに貧しい人々が多いフィリピンで格安で楽しめる海賊版DVDを取り上げてしまういかにも可哀想だ。映画関係の方々には申し訳ないが、海賊版DVDを庶民から奪い取ることには私は反対だ。  

アンタイ・パイラシーの手入れに遭遇 2010年4月11日