フィリピンでは高校生からアラフォー(40歳前後)の世代のほぼ100%がFace Bookの愛好者ではないかと思う。Face BookはビジネスPRにも使われているが、もっぱら、個人的な交流の手段として使われているようで、仕事を持たない主婦や学生は一日中、Face Bookを眺めて時間をすごしているようだ。人の生活ぶりを覗き見ては、ため息をつく一方、逆に自分の生活を紹介して、いかに人に羨んでもらえるかということに考えを巡らしている。要は巷の自慢話や噂話(井戸端会議)のSNS版だ。
誰かがどこかのレストランで食事をとったら、自分も行ってみようと思う。誰かが日本に行ったの知って自分も行きたいと思う。誰かが家を建てたら自分も家を建てたいと思う。車も宝石も、服に靴も、そして恋人も、なにもかも人まねだ。そして日夜、旦那や彼氏に訴えて思いを実現しようと試みる。スポーンサーがいなければ「いつかは」と夢見ることになるが、 どういうわけか、決して自らの努力で実現しようとはしないようだ。もっともFace Bookを眺めているだけでは何も実現できるわけがないではあろうが。要は行動の原点がFace Bookの情報なのだ が、全世界から寄せられる情報にもとづいて日夜、嫁から責められる亭主としてはたまったもんではない。
そして、人に誇れる体験をするチャンスが来るといかにそれがすばらしいものだったか、羨むべきものかしきりにアピールする。撮影ポイントに来ると、それが何であるかはそっちのけで、様々なポーズと背景で写真を取りまくる。人が見て「いいね」と思えばそれでいいのだ。京都でガイドさんをやっている人は、フィリピン人は自分の説明など誰も聞いておらず写真だけを取りまくっていると嘆いていた。
そこでは、自分がどう思うかではなくて他人がどう思うか、どれだけの「いいね」をもらえるかが判断基準となる。いわば、インスタ栄えすることが重要なのだ。したがって、写真を撮る時は自分が描いたシナリオに沿って演技することになるが、その演技に周囲の人まで参加させるのが実にうっとうしい。でもフィリピン人はそれに喜々として参加しているようだ。どうせ演技ならば、このブログの表紙写真(キアンのダイビングの瞬間)のようなのを載せてほしいと思う。
ただ一つ役に立っているのが、彼女の動向を知る鍵となっていることだ。何でも自慢したいから、どこへ行ったとか、彼氏がどうとか最大限もらさず載せており、一体何を考え、行動しているかが手に取るようにわかる。よくも、こんな状況でこんなものをアップするかと感心するくらいに、浮気の証拠写真まで載せてくれている。
要は自慢話の競いあいで、負けたと思うとさらに競い合う、全ての行動の動機がFace Bookであって、行動の満足度もFace Bookが判断基準なのだ。自我というものがそこには存在しないわけだが、Face Bookなどには目もくれず、わが道を行く私は、果たして時代遅れなのだろうか。