今年もハロウィンの季節がやってきた。KIANは一週間も前からハロウィン、ハロウィンと楽しみにしていたが、幼稚園でのパーティではたくさんのお土産をもらって、喜んで帰ってきた。そして、今日、10月30日はコンドミニアムのパーティだ。コンドの敷地の一角に簡単な準備がされ、そこでお土産の配布やゲームをやっていた。子供達は(母親の)思い思いの衣装を着てやってきた。特に年齢制限はないが、11歳のアリヤはもう卒業とばかりに衣装を着けず、せいぜい小学校低学年までの子供達が参加していた。 アイアン・マンの衣装をつけてパーティに臨んだKIAN。少々、緊張気味だ。 ところで、ハロウィンとはなんなのか、ためしに、ビアンカやキムに聞いてみた。宗教的な行事なので、さぞかし詳しく解説してもらえると思ったが、意外とまともな答えが返ってこなかった。 そこで私がしたり顔で解説した。「そもそもAll Saint Day(万聖節)とは亡くなったすべての人が聖人となり、年に一回、家族とあうことができる日だ。そのため、生と死の世界の境界の扉が開かれる。そうする と、霊界の妖怪などが生の世界にやってくる。子供達がこれらの妖怪の格好をして家々を回り、キャンディなどをせしめて歩く」、それがハロウィンなのだ。 この説明に納得したのかしないのかわからないが、ふんふんと興味なさそうにうなずいていた。子供達が衣装をまとって、キャンディももらって楽しむ、それでいいではないかといった感じだった。 ハロウィンパーティではしゃいでいるのは子供達よりもお母さん方のようだ。 プレゼントを配ったり、ゲームを始めると、KIANの反応が今一だ。普段の活発さと裏腹にわけがわからずぼけっとしている感じだ。いわれるがままに写真に納まるだけだ。 しかし、キャンディをもらいに家々を回る段になってにわかにKIANらしさがよみがえった。どうもタガログ語が不自由なKIANには、係りの人の説明が理解できず、何をしたらよいのかわからなかったらしい。 家に帰った後、その話をママ・ジェーンにして、タガログ語の禁止を解除したらどうかとアドバイスした。そうしないと、家庭や学校の外で、周囲の話について行けなくなるし、すでに英語は身についているので、タガログ語を聞いたり話したりしても支障は出ることはあるまいと。しかし、フィリピン人の子供にフィリピン語(タガログ語)を話すことを許すなんて会話は、フィリピンだけでありうる会話だろう。   キャンディをもらいに家々を回ることになって、やっとKIANらしさが戻ってきた。

ハロウィンパーティ 2015年11月5日


開業から1年余り経ったMIND MUSEUM(MM)に出かけた。昨年の開業直後にKIAN一家が出かけていったのだが、その時はたくさんの人出で、さらにまた、KIANの質問攻めに往生したそうで、今回は、業務の合間をぬって私が連れて行くことにした。この日(10月15日木)は、Teachers Dayとやらで学校や幼稚園は休みなので、チャンスとばかり午後からKIANを連れて行った。 ボニファシオ・グローバル・シティ-(BGC)の真っ只中にあるMMは黒作りの異様な建物だが、かなりの規模で、億単位の金をかけて建設されたであろうことが容易に想像される。出し物は自然・科学博物館といったところで、恐竜や宇宙などを主なテーマとした博物館で、それに遊び心を取り混ぜたものだ。左手にはジョルビーと小規模の遊園地があり、KIANはそっちのほうがお気に入りのようだった。 入場料は、大人625ペソ、子供が475ペソ、そしてシニアシチズンは300ペソ、さらに公立学校の生徒は特別割引で190ペソだ。4人で1590ペソの出費は、一回分の食事程度で、なんとか賄える。一応、入れ替え制になっていて、午前9時-12時、午後0時-3時、午後3時-6時、となっているが、平日のせいか、切符売り場では、時間無制限でOKとのことだった。午後1時半過ぎに入場したので、ありがたいことだと思ったが、それもそのはず、入れ替えが必要なほどの入りではないのだ。 甚平ざめの実物大模型の口の大きさにびっくり、こんなのに吸い込まれたら、まさにピノキオの世界になってしまう。 中に入ってびっくりしたのが、ほとんど入場客がいないことだ。こんなに広いところにせいぜい10組くらいしかいない。これだけの費用をかけて建設して、1年後にはこの程度の客の入りではたまったものではなかろう。先日KIANの付き添いで行ったKIDZANIAには平日にも関わらず、うんざりするほどの人出だったが、その一年後の姿をまざまざと見せ付けられた感がある。マニラ首都圏の生徒たちの需要が一巡したあとは、閑古鳥がないているというのがこの手の施設の宿命のようだ。 静電気の作用で髪が立つ経験に、はしゃぐKIANとビアンカ 色々な器具がおいてはあるが、使い方がわからない 開業から一年ほどだが、諸々の施設はかなり使い古していて、なにか陳腐さを感じさせる。係員もほとんどいないので、機器の使い方もよくわからないものが多い。これではリピーターを呼ぶのは無理だろう。これだけの初期投資をしたのに、何故、リピーター獲得のための投資を惜しむのか理解できない。日本のデズニーランドには、30回くらい行ったという知り合いがいたが、行くたびになにか新しい出会いがあるというのでないと、せいぜい一年が寿命なのだろう。      テラノザウルス(T-Rex)Jurassic Wolrd に夢中のKIANにとっては夢の体験だ 未来的なディスプレイ(左)と周囲が回転する歩道では、歩道が回転する錯覚に陥ってまい、歩けなくなる(右) […]

MIND MUSEUM(BGC)訪問 2015年10月28日



来年、5月9日に行われる3年毎の総選挙の投票受付が10月12日(月)に開始され、16日(金)、に締め切られた。今回の注目は正副大統領の改選で、泡沫候補も含めて130人が立候補した。その他、上院議員の改選が12人、下院議員が293人、その他、知事・副知事が81州、市長・副市長が144市、町長・副町長が1490町、そのほか、1634市町の議会など、約1万8千のポストが争われる。一方、立候補者総数は50万人に登るものと推定されている。 総選挙は3年ごとに行われるが、大統領の任期は6年で、一回おきに大統領選がある。なお、マルコス独裁政権の反省から大統領の再選は、憲法で禁止されている。今回は、現職のアキノ大統領の後継を争うものだが、アキノ大統領はマルコス独裁政権を崩壊に追いやった故コーリー・アキノ元大統領(英雄ニノイ・アキノの妻)の息子で、故アキノ元大統領の人気にあやかって2010年の選挙で当選した。 大統領選の本命は、現アキノ大統領の後継者のロハス前内務自治長官、前マカティ市長で現副大統領のビナイ氏、支持率一位の若手女性政治家のポー上院議員、さらに3度目の正直にかけるサンチャゴ上院議員の4人で、役者が整った感がある。 立候補が有力視されていたドテルテ・ダバオ市長は、ダバオ市長に立候補して、大統領選を見送った。ちなみにドテルテ氏は、ダバオ市を長年支配し、その豪腕で現在の良好な治安を築き上げたダーティ・ハリーとして有名だ。 アキノ大統領の後継者として立候補したロハス候補は2010年の選挙では、アキノ現大統領と組んで副大統領に立候補した正統派だが、現副大統領、元マニラ市長のビナイに破れた。 2010年の選挙では元大統領とコンビを組んだが、ビナイ前マニラ市長に破れた そのビナイ副大統領は、最近まで支持率が一位を誇っていたが、現職市長時代に行ったとされる市庁舎建設をめぐる汚職の疑いで起訴が決定し、急速に支持率が落ち込んでいる。ビナイ側は選挙をめぐっての政治的駆け引きとして反発を強めている。 大統領選挙の前哨戦とも言われるビナイ親子(ビナイ副大統領とビナイ・マカティ市長)の起訴が確定したことに対して、抗議集会が開かれたが、金で雇われた人々が集まっただけのようだ。 2013年の統一選挙で選挙会場に現れたビナイ前市長(左)とビナイ副大統領(右)。 ポー候補は2004年の選挙でアロヨ元大統領と争ったフェルナンド・ポーの娘で、支持率一位を誇るが、彼女も、国籍の関係で立候補の資格がないと、クレームされている。 4人目のサンチャゴ上院議員は、ラモス(1992年)およびエストラード(1998年)と2度の大統領選を戦った毒舌で有名な人気女性政治家だ。上院議員の前は入管の局長だった生え抜きの役人だ。 副大統領選に立候補した一人が、上院議員のボンボン・マルコスだ。彼は、20年以上、独裁を続けたマルコス元大統領の実の息子で、イロコス地方のラワグ市では、未だ絶大の人気を誇る。母親のイメルダ・マルコスは現役の下院議員、姉のアイミーは知事と、政治家一家だ。イメルダ・マルコスは、その美貌でマルコス政権を操ったとされる歴史上の人物で、今でも庶民には人望が厚い。 2010年の選挙で下院議員に当選したときのポスター(左)と私の相棒のジェーンと一緒にツーショット(右)におさまったイメルダ・マルコス。 そのほかの着目すべき候補者は、マニラ市長の再選をねらうエストラーダ現市長、もと大統領(78)で、リム前市長(85)との因縁の一騎打ちとなっている。 エストラーダは1998年に大統領に就任したが、在任中に不正蓄財疑惑で退陣に追い込まれ、2007年に終身刑の判決を受けたが、退陣劇のの旗頭だったアロヨ元大統領の特赦で釈放された。さらに2010年の大統領選挙で善戦し、アキノ現大統領に次ぐ得票を獲得した。そして2013年の総選挙で現職のリム市長を破ってマニラ市長に就任した。元映画俳優で庶民の人気は圧倒的で、政治でも映画ばりのパーフォーマンスを期待され、大統領にまで上り詰めたが、化けの皮がはがれて失脚した。 […]

四つ巴の大統領選の火蓋が切って落とされた2015年10月18日


最近、BGC(Bonifacio Global City) にオープンした、子供の教育的遊戯施設、キザニア(KIDZANIA)をKIANの付き添いとして訪問した。オープンしたてのせいか、9時に到着すると入り口にはたくさんの子供達が待機して入場の順番を待っていた。 付き添いも有料で、3時間で420ペソと決して安くはない。ちなみに子供は750ペソだ(団体割引の値段、正規料金は付き添いが630ペソ、子供が900ペソとかなり高額)。中に入ると、食事以外は、すべて無料。当方は、KIAN一人に3人付き添って、その方が高くついた。 内部は、2階建てで、かなり広く、街を子供のサイズに縮小したようなもので、そこで、様々な社会生活の疑似体験ができる。幼稚園の園児あるいは小学校の生徒に格好の体験学習の場を提供している。ただ、Dream Play(City of Dream)のようにハイスクールやカレッジの若者が楽しめるという施設ではない。 朝の内は、色々楽しめたが、昼近くになると続々と小学校の生徒がやってきて、混雑が激しくて、体験学習をゆっくり楽しめる状況ではなくなった。休日は一般客、平日は学校の団体で、当面、体験学習どころの話ではなさそうだ。 入り口で入場を待つ生徒たち(左)。受付は、空港のチェックインカウンターを模している(右)。 荷物の代わりに入場する子供の体重を量っている(左)。銀行でお金(模擬)を引き出すことができる(右)。        入り口中央は子供が喜びそうなディスプレイが並んでいる。 天井は、空をイメージさせる彩色が施され、街並みのイメージを再現している。 […]

キザニア(KIDZANIA)訪問 2015年10月4日



10月1日、今年も4半期目を迎え、半年ぶりに息子が戻ってきた。生活の基盤はフィリピンにおいて、収入の糧は夏場の日本という生活を目論んでいる。そして冬の間は、フィリピンの農場で過ごそうという渡り鳥生活だ。セブパシフィックでやってきたが、なんとプロモで往復9000円という激安チケットを使っている。 ターミナル3はマカティから15分ほどで到着するので、3時45分の到着に対して、3時半にKIANとビアンカをともなって家を出た。クヤ・ケイシ(恵之兄貴)を迎えに行くと言うと、KIANは大喜びで車に飛び乗った。途中、いきなり豪雨で、視界が悪くなり、この調子だと、飛行機が着陸できず、便が大幅に遅れるものと危惧された。 ターミナル3に到着すると、唯一の出迎え客の入り口は、長蛇の列だ。いつもは、がらがらの入り口が、何故こんなに混んでいるのか見当がつかない。ガードに食い下がると、ターミナルの奥が駐車場になっていて、そこにも入り口があるという奥の手を教えてくれた。確かに立派な駐車場ビルがあって、そこで車を降りてエレベーターでLA(1階)に行くと、入り口には出迎え客や到着客は誰もいなかった。まさに奥の手だ。 ここのところ、毎晩、激しい雨が降り、家に戻れないリスクがあり、夕食に出かけることがはばかれる。この日は、午後に強い雨が降った(左)。空港ビルにはまるで蜘蛛のような得体の知れない機械がおいてあった(右)。 飛行機は、すでに着陸していたが、それから約30分、普段、待つことが苦手なKIANもおとなしく、クヤ・ケイシが現れるのをガラス越しに待った。        ビアンカと一緒にしおらしく待ち続けるKIAN(左)と私を見上げるKIAN(右) この間、私は、最近とみに充実しつつあるターミナル3の中を視察した。従来、2行程度だった銀行が5行以上並んでおり、交換レートもそこそこだった、これからは、街の両替屋にいくまでもなくここで必要なペソ(ホテル代やビザの申請料)を両替するのもよいと思われた。 ちなみに、下の掲示板にはドルは46.71ペソで同じ、マニラ新聞に載っている街の両替レート(マニラで一番良いレート)が46.75ペソだから、その差、たったの0.04ペソ、100ドル変えても4ペソの差だ。一方、円は1万円=3800~3870ペソ、両替屋のレートは3885ペソだから、やはり、1万円につきたったの15ペソの差だ。さらにここでは、ドルや円も買うことができるようで、ペソが大量に余ったときに交換するのにも良い(ちなみに1万ペソ以上の現金を持ち出すことは禁止され、見つかると没収される恐れがある)。ちなみに円でドルを買うためには、いったん、円をペソに買えて、再度ペソをドルに換えるという二重の交換手数料を支払う必要がある。           よほど両替が良い稼ぎになるのか、大手銀行が軒を並べてしのぎを削っていた。ほとんどが1ドル=46.71と、同じレートだ。 ガラス越しにクヤ・ケイシを見つけると、なんとKIANが踊り始めた。まさに小躍りして喜ぶというやつで、出口まで20mくらい、踊りながら走ってクヤ・ケイシに飛びついて行った。車に乗った後も、KIANの喜びようは尋常でなく、You are NO. […]

半年ぶりの息子の帰還 2014年10月3日


9月25日の金曜は、ラマダン入りの休日となり、ご家族一行をマニラツアーに案内した。家族の構成は、訪問中のおじいさんとおばあさん、フィリピン在住のお母さんとそれに子供3人(長男5歳、長女2歳、それに次男3ヶ月)、それにヤヤの総勢7人(ご主人は留守番)。5歳の長男は、先日、タバコの農場を訪問し、KIANと遊び回った仲良しなので、当方もKIAN、それにヤヤとビアンカを同行させて、総勢、11人という団体ツアーとなった。車は、そのために12人乗りのニッサン・アーバンをレンタルした。 道中、5歳同士の長男とKIANとが車内を大はしゃぎで動き回って、渋滞でいらいらするところが、わいわいがやがやの楽しい旅となった。家族の希望で、下町、すなわち彼らだけでは行けないような場所ということで、マーケット、キアポ、チャイナタウンなどを中心に回った。スコーターにも行って見たいということだったが、渋滞で時間切れとなり、割愛した。 カーティマール・マーケットはLRT1とブエンジアの角の奥にある日本人の奥さんも多くやってくるマーケットで、通常の生鮮食品や乾物のほか、3軒ある日本食材店やペットショップで有名だ。 豊富な野菜は細めのきゅうりや大きなたまねぎやねぎ、ジャガイモなど、他では手に入らない野菜が置いてある(左)。同行した奥さんはトマトが安いと早速買い求めていた。魚売り場では、KIANは生きたなまず(タガログ語でヒト)に興味深々だ(右)。 マーケットに近づくやいなや、KIANが ”FISH”と大声をあげた。以前、ここで Fighting Fishを買って、数ヶ月家で飼っていたのをKIANは覚えていたのだ。この魚は生命力が強く、ビンの中でも活き続ける。一匹づつ別にするのは、一緒にすると喧嘩を始めるからだ。ビンを近づけただけもファイティング・ポーズをとるなど、まさに闘鶏と一緒だ。 マーケットの次は、マニラ唯一ともいえる観光スポットのイントラムロスに向かった。ここの一押しはサンアガスティン・チャーチ。バロック建築様式の教会群として世界遺産になっている。すぐ隣のカーサ・マニラはスペイン時代の住宅を再現したムード満点のエリアだ。       イントラムロスにKIANを連れて来たのは初めてだと思うが、ひたすらはしゃぎまわっていた(左)。カーサマニラの中庭には話題の竹製の自転車がレンタル用においてあった(右) 皆が、カーサ・マニラの内部を見物している間、子供達は外で待っていた(左)。そこではモデル(眉毛がやけに太いのが気になった)の撮影が行われていた(右)。今日は休日なので、学生らしき若者が大勢来ていた。 次に向かったのは、下町の中の下町、キアポだ。今日は、キアポ・デイ(毎週金曜)でしかも休日ということがあって半端な人出ではない。教会の中は人で満ち溢れ、足を踏み入れることさえもできなかった。         小さな子供は車においてきたが、KIANがはぐれてしまわないか、ヤヤも必死だ(左)。キンタマーケットが解体されており、そこの店が道路いっぱいに屋台を置いて、周辺は足の踏み場もないほどだった(右)。 この日は、特別に、本尊のブラック・ナザレが教会に外に置かれ、人々が列をなしてお祈りをしていた(左)。教会の前はサンパギータを売るおばさんが声をからしていた(右)。 […]

家族でマニラツアー 2015年9月27日



4月から働いているヤヤ(子守、実際の役割はメイドだが、我が家では響きがいいので、ヤヤと呼んでいる。ちなみにアテはお姉さん、チタは叔母さんで、アテ・キム、アテ・ビアンカなどとKIANは呼んでいる)は、とても優秀で、料理は上手で、炊事、洗濯、掃除を一人で切り盛りしている。KIANもヤヤが大好きで、いつも粛々と手際よく仕事をこなし、我が家には、なくてはならない存在となっていた。28歳、独身、名前はAudi(オーディ)といい、ジェーンと同郷の娘だ。 そのヤヤが、前の雇用主から戻ってきて欲しいと、声がかかった。8年雇われていた絆は強いものがあり、どうしても辞めさせて欲しいと申し出てきた。ジェーンを初めとして皆が留めたが決意は固かった。 Dream Playに出かけたとき、写真嫌いのヤヤは顔を両手で隠している。サイカの恒例のランチでも後姿しか写真をとらせない。 そんなある日、ヤヤが私の部屋に、あいさつにやってきた。これから、田舎に帰るというのだ。たまたま部屋にいたKIANは、ヤヤに「I know that you are going home and not coming back. […]

ヤヤ(子守)が帰って来た 2015年9月26日


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マニラ新聞によると、マニラ首都圏の渋滞で、毎日、30億ペソ、年間、一兆ペソの経済損失が生じていると、国家経済開発庁(NEDA)が発表したそうだ。この損失は、国内総生産(GDP)13兆ペソの8%を占めるに至っており、かつ国家予算の半分に相当する。 確かに朝夕のラッシュ時は、自宅からPRA(フィリピン退職庁)まで15分でいけるところを一時間は優にかかることもある。マカティの中心地を横断するのに一時間、約束の時間に間に合わせるために、途中から歩いていくこともしばしばだ。歩いたら、車の半分の時間でで行けるし、正確に時間が読めるから安心だ。しかし、この雨季の真っ只中、雨でも降り出したらおしまいだ。 サウススーパーハイウエイはマニラ南部からマニラ港に向かう唯一の幹線道路であるため、終日トラックが列をなし、一般車両も巻き込んでで首都圏渋滞のメッカだ(左)。最近急増した個人用のモーターバイクが渋滞の中をジグザグに走りぬけ、ドライバーの頭痛の種になっている(右) この渋滞は、首都圏周辺、北のケソン・シティ、ブラカン、リザール州あるいはや南のカビテ、ラグナ、バタンガス州方面から流入する幹線道路においては地獄のようだ。特に下の地図の青い線(MRT)で示されるEDSA通りは、北からマカティに向かう唯一の幹線道路で、普通は2~30分でいけるところが、数時間かかることがざらにある。最近では、朝夕のラッシュ時間帯ばかりではなく、終日、渋滞している。 Metromanila map 20150920_0001 そのため、政府は、国家警察高速道路警備隊(HPG)の隊員、約100人を監視の任につけた(首都圏の交通行政は本来、首都圏開発局(MMDA)の役割)。しかし、その後の新聞は、根本的解決無しには、一時しのぎの策は何の効果もないとこきおろした。 EDSA以外でも、南からマニラ市にある港に向かうサウス・スーパーハイウエイはコンテナ・トラックの列で、終日、いっぱいでほとんど動いていない。しかも、首都圏の鉄道は、LRT1とMRTの環状線(青と緑の線)、マニラを横断するLRT2(紫の線)、そしてPNR(国鉄、茶色の線)しかなく、しかも、ラッシュ時は超満員で人々は車で移動するしか方法がない。 LRT1、2、MRT(左の写真)それにPNR(国鉄、右の写真)があるものの輸送力が小さくて焼け石に水だ ちなみに、マニラの通勤の主役は、長距離移動のためのバスあるいはUV(小型の乗り合いバン)、中距離移動のジープニー、タクシー、そして、短距離用のトライシクル(三輪バイク)あるいはパジャック(三輪自転車)などの公共交通手段で、それに無数の自家用車がひしめき合っている。 そのため、庶民は、ターミナルでいつ乗れるかも知れないバスなどを待って、毎日、数時間を費やし、ラグナ、カビテ、ブラカンなどのベッドタウンからの通勤にエネルギーを使い果たしている。 郊外へ移動手段はバスが主体で、中、長距離バスが幹線道路にひしめく(料金は固定性) 中距離移動はジープニーが主役、頼もしい庶民の味方だ(ちなみに初乗り8ペソと格安だ) UV(Utility Vehicle、左)は、比較的長距離を点と点で結ぶために乗り換え無しに通勤できて便利だが、その分だけ高めだ(料金は固定性)。一方、タクシーはメーター制なのだが、運転手によっては、料金はネゴ次第となって、外国人には頭が痛い。 […]

首都圏渋滞で一兆ペソの経済損失 2015年9月20日



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最近、日本では水害のニュースが四六時中流れているが、我が家もご多分にもれず、一階の事務所の床が冠水するという事態に見舞われた。 雨季真っ只中のマニラでは、毎晩、かなり激しい雨が降っている。それほど長くは続かないので、しばらく家に閉じこもっていれば、何のことはない。しかし、3日前の夜、下で、メイド達が大騒ぎをしているので、降りてみると、事務所の床が数センチ水をかぶっている。大慌てでパソコンの電源などを高いところに移し、難を逃れた。 排水パイプがプラスティック袋や砂などで詰まってしまっており、樋を伝って流れ込んだ雨水がラナイ(中庭)にある集水桝から逆流したのだ。そしてラナイから室内に雨水が流れ込んだ。問題は、この家の構造(タウンハウスが2列つながっており、その中間にはラナイが設置されている)にあり、ラナイに降った雨水は床下に設置された排水パイプを流れて外の排水溝に流れるようになっている。ラナイの周囲は建物なので雨水は床下の設置された排水パイプを流れるしかない。しかも、その排水パイプが6インチ(15cm)のパイプで容易に詰まってしまう代物だったのだ。 ボボイらがその日、そして翌日の夕方、大騒ぎをしてなにやらやっていたので、てっきり修理が了したものと思っていた。しかし、その3日後にも、浸水騒ぎが起きたのだ。どうも、やりかけでほったらかしてしまったらしい。たまたま、ビコールからお抱えの大工(ウベット)がやってきたので、修理はウベットに引き継がれたが、完了したのかしないのか、相変わらず報告がないので定かではない。当面は、対処療法で水をかい出す作業が続きそうだ。 その後、6000ペソを出して、プロを雇って修繕作業は完了した。工事は見逃したが、パイプの中のゴミを専用工具で掘り出したらしい。 ちょっと見にくいが、事務所の床は水で覆われている ラナイ(中庭)にたまった水をバケツでかい出して外へ運ぶ 2階からラナイの様子を眺めると、排水溝から逆流した水や砂で台無しになっている 水が引けてから夜遅くまで床の清掃に励むビアンカとヤヤ

我が家が床上浸水 2015年9月13日


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PRAのGMが交代して3ヶ月経過して、ようやくお目にかかる機会があった。最近は、朝一、8半ごろにはPRAに出向いて用事を済ますのを日課にしているが、それは、いつもNO.1の札をもらって、人が来ないうちに諸々の用事を済ましてしまおうという魂胆だ。10時を回ると、客が増えて、長時間待たされることが必須だ。 受付のマリーと話をしていると、丁度、GMの出勤に遭遇し、彼が私を好奇の目で見ていた。即座に立ち上がって、自己紹介をしたが、彼は私のことをよく知っていて、うれしそうに挨拶をしてくれた。実は2年ほど前に、東京ビッグサイトで行われたロングステイフェアで挨拶をしたことがあるのだが、彼は、それを覚えていた。 ブログに乗せたいからとの申し出に、マカティの街並みを臨むGM執務室で気軽に撮影に応じてくれたValentino L Cabansag GM。 Valentino L. Cabansagという覚えにくい名前だが彼は観光省の代表として東京に8年赴任していた日本通で、かなり流暢に日本語をこなす。私と話をしていても語尾に日本語が混ざるくらいだ。ほんの5分くらいの挨拶だったが、近々行われるロングステイフェアに参加して欲しいとしきりに要請された。しかし、ロングステイ財団のマカティサロンとしての公認を辞退した私は、出席できないことをしきりに弁解した。 GMはさらに、日本が注目すべき市場であること、SRRVの制度を改善することを主張していた。確かに、5年前に前GMのVeredigno P. AtienzaさんがGMになった時は、現在のスマイルプグラムの導入、預託金先のDBPへの変更など、全面的に制度の変更を行い、その複雑な制度がゆえに、落ち着くまで一年近い時間を要した。現在も、色々な面で不都合があり、強く、その改善が望まれている。 先日、ハビタン部長と話したおりも、今まで禁止されていた色々なプログラム(スマイル、クラシック、年金、50歳以上と50歳未満など)の間の移動を自由にするなど、退職者にとって、使い勝手のよい制度にするよう検討/提案中であると話をしていた。 退職者とPRAに間に立って動いている私にとって最大の悩みはシンプルなもので、なにもかもにも時間がかかることだ。これを改善すれば、SRRV申請者は倍増すると思うのだが、今後、機会をとらえてGMに進言していきたい。 PRAの担当者は、入管やDBP(銀行)などが遅いのだと、外部の組織のせいにするが、純粋な内部手続きについても数週間の時間を要し、内部的制度および意識の抜本的な改革が必要になることは間違いない。しかし、それをやる価値はおおいにあり、それこそが新しいGMの使命だと思う。 1.預託金の入金確認(DBP銀行のPRA口座);2週間(従来の民間銀行の個人口座への振込んだ場合は、3日程度) […]

PRAのGMが交代 2015年9月13日